幕末維新の道に龍馬の足あとを訪ねる【暗殺のロケーション】

 

寺田屋〜近江屋(龍馬暗殺の地)〜土佐藩邸跡〜酢屋(海援隊京都屯所)〜池田屋跡(池田屋騒動)〜長州藩邸〜御所〜新撰組屯所跡

 

幕末の動乱・・・倒幕への流れ

維新前、坂本龍馬は天皇を頂点に「列藩会議的議員制(八策)」を主張しました。慶応3年(1867年)11月15日、近江屋で中岡慎太郎と共に見廻組・佐々木只三郎らによって暗殺されました。一方、維新の三傑・西郷隆盛、大久保利通、桂小五郎(木戸孝充)らが約300年近く続いた徳川幕府を倒し、新しい日本を志していました。西郷隆盛、大久保利通は伏見・大黒寺において頻繁に密会し倒幕について話し合ったと言います。彼らが語り合ったという部屋は、現在も大黒寺に残されています。伏見城の廃城後、伏見は歴史の表舞台に登場する事は殆ど無くなりましたが、幕末の動乱期に至り、再び脚光を浴びる事となりました。幕末期は尊王攘夷思想が高まり倒幕という大きな時代の変化期に突入し、坂本龍馬、中岡慎太郎の思いも空しく、遂に鳥羽・伏見の戦いを皮切りに戊辰戦争へと推移します。

伏見長州藩邸跡

長州藩藩祖は毛利輝元で父、元就は豊臣秀吉に仕えた名高い戦国武将。領地は中国地方の大半を占めていました。伏見城造営当初の藩邸は『豊公伏見ノ図』や中井家所蔵の『伏見城絵図』によると城下西端、大名屋敷の一角と毛利橋の東に毛利長門守屋敷が記されている。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで輝元は西軍大将として参戦し敗戦。徳川家康は戦争責任で輝元を隠居させ、その子、秀就に周防と長門の2国、現在の山口県を与えました。江戸時代中期の元禄12年(1699年)の『御香宮文書』には中書島の新地開発を許可されたことが記され、この時期以降に藩邸がこの場所に移転してきたと考えられている。幕末の元治元年(1864年)7月19日未明、長州藩家老・福原越後は伏見  長州藩邸から約500名の兵とともに、京へ進軍しようとしました。その途中、伏見街道の稲荷付近から竹田街道を守る大垣・会津・桑名・鯖江の藩兵と衝突、禁門の変が勃発しました。福原が率いる長州勢は敗走して伏見藩邸に戻り、態勢を整えて打って出ましたが、彦根藩や他の連合軍が京橋から伏見藩邸を砲撃、伏見長州藩邸は焼け落ちた。※伏見観光協会より

伏見長州藩邸跡 伏見長州藩邸跡碑 えぇなぁ〜(*^▽^*)
4月4日から十石舟も運行され、この辺りで桜祭りも開催され出店などで賑やかになります。 伏見口の戦い激戦の地碑

寺田屋

伏見の船宿・寺田屋は薩摩藩の定宿でした。文久2年(1862年)討幕急進派が寺田屋に集まって、決起を企てた「寺田屋騒動」は有名です。又、坂本龍馬の定宿で、お龍さんとの恋宿としても知られています。慶応2年(1866)1月24日、坂本龍馬は寺田屋において伏見奉行所の捕吏に襲撃されますが、入浴中のお龍が気づき裸で二階へ急を知らせ、龍馬は短銃を発射して逃走しました。お龍は、急ぎ帯刀町(納屋町)〜風呂屋町〜紺屋町〜御駕町を走り抜け下板橋を渡り伏見薩摩藩邸へ龍馬の危機を知らせたと伝える。

三十石船乗り場でもある寺田屋浜 坂本龍馬ゆかりの旅籠「寺田屋」
龍馬が詠んだ「世の人は われを何とも 言はばいへ わがなすことは 我のみぞしる」

坂本龍馬は、天保6年(1835年)11月15日、土佐の高知城下に郷士(下士)・坂本八平の二男として生まれた。龍馬が生まれる前夜、母親が龍が天を飛ぶ瑞夢を見て(一説に父が駿馬の母が蛟龍の夢を見たなど他説あり)それに因んで龍馬と名付けられ、幼い龍馬の背には一塊の怪毛があったと伝えられ、妻・お龍も龍馬は背中の黒い毛を大事そうに洗っていたと言っている。土佐藩には上士と下士という武士階級があり、待遇差別が存在し下士は長い間に亘って抑圧された。坂本家は郷士(下士)だったが、元は商家の出で分家の際に才谷屋から多大な土地財産を相続分与を受け、非常に裕福な家だったと伝える。弘化3年(1846年)、12才の時に母・幸が死去し、父・八平の後妻・伊與に養育された。幼年の龍馬は、いつも鼻水をたれ寝小便は11才まで続いた子供だった。近所の子供らに、「坂本の鼻タレ」、「坂本の寝小便タレ」とはやされても反抗もせず、ただ泣くだけで「坂本の泣き虫」とまで言われた。周囲の人たちは、寝小便癖が治らない泣き虫の惰弱者だと思った。龍馬が12才の時、漢学者・楠山庄助の楠山塾に入学したものの、間もなくいじめに遭い抜刀騒ぎを起こし、この先到底見込みがないと退塾させられてしまい、三姉の乙女が武芸や学問を教えたと伝える。・・・龍馬が自分に目覚めるのは剣術だった。14才から高知城下築屋敷の小栗流・日根野弁冶道場に入門して始めた剣術は、みるみる上達し、19才の時に法事目録・一巻を与えられる。江戸へ遊学の為、土佐を発ち北辰一刀流・千葉定吉に入門し、24才の時に北辰一刀流長刀兵法目録を伝授される。龍馬は、剣術によって己の劣等感や屈辱感を打破し、「世の人は われを何とも 言はばいへ わがなすことは 我のみぞしる」と詠んだと思われる。幼少期の龍馬から後に船中八策を元にした「新政府綱領八策」を起草し、日本を新時代へ導く人物になるとは想像もできなかったことだろう・・・

椿と桜 霊山護国神社の招魂碑の子碑・坂本龍馬の碑 龍馬曰く・・
坂本龍馬

幕末、勤皇派(天皇を中心とする政治体制)と佐幕派(徳川幕府を中心とする政治体制)の対立抗争を繰り返していた時に『今こそ、日本は一つにまとまらなければいけない』という大きな視点から新時代を構想していた。龍馬は土佐の城下で生まれ郷士と呼ばれた下級武士の家に育った。幼少の頃は軟弱な少年で11才まで寝小便をしていたと伝え、坂本のお仁王様と呼ばれた姉の乙女に剣術などで鍛えられた。嘉永6年6月3日(1853年)、東京湾の浦賀沖にペリーが来航してから日本国を意識し、文久元年(1861年)、武市瑞山(半平太)が土佐勤王党を結成するとこれに加わったが翌年脱藩。江戸で、幕府の軍艦奉行並・勝海舟に出会い日本の将来は海軍の充実にあるという指針に大いに感銘し単純な攘夷論を捨て海軍修行に励みました。海舟の失脚後、薩摩藩の援助を受けて長崎に日本最初の貿易会社・亀山社中を設立し海運業を開いた。新しい日本の国づくりには、薩摩と長州が手を結ぶ事が重要だと、慶応2年(1866年)、薩長同盟実現に同志の中岡慎太郎と共に奔走。慶応3年(1867年)、脱藩の罪を許され、亀山社中を海援隊と改めて盟主となり世界情勢、貿易の必要性を唱えた。さらに大政奉還構想などを含む世に知られる「船中八策」を提唱、前土佐藩主・山内容堂によって将軍・徳川慶喜に建白され、同年10月、大政奉還が行われ、武士の時代が終わった。しかし、維新を見ることなく同年11月15日、京都近江屋で中岡慎太郎と会談中を見廻組・佐々木只三郎らに襲われ、奇しくも33歳の誕生日に暗殺されました。

坂本龍馬像、薩摩九烈士の碑 龍馬も闊歩したと伝える龍馬通り 宇治川派流と酒蔵
伏見別院(伏見御坊/伏見幼児園)は鳥羽伏見の戦の時に会津藩の先発隊約200名が駐屯 東西南北どこから来ても突き当たる辻の四つ当たり
幕末の風情を今に残す酒蔵 伏見奉行所跡の中学校にある維新戦跡碑
伏見奉行所跡

関が原の戦後の慶長5年(1600年)9月18日、徳川家康の伏見城入城後に桃山清水谷(桃山御陵石段下)に奉行所を設置しました。松平下野守忠吉の支配下に属し、臣舎人源左衛門に司した為、慶長の動乱によって荒廃した伏見は次第に回復し慶長7年(1602年)12月、伏見城在番制を定めその指揮は京都所司代の管轄とされました。慶長12年(1307年)4月29日、掛川城主・松平隠岐守定勝を初代伏見城代に任命し「伏見は天下概要の地なるを以ってここに在城せんと欲するも思う所ありて駿府を坐城とせしかば伏見の警備の為には譜第勇敢の士を以って当たらしめ武具兵糧の貯えたり若し不慮の事あらんには汝固く守り怠る勿れ。」と武器、鎧などを優遇しました。寛永2年(1625年)7月、時の奉行・小堀遠江守が富田信濃守邸跡地に奉行所を移転したと伝える。・・・奉行所が廃止される慶応3年(1867年)12月迄、44代奉行・永井主水正(もんどのしょう)が赴していました。翌年正月2日、会津・桑名藩の幕軍が京橋に上陸し大阪町の本願寺別院(伏見幼児園)に入り、新撰組は伏見奉行所に布陣していた。一方、薩長軍は西郷隆盛の指揮下にあり御香宮東方の桃山筑前台(龍雲寺)に大砲列陣を布いて伏見奉行所を眼下に見下ろしていた。3日、午後4時頃、鳥羽に於いて薩摩藩が機先を制し大砲を一発を発射。この砲声により高台の大砲列陣が一斉に伏見奉行所に向けて砲撃を開始。会津藩、新撰組など応戦準備をする間もなく砲火を浴び大火を起こした。旧幕府軍も新撰組などの活躍で現JR桃山駅辺り迄反撃し大接戦となったが、大山弥助(大山厳元帥)が大ニ砲隊を率いて来援し薩長軍が勝利し旧幕府軍は体制を立て直すべく淀へ退却した。この戦いで伏見は奉行所始め、大手筋以南は殆ど焼滅しました。

えぇなぁ〜(*^▽^*) 当時の石垣の一部が現存する伏見奉行所跡

旧幕府軍は伏見奉行所で軍議を開き、表門は会津藩兵、南北門は伝習兵、新撰組を京町筋に配備する布陣などが決められた。夕刻、鳥羽方面の砲声が合図となり御香宮より大砲が打ち掛けられ、砲撃戦が繰り広げられた。旧幕府軍の会津藩兵、新撰組は奮闘しましたが、長州軍の援軍を得た薩摩軍と最新の銃や大砲などの兵器に撃破され体制を整えるべく淀城を目指して退却しました。

えぇなぁ〜(*^▽^*) 新撰組が布陣した京町通り・・御香宮に布陣した薩長軍と激戦を伝える格子窓に残る弾痕
桜が咲き始めている琵琶湖疏水 一日の無事を祈って合掌
えぇなぁ〜(*^▽^*) おけいはん(京阪電車)と稲荷山 えぇなぁ〜(*^▽^*)
えぇなぁ〜(*^▽^*) 京阪・深草駅辺り えぇなぁ〜(*^▽^*)
桜のトンネル\(●⌒∇⌒●)/ 鴨川左岸の師団街道を北上・・・
七条大橋 川端通りを北上・・ 鴨川としだれ桜
えぇなぁ〜(*^▽^*) 正面大橋 鴨川
任天堂発祥の地・任天堂正面営業所(昭和8年当時のアールデコ調のレトロな社屋) 高瀬川沿いの御茶屋さん
お龍が手伝った七条新地の扇岩跡 懐かしい!若かりし頃、随分お世話になった梅湯 高瀬川も桜色

龍馬は七条新地の旅館・扇岩からお龍を連れ出し、伏見の寺田屋に奉公させる為に寺田屋の女将・お登勢に引き合わせた。お登勢はお龍をお春と呼ばせ、自分の養女分として面倒をみた。

高瀬川船廻しの場跡 こま札 えぇなぁ〜(*^▽^*)
風情ある桜と御茶屋さんと高瀬川・・・今も時が止まったような風情が懐かしい・・ 高瀬川
河原町通り名の由来になった源融 河原院跡 こま札 鴨川
五条大橋 河原町五条交差点 牛若丸と弁慶のモニュメント
高山京都市長の筆になる扇塚 木屋町を北上・・・ えぇなぁ〜(*^▽^*)
龍馬が馴染みだった鳥弥三 ・・・ 四条大橋
中村半次郎寓居跡、鳥新跡(右端) 高瀬川の桜も・・えぇなぁ〜(*^▽^*) 古高俊太郎寓居跡(しる幸)、谷千城寓居跡

石碑など所在を示す痕跡はないのですが龍馬が暗殺される直前、風邪気味だったので軍鶏(シャモ)鍋が食べたいから軍鶏を買ってきてくれと峰吉に頼んだ。峰吉が軍鶏を買いに来たのが当時、四条木屋町東南にあった鳥新です。その隣には、薩摩藩士・中村半次郎の寓居がありました。

古高俊太郎寓居跡碑 こま札 中岡慎太郎寓居跡

元治元年(1864年)6月5日の朝、新撰組は古道具屋桝屋を営み桝屋喜右衛門と名乗っていた古高俊太郎を捕らえ、火薬や武器などを押収した。壮絶な拷問にかけて来る6月20日前後の夜に御所周辺に火をかけ参内する京都守護職・松平容保らを殺害し天皇を長州に連れ去るという計画を自白させた。それにより新撰組が一躍世に知られた池田屋騒動が起こりました。

中岡慎太郎

土佐藩大庄屋の家に生まれる。文久元年(1861)、武市瑞山の土佐勤王党に加盟。弾圧が始まると脱藩し、長州へ。蛤御門の変にも参加した。その後、薩長同盟の構想を得、坂本龍馬と共に奔走して成功。慶応3年(1867年)脱藩を許され、京都で陸援隊を組織し、土佐藩の遊軍とする。大政奉還の翌月の11月15日、近江屋で坂本龍馬と共に見廻組・佐々木只三郎らに襲われ3日後に死亡しました。

中岡慎太郎寓居跡碑 河原町周辺の幕末史跡めぐり案内図 龍馬が暗殺された近江屋跡
坂本龍馬・中岡慎太郎遭難の地碑 こま札 えぇなぁ〜(*^▽^*)
土佐藩邸跡

土佐藩は、薩摩(鹿児島県)、長州(山口県)と並んで幕末政局の主導権を握った雄藩で坂本龍馬、中岡慎太郎、後藤象二郎、武市瑞山(半平太)らが活躍した。藩邸は、土佐藩の活躍の京都における根拠地であった。

本間精一郎寓居跡 本間精一郎寓居跡碑 土佐藩邸跡(立誠小跡)
角倉了以翁顕彰碑(土佐藩邸跡/立誠小跡) 土佐藩邸跡(立誠小跡) 土佐藩邸跡碑
こま札 幕末当時は土佐藩邸内にあり、信者の参拝に藩邸通り抜けを許されていた岬神社(土佐稲荷)
こま札 龍馬もおるぜよ(*^-^*) 本殿
独身時代のお龍寓居跡 独身時代のお龍寓居跡碑 先斗町
解説 桜色に染まる高瀬川 (*^▽^*) えぇなぁ〜
後藤象二郎(象次郎/しょうじろう)

義叔父・吉田東洋の少林塾にて学び、安政5年(1858年)に東洋の推挙により幡多郡奉行、文久元年(1861年)には御近習目付、その後は普請奉行として活躍するが、文久2年に吉田が暗殺されると失脚。文久3年(1863年)に藩政に復帰し、前藩主・山内容堂の信頼を得ると共に、江戸の開成所にて蘭学や航海術、英学も学ぶ。元治元年(1864年)、大監察に就き公武合体の急先鋒として、義叔父・吉田東洋を暗殺した武市瑞山(半平太)らを切腹させるなど土佐勤王党を弾圧した。慶応3年(1867年)、政治姿勢を攘夷論に転換。尊皇派の坂本龍馬と会談し、坂本の提案とされる船中八策に基づき、将軍・徳川慶喜の大政奉還を提議。薩摩藩の賛同も得て薩土盟約の締結につながる。しかし、容堂は武力発動の可能性を持つ盟約に難色を示し、また長崎で起きたイギリス人殺害事件で海援隊士に容疑がかかったイカルス号事件の処理で土佐に乗り込んできた英国公使パークスとの交渉を命じられるなど時間を費やしたため、倒幕路線を歩む薩摩との思惑のずれから盟約は解消された。その後も大政奉還への努力を続け、10月3日に容堂と共に連署して大政奉還建白書を提出。10月14日に慶喜がこれを受けて大政奉還を行った。後藤からの連絡を龍馬が酢屋で聞いて大層喜んだと伝える。これらの功によって中老、執政として550石に加増され、役料を合わせて計1500石に栄進。慶応4年(1868年)、パークス襲撃事件鎮圧の功により、中井弘と共に英国ビクトリア女王から名誉の宝剣を贈られている。維新の功により賞典禄1000石を賜る。※後藤は龍馬の大政奉還策を容堂に進言し、同策を藩論として大政奉還の実現に寄与した。しかし、同策が龍馬の発案である旨を述べなかった事から、後藤が龍馬の功績を横取りしたという汚名も蒙っている。この進言後、脱藩罪に問われていた龍馬が特赦されたのは後藤の働きによると伝える。※Wikipediaより

この辺り後藤象二郎寓居跡 この辺り彦根藩邸跡 彦根藩邸跡碑
えぇなぁ〜(*^▽^*) 海援隊京都本部だった酢屋 坂本龍馬寓居跡碑

龍馬が寺田屋で幕吏に襲われて以降、近江屋で遭難する直前まで身を寄せていた材木商・酢屋嘉兵衛宅。海援隊京都屯所も置かれていた。

東海道五十三次の起点・三条大橋

最初の三条大橋は何時頃に架けられたか定かでなく天正18年(1590年)、豊臣秀吉が増田長盛を奉行として改築したと伝える。紫銅で作られた擬宝珠(ぎぼし)を冠した長さは101m、幅約7mの石柱木造大橋でした。現在も風情のある橋として広く親しまれ欄干の擬宝珠14個は当時の物が使われている。東海道五十三次の起点であり、西詰にはその事を示す里程元標や弥次郎兵衛、喜多八像もあります。三条大橋が架かる三条河原で豊臣秀次の一族39人が処刑され、また天下の盗賊・石川五右衛門が釜ゆでにされたのもこの三条河原と伝える。明治元年(1868年)、新撰組局長・近藤勇は下総国(千葉県)流山で大久保大和と名乗って倒幕軍に出頭したが薩長軍にいた元・御陵衛士(元・新撰組隊士)によって近藤勇だと発覚し板橋の刑場で斬首刑になり首は京都に送られて三条大橋の河原に晒されました。現在の橋は昭和25年(1950年)に改修されました。

えぇなぁ〜(*^▽^*) 東海道五十三次の起点だった三条大橋 弥次・喜多像の場は生首の晒し場だった(>_<)
旅の無事を願って撫でられた撫で石 解説 池田屋騒動の刀痕の残る天正年間の擬宝珠
解説 天正18年(1590年)の年号を刻む橋石柱と高札場跡 解説
三条小橋 高瀬川 解説
えぇなぁ〜(*^▽^*) 大村益次郎、佐久間象山遭難之碑道標 解説
新撰組の名を世に知らしめた池田屋騒動

文久3年(1863年)8月18日の政変後、京都では公武合体派が勢力を伸ばし尊王攘夷派が圧迫され、長州・土佐・肥後藩などの尊王攘夷派達が勢力回復をめざして中川宮や京都守護職・松平容保の暗殺計画を企てた。元治元年(1864年)年6月5日(祇園祭宵々山)、近藤、沖田、永倉、藤堂、谷、近藤周平(養子)、原田の7人は三条小橋西入ルの旅籠・池田屋において会合中の尊王攘夷派達30余名を襲撃。後、縄手付近を探索していた土方歳三らも加勢し2時間ほどの斬り合いだったという。新撰組に襲撃され長州藩の吉田稔麿、杉山松助、土佐藩の望月亀弥太、肥後藩の宮部鼎蔵、松田重助ら多数の死傷者が出ました。会合に参加するはずだった長州藩の桂小五郎は近くの対馬藩邸にいて無事だった。新選組では奥沢栄介、新田革左衛門、安藤早太郎が亡くなり、藤堂平助と永倉新八らが負傷しました。この時に沖田総司が吐血したとも伝わります。主人・池田屋惣兵衛も翌日捕まり、六角獄舎で獄死しました。捕縛された古高俊太郎も、六角獄舎で獄死しました。1ヶ月後の禁門の変を誘発する一因となり、その後の政治情勢に多大な影響を与える事件となった。維新が1年遅れたとも1年早まったとも言われています。世に新撰組の名を一気に高めた事件となりました。

池田屋跡 池田屋騒動之碑 吉村寅太郎寓居跡、武市瑞山(半平太)寓居跡
吉村寅太郎寓居跡 解説 えぇなぁ〜(*^▽^*)

吉村寅太郎は武市瑞山らと同じ土佐の郷士で武市の隣に住まいし行き来しながら意見を交わした。天誅組に参加し大和の代官所を襲撃し戦死

池田屋事変の際に新撰組・土方隊が探索した旅館「四国屋」があった武市瑞山(半平太)寓居跡 佐久間象山寓居跡

池田屋事変の際に土方隊が乗り込んだ旅館「四国屋」があった場所です。武市瑞山の住んでいた料亭「丹虎」は現在「金茶寮」となっていますが、幕末には丹虎という名前でその離れの部屋が瑞山の住まいでした。隣に住んでいた吉村寅太郎宅と裏手で行き来ができ同士達の出入りも激しく密議もしていました。

加賀藩邸跡 こま札 桂小五郎像(長州藩邸跡)
長州藩邸跡(京都ホテルオークラ)・・天気が一変し吹雪いてきたぁ〜(@_@) 寒うぅぅ〜(>_<) 長州藩邸跡碑
桂小五郎(木戸孝允)

薩長同盟を密約し倒幕を果たす。新政府では、欧米を視察し明治天皇の側近として五箇条の御誓文、版籍奉還・廃藩置県、四民平等、憲法制定と三権分立の確立、二院制の確立、教育の充実などの憲法制定を建言した。明治10年(1877年)2月に西南戦争が勃発しすぐさま鹿児島征討の任にあたりたいと希望した。また大久保利通は、西郷への鎮撫使として勅使の派遣を希望した。伊藤博文はこれらに反対し、結局、徴兵令による国軍が出動し、木戸は明治天皇と共に京都へ出張する。かねてからの病気が悪化し、明治天皇の見舞いも受けるが5月26日、大久保の手を握り締め、「西郷もいい加減にしないか・・」と明治政府と西郷を案じる言葉を残し45才でこの世を去った。

桂小五郎、幾松寓居跡 桂小五郎、幾松寓居跡碑 大村益次郎寓居跡
大村益次郎、佐久間象山遭難之碑

佐久間象山は公武合体、開国、遷都論を主張し尊攘派の反感をかい三条小橋から木屋町に入ってすぐの所で家影から二人の刺客に左右から斬りかけられ鞭で刀を払い除けて馬を走らせ御池通りを越えたが、8、9人の刺客に行く手を阻まれ応戦したが足を斬られ落馬し全身に13ヵ所の傷を受けて絶命しました。肥後の河上彦斎らに暗殺されたとされます。大村益次郎は周防出身の兵学者で戊辰戦争の軍事指導、明治政府の兵部大輔としても活躍した人物だが、明治2年(1869年)、長州の刺客に木屋町の宿舎で襲撃を受けて二ヵ月後に刀傷での敗血症で亡くなりました。

大村益次郎寓居跡碑 大村益次郎遭難之碑 佐久間象山遭難之碑
高瀬川一之舟入り跡(角倉了以邸跡)

高瀬舟で運んだ荷物の積み降ろし、高瀬舟の離合、待機など運行調節をする為に設けられた舟溜所を舟入りと称し、二条〜五条間に九つの舟入りがあったと伝わります。高瀬川の基点にあたる木屋町通り二条下ルに一之舟入跡が現存し十五石積の復元された高瀬舟が係留され、史跡に指定されています。池田屋騒動の際に逃走した土佐の望月亀弥太がここで自害したと伝えます。

えぇなぁ〜(*^▽^*) 高瀬川一之舟入跡 こま札
高瀬川一之舟入り跡(角倉了以邸跡)

高瀬舟で運んだ荷物の積み降ろし、高瀬舟の離合、待機など運行調節をする為に設けられた舟溜所を舟入りと称し、二条〜五条間に九つの舟入りがあったと伝わります。高瀬川の基点にあたる木屋町通り二条下ルに一之舟入跡が現存し十五石積の復元された高瀬舟が係留され、史跡に指定されている。池田屋騒動の際に逃走した土佐の望月亀弥太がここで自害したと伝えます。

高瀬川一之舟入跡の高瀬舟と桜・・そして、吹雪(@_@;) 寒うぅぅ〜(>_<) えぇなぁ〜(*^▽^*)
解説 角倉了以邸跡 角倉了以邸跡碑
明治8年(1875年)、島津源蔵が設立した計測器・精密機器メーカー島津製作所創業之地 角倉了以別邸跡
角倉了以別邸跡碑 山縣有朋第二無燐庵跡 山縣有朋第二無燐庵跡碑

慶長16年(1611年)、豪商・角倉了以の別邸として作られた。その後、明治の元勲・山縣有朋の別邸・第二無鄰菴となった。

舎蜜局跡 解説 木戸孝允旧宅跡
木戸孝允旧宅跡碑(二ヵ所ある) 明治天皇行幸所木戸邸

木戸孝允(桂小五郎)は、明治10年(1877年)2月に西南戦争が勃発し、すぐさま鹿児島征討の任にあたりたいと希望した。また大久保利通は、西郷への鎮撫使として勅使の派遣を希望した。伊藤博文はこれらに反対し結局、徴兵令による国軍が出動し、木戸は明治天皇と共に京都へ出張する。かねてからの病気が悪化し、木戸邸に明治天皇の見舞いも受けるが5月26日、大久保の手を握り締め、「西郷もいい加減にしないか・・」と明治政府と西郷を案じる言葉を残し45才でこの世を去った。

頼山陽山山紫水明処(らいさんようさんしすいめいしょ:国指定史跡)

三本木は遊所とはいえ料理屋が多く江戸後期は文人墨客の交流場だった。儒学者・頼山陽が晩年に住まいした藁葺き、平屋の詫びな邸宅。ここで日本外史などの執筆活動に励み、詩会や茶会を催した。書斎は鴨川に面して東山を望む風光明媚な景観に因んで山紫水明処と呼ばれた。安政の大獄で死んだ頼三樹三郎は山陽の子。後に山紫水明処の隣に摂津高槻藩士で詩人の藤井竹外が住む。竹外は山陽の弟子だった。

頼山陽山山紫水明処 立命館草創の地(吉田屋跡)

立命館草創の地(吉田屋跡)

慶応3年(1867)6月23日、三本木の吉田屋で坂本龍馬、中岡慎太郎も同席して薩土盟約が結ばれた。薩土盟約は、薩摩藩と土佐藩が大政奉還を実現する為に手を結ぶ約束をしたもので武力倒幕を押し進める薩摩が、土佐を敵にしたくないという思いで盟約を結んだとも伝える。龍馬たちは、土佐藩の方針となった大政奉還を実現する為に、この盟約を成立させた。また吉田屋跡には立命館草創の地の碑が建っている。西園寺公望の秘書官・中川小十郎は明治33年(1900年)年5月、法律・政治の二科を置く私立京都法政学校(立命館大学前身)を開校した。料亭清輝楼を仮校舎として講義が行われ翌年12月、広小路河原町に移転した。清輝楼は吉田を後継した料亭で平成8年(1997年)まで大和屋旅館として存続した。ここは桂小五郎捕縛未遂の地でもある。

清輝楼を仮校舎とした立命館(吉田屋跡) 大久保利通寓居跡 大久保利通寓居跡碑
京都御所

東洞院土御門(ひがしのとういんつちみかど)内裏の一でしたが南北朝時代に北朝の皇居となり南北統一後は正統天皇の御座所として明治維新まで続きました。中世には兵乱と皇室の哀徴により大いに荒廃し当初は一町(109m)四方の小さな御所でしたが織田信長によって永禄年間に修理され、次いで豊臣秀吉、徳川家康によって周囲を整備拡張され旧観に復しました。江戸時代以降に度々火災にかかり光格天皇は寛政2年(1790年)、平安京内裏の古制に則って本格的に再建され現在の建物は安政3年(1858年)の再建ですが寛政造営の旧規に拠って造られていますが平安京内裏そのままではなく主要な部分は如実に再現され建築史的に注目されています。東西約249m、南北約448mに亘る広域内には紫辰殿を始め清涼殿(昼の御座、夜の御殿、殿上の間)など多くの優雅な建物があり内部の調度品と共に王朝時代の宮廷生活を偲ばせます。

御所の桜も見ごろで綺麗やんか〜☆⌒(*^∇゜)v
明治天皇の幼名・祐宮に因んで、名付けられたと伝える祐ノ井、明治天皇生誕の地(中山忠熊邸跡)
こま札 また吹雪いてキタぁぁ〜(>_<) 御所名物・一筋に伸びる自転車の轍
猿ヶ辻(つくばいの辻)

京都御所の東北角に位置し御所の表鬼門にあたる為、築地塀を入り込ませ、築地屋根下には、烏帽子をつけ、御幣をかついだ神猿が金網の中に祀られている。猿が夜な夜なここから抜け出して悪さをしないように金網で囲ってあるとか・・この辻は古くは、つくばいの辻と称したが、神猿に因んで猿ケ辻と呼ばれる。文久3年(1863年)5月20日、攘夷派の公家・姉小路公知(あねこうじきんとも)が、この辺りで暗殺された。(猿ヶ辻の変)

猿ヶ辻 表鬼門を守護する御幣を担いだ神猿 こま札
桜吹雪と雪吹雪 慶応2年(1866年)1月、龍馬の仲立ちで薩長同盟が締結した薩摩藩邸跡門(同志社大学)
蛤御門

本来は新在家門と呼ばれたが、天明8年(1788年)の大火によって初めて開門され「焼けて口開く蛤」に例えられ蛤御門と呼ばれました。文久3年(1863年)、大和行幸の計画が失敗し禁門の護衛を解かれて憤慨した長州藩は元治元年(1864年)7月19日、朝廷に強訴せんと大挙して御所に迫ったが御所九門を守備する会津、桑名、薩摩などの藩兵に撃退されました。禁門の変、 元治甲子の変とも言います。両軍が大砲で応戦しその砲声などに公卿達は慌てふためいたとされます。今でも御門の門柱に弾痕が残ります。この門から東へ行った所にある樹齢三百余年の椋(むく)の巨木は長州藩家老・来島又兵衛がこの木元で戦死したとされる場所で戦いは一日で終わりますが、京都は三日三晩の大火となり多くの民家が焼失し「鉄砲焼」とも言われます。幕末騒乱時、勤皇倒幕を口にする不逞の輩が横行し市民に多大な不安や危害を加え長州勢による蛤御門の戦いは武力によって市中を戦火の巷と化せし最も愚行だと言われ破れた長州藩は朝敵となりました。

蛤御門(新在家門) 門柱に残る不自然な弾痕
蛤御門碑 こま札 えぇなぁ〜(*^▽^*)
京都守護職屋敷跡

京都守護職は江戸末期の文久2年(1862年)、京都の治安維持を主務とし朝廷の動向探索、尊攘志士取締などの目的で設立された幕府の役職で京都所司代、町奉行などの上層部でした。当初、島津久光(ひさみつ)を守護職に就けようとしましたが外様大名をこの任に就けると政治混乱を招くとして福井藩主・松平春嶽(しゅんがく)に依頼しますが辞退され文久2年(1862年)8月1日、会津藩主・松平容保(かたもり)が拝命する事になりました。孝明天皇から絶大な信頼を得ていた容保が後に朝敵とされ会津戦争(鳥羽伏見の戦い/戊辰戦争)に至る悲劇の始まりとなりました。当初、黒谷の金戒光明寺に設立されましたが文久3年(1863年)末、当地に移転し大政奉還、小御所会議などで慶応3年(1867年)12月に廃止され跡地に京都市中取締所が設けられ明治元年(1868年)2月に京都裁判所に改められ次いで京都府庁と改称し現在に至ります。

京都守護職屋敷跡(京都府庁) 明治天皇行幸碑 京都守護職屋敷跡碑
解説 遊歩道など整備された堀川
福井藩邸跡(国際ホテル) こま札 橋本佐内寓居跡
こま札 慶応3年(1867年)10月14日、徳川慶喜が大政奉還を奏上した二条城
新撰組西本願寺屯所

蛤御門の変で惨敗して西本願寺に逃げ込んだ長州兵を広如上人が法衣を着せて逃がそうとした事に立腹。会津藩兵と共に西本願寺を焼き払おうとしましたが、一橋卿の仲裁と隊士が130名を越え壬生の屯所が手狭だった事もあり、元冶2年(1865年)、本堂の北にあった600畳の北集会所、太鼓楼などを占拠し壬生屯所から移転しました。西本願寺と長州藩との関係も牽制した一石二鳥の屯所移転とされ北集会所(現在は姫路市(亀山)本徳寺に)、太鼓楼が屯所となり殺生を禁じた寺院内では拷問、切腹、斬首に加え境内では、剣術、大砲の訓練、実弾射撃までもが行われ隊士の体力をつける為に鶏、豚を飼い悪臭が漂い屠殺される家畜の声が寺中に響くなど参拝の門信徒、僧侶らを震撼させた。困り果てた西本願寺は会津藩公用方に改善要望を再三に出していました。江戸時代末期に姫路市の(亀山)本徳寺が火災で焼失した為、西本願寺から屯所跡(北集会所)などを移築したので柱には刀傷などが多数残っています。明治維新後、新撰組結成時からの隊士・島田魁が本願寺の守衛を勤めて太鼓番をしていたと伝える。

吹雪く中を堀川通りを南下中・・(>_<) 太鼓楼 無っ茶、吹雪いてキタぁぁ〜(>_<)
新撰組不動堂村屯所

新撰組が西本願寺から不動堂村へ屯所を移転したのは、近藤らが幕府直参になった5日後の慶応3年(1867年)6月15日で移転に際し、土方歳三の指示で吉村貫一郎(映画「壬生義士伝」中井貴一が演じた主人公)が西本願寺との交渉の末、建築費並びに諸経費を西本願寺が負担する事になったと伝わります。不動堂村屯所は興正寺の下屋敷ともいわれ屯所の広さは1万uの大名屋敷並の規模を持ち、表門、高塀、玄関、長屋、使者の間、近藤、土方ら幹部の部屋、平隊士の部屋、客間、馬屋、物見中間と小者の部屋を構え大風呂は一度に30人が入れたそうです。ここに居たのは慶応3年(1867年)6月15日〜屯所が伏見奉行所へ移される同年12月12日までの半年足らずでした。近藤勇の妾宅が屯所近くの堀川通塩小路上ル辺りにあったと伝える。

世界文化遺産・西本願寺 不動堂村屯所跡(リーガロイヤルホテル辺り) 不動堂村屯所跡碑
屯所があった不動堂村所縁の明王院不動堂 縁結びの道祖神社 明王院不動堂
山切り模様に誠・・新撰組仕様の提灯 吹雪いたり止んだりの中、新油小路(新堀川通)を伏見へ南下中・・2℃の表示が!!!寒うぅぅ〜(>_<)

Tourist  2010.03.29(M)

 

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