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いい天気・・酒蔵 |
昼間の京セラ本社 |
城南宮 |
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一の鳥居 |
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二の鳥居 |
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こま札 |
境内 |
伏見名水の一・菊水若水 |
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社殿 |
史跡
鳥羽離宮・田中殿之跡 |
金剛心院塚(後宮塚とも称する?) |
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白河天皇成菩提院陵 |
北向山不動院 |
境内 |
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本堂 |
洗心井 |
御滝 |
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鳥羽上皇寵愛の松 |
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冠石 |
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鳥羽天皇安楽寿院陵 |
五輪石塔(重文:鎌倉期) |
安楽寿院 |
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こま札 |
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弘法大師を祀る大師堂 |
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三尊石仏(左・薬師三尊石像、釈迦三尊石像) |
近衛天皇陵(安楽寿院多宝塔) |
(*^-^*) |
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鳥羽離宮のイメージ、遺跡図 |
竹田のエンザサンザ(道切り) |
竹田のエンザサンザは道切りと云われる風習です・・・道切りとは、村落に悪霊などが入れないよう縄を張り、村の境界に注連縄などを飾り結界を標す事を云います。村人の生活拠点である為、安全と清浄を祈願しました。昔は、単に耕地や隣村があると云うだけでなく、悪霊、祖霊、神仏などの住む他界とも考えられていました。特に悪霊、疫病神は道を伝ってやってくると考らえ、村境に注連縄などを飾って悪霊防除(結界)を祈願しました。注連縄などで道を区切る事を道切りと言います。村境を守る標し(結界)は、悪霊、疫病神の侵入禁止の意味で道祖神、御幣、藁細工、縄を張るなどと伝わります。道切りは結界の意味だけでなく、村中の災いなどを排除し、五穀豊穣・村内安全などを祈願したと伝わります。以前は全国的に行われていた風習ですが、現在は数少ない地域にしか伝承されていません。・・・竹田丈六町では古来"延座参座"という講があり、毎年正月の8日に講の人達(地元9軒)で清浄なワラをもって15mあまりの注連縄(しめなわ)2本を作り、更に小さな注連縄に御幣(ごへい)を付けて12本(閏年は13本)垂らします。他に13神将の名を書いた絵馬(木札)を中央に掲げてあります。13神将の名を書いた絵馬(木札)は安楽寿院の庫裏(以前は薬師堂でご祈祷されていたが焼失した。)で天下泰平、悪役退散のご祈祷を受けています。その際、住職が梅の杖で床をバンバン叩きながら薬師経を読む。昔は住職の打つ音に合わせて外で子供達が縁を叩いたそうです。北は竹田小学校の正門前、南は近鉄竹田駅の東南傍にあり、町の鬼門位置に祀られています。これをくぐると1年間は悪疫にかからないと伝わります。「エンザサンザ」と呼ばれるのは、注連縄を綯う時の掛け声からきたとも伝える。 |
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裏(南西)鬼門のエンザサンザ |
表(北東)鬼門のエンザサンザは切れていました。(>_<) |
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御神木のクスノキと祠 |
山王権現大宮社の跡碑(竹田小学校) |
R24号線を北上・・・ |
御神木のクスノキ2本に渡してありますが以前はクスノキがもっとあったそうですが切り倒したそうです。切り倒した人が祟りにあったという言い伝えもあり今は御神木の傍に祠が建てられています。 |
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京都市電・稲荷線跡 |
京阪・伏見稲荷駅 |
京都一周トレイル・No.1の標識 |
東福寺 |
臨済宗東福寺派の大本山で慧日山(えにちざん)と号します。6万坪(約20万u)に及ぶ広大な境内には本堂以下、幾多の堂舎が甍を並べています。当寺は平安中期以来、藤原氏の氏寺として藤原忠平が建立した法性寺(ほっしょうじ)に関白・九条道家(藤原道家)が聖一国師を請しで開山とし、鎌倉時代の嘉禎2年(1236年)に創立にかかり、19年後の建長7年(1255年)に竣工した九条家の氏寺で奈良の東大寺と興福寺の一字づつを採って東福寺と名付けました。当初は天台、真言、禅の三宗兼学院でしたが後に臨済禅寺となり、室町時代には禅宗五山の一に数えられる大寺となり塔頭子院37宇に及び壮観さは俗に「東福寺の伽藍面(がらんづら)」と言われました。中世の兵火にしばしば、罹災し大半を焼亡しました。更に明治14年(1881年)12月、方丈からの失火によって惜しくも仏殿、法堂、方丈などを焼失しましたが、三門、東司(とうす)、禅堂は類焼を免れました。明治の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)と失火で荒廃しましたが、現在の仏殿が竣工したのは昭和9年(1934年)で法堂は未だ再建に至っていません。塔頭25、末寺院370ヶ寺を統括します。国宝の三門は応永年間(1394〜1428年)の再建で禅宗寺院三門中では、最古。 |
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おけいはん |
臨済宗東福寺派大本山・東福寺 |
えぇなぁ〜(*^-^*) |
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美すぃ〜(*^-^*) |
禅宗寺院便所の古形式を伝える珍しい遺構の東司(重文・室町期) |
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禅宗三門最古の三門(国宝:室町期) |
えぇなぁ〜(*^-^*) |
防長(長州藩)忠魂碑 |
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五社明神(成就宮) |
十三重石塔(重文:吉野期) |
藤原家先祖の天狗(比良明神)を祀る魔王石 |
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本殿(五社成就宮) |
鐘楼 |
昭和の木造建築中最大の仏殿(本堂) |
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・・・ |
・・・ |
三ノ橋川に架かる臥雲橋(がうんきょう) |
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三ノ橋川に架かる臥雲橋(がうんきょう) |
臥雲橋(がうんきょう) |
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散り紅葉も・・えぇなぁ〜(*^-^*) |
(*^-^*) |
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東福寺の毘沙門天・勝林寺 |
こま札 |
本堂 |
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Wonderful〜!
(・_・)☆ヾ(^^ ) 日米か?! |
清水茶碗坂 |
世界文化遺産・清水寺、仁王門(重文:室町期) |
清水寺・・・北法相楽の大本山で正しくは音羽山観音寺と号し清水寺は俗称です。寺伝によれば鹿狩りに来た坂上田村麻呂が此処で修行中の僧・延鎮に出会い殺生を戒められ延暦17年(798年)、一宇の仏堂を建て千手観音を祀ったのが起こりとされ弘仁元年(810年)、鎮護国家の道場となり奈良の長谷寺、近江の石山寺と並ぶ観音零場として崇められた。霊験談は清少納言を始め更級日記の作者による古典文学、謡曲「田村、熊野(ゆや)」によって紹介されています。中世の南北朝騒乱に巻き込まれ度々兵火の災厄を蒙ったが、その都度再建され現在の建物は寛永6年(1629年)の出火後、徳川三代・家光によって再建されたものが多いです。西門(重文:江戸期)は三間一戸、切り妻造り、桧皮葺の八脚門で正面に一間の向拝、背面に軒唐破風を付け上り勾欄を備えた珍しい形式で鐘楼(重文:桃山期)と共に桃山時代後期の華麗な装飾彫刻が施されています。門前左手の馬駐(うまとどめ/重文:室町期)は馬五頭が繋げる事ができる我が国最古の厩(うまや)です。仁王門・・・西面する清水寺の正門で応仁の乱後、15世紀末に再建され、平成15年(2003年)に解体修理されました。三間一戸、正面約10m、側面約4.8m、軒高8.5mの、入母屋造り、桧皮葺き(ひわだぶき)で室町様式の遺風堂々たる楼門です。丹塗りで赤門と呼ばれ正面軒下に平安時代の名書家・藤原行成の筆と伝える清水寺の額を掲げ、両脇間に勇壮な大仁王像が祀られています。「西門(さいもん/重文:江戸期)」は寛永8年(1631年)再建の三間一戸の八脚門で単層、切妻造り、桧皮葺きで正面に向拝をつけ木階に高欄を設けて一見拝殿風に作り背面に軒唐破風(のきからはふ)を架ける珍しい優雅な桃山様式です。持国天、増長天を安置します。轟門(とどろきもん/重文:江戸期)は正面軒下中央に月舟禅師の筆による普門閣の扁額を掲げる本堂への中門で、寛永8〜10年(1631〜33年)に再建された三間一戸の八脚門です。切妻造り、本瓦葺で、妻や天井の構造は東大寺転害門を縮小して写しています。左右両脇間に持国天像と広目天像を祀り、背面には阿吽形(あうんぎょう)の狛犬を安置します。門前には梟(ふくろう)の手水鉢が奉納されています。 |
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清水寺 |
えぇなぁ〜(*^-^*) |
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参道 |
応仁の乱後に再建された我が国最古の馬駐(うまとどめ/室町期・重要文化財) |
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明治最初の基準点標石 |
解説 |
鐘楼 |
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西門(さいもん/重文:江戸初期再建)からの京都市街地俯瞰・・・Deep
Impact!!!o(*^▽^*)o |
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上、各重の横木に桃山様式の極彩色文様を施され高さ31m弱で日本最大の三重塔(重文:江戸初期再建) |
萌え萌え〜(*^▽^*) |
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Wonderful〜!
(・_・)☆ヾ(^^ ) 欧米か?! |
成就院 |
江戸初期の寛永16年(1639年)、東福門院和子の寄進によって再建。創建は、応仁の乱の兵火によって焼失した清水寺を勧進活動によって再興した願阿上人の住房に起源。清水寺有力塔中(たっちゅう)として、江戸時代には清水寺の本願職を担当し、寺の財政・メンテナンスに勤めた。幕末に勤皇僧・月照(忍向)・信海兄弟を輩出し、明治〜昭和にかけて中興開山・良慶和上が住持した。
成就院庭園・江戸時代初期、名勝。
相阿弥作・小堀遠州の補修とも、松永貞徳の作とも伝える。
模範的な借景式(しゃっけいしき)・池泉観賞式の庭園で、“誰が袖”手水鉢・烏帽子石・蜻蛉(かげろう)燈籠、手毬燈籠などが名高く、五葉松・“佗助”椿が一段と風趣をそえる。四季風情が深いが、特に“月の庭”として賞美されている。 |
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梟(ふくろう)の水盤@轟橋 |
・・・ |
成就院 |
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特別公開されていた月の庭 |
石仏 |
(*^-^*) |
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Beautiful〜!!!(・_・)☆ヾ(^^
) 欧米か?! |
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Wonderful〜!
(・_・)☆ヾ(^^ ) 欧米か?! |
舌きり茶屋 |
幕末、西郷隆盛と成就院住職で勤皇僧の月照上人が薩摩に落ち延びる時に、当寺の寺侍・近藤正慎が月照を庇って捕らえられ、六角獄舎において舌を噛み自害しました。清水寺が残された正慎の妻子に茶店の営業を許可し、いつしか「舌きり茶屋」と呼ばれ現在に至ります・・・余談ですが、近藤正慎の子孫が俳優・近藤正臣です。 |
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えぇなぁ〜(*^-^*) |
舌きり茶屋 |
北国の雄・アテルイ、モレの碑 |
アテルイ、モレは、平安律令政府の東北征服戦争に対してゲリラ戦で頑強に抵抗した蝦夷(えみし)の首長と副将で、征夷大将軍・坂ノ上田村麻呂の軍に帰順、将軍が両雄の武勇と器量を惜しみ、戦後の蝦夷経営に登用すべく朝廷に助命嘆願したが、許容されず両雄は河内の国で処刑された。平安建都1200年を期し、両雄の故地、岩手県水沢・江刺地方出身の関西在住者や地元の有志が両雄の鎮魂・顕彰の碑を1994年に建立しました・・・余談ですが、映画『もののけ姫』に登場した主人公・アシタカは蝦夷(えみし)の末裔だったと記憶しています。(^^ゞ |
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北国の雄・アテルイ、モレ碑 |
Beautiful〜!!!(・_・)☆ヾ(^^
) 欧米か?! |
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清水の舞台 |
右から長寿、金運、勉学に効く霊水 |
Deep
Impact!!!ヾ(≧▽≦)ノ |
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石仏 |
歌の中山清閑寺へ・・・ |
歌の中山清閑寺分岐点・・左へ |
平家物語で知られる高倉天皇と小督の局 |
高倉天皇に寵愛された小督局は平清盛の怒りを恐れ、宮中を出て嵯峨野の奥に隠れ住んでいました。悲嘆にくれる高倉天皇は、源仲国に小督を密かにに宮中に呼び戻すよう勅下した。中秋の名月の夜、嵯峨野へ箏の音を頼りに仲国は小督探しに行くという謡曲「小督」の話。その後、宮中に戻った小督は、高倉天皇の第二皇女を出産後、清盛の怒りに触れこの寺で清盛に強制的に出家させられました。高倉天皇の嘆きは深く、「自分が死んだら小督のいる清閑寺へ葬ってくれ」と遺言し崩御しました。葬儀は、ここ清閑寺で行われ、遺言通りここへ葬られました。高倉天皇陵の傍らに小督のお墓もある。 |
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・・・ |
六条天皇清閑寺陵、高倉天皇後清閑寺陵の傍らに小督の局の墓所がある。 |
歌乃中山清閑寺 |
知名度は決して高くはないが、「あれこそ歌乃中山清閑寺」と色々な謡曲に登場する清閑寺。歌の中山清閑寺伝記によると、延暦21年(802年)、紹継法師の創設によるもので、昔は寺域も広く、法華三昧堂や宝塔などが瓦を並べ鎮護国家の官寺として、東山山中に威容を誇っていたが、応仁の乱で全てを焼失し、今は菅原道真公の御作と伝えられる本尊十一面千手観世音を安置する本堂が残っているだけである。』と記される。 |
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歌乃中山・清閑寺 |
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清水寺ゲート |
清水の舞台 |
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子安の塔(こやすのとう)は改修中 |
最高12m、139本の柱が支える清水の舞台 |
(*^-^*) |
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Deep
Impact!!!ヾ(≧▽≦)ノ |
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(*^-^*) |
五条通りを西進・・・ |
五条大橋 |
六角獄舎跡、山脇東洋観臓(やまわきとうようかんぞう)の地碑 |
平安時代の獄舎は左獄、右獄の二ヶ所があって右獄は早くに廃され左獄が京都府庁の西側にあったが天正13年(1585年)、豊臣秀吉の命によって小川通り御池上ル下古城町に移転されました。宝永5年(1708年)、大火に類焼して当地に移転し六角通りに面していたので俗に六角の獄舎と呼ばれました。東西約69m、南北約53m、敷地面積約3640uと伝わり罪科の軽重によって構造を別にし上がり屋、本牢、切支丹牢がありました。天明の大火で類焼し維新後は監獄署と改名し上京区竹屋町通り日暮西入ルに移転し昭和大典にあたって山科に移転したのが現在の山科刑務所です。史上有名になったのが幕末期の元治元年(1864年)7月19、20日の両日に起こった蛤御門の変で牢獄中の平野国臣(くにおみ)ら33名が処刑された事です。この時の兵火は蛤御門付近から生じ河原町・長州屋敷の放火にもよるもので兵火は京都市内の大半を焼き尽くし翌20日には堀川を越えて六角獄舎に及ばんとしました。時の町奉行・滝川讃岐守具挙(ともよ)は「破獄を企てた」として平野国臣始め大和義拳の乾嗣竜(つぐたつ)、足利尊氏の木像を斬った長尾武雄、池田屋騒動の発端となった古高俊太郎や横田精之、大村包房ら33人が切支丹牢の東側に集められ昼〜夕刻にかけて断首されました。当時、勤皇という美儀の元に行われた長州勢の暴挙がいかに京都市民などに甚大な被害を与えたかを物語っています。又、山脇東洋は山脇玄修に医学を学び養子となり宝暦4年(1754)年、六角獄舎で日本で初めて男性刑死人の解剖を行い人体構造を観臓し解剖記録として「臓志」を著しました。 |
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鴨川 |
四条大宮 |
六角獄舎跡、山脇東洋観臓の地碑 |
武信(たけのぶ)稲荷神社 |
創祀年月を明らかにしないが延命院の鎮守社と伝え延命院は三条通の勧学院の南にあって平安時代初期、清和天皇貞観元年(859年)2月、西三条大臣といわれた右大臣左近衛大将・藤原良相(よしすけ)が私邸の一部を割き勧学院に学ぶ子弟の為に病舎としたもので延命院廃亡後、神社のみが残りました。藤原武信なる人が旧地の近くの当地に勧請奉祀したものと伝え江戸時代には青山播磨守の邸内にあったが明治の廃藩置県後も残って創祀以来、今日まで一千年余に亘り信仰されています。創祀した藤原良相が一族の名付けをしていた事から名付け、命名所縁の神社としても知られます。又、樹齢数百年に及ぶエノキの老木は、平重盛が安芸(広島県)宮島の厳島神社から苗木を運んで植えたと伝え天然記念物に指定されています。エノキの老木は、昔この辺から西を葛野郡朱雀野村と呼んだ往時を偲ばせます。江戸時代、社の南に幕府の六角獄舎があり、幕末、勤王の志士が多数収容されていた。その中に
坂本龍馬の恋人・お龍の父が勤王家の医師であったので捕らえられていた。先に様子を見にきた龍馬は、後に訪ねてくるであろうお龍への伝言として榎の幹に「龍」の字を彫ったと伝え、龍馬とお龍の縁結びとされている。また蛤御門の変に際して平野國臣ら三十数人の処刑を町の子供たちが榎の木に登って見ていたいう話も伝わっている。 |
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六角獄舎跡、山脇東洋観臓の地碑 |
平野国臣殉難の地碑 |
武信稲荷神社 |
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平重盛が安芸の厳島神社から移植したと伝えるエノキは坂本龍馬とお龍の伝言板にもなっていたと伝える。 |
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本殿 |
五条春日(佐井)にあるロームのX'masイルミネーション☆⌒(*^∇゜)v |
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ローム本社に面した五条通と佐井通に、欅など計72本の木々に約60万個の電球を点灯されます。 |
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光のアトラクション「ウォーターフォール」が幻想的な世界を演出してくれます☆⌒(*^∇゜)v |
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フルカラーLEDを2,900個使用した巨大なLEDタワーと、芝生エリアにLEDの入ったガラスボール470個を設置 |
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水滴が本流へと成長し、滝となり、地面に波紋が広がるイメージを幻想的に演出します。 |
京セラ本社のイルミネーション☆⌒(*^∇゜)v |
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「積雪の光の森」をテーマに、白、ブルー、緑やオレンジのイルミネーションを約18万7000個のランプ(省電力タイプのLEDなど)が、幻想的な世界を演出しています。 |
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12/15〜25日、同社ビルの東西壁面に、室内照明を活かした巨大なX'masツリーが登場。夜空に浮かび上がるX'masツリーと幻想的な樹木の光を楽しめます☆⌒(*^∇゜)v |
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黄桜カッパカントリーのX'masイルミネーション☆⌒(*^∇゜)v |
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小じんまりとしていますが、光のページェントが美しいo(*^▽^*)o |
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えぇなぁ〜(*^-^*) |
Tourist
2010.12.06(M) |