「乙訓(おとくに)八景」花めぐりPartU

 

乙訓の 都は狭き 夏野かな 木母庵

 

乙訓寺(おとくにじ)〜八条ケ池と霧島ツツジ、長岡天満宮〜楊谷寺(柳谷観音寺)〜乗願寺〜御谷神社〜寂照院〜勝龍寺城跡公園〜勝龍寺

 

長岡の花の寺、勝龍寺城跡探訪

長岡の花の寺・・・菅原道真が大宰府に赴く途中、当地に立ち寄り名残りを惜しんだと伝える長岡天満宮。法然上人が最初に念仏の教えを説いた所と伝える光明寺。乙訓地方最古の寺で聖徳太子が創建したと伝える乙訓寺。古い歴史を持つこれらの社寺は『八条ヶ池とキリシマツツジの長岡天満宮』、『もみじの光明寺』、『ぼたんの乙訓寺』としても有名で『乙訓八景』に選定されています。勝龍寺跡城・・・天正10年(1582年)、京都本能寺に織田信長を討った明智光秀は、駆けつけた羽柴秀吉と天王山で戦って敗れ細川忠興の勝龍寺城に逃れた後、近江坂本城へ逃れる途中伏見の小栗栖で襲撃に遭い落命しました。光秀の三女で細川忠興の妻・ガラシャ(玉)も又、関ヶ原の戦いの際、大阪城への人質となる事を拒んで自害しました。城の中心部は本丸と沼田丸に分かれ外郭施設には城の北側を守る為の土塁跡、空掘跡が神足神社周辺に今も残されています。

草津の湊(桂川と鴨川(右)合流地点辺り) 楊谷寺(柳谷観音)のある西山方面 JR東海道新幹線
一文橋(いちもんばし)

説明碑によれば、京と摂津(西宮)をむすぶ西国街道に架かるこの橋は室町時代頃に造られた有料の橋でした。大雨の度に小畑川が氾濫し橋が流され、架け替え費用の負担金としてを通行人から銭一文を取り始めたのが橋名の由来と伝えます。

JR東海道本線 一文橋(小畑川) 阪急電車京都線
乙訓寺(おとくにじ)

大慈山と号する真言宗豊山派寺で推古天皇の勅願により聖徳太子の開創と伝わる乙訓地方最古の寺で境内には2000余株のボタンが植えられ4月下旬には華麗な大輪を咲かせ世にボタン寺とも称されています。境内から奈良時代の遺瓦を出土する為、延暦遷都以前に寺院があった事が想像されます。「水鏡」によれば延暦4年(785年)、皇太子・早良(さわら)親王は淡路島に配流される前に当寺にしばらく幽閉されたとされます。弘仁2年(811年)、弘法大師が当寺の別当に任ぜられ鎮護国家の道場となり、宇多法皇が脱履の始め当寺を行宮とされたので一に法皇寺とも号しました。弘法大師がこの寺に在住している時、伝教大師・最澄がこの寺を訪れて真言について教えを乞うたとも伝えられています。中世には禅宗南禅寺派となり応仁元年(1467年)〜文明9年(1477年)、応仁の乱の兵火により焼失衰微しましたが元禄6年(1693年)、徳川綱吉の生母・桂昌院の援助により再び真言宗として再興しました。本堂に安置される本尊合体大師像は弘法大師と八幡菩薩の合作と伝わり毘沙門堂には毘沙門天立像(重文:藤原期)を安置し明応2年(1493年)の修理銘を墨記した狛犬(室町期)が一対あります。中世を延暦13年(794年)、平安京遷都〜慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦い迄の時代範囲としています。

乙訓寺(薬医門) 待機のキララちゃん・・・ 参道
黄色や白色のボタンの大輪の花が美しい・・・乙訓八景の一「ぼたんの乙訓寺」
ボタンは雨風、直射日光に弱いので日除け簾がされています・・・ 仏石塔と日限地蔵堂(右奥)
十三重塔と早良親王供養塔(右) 早良親王供養塔 弘法大師修行像
本堂 弘法大師所縁のミカンの木
弘法大師所縁のミカンの木の駒札 乙訓寺のモチノキと駒札

八条ケ池(長岡天満宮)と霧島ツツジ

八条ケ池は、寛永15年(1638年)、当時の領主・八条宮智仁親王(桂宮)が灌漑用の溜め池を改造成した大池で八条ヶ池を二分する中堤は参道になっています。中堤道両脇に推定樹齢百数十年の霧島ツツジ(市指定天然記念物)が群生し、八条ヶ池の中堤道の真中道に架かる石の太鼓橋は加賀藩・前田候の寄進と伝える。

風に泳ぐ鯉幟 八条ヶ池(長岡天満宮)
乙訓八景の一「八条ヶ池とキリシマツツジの長岡天満宮

長岡天満宮

一に長岡天神ともいい、菅原道真を祭神とします。社伝によれぱ昌泰4年(901年)、道真が筑紫左遷時に随従の中小路祐房に与えた自画像を安置して祀った事が当社の縁起と伝えます。洛南、特に桂川流域には道真の遺蹟、伝説が多くいずれも道真の遺徳を追慕して後に作られたもので当社もその一つです。中世その沿革を明らかにしないが江戸時代に当地が八条宮(桂宮)智仁親王の領地であった関係から同宮の崇敬を受け延宝4年(1676年)、社殿を改築し霊元天皇の勅額を賜りました。現在の本殿は、昭和16年(1941年)、平安神宮の社殿を移築したものです。

長岡天満宮一の大鳥居 満開の霧島ツツジ@参道
毎年、4月下旬〜5月上旬に見事な濃紅色の霧島ツツジが咲き誇ります・・・
水上橋 見事に咲き誇る霧島ツツジ
見事に咲き誇る霧島ツツジと八条ヶ池 霧島ツツジとキララちゃん
見事に咲き誇るツツジ
長岡天満宮の大鳥居 飛行船が飛来@八条ヶ池 楊谷寺へチャリチャリ・・・(R79:高槻・柳谷線)
弥勒谷十三石仏(R79:柳谷、浄土谷分岐点) ここより楊谷寺聖域 石灯篭の並列
楊谷(ようこく)寺(柳谷観音寺)

立願山(一に柳岩山に作る)楊谷寺と号する西山浄土宗光明寺派の寺です。昔、山中から清泉が湧き出し眼病治癒に応験があり井水の傍に観音像を祀ったのが当寺の起こりとされ平安末期の承保年間(1064年〜76年)、水観(一に水願)上人の開創と伝えますが、寺伝によると京都東山清水寺開創の延鎮僧都によって大同元年(806年)に開山され、僧都はある夜、夢の中に観音菩薩が現れ京都西山へ行けば生身の観音菩薩を仰ぐことが出来るとのお告げを受けて西山に踏み入り柳の生い茂る渓谷の巌上に夢告の観音菩薩(十一面千手千眼観世音菩薩)を発見し僧都はその場所に堂宇を建て日夜給仕しましたが清水寺の本尊を刻む為に帰洛したとされます。後世、荒廃していたが元禄年間に再興したとされ建物は新しいです。毎月の17日の縁日のみ阪急バスが運行され参拝者で賑わいます。庭園は京都府指定名勝、本堂、庫裡、書院、山門は京都府登録文化財に指定されています。

楊谷寺参道 山門(京都府登録文化財)
境内 阿弥陀堂 お火除けさま(四国八十八ヶ所霊場本尊模刻仏)
本堂 楊谷寺俯瞰@あじさいの道
奥ノ院 本堂(奥ノ院)
石版を背負う天邪鬼がいる愛染堂(あいりきさん) 遠くに比叡山 楊谷寺俯瞰@あじさいの道
独鈷水(おこうすい)

開山・延鎮僧都が清水寺に帰られた後、弘法大師が当寺に参詣した時、堂傍のたまり水でサルの親が子猿の目を一生懸命洗っていました。そして17日目に子猿の目がパッチリ開いたところを見て、弘法大師はその不思議な水を眼病に悩む人々の為に霊験あらたかな霊水にしようと、日夜加持祈祷を施し独鈷(古代インドの武器、現在は仏具)で掘り広げられました。そして大師の法力による霊験水「独鈷水(おこうすい)」が湧き出ています「独鈷水(おこうすい)」は、普段自由に汲めますが少しづつ溜められている貴重な水で、眼病平癒の霊水としても信仰を集めています。決して粗末に扱わないで汲んだ水を一度観音様にお供えしてから持ち帰るのが慣わしです。

神徳水 当山守護神の眼力稲荷 独鈷水場
眼病平癒の霊水独鈷水 弘法大師像、観音像 「四国八十八ヶ所御砂踏み」 あしからず?!
観音さまが見守る境内 楊谷寺参道
待機していたキララちゃん 楊谷寺を後にします・・・ 浄土谷西山々頂付近に咲くツツジ
乗願(じょうがん)寺

浄土谷に現存する唯一の寺で浄土山と号し恵心僧都を開基とする西山浄土宗の寺です。恵心僧都が柳谷に浄業した際に二十五来迎の奇瑞を拝し寺院を創建して阿弥陀仏を安置したのが始まりとされます。本尊・阿弥陀坐像(京都府指定文化財:藤原期)は玉眼入、寄木造、漆箔押で定印を結んで八角の蓮華座上に座する丈六の巨像で俗に乗願寺大仏、西山の大仏と呼ばれています。当寺は御谷神社の神宮寺の後身と思われ天文23年(1554年)、湯河次郎左衛門春信が御谷神社の本殿を修理した旨の棟札一枚を有しています。

快適なダウンヒル フジですが・・・ヤマフジ?紫色なのでノダフジ?? 乗願寺(乗願寺大仏:西山の大仏)
境内 本堂
御谷(みたに)神社

天児屋根命(あめのこやねのみこと)を祭神とする村の産土神で元は五社神社(祭神:伊勢、八幡、春日、稲荷、加茂)と言ったが明治になって式内御谷神社と改名しました。創祀沿革は明らかでなく式内社指定になった事由もよく分かりませんが、頗る哀徴しています。

阿弥陀坐像(京都府指定文化財:藤原期) 御谷神社
快適なダウンヒル 山間の棚田
棚田に咲くレンゲ 弥勒谷十三石仏(R79:柳谷、浄土谷分岐点) 砂防ダム池
寂照(じゃくしょう)院

木上山(このかみのやま)と号し道雄僧都(どうゆうそうず)が創建した海印寺十寺の一とされ元は真言宗でしたが今は単立寺院となっています。創建はすこぶる古く「文徳実録」によれば道雄僧都はかねてより一寺を建立したいと願ったがたまたま夢に木上山が景勝地である事を知り弘仁10年(819年)、勅許を得て伽藍を造営し観音像を安置して海印寺と号しました。元慶4年(880年)、清和天皇は勝尾山より帰洛の途路、当寺に立ち寄られ俄に水尾山寺に出家された事があり皇室との因果も浅からぬ名刹でした。往時は寺領も広く今の奥海印寺、下海印寺は当寺伽藍の旧跡地と伝えます。海印寺は子院十院を数える大寺でしたが、応仁の兵火で一山焼亡し今は寂照院の一坊を残すのみとなりました。一説に道元禅師が、当地に我が国で始めて孟宗竹を植え乙訓のタケノコの発祥地と伝えます。

快適なダウンヒルo(*^▽^*)o 寂照院
日本孟宗竹(乙訓のタケノコ)発祥之地碑 本堂 開発されつつある里山
快適なダウンヒルo(*^▽^*)o 長岡天満宮通過・・・ 石田家住宅(国登録有形文化財)
石田家住宅説明パネル 沼田丸跡 沼田丸跡説明パネル
勝龍寺(しょうりゅうじ)城跡公園

戦国時代、明智光秀の三女・玉(細川ガラシャ)が、細川忠興(ただおき)に嫁いだ城としても知られる勝竜寺城は暦応2年(1339年)、細川頼春によって築城され応仁の乱時に畠山義就が攻略し拠城としたが永禄11年(1568年)、織田信長の近畿平定により細川藤孝の攻撃により落城したが藤孝はこの時の武功により長岡の荘地を賜り城を修築しました。天正10年(1582年)6月13日、山崎の合戦に明智光秀が当城を本陣として秀吉勢を迎え撃った為、城は兵火により荒廃してからは再建されませんでした。平成4年(1992年)、勝竜寺城跡公園として整備され毎年11月に「長岡京ガラシャ祭」が開催されています。

沼田丸井戸跡 沼田丸井戸跡説明パネル 勝龍寺城跡公園
勝龍寺城跡公園 細川忠興(ただおき)と玉(ガラシャ)夫婦像 多聞櫓への階段と東辺土塁
城壁と堀 石仏祠(鎌倉〜桃山期?) 資料館
細川忠興(ただおき)と玉(ガラシャ)夫婦画像 公園内@資料館 城壁
勝龍寺

寺伝によると大同5年(806年)、弘法大師空海が、唐長安の青竜寺の名をとって創建し、恵解山青竜寺(いげのやましょうりゅうじ)と号し観音堂始め九十九坊が建てられた伝わります。大干ばつの時に千観和上の雨乞いの祈祷により雨が降り、応和2年(962)千観和上によって竜神に勝ったという意味から勝竜寺と改めたと伝える。往時は多くの子院を擁する大寺であったが中世の兵火に被災し今日に至る。

城壁、多聞櫓(たもんやぐら)と堀 勝龍寺 仏石群
撫で仏「賓頭盧尊者:びんずるそんじゃ」 本堂 村社・春日神社の鳥居
春日神社々殿 洛西観音霊場札所第13番「観音寺」
神足(こうたり)神社

旧神足村の産土神で「文徳実録」に斎衡元年(854年)10月に官社に列せられ延喜の制には国家の祭祀に預かっています。乙訓中有数の古社ですが縁起は明らかではありません。鎮座地は小畑川に臨んで一際高台にあり背後は元、谷となっていた為、俗にコウダニ、コウダンと呼んでいました。コウダニは神谷でこれが訛ってコウタリになったと伝わります。境内の凝灰岩の切石や社務所などの沓脱石は付近の恵解山古墳から発掘した石室の天井石と言われています。

境内@観音寺 神足神社 境内
本殿 桂川と鴨川(右)合流地点@羽束師橋 夕暮れ迫る西山

Tourist  2006.5.08(M)

 

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