井出の石仏、飯岡(いのおか)古墳群チャリ探訪

 

むかし誰れ 井出の山吹 うえおきて 花ゆへ里の 名を残すらむ 顕昭

 

室城(むろき)神社〜淀姫さんの祠〜井堤寺(いでじ)跡〜駒岩(左り馬)〜弥勒磨崖仏〜橘諸兄公旧跡〜飯岡古墳群〜流れ橋(上津屋橋)

飯岡(いのおか)

木津川左岸に臨んだ広漠たる耕野の中に突兀として聳える一丘陵を称し最も高い所で67mに過ぎませんが周囲に目を遮るものがないので南山城一帯の景観を望むには、ここを以って第一とします。古くは咋岡(くいおか)とも記し「く」が、つまって「いおか」となり、後に「飯」の字をあてて「いのおか」と称するに至ったと伝え、一説に湯岡とも言い清泉の湧き出す岡から地名になったとも伝えます。今も飯岡の周辺には桜井王が掘らせたという七つの井戸が残っています。民家は主に丘陵の東北部に位置し南〜西方には多くの古墳が散在し歴史の浅からぬ事を現在に伝えますが、宅地開発が進み破壊された古墳も少なくないようです。

第2京阪国道(京都高速道工事中) 宇治川 広大な巨椋池干拓田
室城(むろき)神社

素盞嗚命(すさのおのみこと)、武甕槌神(たけみかづちのかみ)など三神を祀る下津屋の産土神です。寛永7年(1630年)、木津川の洪水に遭って社殿、社記と共に流出し詳細は明らかでありません。「神社覈録(かくろく)」によると室城とは室樹の事を言い当社は、この地区を開拓した豪族・榎室連(えむろのむらじ)の祖を祀った神社であると思われます。榎室連とは水主(みぬし:みずし)氏と共に天火明命(あめのほあかりのみこと)を祖とし、この地方の開発に努めた古代豪族の一です。かって、聖徳太子が山城国へ巡行の時、久世郡水主郷の水主古麻呂の家に立ち寄られ、門前の大きな榎樹が室の如く生い茂っているのを見て「これでおそらく雨も漏るまい」と感嘆され榎室連(えむろのむらじ)という姓を賜ったと伝えます。「延喜式」に記す「久世郡室城神社」は当社と言われるが、一説に久津川(城陽市)の平井神社、又は宇治白川の白山神社とも言われ不詳です。境内には本殿以下拝殿、末社(住吉社)がありますが何れも近年の再建です。

久御山JCT(巨椋池排水幹線・古川) 室城神社 拝殿
旧木津川河道

明治元年(1868年)5月末の大洪水によって木津川は生津(なまづ)付近から西方の八幡方面に流出し、現在のように西方に流路を変えました。昔、封戸(ふご)と西岸の生津の間に渡し舟(封戸ノ渡し)が設けられ淀ノ渡しと共に有名でした。京都より鳥羽、淀を経て八幡の奈良、内里、大住を経て大和に至る街道、又は八幡を経て河内、高野山方面に至る交通上の要衝でこの辺りには旅館、料亭が軒を並べ遊女もいたと伝えます。現在、旧木津川河道は耕地となり近辺に古堤防イワラ、中村などの地名と僅かな堤防遺蹟を留めるにすぎません。

本殿 木津川右岸を久御山町方面へチャリチャリ 旧木津川河道分岐辺り
旧木津川河道堤防跡 反転して流れ橋(上津屋橋)に到着・・・暑うぅ〜 近鉄京都線木津川鉄橋@木津川右岸
淀姫さんの祠(ほこら)

生レ口(うまれぐち)樋門の近くに旧生レ口樋門跡記念碑と共に奈島地域の水難除けとして大切に祀られているのが「淀姫さんの祠」です。

旧生レ口樋門跡記念碑、淀姫さんの祠@生レ口樋門 山城大橋@木津川右岸
井堤寺(いでじ)跡

天平時代、万葉集の撰者でもあった左大臣・橘諸兄が建立した氏寺で正しくは円堤寺(えんていじ)と記し光明寺と号した七堂伽藍の寺跡で「和歌色葉」(山城名勝誌:巻二十所引)によれば金堂の四面の廻廊の廻りに山吹を植え廊の内側に水を湛え花を咲かせて水面に映して見るように作られたが寺供養の日に思わぬ讒言(ざんげん)によって身まかった為、せっかくの目論見も実現させる事はできなかった・・・と記しています。寺跡から礎石の他、銅銭、海獣葡萄鏡、三色の釉薬をかけた三彩の垂木先瓦片等が出土しました。

JR奈良線 井堤寺跡 礎石、歌碑
井堤寺解説碑 玉川石仏(地蔵磨崖仏)
駒岩(左り馬@左り馬ふれあい公園)

枕草子に記される「井はほりかねの井、玉の井」とは、玉川の事で玉川沿いに駒岩(左り馬)があります。説明碑によると数百トンの花崗岩の下部、奧の方に後ろ足を跳ね上げ躍動する馬が実写実的に半肉彫されています。平安時代後期の保延3年(1137年)5月6日に水神として造立され江戸時代には、女芸(裁縫、茶法、生け花、舞踊など)の上達を祈願する参詣者を多く集めました。元、玉川左岸の山腹にありましたが水害で現在地に移転されました。

玉川石仏(地蔵磨崖仏) 玉川と井出の里 駒岩(左り馬)説明パネル
駒岩(左り馬) 井出町案内図
大和物語の「井出の下帯」で舞台の椿坂 井手町まちづくりセンター椿坂(石橋瓦窯跡) 玉川
宮本水車旧跡

水車は、ありませんが宮本水車旧蹟碑が建っています。玉川沿いには日照りが続いても枯れる事のなかった豊富な水を利用して終戦後も、精米や穀物などの製粉に水車が使われていましたが昭和28年(1953年)8月15日、この地方を襲った大水害により水車小屋諸共が跡形もなく流され現在は水車に利用されていた水路と石臼が往時を偲ばせています。

宮本水車旧蹟 水車跡 宮本水車旧蹟碑
弥勒磨崖仏(みろくまがきぶつ)

口伝によると花崗岩に腺刻された三体の石仏は奈良時代、橘諸兄の館建立に際し鬼門除けとして刻まれたものと云われていますが説明碑によると実際には鎌倉〜室町時代、戦乱に明け暮れた武士の支配体制に苦しみ、その日暮らしがやっとだった農民達が心のよりどころとして刻んだものと伝えます。

山背古道 弥勒磨崖仏(井手の弥勒岩:みろくさん) 弥勒磨崖仏の駒札
弥勒磨崖仏(井手の弥勒岩:みろくさん) 田植えが始まった水田
橘諸兄(たちばなのもろえ)公旧跡

本名は葛城王と言い後に母の氏を賜り橘諸兄と称した万葉集の撰者でもありました。天平10年(738年)に右大臣、天平15年(743年)に左大臣になり井手に住して井堤寺や玉井頓宮(たまいとんぐう)などを建立し井手を拠点とし井手左大臣と称した橘諸兄の旧跡です。

橘諸兄公旧跡
橘諸兄公旧跡 井出火山灰層 のどかな井出の風景・・・
六角井戸(公の井戸)

井戸枠が六角形なのでこの名が生じました。此処は玉井頓宮(たまいとんぐう)の跡地で井戸は邸内にあったものと伝え公の井戸とも呼ばれます。玉井頓宮は天平時代の左大臣・橘諸兄の別荘で一に相楽別業、玉井山荘、玉井荘とも言いました。天平12年(740年)11月8日、聖武天皇が行幸され又、斎内親王が伊勢の帰路の途路、ここで休憩されたと伝えます。

六角井戸 桜と山吹が有名な玉川 玉川
用水発起豊田翁之碑

享保3年(1718年)に飯岡で生まれた豊田武兵衛は、明和年間(1764年〜71年)、村から旱魃や洪水からの危害を除く為、独力で用水、排水路を開削し多大な功績を残しました。「用水発起豊田翁之碑」は、これを顕彰して建てられました。

玉水橋 飯岡@玉水橋 用水発起豊田翁之碑
飯岡古墳群、金泥山(きんでいやま)古墳

飯岡古墳群・・・標高67mの飯岡丘陵台地上に散在する古墳を称し開発などで破壊されたものもありますが現存している古墳群を探索しました。金泥山古墳・・・円墳で未発掘の古墳?

飯岡の渡し場跡碑 金泥山古墳 茶畑
薬師山古墳

飯岡丘陵最高所にある円墳を言い墳上には石仏(江戸期)を安置した小堂があります。口碑によると桜井王(継体天皇々子椀子(まりこ)王の子)の墳と伝えますが公認はされていません。ここから眺める風光美は飯岡随一と言われます。

飯岡古墳群の駒札 薬師山古墳
ゴロゴロ山古墳

薬師山古墳のにしにある円墳で一に茶臼山古墳とも言われます。継体天皇々子椀子(まりこ)皇子の墳と伝え墳上には「椀子王古墳」と記した石碑が建っています。

飯岡で風光随一とされる眺め@薬師山古墳 ゴロゴロ山古墳
阿弥陀山古墳

ゴロゴロ山古墳より北にある円墳を言い墳上に石仏(江戸期)を安置し、その前に「朱(あけ)大王墳」と記した石碑が建っています。明治7年(1874年)頃、古墳を発掘したと伝えます。

飯岡三角点(67m) 阿弥陀山古墳 
南山城の眺め・・・ 蓮華寺跡駒札(説明札) 蓮華寺跡、七井戸内碑
飯岡車塚古墳

飯岡丘陵の西端にある南南西を正面とする巨大な前方後円墳で後円部頂上には竪穴式の石室を有します。明治35年(1902年)の発掘時に勾玉(まがたま)、管玉(くがだま)、石釧(いしくしろ)、その他多くの玉石製品が出土しました。今は前方部は茶畑となり後円部には「上殖葉王(かみえばのみこ)古墳」と記した石碑が建っています「纂輯(さんしゅう)御系図」によると上殖葉王とは一に恵波王とも言い宣化天皇の皇子と伝えます。

飯岡車塚古墳駒札 飯岡車塚古墳
穴山梅雪(あなやまばいせつ)墓

墓石は五輪石塔などを寄せ集めて印しとします。梅雪は元、武田家の将であったが後に徳川家康に属しました。本能寺の変にあたって家康と共に泉州堺にあったが、急ぎ帰国せんとして当地にさしかかったところを土冠に襲われ木津川を渡り得ずして殺害されたと伝えます。「雍州府誌」によると普賢寺谷で梅雪の従者が道案内人を殺害し、その太刀の銀の鍔(つば)を奪った事から土冠が蜂起し草内村の西方で殺害したと記されています。

穴山梅雪墓の駒札 穴山梅雪墓 阿弥陀寺
本堂 飯岡の茶畑や田園、木津川方面の眺め
咋岡(くいおか)神社

飯岡の東麓にあって創祀沿革を明らかにしませんが創祀は建治年間(1275〜78年)頃とも伝え、応仁年間(1467〜1469年)、永正年間(1504〜1521年)の兵火で焼失しましたが、天文3年(1534年)8月に再建されたと伝えます。古くは天満宮と称したが、明治26年(1893年)、式内咋岡神社と社名を改め、それまでの菅原道真、倉稲魂神(うかのみたまのかみ)を祭神とする飯岡の産土神です。草内にも同名の神社がありますが当社を勧請したものと伝えます。

咋岡神社 拝殿 本殿
トヅカ古墳、横穴古墳

トヅカ古墳・・・飯岡丘陵の東側、咋岡神社の東にあります。竪穴式の円墳で明治7年(1874年)の発掘時に見事な古鏡や玉石類が出土しました。墳上には「神魂丘旧跡」と記した石碑があり、これらは何れも京都の篤志家・三宅安兵衛氏の寄進によるものです。因みにトヅカは十塚で古墳の多い事を言ったもので付近には陪塚と思われる古墳がありましたが、殆どが破壊されました。横穴古墳・・・凄道の口が開いています。元は2基あったと伝えますが今は1基だけ残っています。出土品から見て継体天皇時代より以前、仁徳皇后磐ノ姫時代の築造だと推察されています。

トヅカ古墳 横穴古墳の駒札
横穴古墳 南山城の眺め・・・
玉水橋 サイクリングロードをチャリチャリ・・・ 山城大橋が見えてきました・・・
サイクリングロードをチャリチャリ・・・ 近鉄京都線木津川鉄橋@木津川左岸 流れ橋が見えてきました・・・
流れ橋(上津屋橋)

木津川に架かる全長356m、幅3mの日本最長級の木造橋で正しくは上津屋(こうづや)橋と言います。木津川の増水時に渡板まで水が浸かると渡板が流されますが、渡板がワイヤーで繋がれている為に水位が下がればワイヤーを引張って修復出来る橋構造になっている事から流れ橋と呼ばれています。時代劇の撮影にも利用されている橋でTV、映画で見た事があるかと思います。昭和28年(1953年)3月に架橋されて以来、平成16年(2004年)9月20日、増水で16回目の被災(流失)をし半年以上も通行止めになっていましたが、現在は改修され通行可能です。

流れ橋・・・木津川左岸から右岸へ渡ります・・・テレビや映画の時代劇で馴染みのある木造橋で全長は日本最長級の356.5mです。
流れ橋 久御山JCT(ジャンクション) 宇治川@第2京阪国道 京都南大橋(巨椋橋)

Tourist  2006.05.22(M)

 

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