浄土谷、楊谷寺(柳谷観音)散策

 

知らざりき かしらの雪の それながら 此山里に 古り果てんと 後一条入道(実経)

 

「羽束師神社〜長法寺七ツ塚〜浄土谷〜土御門天皇金原陵(つちみかどてんのうかねがはらりょう)〜大山崎散策」

 

浄土谷

浄土谷は海印寺〜柳谷に至る山道の中ほどから南へ500mばかり入った山村集落で僅かな民家と乗願寺、御谷(みたに)神社があります。

ここから南へ下ると尺代(大阪府三島郡島本町)に至り、東へ山道を上ると天王山々頂を経て大山崎の宝寺(宝積寺)に至ります。

浄土谷は一に浄谷とも言われ昔、恵心僧都が閑居し浄業修行をした所と伝え付近の山中一帯には往時の寺院跡と思われる

地名が多数残っています。浄土谷入り口(柳谷道との分岐点)には「弥勒谷十三石仏(不動明王、地蔵菩薩、大日如来、虚空蔵菩薩、

弥勒菩薩、釈迦など十三石仏:江戸期)」が安置されています。十三仏信仰は供養によって現世の安楽、極楽浄土を願うという

民間の信仰で、 室町〜江戸時代に盛んだったと伝わります。浄土谷が恵心僧都の浄業地であったかは別として早くから

この辺りは仏徒の目をつける所となり西山浄土宗の勃興によって中世以降は多くの寺院が造営されていたと思われ

楊谷寺(柳谷観音)もその一で江戸時代には禁裏御領地となり当地の名産・楊梅は毎年、宮中に献上されました。

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伏見柳谷観世音菩薩 赤井河原(羽束師橋) 草津の湊(羽束師橋)
北向見返り天満宮

延喜元年(901年)、菅原道真公の太宰府左遷の際、草津の湊から出発する前に羽束師神社に参拝し北(京)を向いて見返りの場所(別れを惜しんだ)に建立されたのが、北向見返天満宮です。

鳥居と境内 本殿(北向見返り天満宮) 一の鳥居(羽束師神社)
羽束師(はづかし)神社

羽束師神社は、旧羽束師村の産土神で志水、古川、樋爪、菱川地域を氏子とします。創建は、すこぶる古く大宝元年〔701年〕以前からの鎮座と云われています。羽束氏の祖神を祀った神社と言われています。

二の鳥居 割り拝殿 本殿
道標石碑(羽束師神社) レトロなJR高架橋 一文橋
乙訓(おとくに)寺

大慈山と号する真言宗豊山派寺で推古天皇の勅願により聖徳太子の開創と伝わる乙訓地方最古の寺で境内には2000余株のボタンが植えられ4月下旬には華麗な大輪を咲かせ世にボタン寺とも称されています。境内から奈良時代の遺瓦を出土する為、延暦遷都以前に寺院があった事が想像されます。「水鏡」によれば延暦4年(785年)、皇太子・早良(さわら)親王は淡路島に配流される前に当寺にしばらく幽閉されたとされます。弘仁2年(811年)、弘法大師が当寺の別当に任ぜられ鎮護国家の道場となり、宇多法皇が脱履の始め当寺を行宮とされたので一に法皇寺とも号しました。弘法大師がこの寺に在住している時、伝教大師・最澄がこの寺を訪れて真言について教えを乞うたとも伝えられています。中世には禅宗南禅寺派となり応仁元年(1467年)〜文明9年(1477年)、応仁の乱の兵火により焼失衰微しましたが元禄6年(1693年)、徳川綱吉の生母・桂昌院の援助により再び真言宗として再興しました。本堂に安置される本尊合体大師像は弘法大師と八幡菩薩の合作と伝わり毘沙門堂には毘沙門天立像(重文:藤原期)を安置し明応2年(1493年)の修理銘を墨記した狛犬(室町期)が一対あります。

薬医門 仏石塔 十三重石塔
早良(さわら)親王供養塔 本堂 光明寺参道
長法(ちょほう)寺七ツ塚古墳

100mに渡って点々と大小7つの円墳が並んでいたので俗に七ツ塚と言われました。刀剣、玉類を出土しましたが宅地開発により一、二、六、七の四塚が破壊され三、四、五の三塚しか現存していません。

法寺七ツ塚古墳(三、四、五号塚古墳) 本堂(長法寺)
長法寺

天台宗延暦寺派の寺で延喜年間(901〜22年)、三井寺の開祖・智証大師の弟子・千観内供の開創と伝えます。千観は淀姫神を勧請し淀神社を再興したが当地にも一宇を開いたとされます。応仁の兵火に係りその後の沿革を明らかにしないが、かって「釈迦金棺出現図」掛け軸(国宝:平安期)一幅を有していた事からその古さが偲ばれます。

三重石塔(鎌倉期:千観僧都供養塔)、宝篋印塔(吉野期) 慈母観音像 石仏祠
長法稲荷神社(稲荷山古墳)
走田(はしりだ/はせた)神社

走田とは走り穂、初穂を作る田(早稲田)の守護神として有名で奥海印寺、長法寺の産土神です。式内社で延喜の制に記される乙訓十九座の一つで 祭神は、天児屋根命(あめのこやねのみこと)、武甕槌神(たけみかづちのかみ)、経津主神(ふつぬしのかみ)、姫大神(ひめおおかみ)の春日四神を祀ります。かっては妙見社と言われ寂照寺の鎮守社でしたが明治以後、走田神社と呼ばれるようになり毎年、1月13日には御千度詣り、弓講が行われる。 明治初め頃まで同じ祭神を祀る小倉神社(大山崎町円明寺)の神輿がこの社まで渡御していました。

一の鳥居 二の鳥居と参道 石段の参道

注連縄 拝殿 本殿
寂照(じゃくしょう)院

木上山(このかみのやま)と号し道雄僧都(どうゆうそうず)が創建した海印寺十寺の一とされ元は真言宗でしたが今は単立寺院となっています。創建はすこぶる古く「文徳実録」によれば道雄僧都はかねてより一寺を建立したいと願ったがたまたま夢に木上山が景勝地である事を知り弘仁10年(819年)、勅許を得て伽藍を造営し観音像を安置して海印寺と号しました。元慶4年(880年)、清和天皇は勝尾山より帰洛の途路、当寺に立ち寄られ俄に水尾山寺に出家された事があり皇室との因果も浅からぬ名刹でした。往時は寺領も広く今の奥海印寺、下海印寺は当寺伽藍の旧跡地と伝わります。応仁の兵火で一山焼亡し今は寂照院の一坊を残すのみとなりました。一説によると乙訓のタケノコの発祥地と言われています。

絵馬 仁王門(寂照院) 本堂
のどかな山村の風情(奥海印寺) 見事な竹林(楊谷寺への山道) 楊谷寺への山道(R79(高槻・柳谷線))
弥勒十三石仏(R79:柳谷、浄土谷分岐地点)
楊谷(ようこく)寺(柳谷観音寺)

立願山(一に柳岩山に作る)楊谷寺と号する西山浄土宗光明寺派の寺です。昔、山中から清泉が湧き出し眼病治癒に応験があり井水の傍に観音像を祀ったのが当寺の起こりとされ平安末期の承保年間(1064年〜76年)、水観(一に水願)上人の開創と伝えますが、寺伝によると京都東山清水寺開創の延鎮僧都によって大同元年(806年)に開山され、僧都はある夜、夢の中に観音菩薩が現れ京都西山へ行けば生身の観音菩薩を仰ぐことが出来るとのお告げを受けて西山に踏み入り柳の生い茂る渓谷の巌上に夢告の観音菩薩(十一面千手千眼観世音菩薩)を発見し僧都はその場所に堂宇を建て日夜給仕しましたが清水寺の本尊を刻む為に帰洛したとされます。後世、荒廃していたが元禄年間に再興したとされ建物は新しいです。毎月の17日の縁日のみ阪急バスが運行され参拝者で賑わいます。庭園は京都府指定名勝、本堂、庫裡、書院、山門は京都府登録文化財に指定されています。

のどかな棚田の風情 参道 山門(京都府登録文化財)
本堂(京都府登録文化財) 阿弥陀堂 境内(あじさいの道から)
奥の院 あじさいの廊下(奥の院〜本堂への回廊)
楊谷寺庭園(京都府指定名勝:江戸期)・・・柳谷浄土苑とも言われ庭内に十三石仏が安置します。 庫裏(京都府登録文化財)
独鈷水(おこうすい)

開山・延鎮僧都が清水寺に帰られた後、弘法大師が当寺に参詣した時、堂傍のたまり水でサルの親が子猿の目を一生懸命洗っていました。そして17日目に子猿の目がパッチリ開いたところを見て、弘法大師はその不思議な水を眼病に悩む人々の為に霊験あらたかな霊水にしようと、日夜加持祈祷を施し独鈷(古代インドの武器、現在は仏具)で掘り広げられました。そして大師の法力による霊験水「独鈷水(おこうすい)」が湧き出ています。

独鈷水場 独鈷水・・・まいう〜〜〜!!!(^_^)v 弘法大師像、観音像
足腰が丈夫になるとされる「四国八十八ヶ所御砂踏み」・・・誰の足?あしからず?!(*≧m≦)プッ 下車場で待機していたキララ
楊谷寺参道 荘厳な石灯篭の並列 R79(高槻・柳谷線)を更に上ります!(;^_^A
浄土谷西山々頂のNTT電波塔(R79) 浄土谷、天王山(R79) 浄土谷への山道
男山が見えます!・・・浄土谷への山道 のどかな山村の風情(浄土谷)
御谷(みたに)神社

天児屋根命(あめのこやねのみこと)を祭神とする村の産土神で元は五社神社(祭神:伊勢、八幡、春日、稲荷、加茂)と言ったが明治になって式内御谷神社と改名しました。創祀沿革は明らかでなく式内社指定になった事由もよく分かりません。頗る哀徴しています。

鳥居 本殿 乗願寺
乗願(じょうがん)寺

浄土谷に現存する唯一の寺で浄土山と号し恵心僧都を開基とする西山浄土宗の寺です。恵心僧都が柳谷に浄業した際に二十五来迎の奇瑞を拝し寺院を創建して阿弥陀仏を安置したのが始まりとされます。本尊・阿弥陀坐像(京都府指定文化財:藤原期)は玉眼入、寄木造、漆箔押で定印を結んで八角の蓮華座上に座する丈六の巨像で俗に乗願寺大仏と呼ばれています。当寺は御谷神社の神宮寺の後身と思われ天文23年(1554年)、湯河次郎左衛門春信が御谷神社の本殿を修理した旨の棟札一枚を有しています。

本堂 弥勒谷十三石仏(R79:柳谷、浄土谷分岐地点)
土御門(つちみかど)天皇金原陵

南面する八角形の御陵で周囲に空湟を巡らし陵上には樹木が鬱蒼と茂っています。天皇は後鳥羽天皇の第一子で建久6年(1195年)に誕生され4才で即位し在位13年、承元4年(1210年)、皇弟・順徳天皇に譲位後は富小路殿に閑居されていたが「承久の変」に後鳥羽、順徳両帝が隠岐と佐渡に配流され、直接事件に関与されなかったものの京都に留まるのを不本意とし自ら土佐(高知県)に遷り、次いで阿波(徳島県)に遷られ配所にある事10年、寛喜3年(1231年)10月11日、37才で崩御し阿波で火葬にされ2年後、遺骨は当地に奏葬されました。因みに元ここには天皇の母后(承明門院)が建立された金原の御堂があったが中世に御堂も御陵も荒廃し付近の地蔵院が管理していました。陵は石塚と呼ばれ江戸時代には封土が破壊され石棺が露出していましたが文久3年(1863年)に修復されたと伝えます。

土御門天皇金原陵
小倉神社

延喜式内社で乙訓地方で最も古社の一とされ大山崎町(円明寺)の産土神で祭神は建甕槌命(たけみかづちのみこと)他、三神を祀ります。背後の竹林に鳥居前古墳という4世紀末期に築かれた前方後円墳があり、その被葬者が後に神格化されたとも考えられています。社伝によれば養老2年(718年)に勧請され、平安遷都後、皇室の崇敬が篤く、文徳天皇の時、延喜の制に名神大社に列せられ神社として最高位である正一位の神階を与えられ正一位小倉大明神と号しましたが、度々の火災により記録を焼失し社歴は明らかでありません。神社には宮座が多くありますが、宮座毎に行う直会 (なおらい:神事が終わった後、神酒、神饌を頂く酒宴)については、茎座(くきざ)、餅座などと称する独特なものがあったとされます。天王山合戦時に豊臣秀吉は片桐且元を遣わし戦勝祈願をしたとも伝えられます。

市内の眺望 小倉神社 鳥居
拝殿、本殿参道 割り拝殿 拝殿
本殿 十二支石像 円明教寺
円明教寺とお茶屋ノ池

天王山の北麓にあって俗に山寺と言われますが正しくは医王山と号する真言宗東寺派の寺で元は円明寺と言ったが明治以降今の寺号に改めました。寺伝によると当寺は九条道家の再建と伝え道家の子・実経(さねつね)は傍らに山荘を構え隠栖しました。往時の規模は明らかにしないが今尚、付近に薬師前、仏生田、大門脇などの地名があり門前近くにある「お茶屋ノ池」は「九条池」とも言われ当時の苑園池の一部と伝わります。

本堂 お茶屋ノ池

市内の眺望 夕暮れの西山
夕暮れの西山

Tourist  2005.03.07(M)

 

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