『洛中、洛外図』上京探訪ウォーキング

 

とにかくに たくみし桶の 底ぬけて 水たまらねば 月もやどらず 無外如大尼(千代野姫)

 

椿寺(地蔵院)〜北野天満宮〜千本釈迦堂(大報恩寺)〜千本閻魔堂(引接寺)〜釘抜地蔵(石像寺)など上京ウォーキング

 

西陣

上京区の西北部で堀川より西、一条通より北の地域を称します。昔は大内裏北方の原野にして、古くは愛宕郡に属し概ね加茂の神領地でした。平安時代、比叡山の院家・安居(あぐ)院の坊舎ができるに及び洛北往還の要所となりました。応仁の乱で山名宗全がこの一画に陣を構えて西陣と称したのに対し細川勝元は堀川より東の犬馬場、西蔵口(せいぞうぐち)、小河、一条に陣して東陣と称したが西陣のみが地名として残りました。天正年中、豊臣秀吉は京政を一新し民業を保護してより土地が拓け、特に機業が盛んになりました。世に言う西陣織とは、この地に於いて生産される絹織物を言ったものですが、元々、西陣は平安時代に設置された織部司の織り手達が律令制の衰退後、大舎人座(おおとりねざ)を組織し上流階級の織物を調進してきました。江戸時代以降、幕府の保護と対明貿易でもたらされた豪華な織物に刺激され、更に能、茶の湯の興隆に伴って大いに振興しました。天明8年(1788年)の大火に類焼し又、天保の倹約令、明治天皇の車駕東行など幾多の紆余曲折を経て今日に至ります。西陣の中心部は、大宮今出川で大宮通は、西陣を南北に貫く幹線道路で両側には銀行、会社、商店などが軒を連ね最も旺盛を極めました。広い地域に亘って狭い道路が交差し、紅殻格子の奥深い家々から機を織る杼(しょ)の音が聞える屋内工業的な織屋街を呈しています。

徳川家康の二条城を描いた「洛中洛外図屏風」左隻(舟木本:東京国立博物館蔵)

豊臣秀吉の方広寺、豊国神社を描いた「洛中洛外図屏風」右隻(舟木本:東京国立博物館蔵)

81系統「竹田街道京都駅」@京都駅バス停 50系統「北大路車庫」@北野白梅町バス停 嵐電(京福電車)北野白梅町駅
椿寺(地蔵院)

椿寺とは、俗称で正しくは、地蔵院と言い、浄土宗知恩院派の寺で山号を毘陽山と号するのは、地蔵堂に安置する地蔵菩薩が、元、摂津国毘陽野の毘陽寺より移したものと伝えるからで、いつ頃に移したものか明らかではないです。初め、衣笠山の麓にあったのを天正年間、豊臣秀吉の命により、現在地に移したと伝え、地蔵堂背後の二枚開きの板扉(室町期)は、元、北野の多宝塔の遺構と伝えます。書院前の散椿は、樹齢約400余年に及ぶ五色の八重椿で元、朝鮮山城にあったのを文禄の役に加藤清正が携え帰って秀吉に献じたものと伝え秀吉は北野大茶湯の時に当院に寄進したと伝えます。毎年の3月末頃に咲き始め、5月の中頃まで花が咲きます。花は、真紅、純白、薄紅、紅白絞りなどの五色からなり、花時は実に見事です。その花びらが一片、々と散るので散り椿と言い、この銘木に因んで当寺を椿寺と言います。

椿寺(地蔵院)山門 樹齢約400余年と伝える五色の散椿 地蔵堂
大将軍八神社

この地は、平安京右京一条の大宮の西にあたり、御室を経て嵯峨に至る街道の要衝です。古くは、大将軍堂と言い祭神は素盞鳴命、その御子・五男三女の御子八神と聖武、桓武両帝を祀ります。桓武天皇が平安京遷都にあたり、王城鎮護の為に大和国春日より勧請し、京都の四方に営まれた大将軍の一と言うが明証がありません。大将軍とは、元、陰陽道に言う所の神で、西方の星、太白(金星)の精と言われる宵の明星の事です。五行思想に於いて金行は西にあたり、その色は白、性質は殺伐、そこで太白と言い大将軍(素盞鳴命)と言います。大将軍は、3年の間、方伯となって四方の地を守り、12年で一巡すると考えら歳徳神、天一神、金神として畏敬されました。八神とは、大歳神、大将軍、大陰神、歳刑神、歳破神、歳殺神、黄旛神、豹尾神を言ったもので、かかる陰陽道の信仰は帰化人によってもたらされ、神道と習合して素盞鳴命ともなり、仏教と習合して牛頭(ごず)天王となりました。当社が素盞鳴命を祀るのは、この為で当地に祀ったのは、ここが平安京内裏の西北角にあたり道饗(みちあえ)祭とは、京外より侵入する悪神を京の四隅の路上で饗応し侵入を押し留める為に行う祭儀を言います。当社は、方除けの神、疫病の神として朝野の崇敬を受け「山槐記」によれば、治承2年(1178年)11月12日、中宮(建礼門院)安産祈願に勅使を派遣された事が記されるので、それ以前に神祠が設けられていた事が、想像され、中世には祇園八坂神社の支配するところとなりました。

大将軍八神社 境内 梅花

京都市電北野線記念碑

        

京電は北野天満宮境内まで乗り入れたので、参詣者の雑踏を、先走りの少年が「のいとくれやっしゃ〜!電車が来まっせ〜!!危のうおまっせ〜!!!」と声掛けしながら走っています。

「保存版 京都の市電」 立風書房

明治27年(1894年)に創立された京都電気鉄道株式会社(京電)のチンチン電車は、明治28年(1895年)2月1日、日本で初めての路面電車として伏見線(塩小路高倉〜伏見油掛)を走らせました。同年9月24日、京都駅附近の七条を起点として東(木屋町通)と西(西洞院から堀川通)から北上し、堀川下立売で合流して北野天満宮に至る北野線が開通しましたが、昭和36年(1961年)7月31日に廃線になりました。

本殿 おぉ〜 見事な金魚くんでつ σ(^◇^;) 京都市電北野線記念碑
北野天満宮

菅原道真を祭神とする旧官幣中社で北野神社、北野天神とも呼ばれ境内には50種約2000本の梅が植えられ例年2月初旬〜梅苑が公開されます。創建はすこぶる古く、天慶5年(942年)に神霊を勧請し天満天神として崇めたのに始まり藤原師輔(もろすけ)は神殿を造営し神宝を献じ永延元年(987年)、一条天皇の令により初めて勅祭が執り行われ「北野天満宮天神」の神号を得て二十二社の幣例に加えられました。道真は「和魂漢才」の精神を以って学問に勤しまれ、幼少の頃より文才を表し、朝廷の官吏として活躍しました。寛弘元年(1004年)、一条天皇の行幸以来、歴代天皇の行幸多く、奉幣祈願の絶える事なく江戸時代には文道の大祖・風月の本主と崇められ全国各地に神霊を勧請し分社が建立され「北野の天神さん」と親しまれ「東寺の弘法さん」と共に市民に崇敬されています。

北野天満宮@今出川通り 一の大鳥居 初雪の日に神が降臨すると伝える影向松
参道沿いの梅花 観音寺
蜘蛛塚、忌明(いみあけ)塔

蜘蛛塚・・・石灯篭の残欠火袋を言い、蜘蛛塚は一に山伏塚とも言い、元、七本松通一条上ル清和院の西門前にあって隆然たる墳丘をなしていました。源頼光を悩ませた蜘蛛の棲息していた所と言われ江戸時代には塚の傍で舞台を設け、時々猿楽などを演じると開演期間中に必ず、雨が降るので塚の祟りだと噂されたと伝えます。「京都坊目誌」によれば明治31年に塚を破却したところ石仏や墓標、石塔、石灯篭の破損したものが出土し考証に資すべきものはなかった。ここにある火袋はその時の遺物を移したものと言われます。五輪石塔三基は、元、北野の東、馬喰町の民家裏にあった無名古墳のもので、金売橘(吉)次の墓との説がありますが、信ずるに足るようなものではないです。忌明塔・・・高さ2mに及ぶ巨大な五輪石塔(鎌倉期)で、元は伴氏社(ともうじのやしろ)にあったものを明治4年にここへ移しました。菅公御母大伴氏の廟とも言い、一説には山名氏清塔とも言われ諸説多くして何れにも定め難い。忌明の塔と言うのは昔、父母を亡くした人が49日の喪に服し忌明けの50日目に、この塔に詣る風習があったからで既に室町時代頃から行われていました。尚、忌明塔としては石清水八幡宮、寺町革堂、東山知恩院にもあります。

蜘蛛塚と金売橘(吉)次の墓?五輪石塔 忌明(いみあけ)塔 本堂
梅花繚乱@梅苑 文道の大祖・風月の本主の額を掲げる楼門
連歌井戸

連歌堂は、この井戸の西、築地(御土居)の上にありましたが明治維新の時に廃されました。中古、連歌の盛んな頃は、ここに宗砌(そうぜい)、宗祇(そうぎ)を始め、代々の名匠が奉行となり毎月25日に法楽連歌を行いました。

梅香水(手水) 連歌井戸 花見の酒宴でホロ酔い?赤目の撫で牛さん
見事に咲き乱れる梅花@境内
中門(三光門/重文:桃山期)

後西天皇御宸筆による「天満宮」の勅額を掲げる中門は慶長12年(1607年)11月13日に建立された桃山風の装飾彫刻を施した四脚唐門で梁間に日輪、月輪、三日月の三光を彫刻するので三光門とも呼ばれます。日、月、星が門に彫られているので三光門という説がありますが平安京造営当初の大内裏が千本丸太町にあったので旧大極殿が天満宮の真南に位置し、帝が当宮を遥拝されるにあたり三光門真上に北極星が瞬いていたと伝え星は刻まれていません。本殿は朝廷や将軍家が造営修繕に当たりました。

豊臣秀頼が再建した中門(三光門) 入母屋造の楽の間を付し屋根が融合しているので一に「八棟造:やつむねづくり」と呼ばれる社殿
本殿(国宝:桃山期)

慶長12年(1607年)、豊臣秀頼が造営したもので、この時に作られた中門、東門、絵馬堂、神楽殿、校倉等も現存しています。この社殿造営は、豊臣秀吉の遺志であったと伝えます。古来、神社祭祀は庭上で行われていたので、壮大な殿内で祭典を執行する当宮現社殿の出現は神社建築史上画期的なものとされます。八棟造と称され総面積約500坪の雄大な桧皮葺屋根を戴く大威容は、造営当時の豪華絢爛な桃山文化を伝えます。

撫で牛さん 桧皮葺の本殿(国宝:桃山期) 北野天満宮東門
京都最古の花街・上七軒(かみしちけん)

祇園を初め幾つかの花街がありますが、上七軒は最も古く、室町時代に北野天満宮造営に使った残木で七軒の水茶屋を建てたのが起こりと伝えます。豊臣秀吉が北野で大茶湯をした時、七軒茶屋に立ち寄ったところ、お茶屋の者が御手洗団子(みたらしだんご)を献じたので、その賞とて山城一円の茶屋株(遊女屋)の特許を与えたと伝えます。江戸時代、北野天満宮の参拝者を対象とし大いに栄えましたが、後に遊女屋渡世の者が内野五番町に出店を出すに及んで漸次、芸妓を主とするに至りました。特に西陣を近くに控えているので顧客は、専ら西陣の機業家を主とし、他の花街と比して比較的地味、古風が特色です。昭和35年に於いてお茶屋は32軒、芸妓は40名弱でした。今でも10軒のお茶屋と飲食店が軒を連ねて往時の面影が残っています。毎年春(4/15〜4/25)には「北野をどり」、秋には「寿会」が上七軒歌舞練場(北野会館)で催されます。

京都最古の花街、上七軒と駒札 花街の中にひっそりと鎮座する光盛大明神
「北野をどり」、「寿会」催される上七軒歌舞練場(北野会館)
千本釈迦堂(大報恩寺:だいほうおんじ)

瑞応山と号する新義真言宗智山派の寺で釈迦如来像を安置する事から世に「千本釈迦堂」と言い、昔は嵯峨釈迦堂(清涼寺)と並んで釈迦如来信仰の中心をなしました。「本朝高僧伝」巻65に記す「京兆大報恩寺沙門義空伝」によると当寺の開山求法上人義空は、羽州の生まれで藤原秀衝(ひでひら)の遠孫に当たると言われ父は、忠明と言い母は薬師如来に祈って日輪を呑む夢を見て上人を生んだと伝えます。幼少より学問を好み鎌倉に出て修行し次いで、比叡山に登って澄憲法師に謁し天台密教を会得しました。常に石清水、北野、天王寺に詣で、仏法相応の霊地を得ん事を祈りました、たまたま、猫間中納言光隆卿の家卒・岸高なる人が千本の地を捨てて上人に寄進したので、ここに小堂を構え、一仏十弟子像を安置したのが承久3年(1221年)で当寺の起こりと伝えます。次いで貞応2年(1223年)、大堂を建てんと欲したが、大黒柱がないので大工達は、いかんとする事もできませんでした。ところが、摂津尼崎に浄金(成金)という材木商がいて、ある夜の夢に金色白眉の老僧が現れ、洛北に一つの精舎が建てられているがついては、お前が所蔵する巨材を心柱にしたいから是非、売ってくれと言いました。浄金がその申し出に応じたところ「大報恩寺」なる印を木頭に刻んだ。と思うと夢が覚め、見ると材木に印文が燦然と記されていたので大いに感嘆しました。早速、京都に上って大報恩寺を訪ねると堂内に安置する釈迦尊者像が夢見にした老荘でした。浄金は早速、材木を提供したので大堂も不日に完成したと伝えます。初め、倶舎、天台、真言三宗弘通の霊場として往時は堂塔伽藍も完備し壮麗を極めましたが、中世の兵乱によって多くを焼亡しましたが、鎌倉初期に建てられた本堂(釈迦堂)は、応仁の乱、大永の乱、享保の大火でも奇跡的に災を免れ、京都市における現存最古の木造建築物として国宝に指定されています。境内には本堂建立の際に、棟梁の長井飛騨守・高次に内助の功を尽くした妻・阿亀(おかめ)を供養する「おかめ塚」があり、2月の節分に男女共に紅白のおかめ装束に扮する「おかめ節分」は世に有名です。12月7、8日に行われる厄除けの大根焚き(だいこだき)は、多数の参詣者で賑わいます。

千本釈迦堂(大報恩寺) 不動明王堂
阿亀(おかめ)

義空上人が、千本釈迦堂(大報恩寺)の本堂を建立する時に当時、名大工として名を馳せていた長井飛騨守・高次を棟梁に選任しました。ある日、高次は、誤って本堂を支える親柱の四本の内、一本を短く切り落としてしまいました。 困り果てる高次に妻の阿亀は 「短い一本に合せ全部の柱を切れば?」と助言しました。その後、本堂は立派に完成しますが、阿亀は夫の失敗を人に知られてはと思い、本堂の完成を待たずに自害しました。人々は阿亀を憐れみ、阿亀の供養塔を本堂の前に立てました。今でも家の棟上げに阿亀の面を飾る慣わしがあり、全国の大工さんの信仰を集めています。2月の「おかめ節分」は有名です。

観音堂 亀桜(枝垂桜) 阿亀塚、阿亀さま・・・なぜか?(@^.^@) えへっ
仏塔 京都市内現存最古の本堂(国宝:鎌倉期) 千本ゑんま堂(引接寺)
千本閻魔堂(引接寺:いんじょうじ)

光明山と号する古義真言宗高野山金剛寺に属する寺で閻魔王を祀る事から世に「千本閻魔堂」と言います。後一条天皇の寛仁年中、定覚律師が法界四生の為に大念仏を始めたのが当寺の起こりと伝えますが、明らかではありません。初め、真言宗に属しかっては付近の上品蓮台寺や大報恩寺に属した事もありましたが現在は独立寺院で、昔は方一町に亘る寺域を占めたと伝えます。平安時代、死者の埋葬が洛中で禁じられていた為、洛外との境界に当たるこの地で供養されたとも伝え、境内奥にある紫式部供養塔は国の重要文化財に指定されています。春の京都三大念佛狂言の一「ゑんま堂狂言」、夏の盂蘭盆会の精霊迎えなどで市民に親しまれる古刹です。本堂(閻魔堂)内に萬倍碗と言われる閻魔王の湯呑茶碗が鐘の上に置かれています。浄財(賽銭)が湯呑茶碗の中に入ると、ご利益が1万倍だとか?!(@_@;)・・・地獄の沙汰も金次第?!(爆)

本堂(閻魔堂) 十六羅漢の一・おびんずる様(撫で仏) 閻魔王の湯呑茶碗(上)と本尊・閻魔王
紫式部供養塔 先祖の精霊を迎える為に水塔婆を流す池 おっと・・・京都らしい行商の小母さん
釘抜地蔵(石像寺:しゃくぞうじ)

家隆山光明遍石像寺と号し、弘仁10年(819年)に弘法大師によって開創されたと伝える浄土宗百万遍知恩寺に属します。本堂に安置する石造地蔵菩薩像は、諸々の苦しみを抜き取るという事から苦抜地蔵と言い、転訛して釘抜地蔵と言われます。寺伝によると室町末期の弘治年間、油小路上長者町の紀ノ国屋道林という京都で有数の大商人が両手の痛みに耐えかねて、この地蔵尊に祈願したところ、満願の夜、夢中に地蔵尊が現れ「汝の痛みは前世に人を怨み人形の両手に八寸の釘を打ち込んで呪った罪障によるものである。よってその釘を抜き取って苦痛を救うてとらせよう・・・」と言って2本の釘を示すと思えば夢が覚め、両手の痛みは既になかったと伝えます。以来、諸病平癒を祈願する者は、全て体に釘が刺さったと言って祈ると霊験があるとされ、御礼に釘と釘抜を小絵馬にして奉納する慣しがあります。当寺の創建由緒は定かでなく、家隆山と号するのは、元、当地に歌人・藤原家隆が住まいしていたと言われるが、根拠がありません。おそらく千本蓮台野墓地に至る沿道の地蔵堂として祀られていたと思われます。

釘抜地蔵(石像寺:しゃくぞうじ) 参道には、大きな釘と釘抜(苦抜) 中門
釘と釘抜、絵馬 阿弥陀三尊石仏(重文:鎌倉期)堂
大師堂 釘抜(苦抜)地蔵堂
地蔵堂の壁には、お礼に奉納された釘と釘抜の小絵馬がビッシリ・・・釘抜地蔵堂 岩上神社(岩上祠)
岩上神社(岩上祠)

約2m近い赤味を帯びた巨岩で口碑によると初め、堀川二条付近にあったが、形が良いので後水尾天皇の御所へ移したところ、吠えたり、小僧に化けたりと怪奇現象が、しばしば起こったので真言宗の僧が貰い受け当地に安置し有乳山岩神寺と号して崇敬しました。それより怪奇な現象は止み、授乳祈願に霊験があるとして女性からの信仰を得ました。貞享、天明両度の大火に掛かって寺派は荒廃し僅かに小堂一宇のみでしたが、明治維新の際に廃寺となり今は巨岩だけが残っています。一説に陰陽石とも言われ道祖神信仰に結び付けられますが、定かでありません。

岩上神社(岩上祠)の駒札 約2mの赤味を帯びた巨岩 本隆寺東門
不焼寺と称する本隆寺、千代野井、夜泣止の松

本隆寺・・・彗光寺と号し日真上人の開創する法華宗門真流の本山です。日真上人は室町中期の人で中山大納言親通の子と言われ幼にして妙境寺日全の門に入り、長じて妙顕寺の日具上人を師として大いに研鑽に努めたが、長享2年(1685年)、師と意見を異にし本述勝劣を主張して妙顕寺より独立しました。初め、六角西洞院にあったが翌年、四条坊城に移って寺基を固めました。その著「三大部」、「法華論」の科註は後柏原天皇の叡感を蒙り、寺も次第に隆盛したが天文5年(1536年)の法難で叡山の焼き討ちに遭いました。一時、泉州堺に非難したが天文11年(1542年)、現在地に再建されました。現在の堂宇は享保、天明両度の大火に類焼し文化以後の建物ですが、本堂のみ、その災を免れたのは本堂に安置する鬼子母神の霊験によるものと言われました。これに因んで当寺を一に不焼寺と称します。千代野井・・・ここは元、尼寺五山の一であった景愛寺の旧跡と伝え、無外如大尼(千代野姫)が満月の夜、井戸の水を汲まんとして桶の底が抜け、月影が水と共に消えた事から卒然と悟道に入ったと伝えます。夜泣止の松・・・当寺の日脩上人は幼児の頃に弟子入りしたが、毎夜夜泣をして住僧を困らせたので住僧がこの松の周囲を題目を唱えて廻るとたちまちに泣き止んだと伝えます。因んで松の木皮、松葉を枕の下に敷くと子供の夜泣が止むとの俗言があります。

千代野井 夜泣止の松 祖師堂
本堂 本隆寺南門 牛若丸ゆかりの首途八幡宮
牛若丸ゆかりの首途(かどで)八幡宮

社壇が地表より一際高くなっているのは、古墳を利用したと考えられています。当社は内野八幡宮とも言い、祭神は応神天皇を祀ります。当地は古来、奥州の金売橘(吉)次の屋敷跡と伝え当社は邸内にあった鎮守社と伝えます。承安4年(1147年)3月、橘(吉)次が牛若丸を誘って奥州平泉へ発足したのは、ここからと伝え因んで社名を首途八幡宮と言います。社名の首途(かどで)とは「門出:かどで=出発」を意味し、旅立ちや旅行の安全の信仰を集めます。尚、桜井町と言うのは、室町時代の文明中、桜井基佐(もとすけ)が当地に屋敷を構えていたからで、基佐は水仙と称し宗祇法師に従って連歌や和歌に堪能で「基佐家集」を著しました。

「源義経奥州首途之地」碑 境内 古墳を利用したと考えられる社壇の小丘
境内@社壇の小丘 本殿 西陣碑
人形寺とも言われる宝鏡寺(百々御所:どどごしょ)

中世、京洛に栄えた尼五山第一位景愛寺の法灯を受け継ぐ臨済宗の門跡尼寺で、光厳天皇皇女・華林恵厳禅尼(かりんえごんぜんに)の開山とする臨済宗相国寺派の門跡尼院の一で世に百々御所と言います。当寺は吉野時代の応安年中、景愛寺の住持であった恵厳禅尼が境内に一宇を建立し、初め福尼寺と称したが、後に宝鏡寺と改めました。景愛寺は、鎌倉時代末期の弘安年中、この近くの松木島に建立された大寺で後には、尼寺五山の第一位になりましたが応仁の乱の兵火に掛かって焼亡しました。その子院である当寺が、その法灯を継いだもので江戸初期には後水尾天皇々女・久厳尼が入寺されて以来、歴代皇女が住持となり又、宝鏡、大聖両寺の住持が交互に景愛寺の住持を兼摂する事となりました。孝明天皇寵愛の人形、遊具など多数の人形を所有し「人形寺」とも言われます。普段は非公開ですが毎年、春と秋の人形展では寺宝とされる人形他を多数を展示し境内にある人形塚では毎年10月14日に人形供養祭が行われます。

宝鏡寺(百々御所:どどごしょ)の門前傍にあった百々橋(どどばし) 人形塚
百々橋(どどばし)

宝鏡寺門前、寺之内通小川に架かっていた長さ7.3m、巾3.7mの石橋を言います。百々御所(宝鏡寺)の傍にあるから、そう呼ばれますが「今昔物語」に「どどの辻」とあって、古くから呼ばれていました。この小さな橋が特に有名になったのは、応仁の乱で西軍の山名宗全と東軍の細川勝元が、この橋を隔てて激戦をしたからで永正4年(1507年)8月に細川澄之の臣・香西又六元近が、細川澄元の小川宿所を襲撃せんとして百々橋を挟んで両軍が合戦をしたからで、この時に香西又六は、流れ矢に中って戦死し、その本拠・嵐山城は落城しました。(巻二「嵐山城址」参照)

宝鏡寺(百々御所跡)境内 百々橋の礎石
四海唱導の公許を誇る法華宗号発祥の寺・・・妙顕寺

日蓮宗四大本山の一で具足山と号します。元亨元年(1321年)、日像上人は、他宗の迫害にも屈せず、多くの信徒を獲得し京都に於ける日蓮宗最初の道場として創建しのが、当寺の起こりです。建武元年(1334年)には後醍醐天皇より法華宗弘通の綸旨を賜り勅願寺となりました。京都の十六本山を総統し妙覚、立本、妙蓮、本隆寺などは、何れも当寺より文出しました。初め、四条大宮にあったが寺地を替える事数度、天正11年(1583年)、現地に移ったのは、豊臣秀吉の命で今の堂宇は天明大火後の再建です。日蓮上人自筆の「神国王書」など5件の重要文化財を所蔵しており、興善院旧跡(緒方光琳菩提所)に尾形光琳の墓があります。

妙顕寺山門 参道
祖師堂 鬼子母神堂 本堂
江戸中期の画家・緒方光琳菩提所(興善院旧跡)
持明院仙洞御所跡、光照院(常盤御所)

持明院仙洞御所跡・・・平安末期の康保年中、中務大輔・藤原基頼が当地に邸宅を構え邸内に持仏堂を営んで持明院と号しました。その子・通基は天治年中に堂宇を修造し寺号を安楽光院と改め持明院を家名としました。通基の子・基家の女・陳子(北白河院)は、高倉天皇の皇子・守貞親王(後高倉院)の妃となり親王を邸に迎えて持明院の宮と言いました。その皇子・後堀川天皇は大統を継ぎ、譲位後は、この院に住まいしたので持明院の仙洞と称し文暦元年(1234年)8月、ここで崩御されました。次いで後深草天皇脱屣(だっし)の後にここを仙居とされ仙洞の因縁は、熟しここで伏見、後伏見、花園、光厳、崇光、後光厳の諸天皇或いは、親しく院政を執り、或いは単に入御されました。大覚寺統に対する持明院統がこれです。持明院統は鎌倉時代初期頃より南北朝初期頃に至る約150年余年の間、当地にあったが文和2年(1353年)2月、隋身所から火を発し、邸内の安楽光院を除いて全て焼失しました。後伏見天皇女御・広儀門院(藤原寧子)は深くこれを惜しんだが、幾久しからずして応仁、文明両度の兵火に掛かり諸堂尽く鳥有に帰しました。その後、再建される事もなく旧地に光照院が移築されました。安楽光院は一に安楽行院とも言われ明治初年に再興されて伏見区深草坊の町、深草十二帝陵の東にあります。光照院(常盤御所)・・・浄土宗知恩院派に属する門跡尼院の一です。開山・自本覚公は後伏見天皇の皇女・進子内親王と言い、22歳の時に出家され室町一条の北に一宇を建立して光照院と称したのが当寺の起こりです。尼公は勤行を怠らず、天台、律、禅、浄土四宗の奥義を極め、泉涌寺大笑雲喜和尚から尼衆の満分戒を授けられ、応永30年(1423年)10月、89歳の高齢で亡くなりました。寺は応仁の乱で焼失した後、現在の持明院殿の跡に再建されました。以来、皇胤入寺して法燈を輝かし光格天皇の御代に常盤御所の称号を賜りました。しかし、享保以来、度々類焼の厄に遭い本堂は未だ再建に至らず毘沙門堂を以って仮本堂とします。

持明院仙洞御所跡 光照院(常盤御所) 境内
足利将軍室町邸(室町幕府)

「洛中洛外図屏風」に描かれた室町幕府が、あった所で南は今出川、西は室町、北は上立売、東は烏丸という東西一町、南北二町の区画に足利義満は、室町御所を造営しました。その庭に美しい花木がたくさん植えられたので「花の御所」とも呼ばれました。室町御所は足利将軍家の屋敷ですが、ここで政務を執る事から室町幕府と呼ばれました。後に、守護大名の勢力が強くなると将軍は名ばかりとなり幕府内の対立から起こった応仁の乱に焼亡しました。室町幕府は滅亡し織田信長、豊臣秀吉や徳川家康が登場する戦国の乱世へと推移しました。

足利将軍室町邸(室町幕府)址碑 茶道武者小路千家流家元の茶亭官休庵庭園(京都市指定名勝)
官休庵庭園駒札(説明碑) 慶長年間(1595〜1614年)、天主堂(キリシタン寺院)があった慶長天主堂跡碑、駒札(説明碑)
白峰神宮

孝明天皇は、保元の乱に敗れて讃岐に憤死された崇徳天皇を痛く追念し、かねてより神霊を京都に移し祀らんとされたが未だ事ならずして急逝されました。よって明治天皇は父帝の遺志を継いで明治元年9月、讃岐の白峰から神霊を移し当地に奉祀されたのが当社の起こりです。同6年、僧・道鏡と恵美押勝の争いに座して淡路に流された淳仁天皇を合祀しました。鎮座地は旧飛鳥井家の邸跡にあたり、当社造営の時、同家の寄進により飛鳥井家は鎌倉初期、飛鳥井雅経(まさつね)を祖とする花山院家の一門で古来、蹴鞠、和歌の宗家として子孫あい継いで今日に至ります。

小川周辺には様々な店、寺院が並んでいた小川跡の碑 白峰神宮 清少納言が「枕草子」に記す京都三名水の一「飛鳥井」
歌碑 蹴鞠の碑 蹴鞠をする鞠庭
あらゆるスポーツの神・・・境内社「地主社」 水、染、醸造の神・・・境内社「潜龍社」 潜龍井
本阿弥光悦京屋敷跡

江戸時代を代表する総合芸術家の本阿弥光悦が鷹ヶ峰に移り住むまで当地で暮らしていました。灰屋紹益は、光悦を敬慕していた豪商でした。

拝殿 本殿 本阿弥光悦京屋敷跡
9系統「京都駅」@堀川今出川バス停 京都駅ビル 81系統「竹田街道 中書島」@竹田街道大手筋バス停

Tourist  2006.03.20(M)

参考資料 「上京を歩く その弐」(京都市上京区役所)、他

 

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