大黒寺 |
江戸時代は薩摩藩の祈祷所、本尊は五穀豊穣の神、大黒天。寺田屋事件の有馬新七始め、薩摩九烈士、家老・平田靭負の墓がある。西郷隆盛、大久保利通は当寺において頻繁に密会し倒幕について話し合ったと伝え、彼らが語り合ったという部屋は、現在も残されている。平成13年(2001年)、新しく掘られた井戸(金運清水)で大黒天に供えら金運良好、資産増加、子孫繁栄など大変ありがたいご利益がある。 |
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薩摩寺とも呼ばれる大黒寺 |
伏見名水・金運清水 |
もっと賢くなりますように・・・(^^ゞ爆 |
寺田屋騒動 |
文久2年(1862年)3月16日、薩摩藩々主・島津久光は率兵(1000名)して自らが上洛し4月10日、大阪藩邸に入った。これを機に尊攘派の志士らは檄(げき)をとばして同士、250人程が参集し、王政復古の魁(さきがけ)にしようと画策した。 「関白・九条尚忠と所司代・酒井忠義を襲撃し、相国寺獅子王院に幽閉されている前青蓮院宮尊融法親王を救出し、宮を奉じて参内する。
そして、久光に滞京の詔(みことのり)を賜り、三百諸侯に激し、その上京を促す。
その上で集議によって、国是を決し、もし幕府が朝命を拒む時は、違勅の罪を責めて立ちどころに誅伐を加える。」という激しい内容でした。 しかし、島津久光は公武合体論を唱えた為、薩摩藩急進派と久留米水天宮神官・真木和泉守率いる諸藩有志は京都進撃を目指した。
4月23日(午後五時)、寺田屋に有馬新七、柴山愛次郎ら急進派の誠忠組21名、客将という事で真木和泉守ら10名、田中河内介ら5名の36名が集結しました。中には、大山厳、三島直庸、西郷隆盛の弟・西郷慎吾(従道)らもいました。 久光の君命を受けた薩摩鎮撫使の奈良原喜八郎、道島五郎兵衛、江夏(こうか)仲左衛門、森岡善助ら4名が、竹田街道から大山格之助、鈴木勇衛門、鈴木昌之助(勇衛門の息子)、山口金之助、上床源助ら5名が伏見街道から9名が二手に分かれ寺田屋に向かった。
寺田屋にどちらか先に到着した方が取り鎮める手はずで、この9名の内6名が誠忠組の同志であった事は島津久光の心遣いであった。 しかし、鎮撫使側に上意討ちの許可が出ていた為、藩邸への同行を拒否した有馬新七らと折衝が付かず遂に斬り合いとなりました。
鎮撫使側1名が討死し多数の負傷者を出し、誠忠組側も6名が討死、2名の重症者(後日、君命に背いた罪で切
腹)を出し、この知らせを聞いた伏見の呉服屋・井筒屋伊兵衛(現・斎藤酒造)と手代数名が寺田屋に駆けつけ、
遺骸を丁寧に白木綿で包み大黒寺に埋葬した。 更に4月27日、1名が自刀(切腹)し、これを加え9名の死者を出してしまいました。後、墓は「薩摩九烈士」として祀られ西郷隆盛の筆による墓碑が一緒に並んで建立されています。西郷隆盛は、この事件を薩摩で聞いた時に「何という事をしたのか、薩摩人は天下を論ずる資格はない。 天下の同志に何と説明するつもりか、顔向けのできん事になった。」と涙を流しながら悔しがったと伝えます。後に隆盛は泣きながら九烈士達の為に、墓碑を書いたとも伝える。 |
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西郷隆盛筆の墓碑(右手前)と薩摩九烈士の墓 |
秘仏・大黒天を祀る本堂 |
松林院 |
寺田屋女将・お登勢 |
お登勢は大津の船宿・大本重兵衛の次女で、十八歳のとき寺田屋伊助に嫁した。伊助は放蕩者で店は女将お登勢が一切きりもりし、二人の娘に加え五人の孤児まで養育した。義侠心が強く、志士たちにも援助をおしまなかった。 |
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立派な五輪石塔が、お登勢の墓 |
龍馬は寺田屋で伏見奉行所の捕吏に襲われ濠川を舟で上がり薩摩藩邸に逃げ込んだ・・ |
龍馬と伏見薩摩藩邸 |
慶応2年(1866年)1月24日、坂本龍馬は寺田屋において伏見奉行所の捕吏に襲撃されますが、入浴中のお龍が気づき裸で二階へ急を知らせ、龍馬は短銃を発射して、逃走しました。お龍は、急ぎ帯刀町(納屋町)〜風呂屋町〜紺屋町〜御駕町を走り抜け下板橋を渡り伏見薩摩藩邸へ龍馬の危機を知らせました。龍馬は手傷を負っていたので木材倉庫に隠れた後、お龍の知らせを受けた薩摩藩が差し向けた舟で濠川を上り伏見薩摩藩邸へと逃げ込んだと伝える。 |
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伏見薩摩藩邸跡・・徳川13代将軍・家定に嫁ぐ途路、篤姫も同藩邸に1週間滞在した。 |
悟真寺 |
鳥羽伏見の戦い、幕軍(会津藩)戦死者の埋骨地がある悟真寺 |
鳥羽伏見の戦いで戦死した幕軍(会津藩)戦死者53人の埋骨地があり「戊辰之役東軍戦死者之碑」は、榎本武揚によるもので掘られた二ヶ所の大穴に戦死者を9人と44人に分けて埋葬されたと伝えます。 |
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戊辰之役東軍戦死者埋骨地之碑 |
戊辰之役東軍戦死者之碑 |
静寂な境内 |
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伏見の庚申さん、伏見庚申堂 |
旧奈良鉄道の鉄橋橋脚跡(レンガ部分) |
江戸時代、会津藩と関わりがあった栄春寺 |
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伏見城遺構の土塁跡 |
藤森神社 |
額は今も近藤勇によって外されたまま |
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祭礼では駈馬、騎射が行われる参道(馬場) |
かえし石 |
境内 |
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水鉢と五右衛門が盗んだという台石 |
桜咲く |
伏見名水・不二の水 |
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腰痛の近藤勇も信仰したいちの木さん(旗塚) |
桜咲き始め |
本殿 |
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京都歩兵連隊跡碑 |
直違橋(すじかいばし:伏水第四橋) |
一本松辺りで会津、新撰組が長州藩兵と戦闘 |
一本松旧跡 |
かって樹齢千年を越す老松がありました。昭和9年(1934年)の室戸台風で損傷し枯死し現在は二代目の松が植えられ「旧蹟一本松」の標石があります。常盤御前が三人の子を連れてその下で休んだとか豊臣秀吉が植えたとか参勤交替の道標だったとか諸伝説があります。元治元年(1864年)7月19日、「禁門の変(蛤御門の変)」では大垣藩兵が一本松(宝塔寺に本陣)に布陣し伏見街道を北上してきた長州藩兵と戦闘が勃発し黒門の守備を命じられていた新撰組や会津・桑名藩兵が急行し長州藩兵を撃破しました。付近の住民は七面山などに避難したと伝えます。 |
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一本松にある道標石 |
一本松跡碑 |
伏見街道を北上・・・ |
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伏見稲荷大社 |
新撰組が布陣していた黒門があった辺り |
東福寺三の橋川に架かる伏水第三橋 |
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伏水第二橋跡 |
東大路(旧東山通り)通り |
・・・ |
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霊山歴史館、霊山護国神社へ・・・ここから霊山歴史観、霊山護国神社まで坂道です(^▽^;) |
西本願寺別邸・翠紅館 |
幕末の頃、西本願寺の別邸で翠紅館と呼ばれる屋敷があった。文久3年(1863)文久3年1月27日、土佐藩・武市半平太、長州藩・井上聞多、久坂玄瑞ら多数が集まり、同年6月17日にも長州藩・桂小五郎、久留米藩・真木和泉守らも集った。この数年前から攘夷運動が次第に高まり反幕府の政治となりつつあったが、攘夷などの具体的な方法が検討された。これを「翠紅館会議」と言います。 |
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西本願寺別邸・翠紅館・・・勤皇派がここに集まり度々「翠紅館会議」が開かれた。 |
こま札 |
霊山(りょうぜん)歴史館 |
わが国唯一の幕末維新の専門歴史博物館として昭和45年(1970年)に開館、幕末維新ミュージアムとも呼ばれる。収蔵資料は約5000点を超え、各展覧会では約100点を展示。全館リニューアルで映像、パソコン、歴史再現模型、体感コーナーも充実。ここ東山の霊山地域は明治維新政府の太政官布告を受け、坂本龍馬ら先覚者たちの墳墓が作られ今日では「維新の道」と呼ばれる史跡公園として親しまれている。 |
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翠紅館会議に参加した天誅組などの名簿碑
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維新の道碑 |
霊山歴史館 |
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大龍馬展を開催中 |
こま札 |
キララくんは、ここで待機 |
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お〜い龍馬くんo(*^▽^*)o |
日本で唯一?沖田総司像 |
桂小五郎(木戸孝允) |
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小太刀の名手の見廻組肝煎・桂早之助が、この小太刀で京都・近江屋で龍馬を斬ったと伝える |
おいどんは西郷隆盛でごわす |
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ちと怖いぜよ(^^ゞ
等身大のリアルな龍馬像 |
実寸大の徳川慶喜と西郷隆盛 |
賑わってる館内 |
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近江屋で龍馬が暗殺された瞬間を再現している・・・桂早之助に小太刀で額を割られて絶命・・眉間、腰そして額への三撃めが致命傷となった。 |
寺田屋で幕吏に襲われて以降、材木商・酢屋に滞在していた龍馬が慶応3年(1867年)10月13日に河原町の醤油商・近江屋新助宅に移り住んだ。それから間もない11月15日に陸援隊・中岡慎太郎や土佐藩士・岡本健三郎、画家・淡海槐堂などの訪問を受けている。午後8時頃、龍馬と中岡が話していたところ、十津川郷士と名乗る男達数人が来訪し面会を求めて来た。従僕の藤吉が取り次いだところで、来訪者はそのまま二階に上がって藤吉を斬り、龍馬たちのいる部屋に押し入った。龍馬達は帯刀しておらず、龍馬は眉間を斬られ、次に腰を斬られたが、風邪を引いて厚着だったので致命傷に至らず、最後に額を深く斬られたのが致命傷となり、ほとんど即死に近かったと伝える。 中岡と藤吉も重傷を負うが、藤吉は翌日、中岡は翌々日の17日まで生存して意識もあり、事件の証言を残した。明治3年(1870年)、箱館戦争で降伏した元見廻組の今井信郎が明治政府の取り調べに対し、与頭・佐々木只三郎と自分を含めた部下6人(または7人)が坂本龍馬を殺害したと供述、これが現在では定説になっているが、他に薩摩藩陰謀説、土佐藩陰謀説など諸説がある。 |
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球形砲弾(本物) |
ナポレオン弾(本物) |
解説 |
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幕末の鉄砲(本物) |
解説 |
新撰組の木刀 ※上は天然理心流の木刀 |
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龍馬暗殺に関わった佐々木只三郎の血染めの鎖帷子 |
土方歳三、龍馬記念撮影スポット |
靖国神社より古い日本初の招魂社・霊山護国神社 |
佐々木
只三郎(ささき たださぶろう)は、会津藩士・佐々木源八の三男として生まれる。親戚であった旗本・佐々木矢太夫の養子となる。神道精武流を学び「小太刀日本一」と称され、幕府講武所の剣術師範を勤めたと伝える。京都守護職の会津藩主・松平容保に従う兄・勝任を動かし、清河八郎の策を容れ、文久2年(1862年)、浪士組結成に伴い京都へ上る。只三郎は決裂した清河に抗し、京都残留を決めた近藤勇らを京都守護職の支配下に置くように取り計らった。文久3年(1863年)には江戸へ戻り、麻布で窪田泉太郎などと共に浪士組・清河八郎を暗殺する。元治元年(1864年)には京都見廻組を率い、新撰組と共に尊攘派志士から恐れられ、蛤御門の変にも出動。元見廻組隊士・今井信郎の証言から、慶応3年(1867年)11月15日、京都近江屋での坂本龍馬、中岡慎太郎を暗殺に関与したとされる。戊辰戦争が勃発すると旧幕府軍として鳥羽・伏見の戦いに参戦するが、楠葉(枚方市付近)で腰に銃弾を受けて重傷を負い、和歌山に敗走中紀三井寺で死去。享年35。 |
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こま札 |
露店が出ていて祭りみたいな雰囲気・・恐るべし龍馬伝効果?! |
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本殿 |
坂本龍馬画像 |
木戸孝允(桂小五郎)勅撰碑 |
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桜、さくら、サクラ〜(*^-^*) |
坂本龍馬、中岡慎太郎墓所 |
龍馬、慎太郎も京都の街を眺めとるぜよ?! |
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龍馬、慎太郎の墓は老若男女の参拝者があとを絶ちません・・・龍馬ブーム到来を肌で感じたぜよ。 |
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柔の龍馬、武の慎太郎は、ここから京都の街を眺めながら・・・今、何を思う? |
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池田屋事変殉難烈士の墓 |
こま札 |
旧霊山官修墳墓に烈士1356名が祀られる。 |
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天誅組烈士の墓 |
禁門の変殉難烈士の墓 |
木戸孝允の墓前からの眺め |
桂小五郎(木戸孝允)と幾松(松子) |
京都には、島原、祇園など多くの遊里があり、尊皇派、佐幕派の者たちと芸妓たちと多くの出会いがありました。その代表的な出会いが桂小五郎(木戸孝允)と幾松(松子)です。幕吏(ぱくり)や新撰組に追われていた小五郎をかくまったことから恋が芽生え、後に夫婦となり明治維新を迎えた。桂小五郎は薩長同盟を密約し倒幕を果たす。新政府では、欧米を視察し明治天皇の側近として五箇条の御誓文、版籍奉還・廃藩置県、四民平等、憲法制定と三権分立の確立、二院制の確立、教育の充実などの憲法制定を建言した。明治10年(1877年)2月に西南戦争が勃発しすぐさま鹿児島征討の任にあたりたいと希望した。また大久保利通は、西郷への鎮撫使として勅使の派遣を希望した。伊藤博文はこれらに反対し、結局、徴兵令による国軍が出動し、木戸は明治天皇と共に京都へ出張する。かねてからの病気が悪化し、明治天皇の見舞いも受けるが5月26日、大久保の手を握り締め、「西郷もいい加減にしないか・・」と明治政府と西郷を案じる言葉を残し45才でこの世を去った。木戸の死後、松子は翆香院と号して出家し木戸の菩提を弔った。松子は、明治19年(1886年)4月10日、胃病により病死。享年44才。 |
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木戸孝允(桂小五郎)、松子(幾松)の墓所 |
木戸孝允(桂小五郎)の墓 |
妻・松子の墓 |
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八坂の塔 |
観光客で賑わう「ねねの道」(広台寺) |
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石塀小路 |
かつて京都市内を走っていた京都市電の敷石が石畳に移設された。 |
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石塀小路は情緒ある石畳の小路 |
o(*^▽^*)oあはっ♪ |
八坂神社 |
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オッ!
舞妓はんやんか〜 ヾ(≧▽≦)ノ |
体験はんやけど・・えぇなぁ〜(*^▽^*) |
o(*^▽^*)oえへっ♪ |
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祇園閣 |
円山公園の祇園しだれ桜 |
昭和39年再建の龍馬も慎太郎も花見ぜよ |
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しだれ桜 |
(*^-^*) |
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世に知られるしだれ桜は、ちらっと咲き始め |
八坂神社 |
忠盛灯篭 |
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こま札 |
境内 |
えぇなぁ〜(*^▽^*) |
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花よりたこ焼き?!(^▽^;)爆 |
知恩院 |
知恩院七不思議の一・瓜生石 |
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白川 |
えぇなぁ〜(*^▽^*) |
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祇園白川沿いの桜も、えぇなぁ〜o(*^▽^*)o |
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情緒がある祇園の町並み |
おタヌキさんが、祭神の辰巳大明神 |
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白川に架かる辰巳橋 |
桜の周りは、人だかりやんか〜(^▽^;) |
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もうすぐ桜花繚乱になって花吹雪!?☆⌒(*^∇゜)v |
川端通りを南下 |
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塩小路橋 |
鴨川 |
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京都タワー |
かつて銭取り橋と言われた勧進橋 |
無事帰還!☆⌒(*^∇゜)v |
新撰組隊士・武田 観柳斎(たけだ かんりゅうさい)が暗殺された銭取り橋(勧進橋)・・・武田は文久3年(1863年)冬頃に新選組に参加。甲州流軍学(長沼流)を修める軍学者として近藤勇に重用され、元治元年(1864年)に副長助勤に抜擢される。後に五番隊組長や文学師範、軍事方といった地位に就き、甲州流軍学による調練を担当した。池田屋事変では、古高俊太郎を捕縛するなどの功により褒賞金20両を賜り、禁門の変や明保野亭事件、また永倉新八や斎藤一らが近藤の専横を非難した際には仲裁を務めるなど、軍才を背景に存在感を示すが、巧みな弁舌で近藤などに媚びへつらうなど、武田に対して嫌悪を示す隊士も少なくなかったと伝える。そもそも近藤が専横に走ったのは武田が近藤に隊士は家臣として局長を慕っていると吹き込んだからとする説もある。後に新撰組で洋式調練が採用されるようになると、甲州流軍学の武田は隊内での影響力を失い、伊東甲子太郎や薩摩藩との接触を企てるなど、不穏な行動を示し始める。慶応3年6月22日、伏見竹田街道の鴨川に架かる銭取橋で暗殺された。暗殺者は斎藤や篠原泰之進が関与したと伝えるが、当時2人は御陵衛士に参加していたので別人の可能性もある。
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Tourist
2010.03.22(M)
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