|
|
|
三十石船乗り場でもある寺田屋浜 |
伏見長州藩邸跡碑 |
三栖(金井戸)神社 |
肥後橋の東南、宇治川派流(濠川)の畔にあり天武・応神両帝、伊弉諾命(いざなぎのみこと)を祀る旧村社で通称、三栖神社とよんでいます。元は横大路下三栖の三栖神社の御旅所として付近の新中町にありましたが、氏子区域の発展により分離、地名にちなんで金井戸神社と改められた。 |
|
|
|
三栖(金井戸)神社 |
宇治川派流 |
|
|
|
京街道 |
宇治川派流に架かる京阪本線鉄橋 |
豊臣秀吉が開いた河川内陸港・伏見港 |
|
|
|
三栖閘門と宇治川 |
三栖閘門をあとに・・・ |
|
|
|
淀堤に続く道は京街道 |
新撰組(旧幕府軍)と薩長軍が激戦を展開した千両松 |
この辺りは千両松と呼ばれ、千両松の激戦で知られる。慶應4年(1868年)1月5日、土方歳三率いる新選組、佐川官兵衛率いる会津藩の部隊と、薩長軍が激突した。戊辰戦最大の激戦と言われる淀・千両松の戦いで新撰組・井上源三郎、嘉村権太郎(吉村貫一郎)らが戦死、山崎蒸(進)も負傷し後に死亡。新撰組隊士の戦死者総数は24名と記録されている。・・・映画・壬生義士伝では、薩長軍が掲げる錦旗を見て、なぜ我らが賊軍なのかと狼狽する旧幕府軍の中、吉村貫一郎が「新撰組隊士吉村貫一郎、徳川の殿軍ばお務め申す。一天万乗の天皇様に弓引くつもり
はござらねども、それがしは儀のために戦ばせねばなり申さん。お相手いたあす!!!」と叫び、ひとり銃弾の中を切り込んでいったのは、ここ千両松でした。 |
|
|
|
旧宇治川河川道右岸跡を疾走するおけいはん |
千両松慰霊碑「戊辰役東軍戦死者埋骨地」 |
淀千両松堤の戦いで戦死した東軍(新撰組隊士など旧幕府軍)の千両松慰霊碑「戊辰役東軍戦死者埋骨地」です。新撰組幹部・井上源三郎も淀千両松堤の戦いで戦死しました。現在の慰霊碑は昭和45年(1970年)、新しく建立されました。当初は新撰組の隊旗である誠の旗も立てられていましたが現在は旗は立っていません。花なども毎日取り替えられ綺麗に手入れされています。・・・この埋骨地には幽霊伝説があります。千両松の激戦で戦死した多数の新撰組隊士と旧幕府軍兵の慰霊碑が建てられていましたが競馬場拡張工事の為に碑が削られました。その後、事故が続出しました。紫地に誠の隊旗を持った新撰組隊士の幽霊が「元の所に返せ!」と夜な夜な現れるという・・・驚いた工事関係者は慰霊碑の管理寺の妙教寺に依頼し、盛大に供養を行いました。拡張工事の終了後、同所に碑を据え直し、墓を整備しました。それ以後、幽霊は出没しなくなったそうです。傍に建立された記念碑に「・・・一瞬の時差により、或る者は官軍となり或る者は幕軍となって士道に殉じたのであります。」と記された一説が鳥羽・伏見の戦の本質だとも言われます。 |
|
|
|
いつ訪ねても献花、手入れが行き届いている千両松慰霊碑「戊辰役東軍戦死者埋骨地」 |
地蔵尊と道祖神石(右) |
慰霊碑には、『幕末の戦闘ほど世に悲しい出来事はない それが日本人同族の争いでもあり 幕軍・官軍のいずれもが正しいと信じたるままそれぞれの道へと己等の誠を尽した 然るに流れ行く一瞬の時差により或るは官軍となり又或るは幕軍となって士道に殉じたので有ります ここに百年の歳月を閉じ 其の縁り有る此の地に不幸賊名に斃れたる誇り有る人々に対し今慰霊碑の建つるを見る 在天の魂依って瞑すべし 昭和四十四年』と記されている。 |
新撰組六番隊々長・井上源三郎の首級と刀を埋葬したと伝える欣浄寺(廃寺) |
文久2年(1862年)2月、浪士組に近藤勇、土方歳三らと参加。文久3年(1863年)、芹沢鴨一派が粛清されると副長助勤に就任。元治元年(1864年)、池田屋事件では土方隊の支隊を指揮。近藤隊が斬り込んだという知らせを受けて隊士と共に池田屋に突入、8人の浪士を捕縛。慶応元年(1865年)6月、組織再編成で六番隊々長に就任、慶応3年(1867年)6月、新撰組が幕府直参に取り立てられ副長助勤として七十俵三人扶持を与えられる。慶応4年1月3日、鳥羽・伏見の戦いが勃発、新撰組は伏見奉行所から淀まで退却。1月5日、淀千両松で薩長軍と戦闘中、敵の銃弾を腹部に受けて戦死。甥の井上泰助が源三郎の首を持ち帰ろうとするも、あまりに重かった為、仲間の隊士から諭されて戦場近くの寺院の門前に首と刀を埋葬したと伝えていた。後に息子・覚太郎の妻・ケイに、大阪の方に行くことがあればお参りするようにと、寺の名前(欣浄寺)を告げたが失念して今に至っていた。(源三郎生家の隣にも欣浄寺が存在しケイが失念したと思われていた。)欣浄寺のあった場所は、明治になって廃寺になり、更に淀川河川改修などにより町並みが一変してしまい不明となっていたが、近年に古地図などから欣浄寺の場所が判明。泰助の宇治川に架かる橋近くの寺だという言葉なども一致、日野から縁者が来られました。因みに源三郎は、八番楳木(千両松埋骨地)に眠っていると伝える。 |
|
|
|
かつて宇治川に架かっていた淀小橋跡碑 |
建立由来不明の鳥羽伏見戦跡地慰霊塔 |
欣浄寺跡 |
|
|
|
淀本町商店街 |
京阪電車・新旧の淀駅 |
與杼(淀:よど)神社 |
淀・納所・水垂・大下津の産土(うぶすな)神です。祭神は、豊玉姫命(トヨタマヒメノミコト)、高皇産霊神(タカミムスビノカミ)、速秋津姫命(ハヤアキツヒメノミコト)の三柱です。僧・千観内供が応和年間(961年〜963年)に肥前国(佐賀県)佐賀郡河上村に鎮座の與止日女(ヨドヒメ)神社より、淀大明神として勧請したのに始まると伝えるが、延喜式(901年〜)第9巻「山城国乙訓郡」中に、與杼神社の名がある処からみて、応和年間より以前に鎮座していたと考えられます。元の鎮座地は、今の宮前橋の下流、桂川右岸の川原になっているあたりで、古来よりこのあたりを「大荒木の森」と呼ばれていた。桂川河川敷の拡幅工事が実施されることになったので、本殿以下の建物は、明治33年5月24日付の神社移転許可により、明治34年7月移転工事に着工、翌年5月完成、明治35年6月21日、神社のすべてが現在の淀城址内に遷座されました。※当社由緒書きより |
|
|
|
與杼(よど)神社 |
神木の大イチョウ |
社殿 |
|
|
|
本殿 |
お神酒でつ(^^ゞ |
淀城本丸跡(淀城跡公園) |
|
|
|
淀城跡碑 |
天守台石垣 |
旧幕府軍は、体勢を立て直す為、淀城に入ろうとしましたが、淀藩が中立をとり旧幕府軍の入城を拒否したので、城下と淀小橋を焼き払って八幡、橋本へ退却しました。 |
|
|
|
石に残るくさび跡(矢穴痕) |
薩摩・島津の家紋が記された石 |
天主台からの景色も変わった・・ |
|
|
|
天守台にある井戸 |
姫様が洗顔した???手水石 |
城跡内にある改修中の稲葉神社 |
|
|
|
城跡の石垣と堀・・・掘底を掘ると小判が出てくるという伝承もあるとか・・・(@_@;)マジっすか?! |
淀姫と呼ばれるハス花 |
|
|
|
天照大神を祀る旧村社・伊勢向神社 |
大専寺 |
慶応4年(1868年)、正月3日夕方、鳥羽伏見の戦が開戦、次第に戦場を淀方面に移した。5日、敗走した幕府軍は、淀城で薩長軍を防ごうとしたが、淀城が門を閉ざした為、淀の町に火を放ち八幡方面に敗走。淀の寺院などに東軍(旧幕府軍)戦死者埋骨地が点在します。 |
|
|
|
戊辰役東軍戦死者埋骨地 |
文相寺 |
戊辰役東軍戦死者埋骨地 |
|
|
|
京街道 |
手前から埋骨地のある長円寺、東運寺 |
長円寺 |
|
|
|
榎本武揚書の戊辰役東軍戦死者之碑 |
境内 |
戊辰役東軍戦死者埋骨地 |
|
|
|
閻魔堂のえんま大王 |
戊辰役東軍戦死者埋骨地 |
改葬された旧幕軍歩兵指図役頭取・森田貫輔首級 |
旧幕軍歩兵指図役頭取・森田貫輔は対岸の高浜砲台を守備していた津藤堂藩の寝返りにより負傷、本営を構えた樟葉・久修園院で自刃した時、配下の18歳と19歳の若者が介錯をつとめ、首級を久修園院の本堂傍らに埋葬したが大正2年(1913年)に淀・長円寺墓地に改葬された。 |
|
|
|
曹洞宗・東運寺 |
薬師堂 |
吾唯足知(われ
ただ たるを しる)のつくばい |
|
|
|
意匠に目を奪われた本堂 |
戊辰役東軍戦死者埋骨地 |
ここから奥に旧淀大橋が木津川に架かっていた・・ |
|
|
|
往時の風情を今に伝える風情 |
木津川旧河道左岸に面していた浜納屋 |
|
|
|
納屋と直接船に荷物を積み降ろしていた石段 |
宇治川に架かる淀大橋 |
・・・ |
|
|
|
夏空と秋空が混在する田園風景 |
記念碑 |
|
|
|
新しくなった御幸橋(木津川) |
・・・ |
飛行神社 |
縁起碑によると明治24年(1891年)4月29日、世界に誇るゴム動力飛行器の飛行実験に成功した二宮忠八が、後進の航空殉難者を祀る為に建立された日本初の航空関係神社で海外旅行をする人や航空関係者などが参拝するとの事。「飛行機発明」に情熱を傾けた二宮忠八に関する品々を集めた資料館もあります。 |
|
|
|
F104ジェット戦闘機のエンジン(飛行神社) |
説明碑 |
二宮忠八が発明したカラス型飛行器 |
|
|
|
境内にあるゼロ戦のプロペラエンジン |
古代ギリシャ神殿のような拝殿 |
|
|
|
流造を三つ連結している本殿 |
念佛寺 |
こま札 |
|
|
|
戊辰史蹟
念佛寺碑 |
念佛寺 |
秋桜 |
6日、淀城に入城できなかった旧幕府軍は、後退し男山の東西に分かれて布陣。西側の橋本は遊郭のある宿場町で、久修園院に本営を構え土方歳三率いる新撰組など精鋭部隊を擁する本隊が布陣。薩長軍に男山〜橋本戦線を撃破されると、大阪へ進撃されるので必死に防戦、薩長軍もこの戦線の突破が至難でした。東に男山、西に淀川を控えた橋本は旧幕府軍に有利だったが突如、淀川対岸の山崎を守備する津藩・藤堂家からの砲撃を受け、それまで橋本砲台からの砲撃で薩長軍の進軍を阻んでいたが淀川対岸の津藩藤堂家の砲撃に回されたため、男山〜橋本戦線を守る旧幕府軍は三面からの攻撃を受ける事によって遂に力尽き大阪に敗退。賊軍とされた為、徳川慶喜は失意のあまり東帰しました。「たとえ千騎が一騎になっても戦う!」と宣言しておきながら、戦中の慶喜の東帰に残された旧幕府軍は大いに意気消沈した。こうして鳥羽伏見の戦いは、伏見の町を壊滅状態にして薩長軍の勝利に終わりました。 |
|
|
|
八幡番賀共同墓地 |
墓地内にある石仏と六体地蔵尊 |
正平の役(男山合戦) |
石清水八幡宮の歴史中で特筆すべきは、「正平の役」で南北朝時代最大の決戦が男山を中心に60日間もあったとされ「男山合戦」とも言われます。この戦いを契機に南朝は急速に勢力を失いました。正平7年(1352年)春、南朝の後村上天皇は楠正義らと男山に立てこもり、対して足利尊氏の嫡子・義詮(よしあき)は東寺を本陣とし男山を四方から取り巻きました。戦いは激烈を極めたが楠正義の守備する洞ヶ(ほらが)峠が落ちると、後村上天皇はここを見限り大和大路を東大寺へと落ち、足利(室町)幕府は始めて基礎固めができたと伝える。 |
|
|
|
戊辰役東軍戦死者埋骨地 |
秋色に包まれる男山 |
正平役園殿口古戦場跡碑(左)、金剛律寺故蹟碑 |