城南宮(方除、鬼門除の神) |
城南宮の由緒は、上古の時代、神功皇后は出陣に当たり、軍船の御旗に八千矛神を招き寄せて戦勝を祈願され、戦が終わると御旗は宮中で大切に保管されていました。桓武天皇が平安京に都を定めた時、御旗を城南の当地に御神体として納め、八千矛神(やちほこのかみ=大国主命:おおくにぬしのみこと)、国常立尊(くにのとこたちのみこと)、息長帯日売命(おきながたらしひめのみこと=神功皇后:じんぐうこうごう)の三柱、伊勢、石清水神社など七社が合祀され、都の南を擁護する神として祀られた。御旗の日月星の紋章が城南宮の三光の神紋の由来とされます。 |
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城南宮 |
伏見名水「菊水若水」 |
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城南宮 |
ギアチェンジ不調でメンテ中のキララちゃん@サイクルA |
第2京阪国道(京都高速道工事中) |
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宇治川 |
木津川右岸堤防沿いの田園風景 |
流れ橋(上津屋橋)@木津川右岸(久御山町) |
流れ橋(上津屋橋) |
木津川に架かる全長356m、幅3mの日本最長級の木造橋で正しくは上津屋(こうづや)橋と言います。木津川の増水時に渡板まで水が浸かると渡板が流されますが、渡板がワイヤーで繋がれている為に水位が下がればワイヤーを引張って修復出来る橋構造になっている事から流れ橋と呼ばれています。時代劇の撮影にも利用されている橋でTV、映画で見た事があるかと思います。昭和28年(1953年)3月に架橋されて以来、平成16年(2004年)9月20日、増水で16回目の被災(流失)をし半年以上も通行止めになっていましたが現在は改修され通行可能です。 |
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木津川右岸から左岸(八幡市)へ渡ります・・・テレビや映画の時代劇で馴染みのある木造橋で全長は日本最長級の356.5mです。 |
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流れ橋(上津屋橋)@サイクリングロード |
田辺の浜船着場跡碑 |
近鉄木津川鉄橋が見えます・・・ |
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近鉄木津川鉄橋 |
山城大橋@サイクリングロード |
飯岡丘陵・・・のどかで大好きな田園風景 |
咋岡(くいおか)神社 |
飯岡の東麓にあって創祀沿革を明らかにしませんが創祀は建治年間(1275〜78年)頃とも伝え、応仁年間(1467〜1469年)、永正年間(1504〜1521年)の兵火で焼失しましたが、天文3年(1534年)8月に再建されたと伝えます。古くは天満宮と称したが、明治26年(1893年)、式内咋岡神社と社名を改め、それまでの菅原道真、倉稲魂神(うかのみたまのかみ)を祭神とする飯岡の産土神です。草内にも同名の神社がありますが当社を勧請したものと伝えます。 |
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玉水橋 |
用水発起豊田翁之碑 |
咋岡神社 |
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万葉(柿本人麻呂)の歌碑 |
拝殿 |
本殿 |
トヅカ古墳、横穴古墳 |
トヅカ古墳・・・飯岡丘陵の東側、咋岡神社の東にあります。竪穴式の円墳で明治7年(1874年)の発掘時に見事な古鏡や玉石類が出土しました。墳上には「神魂丘旧跡」と記した石碑があり、これらは何れも京都の篤志家・三宅安兵衛氏の寄進によるものです。因みにトヅカは十塚で古墳の多い事を言ったもので付近には陪塚と思われる古墳がありましたが、殆どが破壊されました。横穴古墳・・・凄道の口が開いています。元は2基あったと伝えますが今は1基だけ残っています。出土品から見て継体天皇時代より以前、仁徳皇后磐ノ姫時代の築造だと推察されています。 |
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トヅカ古墳 |
横穴古墳 |
阿弥陀山古墳 |
ゴロゴロ山古墳より北にある円墳を言い墳上に石仏(江戸期)を安置し、その前に「朱(あけ)大王墳」と記した石碑が建っています。明治7年(1874年)頃、古墳を発掘したと伝えます。 |
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鬱蒼とした山中にある阿弥陀山古墳・・・この時期は紐ちゃん、特にマムシちゃんに要注意で足を踏み入れました。。。(;^◇^ゞ |
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蓮華寺跡駒札(説明札) |
蓮華寺跡、七井戸内碑 |
七井戸内 |
飯岡車塚古墳 |
飯岡丘陵の西端にある南南西を正面とする巨大な前方後円墳で後円部頂上には竪穴式の石室を有します。明治35年(1902年)の発掘時に勾玉(まがたま)、管玉(くがだま)、石釧(いしくしろ)、その他多くの玉石製品が出土しました。今は前方部は茶畑となり後円部には「上殖葉王(かみえばのみこ)古墳」と記した石碑が建っています。「纂輯(さんしゅう)御系図」によると上殖葉王とは一に恵波王とも言い宣化天皇の皇子と伝えます。 |
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飯岡車塚古墳上は茶畑で石碑は鬱蒼と荒れた竹林にあり、やはりマムシちゃん、毒虫などに要注意で探索・・・ヤブ蚊の集中攻撃に!
(>_<) |
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飯岡を後にチャリチャリ・・・ |
普賢寺(ふげんじ)川 |
のどかな田園を走る近鉄京都線 |
天井(てんじょう)川 |
JR片町線の上を天津(あまつ)川が流れています。これは木津川の水位が高い為に工夫されたもので、川は人家などより高い所を流れるので天井川といい、この地方の特色となっています。 |
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モダンな同志社前駅@JR片町線 |
宝塚行きの快速電車@JR片町線 |
天井川の天津川 |
棚倉孫(たなくらひこ)神社 |
天香古山命(あまのかごやまのみこと)を祭神とする旧天神ノ森の産土神で境内は鬱蒼たる樹木が生い茂り古社らしい趣きがあります。古くは天神社、天満宮とも言われ明治になって式内棚倉孫神社と改名しました。棚倉とは、穀物を収穫するにあたり湿気を避ける為に設けた倉庫の事で養蚕にも用いられました。綴喜郡は古くから帰化人による養蚕が盛んな所で棚倉は養蚕に関係したもので神格化したのが当社てあろうと伝えます。「旧事紀」に祭神・天香語山命を一に高倉下命(たかくらじのみこと)、手栗彦命(たなくりひこのみこと)とも記される事から手栗彦が転訛して棚倉孫になったとも伝えます。いずれにしろ当社を中心として当地が発展した事は貞観元年(859年)に従五位上の神位を賜り延喜の制には大社に列し4度の官幣に預かった事からも推定されます。 |
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棚倉孫神社の駒札 |
急坂な参道をチャリチャリ・・・棚倉孫神社 |
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松寿院跡駒札 |
松寿院跡 |
ずいき神輿(京田辺市無形民俗文化財) |
薪(たきぎ)神社 |
創建、由緒などは不詳の旧村社で天津彦根命(あまつひこねのみこと)を祭神とします。薪地区にあった八幡宮を天神社に併合して薪神社となったと伝えます。 |
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本殿 |
薪神社 |
能楽発祥の碑 |
甘南備(かんなび)山 |
酬恩庵(一休寺)の背後に聳える山を称し、標高は216mに過ぎないが、山頂からは京田辺市一帯を俯瞰して眺望は頗る良い。甘南備山は神奈備山とも記し往古は神が降臨する所と信じられ、御諸(みもろ)山、三室山と同じく社殿の無かった頃は自然の山岳や森林を神の御座所として崇敬されました。甘南備山もその一ですが、山中には多くの水晶を産出したのみで古代祭祀の遺蹟らしいものは見当たりません。平安京造営では、都の朱雀大路を造営する時、京都市の船岡山と甘南備山を南北のランドマーク(基点)にしたと伝えます。 |
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本殿 |
京奈和道路の向うに甘南備山が見えます・・・のどかな田園沿いをチャリチャリ・・・ |
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甘南備山登山コースをチャリチャリ・・・ |
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甘南備山登山コースをチャリチャリ・・・ |
雨乞いの井戸 |
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三角点への分岐 |
三角点へダートの上り坂をチャリチャリ・・・ |
朱雀大路のランドマークに納得!都方面の俯瞰 |
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二等三角点(甘南備山:201.6m) |
神奈備神社へのダートの上り坂をチャリチャリ・・・ゲゲッ、急坂で階段状ですがな?!(@_@;) |
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ご主人さまっ、こげな細いダートの尾根道走ります?
Byキララ(>_<) お願げぇ〜しますだ?! (爆) |
南山城俯瞰 |
神奈備(かんなび)神社 |
当山を神格化した神社で山頂近くに小さな社殿を設け、天照大神と葺不合命(ふきあえずのみこと:神武天皇父)を主神とし相殿に大国主尊、天児屋根命を配祀ます。当社が延喜の制に小社となっている事は当地の人々に、いかに崇敬されていたかが推察されます。 |
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南山城展望解説盤 |
神奈備神社 |
神奈備神社駒札 |
甘南備(かんなび)寺 |
天平年間、僧・行基の開創と伝える元、天台宗の古刹ですが、真偽はともかく「今昔物語」巻14に当寺の名前が見えるので平安時代からあった事が知られます。同物語によると山城国綴喜郡の飯の丘より戌亥(西北)にあたる山上に神奈備寺(かんなびじ)という寺があり、一人の僧がいたが、常に山中の小寺に住む事を嫌いもっと立派な寺に行きたいと思っていました。いよいよ、この寺を去ろうと決めた日の夢の中で自分の前世は蚯蚓(みみず)であったが土中で法華経を聞いていた功徳により人間に生まれさせてもらったので、有難く思って感謝の生活をし他へ行ってはならないとご本尊(薬師如来)に諭され永く当寺に留まったとされます。当寺は中世に至って哀徴し堂宇も荒廃するに至り元禄2年(1689年)、薪小字山垣内(一休寺に至る道より南へ入った丘陵地)に移転し鉄堂和尚を請じて中興開山とし黄檗宗の寺としました。 |
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拝殿 |
本殿 |
甘南備寺跡 |
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甘南備寺跡駒札 |
古の井戸 |
展望台へチャリチャリ・・・ |
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展望台 |
南山城俯瞰@展望台 |
待ってました!ダウンヒル!!
(;^◇^ゞ |
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ダートですがな!スリップ厳禁!!
(>_<) |
ん?キラキラするのでキララちゃん停車?!(;^◇^ゞ |
再び、快適なダウンヒル・・・o(*^▽^*)o |
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アッという間に無事の下山完了! |
甘南備山 |
あっ!ミッフィーちゃん?あの〜お茶しません??(^^ゞ爆 |
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うさぎちゃんの案山子でつた・・・(;^◇^ゞ |
甘南備山 |
一休坂碑 |
金春(こんぱる)の芝
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酬音庵の門前の芝生をいい、ここで金春禅竹(ぜんちく)が一休禅師に猿楽を演じて観覧に供した所と伝え、しばし当地に隠棲したとも伝えます。現在、薪(たきぎ)神社境内に「薪能発祥地」と記した石碑が建っているが、これは地名の薪によったもので奈良の薪能とは無関係です。因みに名産の織筵(おりむしろ)と納豆は一休禅師が村人に伝授したものと伝え農家の副業として今に伝承されています。 |
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薪能金春芝跡碑 |
薪能金春芝跡駒札 |
酬恩庵(一休寺)惣門(京都府指定文化財) |
酬恩庵(しゅうおんあん:一休寺) |
この地は古来、石清水八幡宮の領地となり燃料を進上した事から薪(たきぎ)という地名が生まれました。当寺は臨済宗大徳寺派の古刹ですが、一休禅師が晩年隠棲した所として知られ因んで一休寺と呼ばれます。鎌倉時代の正保年間(1288〜92年)、ここには大応国師紹明(じょうみょう)が建立した妙勝禅寺があったが、元弘年中(1331〜33年)の兵火によって退転したのを康正2年(1465年)、一休禅師によって再興されました。一休禅師は法祖の恩に酬ゆるとの意味から酬恩庵と名付け、晩年居住の地と定めて境内に慈揚塔を作り寂後、ここに葬られました。寺地は甘南備山の閑静な山麓にあって本堂以下多くの諸堂宇が密に建ち、在りし日の一休禅師を偲ぶのに相応しい雰囲気を呈しています。 |
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酬恩庵(一休寺)全景 |
新緑が清々しい参道 |
一休禅師墨蹟碑駒札 |
一休禅師墨蹟碑 |
「諸悪莫作(しょあくまくさい:諸の悪を作ることなかれ)」、「衆善奉行(しゅうぜんぶぎょう:衆の善を奉行せよ)」と刻まれています。一休禅師の筆による七仏通戒偈(しちぶつつうかいのげ)の中の詞向で、釈迦の弟子である阿難尊者(あなんそんじゃ)の作と伝え、数々の悪行をする事なく、多くの善行をすれば、自然に心が清々しく美しくなるという意味で釈迦の教えとされます。 |
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一休禅師墨蹟碑 |
浴室(重文:江戸期) |
三本杉 |
三本杉、一休禅師廟(墓所)、虎丘庵(こきゅうあん) |
三本杉・・・樹齢五百数十年を数える老木で一休禅師と蓮如上人、蜷川親当(にながわちかあて)の三人が植えたと伝えます。一休禅師廟・・・方丈門前の東にあって別区域をなしています。廟は方一間、入母屋造、本瓦葺、文明7年(1475年)の建造で廟前は一面の白砂敷とし周囲に石組と小さな刈り込を配した清楚な平庭となっています。一休禅師は後小松天皇の皇子と言われ生前に廟を建てて慈揚塔と名付け、文明13年(1481年)11月21日、88才で示寂、遺骸はここに葬られ廟は宮内庁の管轄になっています。虎丘庵・・・方丈南庭の右、一段高い所にある茶室をいい、一休禅師の住坊跡と伝えます。虎丘庭園(名勝:室町期)は庵の周囲に庭石、手水鉢を配し、梅や椿、もっこくなどを植えて簡素な平庭としていますが、公開されていません。 |
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三本杉由来の駒札 |
一休禅師廟 |
中門(京都府指定文化財) |
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庫裡(裏
重文:江戸期) |
東司(お手洗い:重文・江戸期) |
方丈(重文:江戸期) |
慶安3年(1650年)、加賀の前田利常の再建と伝え「酬恩庵」、「禅師堂」、「慈揚」の額は、いずれも一休禅師の筆と伝えます。 |
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唐門(重文:江戸期)と方丈(重文:江戸期) |
煙出しの見事な梁木 |
竃の焚き口 |
一休禅師坐像(重文:室町期)、一休さんが乗っていた輿(こし) |
一休禅師坐像・・・方丈の中央奥の祠堂に安置される木彫、盛り上げ彩色、椅子に座し手には竹箆(しっぺい)を持ち、その鬢髪は一休禅師のものを植え付けたと伝えます。一休禅師の輿・・・一休禅師が81才で大徳寺住職になった時、ここから大徳寺まで乗って通った輿と伝えます。 |
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囲炉裏@庫裡(重文:江戸期) |
一休禅師坐像(重文:室町期) |
一休禅師が乗っていたと伝える輿 |
方丈庭園(名勝:江戸期) |
南、東、北の3つからなり南庭は方丈前庭として広い場所をとり一面の白砂敷きとし、背後斜面に刈り込や蘇鉄を植えています。東庭は多数の庭石を配置し、あたかも十六羅漢が遊行している様を表し特に東北隅に豪華な石組みをもって枯滝とし、その間に小さな刈り込をあしらっています。北庭は石塔、石灯籠、つくばい、手水鉢などを配し茶庭風で庭を隔てて遠くに比叡山、男山などの山々、その前に広がる広漠たる田野を借景とします。この庭は松花堂昭乗、石川丈山、佐川喜六の合作と伝えます。 |
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腰を下ろして心落ち着くまでゆっ〜く〜り瞑想、心が癒されます・・・ひと休み、一休みっと・・・南庭〜東庭@方丈庭園(酬恩庵庭園:名勝・江戸期) |
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方丈庭園東庭(酬恩庵庭園:名勝・江戸期) |
方丈庭園北庭(酬恩庵庭園:名勝・江戸期) |
本堂への参道 |
本堂(重文:室町期) |
三間三面、単層、屋根は入母屋造、桧皮葺で正面中央に両開きの桟唐戸を設け、左右に花頭窓、その上に波連子(なみれんじ)を入れ、桝組や棰、紅梁、大瓶束の素飾りに至るまで室町時代の唐様仏殿の特色を表しています。 |
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本堂(重文:室町期) |
一休禅師像(妙勝寺旧跡) |
大応堂 |
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一休禅師の墨跡や愛用の御物などを展示している宝物殿 |
一休禅師の作と伝える髑髏面 |
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一休さん、トンチんかんなら負けへんよ?(;^◇^ゞ |
「このはし
わたるべからず」では? (;^◇^ゞ |
二十世紀の森 |
佐々木六角承禎(しょうてい)之墓、能楽観世流之墓 |
佐々木六角承禎之墓・・・佐々木六角義賢(よしかた)といい、南近江守護・六角定頼の子で近江源氏・佐々木六角氏13代観音寺城主でした。足利義晴、義輝に仕えた戦国時代の武将で永禄11年(1568年)に足利義昭を奉じて上洛する織田信長に反抗(箕作城の戦い)したが、わずか1日の戦いで観音寺、箕作の両城が陥落、甲賀山中へと逃亡しその後、三好氏、浅井氏や石山本願寺と結んで再挙を図ったが信長に制圧され、元亀元年(1570年)に降伏しました。後に入道して承禎(しょうてい)と号しました。晩年、この地に住しました。慶長3年(1598年)3月14日、78才で没しました。当寺には佐々木一族の位牌があります。能楽観世流之墓・・・音阿弥元重(おんあみもとしげ)は能楽観世流の三代目で観阿弥、世阿弥父子の次に観世太夫となり、永享5年(1433年)、楽頭職を継ぎました。足利義政の籠を受け稀代の名手と言われました。応仁元年(1467年)1月2日、70才で没しました。 |
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茶人・寸松庵(すんしょうあん)之墓 |
佐々木六角承禎(しょうてい)之墓 |
能楽観世流之墓 |
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能楽観世流之墓などの駒札 |
鐘楼(重文:江戸期)) |
江庵 |
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甘南備山の遠望@サイクリングロード |
流れ橋(上津屋橋)が見えてきました・・・木津川左岸(八幡市)〜右岸(久御山町)へ |
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流れ橋(上津屋橋) |
久御山JCT(ジャンクション) |
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宇治川@第2京阪国道
京都南大橋(巨椋橋) |
おけいはん急行(京阪電車) |
アイスクリン
いかがっすか?!・・(;^◇^ゞ
どもども |
Tourist
2006.05.29(M) |