宝福寺 |
木挽町の金毘羅さんで知られ元は伏見九郷の森村(御香宮の南)に
あったが、応仁の乱(1467〜77年)の兵火に掛かり一時、大椋(おおぐら)神社の神官寺として瑞応院と号しました。永禄2年(1559年)、出雲国野崎浦の城主・野崎備前守が、たまたま伏見に来住した時、瑞応院が荒廃しているのを嘆き自らが開基となり真言宗・久祥院として再興し富明(ふみょう)法印を住職としました。文禄3年(1594年)、豊臣秀吉の伏見城築城に際し式内社大椋神社は村諸共、外堀西北の住吉町に移され久祥院も現在地に移転しました。慶長4年(1599年)、薩摩国川辺郷の曹洞宗「宝福寺」11代日孝芳旭和尚(ほうぎょくおしょう)を招いて再々興としその末寺として久祥山宝福寺と号し今に至る曹洞宗永平寺派の寺です。豊臣秀吉と淀殿ゆかりの子授け陰陽石(跨げ石)や道元禅師慕古の旅発願の寺として顕彰碑が建っています。座禅堂では座禅が無料体験できます。 |
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宝福寺 |
ハナミズキ |
今は、子宝にご利益!以前は、触ると祟られた?!天狗面 |
伏見城内の学問所にあった金毘羅堂(座禅堂)は、元和6年(1620年)、寺社奉行・山口駿賀守が堂と羅漢像2体、豊臣秀吉と淀殿が「子授成就」の祈願をし嫡子・秀頼を授かったと伝える「陰陽石」とその秘仏を当寺に安置したと伝えます。軒下にかかげる木彫の天狗面は古来、触ると祟りがあると恐れられていましたが近年、天狗の鼻を男性々器に見立て子授け信仰の一つになっています。(;^◇^ゞ |
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金毘羅堂(坐禅堂) |
古来、触ると祟られると恐れられた大天狗面 |
本堂 |
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酒蔵@新高瀬川 |
稲荷山@新高瀬川、疎水放水路合流地点 |
鳥羽離宮を偲ばせる安楽寿院 |
安楽寿院、近衛天皇陵(安楽寿院多宝塔) |
安楽寿院・・・今は往時を偲ぶ形跡もない鳥羽離宮跡の中で、辛うじて
往時をしのべるのが安楽寿院。鳥羽上皇が
東殿の境内に建立した御堂です。元は鳥羽離宮の東殿だった訳ですが、平安時代後期、保延3年(1137年)に覚行法親王が寺に改めた事に始まります。近衛天皇陵(安楽寿院多宝塔)・・・近衛天皇は、3歳で即位し在位14年。久寿2年(1155年)、近衛殿にて17歳で崩御。長寛元年(1163年)、この地に埋葬されました。天皇陵に多宝塔が
建つのは珍しいです。御陵建物は応仁の乱などの戦火で数度焼失しました。慶長11年(1606年)に豊臣秀頼が、再建しました。 |
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近衛天皇陵(安楽寿院多宝塔) |
安楽寿院 |
阿弥陀三尊石像 |
釈迦三尊石像と薬師三尊石像は質素な祠の中にありますが、は京都国立博物館に保管されているそうです。また、これら石像には歯痛平癒の信仰があるそうです。 |
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フジの花咲く本堂 |
三尊石仏(左・薬師三尊石像、釈迦三尊石像) |
鳥羽、白河法皇院政之地碑 |
鳥羽天皇陵 |
籠妃・美福門院が、生み奉った近衛天皇を3歳で位につけ、後白河天皇を擁立するなど保元の乱因を作った事で史上有名な天皇で保元元年(1156年)、鳥羽殿において崩御されました。
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冠石 |
鳥羽天皇陵(安楽寿院陵) |
五輪石塔(重文:鎌倉期) |
白河天皇陵 |
鳥羽天皇が、白河法皇の菩提を弔うために鳥羽離宮の傍に成菩提院を建立し改葬しました。
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白河天皇陵(成菩提院陵) |
鳥羽離宮遺跡の成菩提院塚 |
城南宮 |
城南宮の由緒は、上古の時代、神功皇后は出陣に当たり、軍船の御旗に八千矛神を招き寄せて戦勝を祈願され、戦が終わると御旗は宮中で大切に保管されていました。桓武天皇が平安京に都を定めた時、御旗を城南の当地に御神体として納め、八千矛神(やちほこのかみ=大国主命:おおくにぬしのみこと)、国常立尊(くにのとこたちのみこと)、息長帯日売命(おきながたらしひめのみこと=神功皇后:じんぐうこうごう)の三柱、伊勢、石清水神社など七社が合祀され、都の南を擁護する神として祀られた。御旗の日月星の紋章が城南宮の三光の神紋の由来と云われています。 |
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城南宮 |
伏見名水「菊水若水」@手水舎 |
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桂川@久我橋 |
JR東海道新幹線 |
阪急電車京都線 |
(北)真経寺 |
鶏冠山(かいでざん)と号する日蓮宗の寺院で南真経寺と同一寺でしたが承応3年(1654年)、幕府の仏教統制によって分立しました。元は真言宗の寺院でしたが徳治2年(1307年)、住職・実賢律師が日像上人の教化に心酔し日蓮宗に改宗し西陣の妙顕寺、深草の宝塔寺と同時代にできた法華弘通道場でした。永仁2年(1294年)、都に入った日像聖人は日蓮の教えを説き、次第に有力な町衆を信徒に加えて洛中に妙顕寺を建立し後醍醐天皇より独立した一宗として認可されましたが、それまでの40年間、比叡山を中心とする他宗からの迫害を受け度々、洛中から追放されました。江戸時代、僧侶の学校である壇林が置かれ、宗内僧徒の講学所として日蓮宗京都六檀林の一と言われました。壇林の面影を残す本堂は、当時の講堂にあたる貴重な建物で京都府登録文化財(建造物)に指定されています。 |
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北真経寺 |
境内 |
長岡京(宮)跡「築地跡」 |
昭和54年(1979年)、長岡宮を囲む築地塀(土塁)跡が発見されました。築地跡は長岡宮内裏内郭築地回廊の真南の一直線上にあたり、長岡宮の建物が基本設計図である条坊制に基づき規則的に造営された事を裏付けています。 |
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本堂 |
長岡京築地跡 |
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長岡京築地跡 |
向日社芝斎場 |
(南)真経寺 |
阪急電鉄を挟んで東西二寺に分かれ東を鶏冠山(かいでざん)北真経寺、西を鶏冠山(けいかんざん)南真経寺と称します。いずれも日蓮宗京都六檀林の一として世に知られました。元、真言宗でしたが明暦2年(1307年)、通明院日祥はここに檀林を設け宗内僧徒の請学所とし寺を二分しました。明治初年の廃檀後衰退しました。しかし、寺宝に日像上人筆の本尊曼荼羅、日蓮・日朗両上人画像、尊性法親王の消息文を利用した摺写法華経十巻などを有しています。 |
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南真経寺 |
日像上人像 |
境内 |
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開山堂(京都府指定文化財(建造物)) |
本堂(京都府指定文化財(建造物)) |
石塔寺 |
石塔寺(せきとうじ) |
法性山と号する日蓮宗の中本山で日像上人を開山とします。京師七口に法華題目の石塔婆を建立せんとし向日神社の社頭に建てたが文明年間、日像上人がその傍らに一宇を建て石塔寺と名付けたのが当寺の起こりと伝えます。後に勧修寺宮の殿舎を賜り本堂を再建するなど興隆したが不受不施の禁制に遭い衰退しました。明治維新後、今の地に移り再建されました。 |
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七面堂(左)、塔堂 |
境内 |
粟生光明寺(あおうこうみょうじ) |
報国山と号する西山浄土宗の総本山で粟生光明寺と称され法然上人の廟所がある所として最も重んぜられています。法然上人の廟所は初め東山大谷にあったが安貞元年(1227年)、比叡山の僧徒にあばかれようとしたので遺弟らによって遺骸を太秦・来迎院に移し、次いで当地において荼毘に付し遺骨を納めて宗廊を築く時、法然上人の石棺から光明を放ち光明寺と名付けたと伝わります。当地は法然の徒弟・熊谷蓮生房(俗名・次郎直実)が建久年間(1190〜98年)、一宇の草庵をむすび、念仏三昧院と号し浄土往生を広めた所で、後に蓮生の徒弟・幸阿弥陀仏(こうあみだぶつ)に付与され、更に西山証空上人が入寺するに及んで西山派の根本道場となりました。当地は小塩山の支峰・鳥ヶ嶽麓に広大な地を占め、本堂以下多くの建物を有しますが、いずれも江戸時代以降の建造物です。 |
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花まつり(お釈迦さまの誕生日)の象さん@本堂 |
光明寺 |
高麗門 |
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秋は洛西屈指の紅葉の名所ですが八重桜が咲いています・・・ |
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Pちゃんズ?!σ(^◇^;)
心が和みます・・・童地蔵 |
阿弥陀堂 |
法然上人石棺 |
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法然上人袈裟祇之松 |
御影堂(本堂) |
庫裡(くり) |
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法然上人荼毘跡 |
楓の新緑が清々しい参道 |
乙訓寺(おとくにじ) |
大慈山と号する真言宗豊山派寺で推古天皇の勅願により聖徳太子の開創と伝わる乙訓地方最古の寺で境内には2000余株のボタンが植えられ4月下旬には華麗な大輪を咲かせ世にボタン寺とも称されています。境内から奈良時代の遺瓦を出土する為、延暦遷都以前に寺院があった事が想像されます。「水鏡」によれば延暦4年(785年)、皇太子・早良(さわら)親王は淡路島に配流される前に当寺にしばらく幽閉されたとされます。弘仁2年(811年)、弘法大師が当寺の別当に任ぜられ鎮護国家の道場となり、宇多法皇が脱履の始め当寺を行宮とされたので一に法皇寺とも号しました。弘法大師がこの寺に在住している時、伝教大師・最澄がこの寺を訪れて真言について教えを乞うたとも伝えられています。中世には禅宗南禅寺派となり応仁元年(1467年)〜文明9年(1477年)、応仁の乱の兵火により焼失衰微しましたが元禄6年(1693年)、徳川綱吉の生母・桂昌院の援助により再び真言宗として再興しました。本堂に安置される本尊合体大師像は弘法大師と八幡菩薩の合作と伝わり毘沙門堂には毘沙門天立像(重文:藤原期)を安置し明応2年(1493年)の修理銘を墨記した狛犬(室町期)が一対あります。★中世を延暦13年(794年)、平安京遷都〜慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦い迄の時代範囲としています。 |
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薬医門(四脚門) |
美しい大輪の花を咲かせるボタンは直射日光、雨風に大変弱く大切に育てられています・・・ |
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乙訓八景の一「ぼたんの乙訓寺」・・・毎年4月下旬〜5月上旬、境内に2000余株のボタンの大輪が色とりどりに美しく咲き乱れます・・・ |
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淡色のボタン |
弘法大師修行像 |
仏石塔 |
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本堂 |
奈良・長谷寺から取り寄せた2株のボタンが始まりと伝える2000余株のボタン |
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毘沙門堂 |
大切に育てられ色とりどりの大輪の花を咲かせている2000余株のボタン |
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2000余株のボタンは六〜七部咲き? |
八重桜 |
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色とりどりの大輪を花咲かせる境内のボタン |
早良親王供養塔 |
八条ケ池(長岡天満宮)と霧島ツツジ |
八条ケ池は、寛永15年(1638年)、当時の領主・八条宮智仁親王(桂宮)が灌漑用の溜め池を改造成した大池で八条ヶ池を二分する中堤は参道になっています。中堤道両脇に推定樹齢百数十年の霧島ツツジ(市指定天然記念物)が群生し、八条ヶ池の中堤道の真中道に架かる石の太鼓橋は加賀藩・前田候の寄進と伝えます。
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八条ヶ池@長岡天満宮 |
八条ヶ池と霧島ツツジ |
長岡天満宮 |
一に長岡天神ともいい、菅原道真を祭神とします。社伝によれぱ昌泰4年(901年)、道真が筑紫左遷時に随従の中小路祐房に与えた自画像を安置して祀った事が当社の縁起と伝えます。洛南、特に桂川流域には道真の遺蹟、伝説が多くいずれも道真の遺徳を追慕して後に作られたもので当社もその一つです。中世その沿革を明らかにしないが江戸時代に当地が八条宮(桂宮)智仁親王の領地であった関係から同宮の崇敬を受け延宝4年(1676年)、社殿を改築し霊元天皇の勅額を賜りました。現在の本殿は、昭和16年(1941年)、平安神宮の社殿を移築したものです。
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長岡天満宮 |
霧島ツツジ |
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毎年、4月下旬〜5月上旬に見事な濃紅色の霧島ツツジが咲き誇ります・・・ |
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乙訓八景『八条ヶ池とキリシマツツジの長岡天満宮』 |
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見事に咲き誇る霧島ツツジ |
ツツジ |
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八重桜 |
草津の湊(桂川と鴨川合流点)@羽束師橋 |
お〜
なぜか???Pちゃん登場でつ! σ(^◇^;) |
伏見名水「菊水若水」 |
江戸時代の随筆に「城南宮の菊水(延命水・若水ともいう)の水を飲むと、病が治るというので参詣者が絶えない。」と記されています。
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再び城南宮 |
伏見名水「菊水若水」@手水舎 |
鴨川遊歩道を京川橋へチャリチャリ・・・ |
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桂川と水閣の郷「久我」@久我橋 |
お〜Pちゃん、飛ばしますなぁ〜(;^◇^ゞ@久我橋 |
誕生寺 |
妙覚山誕生寺 |
誕生寺は妙覚山と号する曹洞宗の寺ですが、正しくは誕生山妙覚寺と号し曹洞宗の祖・道元禅師生誕地に因んで俗に誕生寺と称します。この地は久我家の旧跡と伝えられ明治初年同家が東京へ移住後、久しく凋落していたが大正8年(1919年)、永平寺貫主の47世・日置黙仙(ひおきもくせん)禅師によって道元禅師誕生地といわれる久我(くが)に越前国(福井県)小松荘にあった華厳山妙覚寺を移して当寺を建立しました。本堂に安置されている道元御尊像、50世玄透(げんとう)即中禅師木像も妙覚寺のままです。一説には道元禅師は鎌倉時代の正治2年(1200年)、母方の藤原基房の宇治山荘で生誕したとされ父は内大臣・久我通親(みちちか)、母は藤原基房(もとふさ)の女・則子と伝えます。幼にして出家剃髪し建仁寺の栄西に禅を学び宋国へ渡って修学しました。帰国後、深草や宇治(興聖寺)において教化に務め晩年、越前に赴き永平寺を創建しました。名門の出でありながら権勢に近寄らず名利に捉われず理論を捨て体験による行の宗教を強く主張した鎌倉時代の偉僧です。建長5年(1253年)8月、西洞院高辻の俗弟子・覚念邸で54歳で没しました。昭和63年(1988年)11月に本堂や庫裡など伽藍の再興もされました。私的に尊敬する僧の一人です。 |
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道元さん、ご存知?「イナバウアぁ〜」\(●⌒∇⌒●)/ |
山門 |
道元禅師とPちゃん幼少像
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どもども |
ブッタカヤの仏足跡(水琴窟) |
『布教の為に印度(インド)をくまなく歩かれたお釈迦様の足を洗ってあげて下さい。お釈迦様の「ありがとう」という声が聞こえます?』と書かれてあり水を流すと大変良い音色のする水琴窟(すいきんくつ)です。 |
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道元禅師産湯の井戸 |
宝篋印塔(ほうきょういんとう:道元禅師両親墓) |
水琴窟(ブッタカヤの仏足跡)を楽しみます!!! |
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本堂 |
霧島ツツジ@日蓮宗・本清寺山門 |
出ましたぁ〜?!駄菓子屋さんで休憩中!
(;^◇^ゞ |
Tourist
2006.5.01(M) |