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堀河天皇里内裏跡 |
橋本左内寓居跡碑 |
史跡・伊藤仁斎宅(古義堂跡)、書庫 |
江戸初期の儒者・伊藤仁斎の私塾で古義堂と称しました。創設当時の古義堂は延宝元年(1673年)の大火で焼失し明治23年(1890年)に遺構をもって再建され二階建、土蔵造りの書庫は当時のものと伝えます。仁斎は当初、徳川幕府の国教とする朱子(しゅし)学よりも古く正しいものと主張し寛文2年(1662年)、自宅に設けた私塾でその学派を堀川学派、又は、古義学派と言われ世に伝唱されました。仁斎は育英する事約40年、門下生は1000余名を数えたと伝えます。宝永2年(1705年)3月、79才で没するまで長子よく父の学問の紹述に努め、堀川学を大成しました。
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京都守護職屋敷正門 |
史跡「伊藤仁斎古義堂跡、並びに書庫」と見事な黒松 |
幻のチンチン電車 |
京都電気鉄道株式会社(京電)のチンチン電車は、明治28年(1895年)2月1日、日本で初めての路面電車として伏見線(塩小路高倉〜伏見油掛)に登場しましたが、大正7年(1918年)7月1日に京都市交通局に買収されるまで僅か23年と生涯は花のように短かいものでした。京都市電も昭和36年(1961年)8月1日、旧京電の狭軌路線として残っていた北野線廃線を始め、順次廃線となり昭和52年(1977年)9月30日、河原町線(七条河原町〜洛北高校前間)、烏丸線(京都駅前〜七条烏丸間)、七条線(西大路七条〜七条河原町間)が廃線され外周線(東山線、北大路線、西大路線、九条線)と東山七条〜京都駅に通じる路線(七条線、河原町線の一部)が残されましたが、昭和53年(1978年)9月30日に廃線となり京都市電は惜しまれつつ京都の街から姿を消しました。しかし、当時の可愛いチンチン電車始め、路面電車のロマンを今日まで伝えています。
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廃止4ヶ月程前の昭和36年3月、四条堀川付近を走るI型(通称:N電、タンクロ) 転車台で方向を変えた後、堀川中立売の鉄橋を渡る狭軌I型 |
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堀川左岸(東)を走っていた京都市電(旧京電)・北野線跡 |
京都市電(旧京電)・北野線遺構の中立売橋梁 |
明治29年(1896年)頃、京都電気鉄道のチンチン電車は、市民に大変な人気で大勢の見物人が堀川中立売に集まりました・・・ |
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堀川第一橋はアーチ形のレトロチックな石造橋・・・なぜか?堀川の下にいるとです・・・σ(^◇^;) |
一条戻橋 |
名の起こりは定かでないが平安中期、延喜18年(918年)、文学博士・三善清行の葬列が、丁度この橋を通りかかった時、紀州熊野にあった息子・浄蔵が急ぎ帰京し棺にとりすがり泣き崩れ神仏に熟誠を込めて祈願したところ不思議にも父・清行が一時蘇生し父子物語を交じたという故実により「戻橋」と名付けたと伝えます。陰陽師・安部晴明は鬼のような容貌した式神(職神:しきじん)12体を作り人間と同様にこれを駆使したが晴明の妻が恐れるあまり常は戻橋の下に封じ込め用事の時だけ呼び出し吉凶の橋占に用いたとも伝えます。戻橋を最も有名にしたのは河竹黙阿弥が「太平記」(剣の巻)を主材として作った歌舞伎芝居「戻橋」によるからで梗概は、源頼光の家来で四天王の一人である渡辺綱が、ある夜、この橋の畔で容貌美しい女子に出会ったが、川面に映る鬼女の形相によって正体を知り遂に鬼女の片腕を斬り落としたという。これは、戻橋の東南一帯に清和天皇の諸皇子の屋敷があったが、後に源頼光の居住するところとなり、かかる伝説が生じたとされます。戻橋という名を嫌って縁談一切は渡るのを避けると言われ、反対に戻橋の縁起をかついで出征兵士はこの橋を渡って出兵すると無事、帰還が叶うと言われます。
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陰陽師・安部晴明が自在に操った式神を橋の下に封じ込めていたと伝える「一条戻橋」 |
晴明神社 |
晴明神社 |
平安時代中期の陰陽師・安部晴明を祭神とし倉稲魂命(うがのみたま)を合祀します。安倍晴明は平安時代中期、花山天皇、一条天皇に仕えた陰陽師で物事の吉凶を占うなど両天皇、藤原道長に重宝され活躍しました。天文学に通じ暦算、ト占、推歩の術を極め一条天皇の御代に天文博士となりました。かって、花山天皇が密に宮中を逃れ出て山科花山の元慶寺で出家された時、晴明は自宅で天の星座の急変を知り、天子位の去るの象であると急ぎ参内し伝えたと言います。また、式神(職神)を自由に駆使して人を驚かせたなど伝説が多く残ります。当地は安部晴明の屋敷跡と伝え、寛弘2年(1005年)、晴明が74才で没した2年後の寛弘4年(1007年)、一条天皇の勅願により屋敷跡に晴明神社を創建され安部神道は、朝廷の庇護を受け子孫は永く栄えました。境内には晴明の念持力で湧出したと伝える晴明井があり、病気の治癒平癒にご利益があると言われます。境内、社殿などに魔除けの力があるという晴明桔梗紋(五芒星:セーマン)があしらわれています。当方も晴明桔梗紋(五芒星:セーマン)の御符シールを4枚ゲットしまつた・・・えっ?1枚や2枚では足りませぬ??お守りくだされ〜晴明さまっ!!!σ(^◇^;)
どもども
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旧一条戻橋の親柱を利用して再現されているミニチュア版一条戻橋、傍らには式神像 |
晴明が自由に操ったとされる式神さまでつ・・・ |
千利休聚楽屋敷跡 |
天正14年〜15年、豊臣秀吉が聚楽第を築きました。聚楽第の外郭に「其の中に寺ともなく武家とも見えざる家あり」といわれた千利休の聚楽屋敷があったのが今の晴明町、晴明神社辺りと伝えます。聚楽屋敷内にある茶室・不審庵で秀吉の命により利休は切腹し一条戻橋の畔に首を晒されました。
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うら若き美女に微笑まれ・・・(@^.^@)
えへっ |
千利休聚楽屋敷跡 |
手水、晴明井(右奥) |
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晴明桔梗紋形(五芒星、セーマン)の晴明井 |
厄除桃 |
安部晴明絵馬 |
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晴明桔梗紋(五芒星:セーマン)が刻された拝殿 |
本殿 |
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晴明神社を後に・・・ |
9系統「堀川通り京都駅」@一条戻橋バス停 |
「京都駅」下車 |
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京都駅ビル |
特81系統「竹田駅東口経由、横大路車庫」 |
「竹田街道大手筋」下車 |
Tourist
2006.02.20(M)
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