バス&ウォーキング散策@堀川

 

いづくにも 帰るさまのみ 渡ればや もどり橋とや 人の云ふらん (夫木集) 和泉式部

 

東寺(救王護国寺)〜京都所司代跡〜二条城〜戻橋〜晴明神社散策

 

陰陽師・安部晴明

金と水は陰、木と火は陽、土は中間と万物は陰、陽の2つから成ると考えたのが、古代中国の道教に伝わる陰陽五行でした。後に日本に取り入れられ星や月の運行から作る暦の管理、占術、方位占いを加えたのが「陰陽道」で平安時代に最も盛んになりました。陰陽道を司るのが陰陽師で有名なのが安部晴明です。「今昔物語」には、星を見て吉凶を予言、人相から運命を予知、鬼など闇の恐怖から人を救う超能力を持っていたと記されています。当時の人々から霊能力者と大いに敬われた晴明は、父の安部益材が助けた信太の白狐の化身との間に生まれた子供という評判が立ちました。晴明は朝廷でも藤原道長の危機を救ったり在原業平の家を封じたり、様々な天変地異を予見したりと活躍しました。安部家は後に土御門(つちみかど)家と改名し江戸時代まで陰陽道を伝えました。堀川通り一条上るの晴明町に寛弘4年(1007年)、安部晴明を祀る晴明神社が建てられ、昭和3年(1923年)に再興されました。屋根瓦に晴明の紋所である晴明桔梗という五芒星(☆)が刻されています。これは陰陽道で用いられる呪術図形の「セーマン」と言われ、不思議な事にキリスト教でも「ペンタグラム」と呼ばれ古来、御符として信じられてきました。神社では、この紋をあしらった絵馬、お祓い棒を授与しています。現在でも起業の吉凶、姓名判断などの占いに訪れる人が後を絶ちません。

81系統「京都駅」@竹田街道大手筋バス停

「大石橋」バス停で下車

循環バス208系統が九条車庫で車庫入り!

東寺(王護国寺:左寺/世界文化遺産)

延暦13年(794年)、桓武天皇が平安京造営に際し国家を鎮護する為に、羅城門を挟んで朱雀大路の東西に二官寺として建てたのが、東寺と西寺でした。造営当初の平安京では、僧の政治干渉を排除する為に東寺、西寺の二官寺しか建造が許されませんでした。東寺は、大路の東(左京)にあったので東寺と言い、一に左寺、左大寺とも言います。始め、造寺司を置き、延暦16年(797年)頃から造営が開始されましたが、弘仁6年(815年)、僧侶を別当とする造寺所が設けられ東寺は弘仁14年(823年)、嵯峨天皇から弘法大師(空海)に下賜され大師は天長2年(825年)、仁王護国の本尊を安置し真言密教の根本道場とし、教王護国寺と号しました。以来、朝野の崇敬篤く、天下に事あるごとに当寺において修法祈祷を行い、延暦寺と並んで顕蜜(げんみつ)二教と言われ、我が国の宗教界に君臨しました。中世の兵乱等で創建時の建物は失われ、往時の遺構を留めませんが、今も鎌倉初期〜江戸初期に至る各時代の古建築を有します。後白河法皇の皇女・宣陽門院、後醍醐天皇、豊臣家、徳川幕府の庇護を受け復興し現在の伽藍配置は、南大門(重文:桃山期)、豊臣秀頼が再建した金堂(国宝:桃山期)、貞観仏群がひしめく講堂(重文:桃山期)、食堂(じきど う)、北大門が一直線に並び、南大門の東に徳川家光が再建した五重塔(国宝:江戸期)、西に潅頂院(かんじょういん/重文:江戸期)など奈良時代の寺院建築様式で再建されたものです。弘法大師は「祈りなき行動は妄動であり、行動なき祈りは妄想である」との信念を持っていました。塀で区画された境内はそのまま曼荼羅であり、東寺から様々なメッセージを汲み取る事ができるとも言われます。国宝20件、重要文化財45件の寺宝を収蔵する事でも有名です。五重塔(国宝)は徳川家光の寄進で総高55mの現存する古塔中、日本一の高さを誇ります。南大門(重文:桃山期)、蓮花門(国宝:鎌倉期)、北大門(重文:鎌倉期)、東大門(不開門:あけずもん/重文:鎌倉期)、慶賀門(重文:鎌倉期)を四方に配置し宝物館には、我が国最古とされる兜跋毘沙門天像(とばつびしゃもんてんぞう:国宝)を始め彫刻、絵画、書跡など真言密教に関する寺宝が23,000点以上と多数収蔵されています。因みに、西寺も延暦13年(794年)、平安京建都時に羅城門の西(右京)に二官寺の一として建立され弘仁14年(823年)、嵯峨天皇から勅賜され勧操、守敏(じゅびん)などの高僧が住持となりました。伽藍も金堂、講堂などが甍を並べ荘厳の美を誇りました。東寺が真言密教の道場として発展したのに対し西寺も鎮護国家の官寺として発展しましたが、平安中期の正暦元年(990年)に焼亡し、鎌倉時代の天福元年(1233年)の火災で僅かに残っていた五重塔も焼亡しました。以来、再建される事なく現在は西寺児童公園の小丘に西寺講堂の土壇跡と伝え付近から発掘した礎石や石碑があります。その西北の地に西寺の旧名を継いだ小寺(旧西方寺)があって、門前に守敏(じゅびん)塚と記した一個の石碑を建てて往時の西寺を僅かに偲ばせています。

新たに循環バス208系統「京都駅」に乗車

東寺(世界文化遺産)

南大門(重文:桃山期)

南大門(重文:桃山期)、金堂(国宝:桃山期)

南大門(重文:桃山期)・・・九条大路に面して建つ三間一戸の八脚門で屋根は切妻造、本瓦葺で蟇股(かえるまた)などに桃山風の建築様式が見られます。元の南大門は重層の楼門で正面五間と言われ文覚上人の再建後、文明18年(1486年)の土一揆に焼かれました。今の門は明治28年(1895年)、蓮華王院三十三間堂の西門を移したもので堂々たる威容を見せています。金堂(国宝:桃山期)・・・延暦15年(796年)に創建された東寺の本堂です。文明18年(1486年)に焼失し今の金堂は豊臣秀頼が発願し片桐且元を奉行として再建させたもので、慶長11年(1606年)に完成しました。奈良大仏殿の古制を真似て天竺様の挿肘木(さしひじき)を用い細部には唐、和風の各技術も巧みに折衷した桃山時代仏寺建築の優作で堂内には薬師三尊(桃山期)、十二神将を安置します。近年、金堂を解体修理の時に創建当時の礎石が発見され位置及び規模が大体、創建時と同じである事が確認されました。

ニャン大門?σ(^◇^;)

五重塔(国宝:江戸期)@南大門前

金堂(国宝:桃山期)

講堂(重文:桃山期)、食堂(じきどう)

講堂(重文:桃山期)・・・天長2年(825年)、弘法大師によって着工され承和2年(835年)頃に完成し、その後の台風や地震で大破し修理を重ねてきましたが、文明18年(1486年)、土一揆による戦火で焼失しました。現在の講堂は慶長3年(1598年)に再建された建物で、内部中央壇上には、大日如来を中心とする五仏を中心とし、その右に五大菩薩坐像五体(国宝:貞観期、但し中尊は除く)、左に五大明王像(国宝:貞観期)、四隅に四天王立像(国宝:貞観期)21体の諸仏を安置します。食堂(じきどう)・・・元は、僧侶達が斎時に集まり食事をした場所で建立年代は不詳てすが昭和6年(1931年)12月21日、焼失し昭和9年(1934年)4月に再建されました。聖宝・理源大師による千手観音立像(重文:藤原期)、四天王像(宝物館に安置)を建立した所以から千手堂とも称されます。

講堂(重文:桃山期)

食堂(じきどう)

御影堂(大師堂/国宝:南北朝期)

御影堂(大師堂/国宝:吉野期)

康歴元年(1379年)に焼失しましたが、翌年に再建されました。前堂と後堂の二堂に分かれ檜皮葺、入母屋造の屋根二棟が混み入って建っています。外面は蔀戸(しとみど)をはめ、妻唐戸(つまからと)を用い一見、寝殿造を思わせます。ここは、弘法大師の住房跡と伝え堂内には弘法大師坐像(重文:鎌倉期)、大師の念持仏の秘仏・不動明王坐像(国宝:貞観期)、五重小塔(重文:鎌倉期)を安置します。

御影堂(大師堂/国宝:南北朝期)

大日堂

五重塔(国宝:江戸期)

方三間、高さ55もmからなる本瓦葺の塔で我が国現存塔婆では最高、最大とされます。正保元年(1644年)、徳川家光が古制に則って再建したもので塔内部は心柱を初層まで通し、八方の板壁には真言八祖、扉には護法八天などを極彩色で描いています

京都七福神の一「毘沙門堂

五重塔(国宝:江戸期)@境内

金堂(国宝:桃山期)講堂(右:重文:桃山期)

十一面観音立像@食堂(じきどう)

小子坊

小子坊説明板

潅頂院(かんじょういん/重文:江戸期)

寛永11年(1634年)、徳川家光が再建したもので密教修行の最後的行を行う所です。室生寺潅頂堂と共に真言密教の本格的な潅頂道場として貴重な建物とされます。外廻りにある東門、北門(重文:鎌倉期)は、いずれも切妻造、本瓦葺の簡単な四脚門ですが妻の板蟇股(かえるまた)や梅鉢懸魚(うめばちけぎょ)などに鎌倉時代の建築様式を示す古雅な門です。

潅頂院北門(重文:江戸期)

潅頂院東門

修行大師像

京都所司代屋敷跡

二条城の北辺り、北は丸太町通り、南は竹屋町通りまで、東は猪熊通り、西は大宮通りに至る方150mの一帯で現在、旧待賢小学校一帯が屋敷跡とされます。所司代は室町幕府の「侍所の司の代官」に始まり徳川幕府が関ヶ原合戦直後に設け、朝廷の監察、守護、西国大名の監視、京都諸役人の統率、京都町方の取り締まり(後に京都町奉行所の任)、畿内天領の訴訟処理など老中に次ぐ重要職でした。初代の奥平(松平)信昌の後、板倉勝重、重宗が任じられ、重宗は、中世以来の自治的な町組を活用した町政、公平な訴訟処理の仕方を定めるなど京都市政の根本法規を制定しました。以後、幕末まで58人が任じられた。文久2年(1862年)、京都守護織が設けられ会津藩主・松平容保(まつだいらかたもり)が任命されると所司代は管轄下に置かれ元治元年(1864年)、松平容保の実弟である桑名藩主・松平定敬(さだあき)が京都所司代に就きましたが慶応3年(1867年)12月、王政復古と共に廃止されたました。跡地には明治3年(1870年)、我が国最初の中学校、京都府立京都第一中学校が建てられましたが明治4年(1871年)に府庁の地に移転し跡地は養蚕場となり同39年(1906年)、待賢小学校を移し他は全て民有地となりました。

五重塔(国宝:江戸期)@境内

循環バス208系統「京都駅」@東寺南門前バス停

京都所司代屋敷跡(旧待賢小学校一帯)

板倉勝重、重宗屋敷跡

関ヶ原の合戦後、天下の政権を掌握した徳川家康は奥平(松平)信昌を以って所司代に任じました。次いで慶長6年(1601年)、板倉勝重が所司代に起用され任に就き当地に屋敷を構えました。板倉勝重は幼時は僧でしたが父兄を戦場で失くし還俗し家督を継ぎ家康に見込まれて関東代官となり次いで京都町奉行に任ぜられ南禅寺の金地院崇伝と共に社寺事務を司りました。就任当時の京都は豊臣氏の勢力化にあって執務は極めて苦しかったが人心を収攪し、その功により山城、近江などに於いて1万6600石余を与えられました。勝重の子・重宗も三代目の所司代に任ぜられ同邸で住まいしました。承追3年(1654年)に至る30余年の間、この職にありました。父子共に名所司代の誉れ高く在職中に京都市政の大要を記した「板倉政要」10巻を著しました。堀川屋敷とも称され京都所司代邸の一郭をなしたと伝えます。

京都所司代屋敷跡(旧待賢小学校一帯)

京都所司代・板倉勝重屋、宗重敷跡

二条城(世界文化遺産)

慶長5年(1600年)、関が原の戦いに勝利し政権を握った徳川家康が慶長8年(1603年)、京都の守護と将軍上洛時の宿泊所として造営し、3代将軍・家光により伏見城の遺構を移すなどして寛永3年(1626年)に完成しました。慶長8年(1603年)2月、征夷大将軍に任ぜられると竣工早々の二条城で拝賀を受けました。当城で徳川家康が豊臣秀頼と会見したり大坂冬・夏の陣には二代将軍・秀忠らと軍議を凝らしました。寛永11年(1634年)、家光の上洛以降は将軍上洛の必要もなく城内殿舎は次第に取りこぼち留守居役の武士が留まるに過ぎませんでした。寛延3年(1750年)、雷火で天守閣を焼失、天明8年(1788年)正月、市中大火に再び本丸内殿舎や櫓などの類焼をみたが再興はなく家康が建てた二之丸御殿のみが残りました。文久3年(1863年)、家光上洛から229年ぶりに将軍・家茂が孝明天皇の勅を奉じて上洛し慶応3年(1867年)10月、将軍・慶喜が大政奉還を決し城中から上表、ここに武家政治の幕を閉じましたが豊臣秀吉の残した文禄年間の遺構と家康が建てた慶長年間の建築と家光がつくらせた絵画・彫刻などが総合された桃山時代様式の全貌を垣間見る事ができます。

京都所司代上屋敷跡(旧待賢小学校一帯)

二条城北大手門

外濠

東大手門

東南隅楼

堀川遊歩道(堀川暗礁上)

福井藩邸跡

二条城東大手門の向かいに福井藩邸がありました。福井藩は、徳川家康の子・結城(松平)秀康を藩祖とし代々、松平氏が統治しました。幕末時代、藩主・松平春嶽は人材を登用し藩政改革を断行し公武合体派の中心として活躍しました。

堀川御池橋跡

福井藩邸跡

橋本左内寓居跡

橋本左内は、福井藩出身で父は藩医でした。大坂で緒方洪庵に医学、洋学などを学んだ後、江戸で蘭学を学びました。藩主・松平春嶽に認められ藩医、御書院番、藩校学監となり藩政改革に尽力しました。将軍継嗣問題で藩主を助け一橋慶喜擁立を周旋した事を井伊直弼に断罪(安政の大獄)され斬首に処せられました。当地は福井藩邸内にあった橋本左内寓居跡です。

堀河天皇里内裏跡

橋本左内寓居跡碑

史跡・伊藤仁斎宅(古義堂跡)、書庫

江戸初期の儒者・伊藤仁斎の私塾で古義堂と称しました。創設当時の古義堂は延宝元年(1673年)の大火で焼失し明治23年(1890年)に遺構をもって再建され二階建、土蔵造りの書庫は当時のものと伝えます。仁斎は当初、徳川幕府の国教とする朱子(しゅし)学よりも古く正しいものと主張し寛文2年(1662年)、自宅に設けた私塾でその学派を堀川学派、又は、古義学派と言われ世に伝唱されました。仁斎は育英する事約40年、門下生は1000余名を数えたと伝えます。宝永2年(1705年)3月、79才で没するまで長子よく父の学問の紹述に努め、堀川学を大成しました。

京都守護職屋敷正門

史跡「伊藤仁斎古義堂跡、並びに書庫」と見事な黒松

幻のチンチン電車

京都電気鉄道株式会社(京電)のチンチン電車は、明治28年(1895年)2月1日、日本で初めての路面電車として伏見線(塩小路高倉〜伏見油掛)に登場しましたが、大正7年(1918年)7月1日に京都市交通局に買収されるまで僅か23年と生涯は花のように短かいものでした。京都市電も昭和36年(1961年)8月1日、旧京電の狭軌路線として残っていた北野線廃線を始め、順次廃線となり昭和52年(1977年)9月30日、河原町線(七条河原町〜洛北高校前間)、烏丸線(京都駅前〜七条烏丸間)、七条線(西大路七条〜七条河原町間)が廃線され外周線(東山線、北大路線、西大路線、九条線)と東山七条〜京都駅に通じる路線(七条線、河原町線の一部)が残されましたが、昭和53年(1978年)9月30日に廃線となり京都市電は惜しまれつつ京都の街から姿を消しました。しかし、当時の可愛いチンチン電車始め、路面電車のロマンを今日まで伝えています。

                  

廃止4ヶ月程前の昭和36年3月、四条堀川付近を走るI型(通称:N電、タンクロ)   転車台で方向を変えた後、堀川中立売の鉄橋を渡る狭軌I型

堀川左岸(東)を走っていた京都市電(旧京電)・北野線跡 京都市電(旧京電)・北野線遺構の中立売橋梁

明治29年(1896年)頃、京都電気鉄道のチンチン電車は、市民に大変な人気で大勢の見物人が堀川中立売に集まりました・・・

堀川第一橋はアーチ形のレトロチックな石造橋・・・なぜか?堀川の下にいるとです・・・σ(^◇^;)

一条戻橋

名の起こりは定かでないが平安中期、延喜18年(918年)、文学博士・三善清行の葬列が、丁度この橋を通りかかった時、紀州熊野にあった息子・浄蔵が急ぎ帰京し棺にとりすがり泣き崩れ神仏に熟誠を込めて祈願したところ不思議にも父・清行が一時蘇生し父子物語を交じたという故実により「戻橋」と名付けたと伝えます。陰陽師・安部晴明は鬼のような容貌した式神(職神:しきじん)12体を作り人間と同様にこれを駆使したが晴明の妻が恐れるあまり常は戻橋の下に封じ込め用事の時だけ呼び出し吉凶の橋占に用いたとも伝えます。戻橋を最も有名にしたのは河竹黙阿弥が「太平記」(剣の巻)を主材として作った歌舞伎芝居「戻橋」によるからで梗概は、源頼光の家来で四天王の一人である渡辺綱が、ある夜、この橋の畔で容貌美しい女子に出会ったが、川面に映る鬼女の形相によって正体を知り遂に鬼女の片腕を斬り落としたという。これは、戻橋の東南一帯に清和天皇の諸皇子の屋敷があったが、後に源頼光の居住するところとなり、かかる伝説が生じたとされます。戻橋という名を嫌って縁談一切は渡るのを避けると言われ、反対に戻橋の縁起をかついで出征兵士はこの橋を渡って出兵すると無事、帰還が叶うと言われます。

陰陽師・安部晴明が自在に操った式神を橋の下に封じ込めていたと伝える「一条戻橋」

晴明神社

晴明神社

平安時代中期の陰陽師・安部晴明を祭神とし倉稲魂命(うがのみたま)を合祀します。安倍晴明は平安時代中期、花山天皇、一条天皇に仕えた陰陽師で物事の吉凶を占うなど両天皇、藤原道長に重宝され活躍しました。天文学に通じ暦算、ト占、推歩の術を極め一条天皇の御代に天文博士となりました。かって、花山天皇が密に宮中を逃れ出て山科花山の元慶寺で出家された時、晴明は自宅で天の星座の急変を知り、天子位の去るの象であると急ぎ参内し伝えたと言います。また、式神(職神)を自由に駆使して人を驚かせたなど伝説が多く残ります。当地は安部晴明の屋敷跡と伝え、寛弘2年(1005年)、晴明が74才で没した2年後の寛弘4年(1007年)、一条天皇の勅願により屋敷跡に晴明神社を創建され安部神道は、朝廷の庇護を受け子孫は永く栄えました。境内には晴明の念持力で湧出したと伝える晴明井があり、病気の治癒平癒にご利益があると言われます。境内、社殿などに魔除けの力があるという晴明桔梗紋(五芒星:セーマン)があしらわれています。当方も晴明桔梗紋(五芒星:セーマン)の御符シールを4枚ゲットしまつた・・・えっ?1枚や2枚では足りませぬ??お守りくだされ〜晴明さまっ!!!σ(^◇^;) どもども

旧一条戻橋の親柱を利用して再現されているミニチュア版一条戻橋、傍らには式神像

晴明が自由に操ったとされる式神さまでつ・・・

千利休聚楽屋敷跡

天正14年〜15年、豊臣秀吉が聚楽第を築きました。聚楽第の外郭に「其の中に寺ともなく武家とも見えざる家あり」といわれた千利休の聚楽屋敷があったのが今の晴明町、晴明神社辺りと伝えます。聚楽屋敷内にある茶室・不審庵で秀吉の命により利休は切腹し一条戻橋の畔に首を晒されました。

うら若き美女に微笑まれ・・・(@^.^@) えへっ

千利休聚楽屋敷跡

手水、晴明井(右奥)

晴明桔梗紋形(五芒星、セーマン)の晴明井

厄除桃

安部晴明絵馬

晴明桔梗紋(五芒星:セーマン)が刻された拝殿

本殿

晴明神社を後に・・・

9系統「堀川通り京都駅」@一条戻橋バス停

「京都駅」下車

京都駅ビル

特81系統「竹田駅東口経由、横大路車庫」

「竹田街道大手筋」下車

Tourist  2006.02.20(M)

 

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