幕末維新の道に龍馬の足あとを訪ねる【熱かった幕末の京都】

 

寺田屋〜龍馬、幕末関連石碑〜土佐藩邸跡〜酢屋(海援隊京都屯所)〜池田屋跡(池田屋騒動)〜長州藩邸〜木戸孝允旧宅跡

 

龍馬が駆けた街・伏見・・・坂本龍馬とお龍

京都の玄関口であった伏見に、龍馬が信頼したお登勢が女将として切り盛りする寺田屋がありました。お登勢は面倒見のいい女性で龍馬は後に妻となるお龍を預けた。お龍は安政の大獄で六角牢に投獄されて死亡した青蓮院宮の侍医・楢崎将作の養女でした。慶応2年(1866年)1月24日、龍馬は、寺田屋において伏見奉行所の幕吏に急襲されますが、お龍の機転によって危うく難を逃れました。龍馬は勝気な姉の乙女に育てられた為か、勝気で行動的な女性が好みだったようです。お登勢もお龍もそんな性格の持ち主だったと言われます。信頼できる女性が待つ宿があり、酒が美味い伏見は龍馬が愛した第二の故郷だったかもしれません。

寺田屋

伏見の船宿・寺田屋は薩摩藩の定宿でした。文久2年(1862年)討幕急進派が寺田屋に集まって、決起を企てた「寺田屋騒動」は有名です。又、坂本龍馬の定宿で、お龍さんとの恋宿としても知られています。慶応2年(1866年)1月24日、坂本龍馬は寺田屋において伏見奉行所の捕吏に襲撃されますが、入浴中のお龍が気づき裸で二階へ急を知らせ、龍馬は短銃を発射して逃走しました。お龍は、急ぎ帯刀町(納屋町)〜風呂屋町〜紺屋町〜御駕町を走り抜け下板橋を渡り伏見薩摩藩邸へ龍馬の危機を知らせたと伝える。

坂本龍馬、お龍ゆかりの旅籠「寺田屋」 坂本龍馬像、薩摩九烈士の碑
霊山護国神社の招魂碑の子碑・坂本龍馬の碑 竹田街道の京橋に立つ伏見口の戦い激戦の地碑
伏見長州藩邸跡

長州藩藩祖は毛利輝元で父、元就は豊臣秀吉に仕えた名高い戦国武将。領地は中国地方の大半を占めていました。伏見城造営当初の藩邸は『豊公伏見ノ図』や中井家所蔵の『伏見城絵図』によると城下西端、大名屋敷の一角と毛利橋の東に毛利長門守屋敷が記されている。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで輝元は西軍大将として参戦し敗戦。徳川家康は戦争責任で輝元を隠居させ、その子、秀就に周防と長門の2国、現在の山口県を与えました。江戸時代中期の元禄12年(1699年)の『御香宮文書』には中書島の新地開発を許可されたことが記され、この時期以降に藩邸がこの場所に移転してきたと考えられている。幕末の元治元年(1864年)7月19日未明、長州藩家老・福原越後は伏見  長州藩邸から約500名の兵とともに、京へ進軍しようとしました。その途中、伏見街道の稲荷付近から竹田街道を守る大垣・会津・桑名・鯖江の藩兵と衝突、禁門の変が勃発しました。福原が率いる長州勢は敗走して伏見藩邸に戻り、態勢を整えて打って出ましたが、彦根藩や他の連合軍が京橋から伏見藩邸を砲撃、伏見長州藩邸は焼け落ちた。※伏見観光協会より

三十石船乗り場でもある寺田屋浜 伏見長州藩邸跡 伏見長州藩邸跡碑
宇治川派流と酒蔵 幕末の風情を今に残す酒蔵・・・枡形道を龍馬もクネクネと闊歩しただろうな・・・
伏見土佐藩邸跡

寛文10年(1670年)の『山城国伏見街並近郊図』に南浜三丁とあり、その東部に松平土佐守屋敷と記されています。この屋敷は土佐藩邸のことで『伏見大概記』には土佐藩は塩屋町で3軒分、南浜町で1軒分の町役を負担していたことから、塩屋町での役割が高かったといえます。町役とは物や労働力を負担することで税金のひとつ。南浜町の藩邸には藩主や正室・側室・腰元らの生活をする「御殿」はなく、家臣の生活や労働の場であったと考えられます。このあたりは幕府の公用や船着き場に関連した人や物資の輸送を担った伏見伝馬所がありました。

酒蔵 伏見土佐藩邸跡 伏見土佐藩邸跡碑
会津藩駐屯地跡

幕末の慶応4(1868)年1月2日、鳥羽伏見の戦いが始まる前日夕刻、会津藩先鋒隊約200名が伏見京橋に上陸、伏見御堂を宿陣としました。翌3日、薩摩藩との間で小競り合いをしている最中の午後4時頃、鳥羽方面から聞こえた一発の砲声に触発され、御香宮の東の高台に据えた薩摩藩の大砲が火を噴き、伏見奉行所を攻撃したことから伏見の町でも戦いが始まりました。本堂の畳を楯に銃撃戦があったともいわれ、建物は大きな損害を受けたと伝える。

東西南北どこから来ても突き当たる辻の四つ当たり 伏見別院(伏見御坊/伏見幼児園)は鳥羽伏見の戦の時に会津藩の先発隊約200名が駐屯
伏見奉行所跡

関が原の戦後の慶長5年(1600年)9月18日、徳川家康の伏見城入城後に桃山清水谷(桃山御陵石段下)に奉行所を設置しました。松平下野守忠吉の支配下に属し、臣舎人源左衛門に司した為、慶長の動乱によって荒廃した伏見は次第に回復し慶長7年(1602年)12月、伏見城在番制を定めその指揮は京都所司代の管轄とされました。慶長12年(1307年)4月29日、掛川城主・松平隠岐守定勝を初代伏見城代に任命し「伏見は天下概要の地なるを以って、ここに在城せんと欲するも思う所ありて駿府を坐城とせしかば伏見の警備の為には、譜第勇敢の士を以って当たらしめ武具兵糧の貯えたり若し不慮の事あらんには、汝固く守り怠る勿れ。」と武器、鎧などを優遇しました。寛永2年(1625年)7月、時の奉行・小堀遠江守が富田信濃守邸跡地に奉行所を移転したと伝える。・・・奉行所が廃止される慶応3年(1867年)12月迄、44代奉行・永井主水正(もんどのしょう)が赴していました。翌年正月2日、会津・桑名藩の幕軍が京橋に上陸し大阪町の本願寺別院(伏見幼児園)に入り、新撰組は伏見奉行所に布陣していた。一方、薩長軍は西郷隆盛の指揮下にあり御香宮東方の桃山筑前台(龍雲寺)に大砲列陣を布いて伏見奉行所を眼下に見下ろしていた。3日、午後4時頃、鳥羽に於いて薩摩藩が機先を制し大砲を一発を発射。この砲声により高台の大砲列陣が一斉に伏見奉行所に向けて砲撃を開始。会津藩、新撰組など応戦準備をする間もなく砲火を浴び大火を起こした。旧幕府軍も新撰組などの活躍で現JR桃山駅辺り迄反撃し大接戦となったが、大山弥助(大山厳元帥)が大ニ砲隊を率いて来援し薩長軍が勝利し旧幕府軍は体制を立て直すべく淀へ退却した。この戦いで伏見は奉行所始め、大手筋以南は殆ど焼滅しました。

伏見奉行所跡 伏見奉行所跡碑 伏見工兵第十六大隊跡碑
伏見奉行所遺構の石垣 復活した常盤御前就捕処碑 新撰組が布陣した京町通り
格子窓に残る激戦を伝える弾痕 伏見奉行所と僅か数百メートル、目と鼻の先の御香宮に薩摩軍が陣取った。

伏見奉行所と目と鼻の先の御香宮に薩摩藩が布陣し境内に大砲4門を敷設。夕刻、鳥羽方面の砲声が合図となり御香宮より大砲が打ちかけられ、砲撃戦が繰り広げられました。新撰組も応戦し大砲一発が御香宮に届き、薩摩軍にも負傷者を出しました。

薩摩藩が布陣し境内に大砲4門を敷設 伏見の戦跡碑
神鑒(かん)静井(石井)と御香水碑 日本名水百選の一「御香水」 本殿
寺田屋騒動と大黒寺

文久2年(1862年)3月16日、薩摩藩々主・島津久光は率兵(1000名)して自らが上洛し4月10日、大阪藩邸に入った。これを機に尊攘派の志士らは檄(げき)をとばして同士、250人程が参集し、王政復古の魁(さきがけ)にしようと画策した。                               「関白・九条尚忠と所司代・酒井忠義を襲撃し、相国寺獅子王院に幽閉されている前青蓮院宮尊融法親王を救出し、宮を奉じて参内する。         そして、久光に滞京の詔(みことのり)を賜り、三百諸侯に激し、その上京を促す。                                                                                          その上で集議によって、国是を決し、もし幕府が朝命を拒む時は、違勅の罪を責めて立ちどころに誅伐を加える。」という激しい内容でした。   しかし、島津久光は公武合体論を唱えた為、薩摩藩急進派と久留米水天宮神官・真木和泉守率いる諸藩有志は京都進撃を目指した。
4月23日(午後五時)、寺田屋に有馬新七、柴山愛次郎ら急進派の誠忠組21名、客将という事で真木和泉守ら10名、田中河内介ら5名の36名が集結しました。中には、大山厳、三島直庸、西郷隆盛の弟・西郷慎吾(従道)らもいました。                                  
 久光の君命を受けた薩摩鎮撫使の奈良原喜八郎、道島五郎兵衛、江夏(こうか)仲左衛門、森岡善助ら4名が、竹田街道から大山格之助、鈴木勇衛門、鈴木昌之助(勇衛門の息子)、山口金之助、上床源助ら5名が伏見街道から9名が二手に分かれ寺田屋に向かった。                             寺田屋にどちらか先に到着した方が取り鎮める手はずで、この9名の内6名が誠忠組の同志であった事は島津久光の心遣いであった。      しかし、鎮撫使側に上意討ちの許可が出ていた為、藩邸への同行を拒否した有馬新七らと折衝が付かず遂に斬り合いとなりました。                 鎮撫使側1名が討死し多数の負傷者を出し、誠忠組側も6名が討死、2名の重症者(後日、君命に背いた罪で切 腹)を出し、この知らせを聞いた伏見の呉服屋・井筒屋伊兵衛(現・斎藤酒造)と手代数名が寺田屋に駆けつけ、 遺骸を丁寧に白木綿で包み大黒寺に埋葬した。          更に4月27日、1名が自刀(切腹)し、これを加え9名の死者を出してしまいました。後、墓は「薩摩九烈士」として祀られ西郷隆盛の筆による墓碑が一緒に並んで建立されています。西郷隆盛は、この事件を薩摩で聞いた時に「何という事をしたのか、薩摩人は天下を論ずる資格はない。       天下の同志に何と説明するつもりか、顔向けのできん事になった。」と涙を流しながら悔しがったと伝えます。後に隆盛は泣きながら九烈士達の為に、墓碑を書いたとも伝える。

桃山建築の本殿 常盤井の枠石が転用された弁財天社の石橋 大黒天を祀る薩摩寺とも呼ばれる大黒寺
こま札 平田靱負顕彰碑と伏見義民遺髪塔 伏見名水・金運清水
もっと賢くなりますように・・・(^^ゞ爆 西郷隆盛筆の墓碑(右手前)と薩摩九烈士の墓 平田靱負(ゆきえ)の墓所
龍馬と伏見薩摩藩邸

江戸時代、ここに薩摩島津家の伏見屋敷がありました。13代将軍・徳川家定の正妻となる島津斉彬の養女篤姫(天璋院)も、薩摩から江戸にむかう途中の嘉永6年(1853年)9月29日この屋敷に入りました。ここを拠点に、10月2日洛中の近衛家、同4日萬福寺(現宇治市) を訪問、同6日伏見を出立。慶応2年(1866年)1月24日、坂本龍馬は寺田屋において伏見奉行所の捕吏に襲撃されますが、入浴中のお龍が気づき裸で二階へ急を知らせ、龍馬は短銃を発射して、逃走しました。お龍は、急ぎ帯刀町(納屋町)〜風呂屋町〜紺屋町〜御駕町を走り抜け下板橋を渡り伏見薩摩藩邸へ龍馬の危機を知らせました。龍馬は手傷を負っていたので木材倉庫に隠れた後、お龍の知らせを受けた薩摩藩が差し向けた舟で濠川を上り伏見薩摩藩邸へと逃げ込んだと伝える。

松林院 立派な五輪石塔が、お登勢の墓 龍馬が匿われた薩摩藩伏見藩邸跡

お登勢は大津の船宿・大本重兵衛の次女で、十八歳のとき寺田屋伊助に嫁した。伊助は放蕩者で店は女将お登勢が一切きりもりし、二人の娘に加え五人の孤児まで養育した。義侠心が強く、勤皇派の者たちにも援助をおしまなかった。

鳥羽伏見の戦い、幕軍(会津藩)戦死者の埋骨地がある悟真寺

鳥羽伏見の戦いで戦死した幕軍(会津藩)戦死者53人の埋骨地があり「戊辰之役東軍戦死者之碑」は、榎本武揚によるもので掘られた二ヶ所の大穴に戦死者を9人と44人に分けて埋葬されたと伝えます。

薩摩島津伏見屋敷跡碑 悟真寺 戊辰之役東軍戦死者埋骨地之碑
静寂な境内 榎本武揚の書による戊辰之役東軍戦死者之碑
戦死した会津藩士(兵)埋骨地 戦死した会津藩士(兵)埋骨地・・浜田藩士の名も刻まれている。
「この付近、近藤勇遭難の地」碑はこの辺りで近藤勇が銃撃されて負傷したと示す・・・ 近藤勇が銃撃された推定地の一・伏見街道墨染辺り
おけいはん(京阪電車)と稲荷山 ・・・ えぇなぁ〜(*^▽^*)
七条大橋 鴨川 高瀬川
任天堂発祥の地・任天堂正面営業所(昭和8年当時のアールデコ調のレトロな社屋)
レトロチックな社名プレート お龍が手伝った七条新地の旅館・扇岩跡 任天堂・山内さんの弟さんの会社・灰孝

龍馬は七条新地の旅館・扇岩からお龍を連れ出し、伏見の寺田屋に奉公させる為に寺田屋の女将・お登勢に引き合わせた。お登勢はお龍をお春と呼ばせ、自分の養女分として面倒をみた。

ここは郵便局だったかな・・・ お世話になったM商店 土手町通り、N人形店の皆様、お元気ですか?
ここはO材木店だったかな ガレージになった私と御台の出会いの地 (^^ゞ お向いは当時のまま・・懐かしいなぁ(´-`).。oO
河原町・正面、渉成園(枳殻邸) ママさん、お元気?・・訪ねたけど閉まってた! ここの串カツは安くて絶品!お元気ですか?
お世話になった銭湯・梅湯 I・Nさんお元気? 元新撰組・山野八十八勤務地(菊浜小跡) お茶屋さん
高瀬川船廻しの場跡 こま札 狭い路地の家壁の桜も満開?!(^▽^;)
外国人に人気の旅館・平岩・・・皆さんお元気? ノスタルジックな空間・・・時間が止まったような風情を醸し出している。
鴨川に出ると川風と共に時間も流れるよう・・・ イベントホールにも使われる歌舞練場
格子窓に破風のあるお茶屋さん 京風焼き菓子・・くださいなぁ〜(^^♪ 手作りで美味!!おススメです!!!(^-^)v
銭湯・弁天湯 和洋折衷な家屋・・モダンやなぁ〜 美人画が描かれたステンドグラス窓
格子窓と破風のあるお茶屋さん・・ノスタルジックやなぁ〜(*^▽^*) 五条大橋
高瀬川 河原町通り名の由来になった源融 河原院跡 河原町五条交差点
牛若丸と弁慶のモニュメント 高山京都市長の筆になる扇塚と五条大橋 扇塚の解説碑
木屋町を北上・・ なななんと・・やまぶきと八重桜そして早くも紅葉!!!(@_@;)
えぇなぁ〜(*^▽^*) 龍馬が馴染みだった鳥弥三(とりやさ) 峯吉が龍馬に頼まれた軍鶏を買った鳥新跡
高瀬川 本間精一郎遭難の地 本間精一郎遭難之地碑

本間は越後から江戸に出て清河八郎らと親交を結び、清河より一足早く京に上って、薩摩や土佐に倒幕を説いた。しかし、利発で勝気な気性の彼は、特定の藩に属しない論客であったため、その態度を浮薄と見た各藩士らに疎まれ始めていた。本間が料亭から酔って出てきたところを薩摩・田中新兵衛とも土佐勤皇党・武市瑞山の指示を受けた土佐・岡田以蔵に当地で暗殺され高瀬川へと投げ込まれたと伝える。

土佐藩邸跡

土佐藩は、薩摩(鹿児島県)、長州(山口県)と並んで幕末政局の主導権を握った雄藩で坂本龍馬、中岡慎太郎、後藤象二郎、武市瑞山(半平太)らが活躍した。藩邸は、土佐藩の活躍の京都における根拠地であった。

土佐藩邸跡(立誠小跡) こま札
角倉了以翁顕彰碑(土佐藩邸跡/立誠小跡) 土佐藩邸役宅跡(土佐四天王像があった所) 土佐藩邸役宅跡碑
後藤象二郎(象次郎/しょうじろう)

義叔父・吉田東洋の少林塾にて学び、安政5年(1858年)に東洋の推挙により幡多郡奉行、文久元年(1861年)には御近習目付、その後は普請奉行として活躍するが、文久2年に吉田が暗殺されると失脚。文久3年(1863年)に藩政に復帰し、前藩主・山内容堂の信頼を得ると共に、江戸の開成所にて蘭学や航海術、英学も学ぶ。元治元年(1864年)、大監察に就き公武合体の急先鋒として、義叔父・吉田東洋を暗殺した武市瑞山(半平太)らを切腹させるなど土佐勤王党を弾圧した。慶応3年(1867年)、政治姿勢を攘夷論に転換。尊皇派の坂本龍馬と会談し、坂本の提案とされる船中八策に基づき、将軍・徳川慶喜の大政奉還を提議。薩摩藩の賛同も得て薩土盟約の締結につながる。しかし、容堂は武力発動の可能性を持つ盟約に難色を示し、また長崎で起きたイギリス人殺害事件で海援隊士に容疑がかかったイカルス号事件の処理で土佐に乗り込んできた英国公使パークスとの交渉を命じられるなど時間を費やしたため、倒幕路線を歩む薩摩との思惑のずれから盟約は解消された。その後も大政奉還への努力を続け、10月3日に容堂と共に連署して大政奉還建白書を提出。10月14日に慶喜がこれを受けて大政奉還を行った。後藤からの連絡を龍馬が酢屋で聞いて大層喜んだと伝える。これらの功によって中老、執政として550石に加増され、役料を合わせて計1500石に栄進。慶応4年(1868年)、パークス襲撃事件鎮圧の功により、中井弘と共に英国ビクトリア女王から名誉の宝剣を贈られている。維新の功により賞典禄1000石を賜る。※後藤は龍馬の大政奉還策を容堂に進言し、同策を藩論として大政奉還の実現に寄与した。しかし、同策が龍馬の発案である旨を述べなかった事から、後藤が龍馬の功績を横取りしたという汚名も蒙っている。この進言後、脱藩罪に問われていた龍馬が特赦されたのは後藤の働きによると伝える。※Wikipediaより

高瀬川 この辺り後藤象二郎寓居跡 独身時代のお龍寓居跡
独身時代のお龍寓居跡碑 先斗町(ぽんとちょう)から、ほのかな梅香を漂わせ、お龍さんがキタぁぁ〜(^∀^ヾへへ
この辺り彦根藩邸跡 彦根藩邸跡碑 海援隊京都本部だった酢屋
龍馬が寺田屋で幕吏に襲われて以降、近江屋で遭難する直前まで身を寄せていた材木商・酢屋嘉兵衛宅。海援隊京都屯所も置かれていた。
新撰組の名を世に知らしめた池田屋騒動

文久3年(1863年)8月18日の政変後、京都では公武合体派が勢力を伸ばし尊王攘夷派が圧迫され、長州・土佐・肥後藩などの尊王攘夷派達が勢力回復をめざして中川宮や京都守護職・松平容保の暗殺計画を企てた。元治元年(1864年)年6月5日(祇園祭宵々山)、近藤、沖田、永倉、藤堂、谷、近藤周平(養子)、原田の7人は三条小橋西入ルの旅籠・池田屋において会合中の尊王攘夷派達30余名を襲撃。後、縄手付近を探索していた土方歳三らも加勢し2時間ほどの斬り合いだったという。新撰組に襲撃され長州藩の吉田稔麿、杉山松助、土佐藩の望月亀弥太、肥後藩の宮部鼎蔵、松田重助ら多数の死傷者が出ました。会合に参加するはずだった長州藩の桂小五郎は近くの対馬藩邸にいて無事だった。新選組では奥沢栄介、新田革左衛門、安藤早太郎が亡くなり、藤堂平助と永倉新八らが負傷しました。この時に沖田総司が吐血したとも伝わります。主人・池田屋惣兵衛も翌日捕まり、六角獄舎で獄死しました。捕縛された古高俊太郎も、六角獄舎で獄死しました。1ヶ月後の禁門の変を誘発する一因となり、その後の政治情勢に多大な影響を与える事件となった。維新が1年遅れたとも1年早まったとも言われています。世に新撰組の名を一気に高めた事件となりました。

坂本龍馬寓居跡碑 池田屋跡 池田屋騒動之碑
三条小橋 吉村寅太郎寓居跡、武市瑞山(半平太)寓居跡 吉村寅太郎寓居跡

吉村寅太郎は武市瑞山らと同じ土佐の郷士で武市の隣に住まいし行き来しながら意見を交わした。那須信吾ら土佐脱藩浪士らを中心とする天誅組に参加し大和の代官所を襲撃し戦死(天誅組の変)

土佐勤皇党盟主・武市瑞山(たけちずいざん/半平太:はんぺいた)

雛菊「月様、雨が…」 月形「春雨じゃ、濡れてまいろう」のセリフで知られる行友李風が創作した月形半平太のモデル。・・・土佐藩郷士(白札)で土佐勤王党盟主。通称は武市半平太(たけちはんぺいた)と呼ばれた。妻は土佐藩郷士・島村氏の娘の富子。子女はなく坂本龍馬とは遠縁にあたる。優れた剣術家で黒船来航以降の時勢の動揺を受けて攘夷と挙藩勤王を掲げる土佐勤王党を結成。公武合体論者の参政・吉田東洋を暗殺して藩論を尊王攘夷に転換させることに成功。京都と江戸での国事斡旋によって一時は藩論を主導するが、前藩主・山内容堂は土佐勤王党の台頭に不快感を示し、他藩士との政事交際を禁じる通達を出した。 文久3年(1863年)1月25日に入京した容堂は、京都で他藩応接役を務めていた平井収二郎が間崎哲馬、弘瀬健太と青蓮院宮から令旨を賜り、これを楯に国元にいる先々代藩主・山内豊資(藩主・豊範の実父)に働きかけて藩政改革を断行しようと動いていた。青蓮院宮から平井、間崎らの動きを知らされ、僭越の沙汰であると激怒し両名を罷免した上で土佐へ送還した。平井、間崎、弘瀬は入牢させられ、厳しい訊問を受けた。帰国した半平太は三名の助命を容堂に嘆願するが、6月7日に死罪が決定、翌8日に三人は切腹して果てた。文久3年(1863年)8月18日の会津藩、薩摩藩による八月十八日の政変により長州藩が中央政界から失脚すると事態は一転し勤王派は急速に衰退、代わって公武合体派が主導権を握る。尊攘派の情勢が急激に悪化する中、吉田東洋暗殺の下手人捜索を命じていた容堂によって9月21日に「京師の沙汰により」の名目で半平太ら土佐勤王党幹部に逮捕命令が出され、半平太は南会所の牢獄に入れられた。獄吏が半平太に傾倒していたので便宜を図ってもらえ、家族や在獄中の同志との連絡を取り合うことができ、長期に渡り同志の団結を維持し続け軽挙妄動を戒めた。上士である半平太は拷問を受けることはなかったが、軽格の同志たちは厳しい拷問が加えられた。長い獄中闘争を耐えて半平太らは、まだ捕まっていない同志を思い、獄外同志やその他の協力者への連累を食い止めるべく吉田東洋暗殺を否認し続けたが、京都に残留して零落していた岡田以蔵が元治元年(1864年)4月に捕縛されて土佐に送還され、監察府の厳しい拷問に耐えかねて全てを自白してしまい、半平太らの罪状が決定したが、半平太たちは東洋暗殺を否認し続けた。この為、東洋暗殺を罪状に加えることができず慶応元年(1865年)閏5月11日、容堂より「君主に対する不敬行為」という罪目で死罪を命ぜられた。他の判決は岡田以蔵、久松喜代馬、村田忠三郎、岡本次郎が死罪、9名が永牢、2名が未決、1名が御預けと決まった。即日、刑が執行されて以蔵ら4名は獄舎で斬首されたが、上士となっていた半平太は切腹を許され、同日夜に南会所大広庭にて三文字の切腹を成し遂げ、武士の気概を見せて果てた。1年半もの獄中闘争を経て半平太の死によって土佐勤王党は壊滅し中岡慎太郎ら一部の同志は土佐藩を見限って脱藩浪人となって倒幕活動を進めた。後に土佐藩は薩長と共に討幕勢力の一翼を担うことになるが、土佐勤王党を弾圧した後藤象二郎が参政となり大政奉還を主導し、戊辰戦争で容堂は薩長軍に就くなと命じたが土佐藩兵を率いた乾退助(板垣退助)の判断で薩長軍に就いて倒幕を成し遂げた。維新後、山内容堂は武市を切腹させたことを何度も悔いていたと伝え、明治10年(1877年)に名誉回復された。明治24年(1891年)4月8日に坂本龍馬、中岡慎太郎、吉村虎太郎と共に正四位が追贈された。

解説 武市瑞山(半平太)寓居跡 木屋町を北上・・・
佐久間象山寓居跡 佐久間象山寓居跡碑 加賀藩邸跡
こま札 長州藩邸跡(京都ホテルオークラ)
長州藩邸跡碑 維新の三傑の一・桂小五郎像(長州藩邸跡) 山中成太郎宅跡(平野国臣潜居跡)
桂小五郎、幾松寓居跡 桂小五郎、幾松寓居跡碑 大村益次郎、佐久間象山遭難之碑
大村益次郎、佐久間象山遭難之碑

佐久間象山は公武合体、開国、遷都論を主張し尊攘派の反感をかい三条小橋から木屋町に入ってすぐの所で家影から二人の刺客に左右から斬りかけられ鞭で刀を払い除けて馬を走らせ御池通りを越えたが、8、9人の刺客に行く手を阻まれ応戦したが足を斬られ落馬し全身に13ヵ所の傷を受けて絶命しました。肥後の河上彦斎らに暗殺されたとされます。大村益次郎は周防出身の兵学者で戊辰戦争の軍事指導、明治政府の兵部大輔としても活躍した人物だが、明治2年(1869年)、長州の刺客に木屋町の宿舎で襲撃を受けて二ヵ月後に刀傷での敗血症で亡くなりました。

大村益次郎寓居跡 ・・・
高瀬川一之舟入跡の高瀬舟と八重桜 角倉了以邸跡
明治8年(1875年)、島津源蔵が設立した計測器・精密機器メーカー島津製作所創業之地 角倉了以別邸跡(山縣有朋第二無燐庵跡)
角倉了以別邸跡碑 解説 山縣有朋第二無燐庵跡
山縣有朋第二無燐庵跡碑 角倉了以別邸跡(山縣有朋第二無燐庵跡) 島田左近遭難の地

関白九条尚忠の家士として仕え、井伊直弼の謀臣長野主膳(義言)と協力して尊攘派の浪士、公家の侍捕縛を指揮した。その後、幕臣の身分を望み主膳と反目。文久2年(1862年)、尊王譲位が高揚し始めた7月20日,田中新兵衛、鵜木孫兵衛、志々目献吉らに東生州町の妾宅で、襲撃を受けて殺害され遺体が善導寺あたりで発見され、首は四条河原に晒された。天誅という名の尊攘派による暗殺事件の初めと伝える。

島田左近妾宅跡 木戸孝允旧宅跡碑(二ヵ所ある)

木戸孝允(桂小五郎)は、明治10年(1877年)2月に西南戦争が勃発し、すぐさま鹿児島征討の任にあたりたいと希望した。また大久保利通は、西郷への鎮撫使として勅使の派遣を希望した。伊藤博文はこれらに反対し結局、徴兵令による国軍が出動し、木戸は明治天皇と共に京都へ出張する。かねてからの病気が悪化し、木戸邸に明治天皇の見舞いも受けるが5月26日、大久保の手を握り締め、「西郷もいい加減にしないか・・」と明治政府と西郷を案じる言葉を残し45才でこの世を去った。

明治天皇行幸所木戸邸碑 明治天皇行幸所木戸邸
明治天皇行幸所木戸邸碑 鴨川 龍馬、お龍結婚式場跡(青蓮院塔頭・金蔵寺跡)
龍馬、お龍結婚式場跡

当地は青蓮院の塔頭・金蔵寺跡です。元治元年(1864年)8月初旬、当寺本堂で、坂本龍馬と妻お龍(鞆)は内祝言、内々の結婚式をしました。一般には、慶応2年(1866年)1月の伏見寺田屋遭難のあと、西郷隆盛(あるいは中岡慎太郎など)の媒酌で二人は夫婦の契りを結んだようにいわれるが、この話は根拠が薄く、他の史料との検討から後のお龍(鞆)の話こそ信用すべきだと思われます。この地を選んだのは、お龍(鞆)の亡父・楢崎将作が青蓮院宮に仕えた医師であった縁により金蔵寺住職智足院が仲人をつとめました。当時は池田屋事件(6月)や禁門の変(7月)のあとで、京都は物情騒然でした。しばらくして龍馬は、薩摩島津家から望まれ、対立した長州毛利家との和解に奔走します。龍馬は新婚生活を楽しむいとまもなく、お龍(鞆)を寺田屋などに託し二人は別居夫婦だったと伝えます。

龍馬、お龍結婚式場跡碑 坂本龍馬、お龍の写真 解説碑
明智光秀の首塚

天正10年(1582年)6月2日、本能寺で主君・織田信長を本能寺に急襲した明智光秀は、13日、山崎(天王山)の戦いで羽柴秀吉に破れ、近臣とともに近江の坂本城に逃れる途中、小栗栖の竹薮で襲われて自刃し最後を遂げた。家来が光秀の首を落とし知恩院の近くまで来たが、夜が明けたため、この地に首を埋めたと伝える。

白川と柳 東梅宮・明智光秀の首塚 こま札
長存寺殿明窓玄智大禅定門碑(光秀の戒名) 五輪塔(光秀の首塚) 光秀の木像が奉られる祠
パークス襲撃事件

慶応4年(1868年)2月30日、イギリス公使ハリー・パークスが明治天皇に謁見するため宿所の知恩院から御所に向う途上、三枝 蓊(さえぐさ しげる)は同志・朱雀操と2人でパークス一行に斬り込んだ。三枝らはイギリス兵9人に負傷を負わせるが、朱雀はパークスに同行していた護衛の薩摩藩士・中井弘と斬り合いになり、後から駆けつけた土佐藩参政・後藤象二郎に斬殺され、三枝も重傷を負ったところを警備兵に捕縛され襲撃は失敗に終わる。3月4日、三枝は粟田口刑場で斬首され、新政府は尊王攘夷の士としての経歴を持つ三枝らの身分を武士から平民に落し罪人として処刑し朱雀の首と共に3日間晒した。後藤象二郎は、パークス襲撃事件鎮圧の功により、中井弘と共に英国ビクトリア女王から名誉の宝剣を贈られている。維新の功により賞典禄1000石を賜りました。

白川 英公使パークスが参内途中に襲撃された辺り 高杉晋作寓居跡(魚品楼跡)
情緒がある祇園の町並み
白川に架かる辰巳橋 おタヌキさんが、祭神の辰巳大明神 かにかくに・・・吉井勇の歌碑
やまぶき、ツツジが咲く白川沿いの風情
えぇなぁ〜(*^▽^*) 川端通りを南下 宮川町
七条大橋 塩小路橋 鴨川
京都タワー かつて銭取り橋と言われた勧進橋 禁門の変に新撰組が宿陣した九条河原辺り

新撰組隊士・武田 観柳斎(たけだ かんりゅうさい)が暗殺された銭取り橋(勧進橋)・・・武田は文久3年(1863年)冬頃に新選組に参加。甲州流軍学(長沼流)を修める軍学者として近藤勇に重用され、元治元年(1864年)に副長助勤に抜擢される。後に五番隊組長や文学師範、軍事方といった地位に就き、甲州流軍学による調練を担当した。池田屋事変では、古高俊太郎を捕縛するなどの功により褒賞金20両を賜り、禁門の変や明保野亭事件、また永倉新八や斎藤一らが近藤の専横を非難した際には仲裁を務めるなど、軍才を背景に存在感を示すが、巧みな弁舌で近藤などに媚びへつらうなど、武田に対して嫌悪を示す隊士も少なくなかったと伝える。そもそも近藤が専横に走ったのは武田が近藤に隊士は家臣として局長を慕っていると吹き込んだからとする説もある。後に新撰組で洋式調練が採用されるようになると、甲州流軍学の武田は隊内での影響力を失い、伊東甲子太郎や薩摩藩との接触を企てるなど、不穏な行動を示し始める。慶応3年6月22日、伏見竹田街道の鴨川に架かる銭取橋で暗殺された。暗殺者は斎藤や篠原泰之進が関与したと伝えるが、当時2人は御陵衛士に参加していたので別人の可能性もある。また、勧進橋東詰め辺りは禁門の変の時に新撰組が宿陣した九条河原と伝える。

Tourist  2010.04.26(M)

 

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