笠置山磨崖仏(みがきぶつ)巡拝

 

五月雨は 水上まさる 泉川 笠置の山も 雲がくれつつ (夫木) 俊成

 

御香宮〜笠置山(かさぎやま:史跡名勝)、笠置寺〜栗栖(くるす)天満宮

 

笠置(かさぎ)

加茂より東へ約5km、木津川を挟んだ南北にある山間地域を言います。元、笠置村と言ったが明治22年(1885年)4月、付近の切山、有市(ありいち)、飛鳥路(あすかじ)の三ヶ村と合併し昭和9年(1934年)1月に町制を施行して笠置町と改めました。町面積23.74kuの大半は山林に占められています。木津川南岸に聳える笠置山が古来、信仰と歴史に富んだ名山として名高く近年はJR関西本線「笠置駅」近くに天然わかさぎ温泉(笠置いこいの館)、笠置山自然公園、キャンプ場や知る人ぞ知るカヌーのメッカで南山城地方屈指のリゾート地です。

御香宮

貞観4年(862年)9月、境内に清泉が、湧き出し四方に水が香り病者はこの水を服用すればたちどころに病気が、完治すると云われた。清泉を神格化した神社の1つです。祭神は、神功皇后および仲哀、応神両天皇とされています。旧伏見町の産土神で古来から信仰されている洛南屈指の大社です

御香宮 JR桃山駅
「奈良行き」普通電車@JR桃山駅 宇治橋(宇治川) みやこ路快速「奈良行き」に乗り換え@宇治駅
飯岡、甘南備山遠望 泉大橋(木津川) JR木津駅
大和路快速電車「加茂行き」で加茂駅へ 車窓に広がるのどかな田園風景・・・ 加茂駅(JR大和路線)
大和路快速電車「大阪行き」@加茂駅 昼間は1時間に1本 「亀山行き」ディーゼルカー トイレ付きのワンマンカー
加茂駅〜約6.7km(約8分)の1駅乗車でローカル線の風情が漂う笠置駅(JR関西本線)に到着! 太平記「元弘の乱 笠置合戦」
太平記「元弘の乱 笠置合戦」解説パネル ビタミンαミュージアム(青空自然博物館)マップ 笠置山自然公園マップ

笠置山(かさぎやま:史跡名勝)

一に鹿鷺山とも記しJR関西本線「笠置駅」下車、木津川の南岸に屹立する標高289mの峻峰をいい、全山花崗岩からなり山中には奇岩怪石が点在しています。笠置山は弥生時代の有樋式石剣が発見され2000年前からすでに信仰の場となっていたと考察されています。「笠置山寺縁起」によると天武天皇が未だ皇太子(大海人皇子:おおあまのみこ)であった頃、狩猟に来山して鹿を追って山上の巌頭に出られたところ、そこは断崖絶壁となり、進退窮まった時、皇子は咄嗟に神仏に祈念し危難を免れました。この時、後の印しにと笠を岩上に置かれました。後日、再び来山し一羽の白鷺によってようやくその所を知り岩上に弥勒の大像を刻んで本尊とし、併せて一宇の仏堂を建立されました。これに因んで笠置山といい寺を笠置寺と言うと伝えますが、これは地名付会説とされます。山容が孤立し、あたかも笠を伏せたような様子から山名になったと伝えます。笠置山は奈良朝以来、弥勒信仰の霊場と仰がれ中世には付近の金胎寺、神童寺と共に山伏修験者の修行場となりました。清少納言は「山はかさぎ」と褒め称え、南北朝の騒乱期には後醍醐天皇が当山に立篭って鎌倉勢を邀撃(ようげき)された事から、笠置の地名は世に知られ、江戸時代には頼山陽、梁川星厳、斉藤摂堂など多くの文人墨客が訪れて元弘の昔を偲んで多くの詩歌を詠みました。昭和7年(1932年)、史跡名勝に指定され昭和22年(1947年)には府立公園となり今日では春秋行楽時分には観光客によって山中は賑わっています

白砂川 笠置山自然公園ゲート(右、柳生街道) 笠置山自然公園マップ
「元弘の乱 笠置合戦」@一の木戸跡

元弘元年(1331年)8月24日、後醍醐天皇は政治改革に失敗し密に京都御所を出られました。同年8月29日、2500余の兵と供に笠置山に立籠もり、9月6日頃、鎌倉幕府(北条)勢7万5千が包囲しました。笠置山は全山が巨岩、怪石で覆われた天然の要塞で、鎌倉勢が山麓から進撃した時、一の木戸を守備していた三河国・足助次郎重範(あすけじろうしげのり)が、十三束三伏(約160cm)の弓で矢を放ち、荒尾九郎、弥五郎兄弟を射倒した所と伝えます。

新旧二道分岐地点 一の木戸跡 一の木戸跡の駒札
笠置寺

笠置山々頂にあり鹿鷺山(ろくろざん)と号し古くは笠置山寺(かさぎさんじ)と言いました。最初、法相宗でしたが今は新義真言宗宗智山派に属します。寺伝では白鳳年間(672〜85年)の草創と伝えるが定かでなく聖武天皇の御代、東大寺の僧・良弁(ろうべん)が、かって山中の千手窟(せんじゅいわや)に篭って千手の秘法を修し弥勒の大像を彫んで本尊と崇め平安末期の弥勒信仰によって次第に信仰を得るに至ったと伝えますが、境内には多数の磨崖(まがい)の大石仏がある事から奈良朝時代に山中の巨岩を信仰化したのが起こりとも伝えます。鎌倉時代に解説上人・良慶が入山し般若台院を住房として南都仏教の興隆に努め、伽藍を建てて弥勒信仰の中心道場たらしめました。源頼朝も当寺に沙金を寄進した事が「東鑑」に記されています。室町時代には修験道の隆盛と共に鷲峰山(じゅぶさん)と並ぶ行場となりました。元来、修験道の行場として吉野の大峯に似せられ行者の来山する者多く、その盛んなる頃は、本堂以下、毘沙門堂、千手堂、仁王堂など合わせて49院の堂宇僧房が山中に甍を連ねと伝えます。しかし、元弘元年(1331年)、後醍醐天皇が天峻と坊舎を利用して行宮(あんぐう)を設け近隣の武士をかり集めて鎌倉勢を邀撃された為、寺は兵火を浴びて山内の49院全てが焼失しました。その後、度々に再興を企てられたが旧観に復するに得ず、今は塔頭福寿院をもって本坊とし江戸時代に再建された本堂以下二、三の堂宇があるだけです。寺に至るには新旧二道があって旧道(八丁坂)は、やや険しいが途中には斬込谷、地獄谷、下の堂、上の堂(仁王堂跡)、名切り石など元弘の役を偲ばせる遺蹟があり、新道(約1.8km)も急坂ですが、自動車でも上れますが離合が困難だと思います。

足助次郎重範(あすけじろうしげのり)忠臣之碑 急坂をテチテチ 笠置寺山門
笠置型灯篭 弥勒石(大磨崖仏)の前にあった香炉
銅鐘(重文:鎌倉期)

本坊そばの鐘楼にあり一に解脱鐘といい、高さ1.4m、口径67cm、下縁を六辨とした珍しい形で各葉の底面に建久7年(1196年)俊乗坊重源(しゅんじょうぼうちょうげん)寄進の銘が刻まれています。

笠置寺本坊 笠置寺本坊駒札 解脱鐘(重文:鎌倉期)
磨崖(みがき)石仏

本堂に至る山道の左にある。この内、薬師石(高さ12m)、文殊石(高さ7m)、弥勒石(高さ16m)は何れも表面にそれぞれ仏容を刻んでいたが元弘の兵火によって焼滅し弥勒石のみに僅かに挙身光式の彫り窪みを残すに過ぎません。この弥勒石は元、当寺の本尊と伝えその前に礼堂があったが元弘の兵火で焼失しました。金剛界石(高さ12m)、胎蔵界石(高さ15m)は正月堂(本堂)の北にありこの二石の間には良弁が千手の秘法を修した伝える千手窟(せんじゅいわや)があります。虚空蔵石(藤原期)は高さ13m、巾7mに及ぶ巨大な岩面に見事な線彫りの虚空像坐像(一説に弥勒坐像)が完全な形で残っていて藤原期の石仏としては屈指のものとされます。

笠置山寺全景図 笠置寺鎮守の椿本護王宮 薬師石(高さ:12m)
文殊石(高さ:7m) 高さ16m、幅15mの弥勒石(大磨崖仏) 弥勒石(大磨崖仏)駒札
笠置石、十三重石塔(重文:鎌倉期)

笠置石・・・薬師石と文殊石の上間にありましたが落下した?今は、十三重石塔の斜め背後にある高さ約1.5m余の石が笠置寺発祥となった伝説の石と伝えます。十三重石塔・・・花崗岩製、鎌倉時代特有の整った十三重石塔で寺伝には解脱上人の母の供養塔と伝え左右には元弘の役で戦死した石川良純、錦織判官俊政の墓と伝える五輪石塔があります。

弥勒石(大磨崖仏)の絵画資料 笠置石(左真中)と十三重石塔(重文:鎌倉期) 十三重石塔駒札
正月堂(本堂)、千手窟(せんじゅいわや)

正月堂・・・慶安元年(1648年)、藤堂高次によって再建された懸崖造りの本堂ですが、本尊(弥勒石(大磨崖仏)高さ15.6m、幅15mと大きいので礼拝するお堂となっています。東大寺で行われる「お水取り」は当寺が起源と伝え、正月堂という堂名も、東大寺の二月堂、三月堂と関連があります。千手窟・・・金剛界石(高さ:12m)と胎蔵界石(高さ:15m)の間にあり、今は埋もれて洞窟になっていませんが、多くの人が修行をした記されています。古来、巨石信仰(イワクラ信仰)として千手窟も弥勒菩薩の世界「兜率天(とそつてん)」の入り口とされました。役行者(えんのぎょうじゃ)も千手窟を訪れ、東大寺の実忠和尚も千手窟より兜率天に入り、十一面観音悔過(けか)の法要を学び、これが現在の東大寺二月堂で行われる修二会(お水取り)の起源とされます。

正月堂(本堂) 正月堂駒札 金剛界石(左)と胎蔵界石の間にある千手窟
千手窟(せんじゅいわ)駒札 藤原期屈指の石仏と言われる見事な虚空像坐像(一説に弥勒坐像)
奇岩石めぐり

本堂から笠置山々頂を一巡する約800mの山道左右に多くの奇岩怪石が散在します。虚空蔵石の北にある「体内くぐり」は大石が重なりあってトンネルになり又、踏めば響く「太鼓石」、「平等石」などの巨石があって山頂に近い所には、元弘の役にホラ貝を吹いて合図した所と伝える「貝吹き岩」などがあります。

虚空蔵磨崖仏駒札 「体内くぐり」は、滝がないのでここを潜って身を清めるそうな・・・
体内くぐり駒札 大きな奇岩、怪石がゴロゴロしている山道 笠置山境界石
踏むと響く太鼓石 大岩の間をテチテチ 木津川上流の眺め
平等石、蟻の戸わたり

平等石の横下を通る部分を蟻の戸わたりと呼びます。これは、平等石の周りを回る行場の一部だと思われます。平等石は中を潜るトンネルや岩の表面を登る鎖場がありますが、現在では危険な為に非公開になっています。

ゆるぎ石 ゆるぎ石駒札 とっても大きな平等石
木津川上流(伊賀上野方面)俯瞰@平等石 木津川下流(笠置町)俯瞰 蟻の戸わたり
木津川上流(伊賀上野方面)俯瞰@二の丸跡 笠置城二の丸跡 二の丸跡駒札
貝吹き岩 貝吹き岩駒札 木津川下流(笠置町)俯瞰
笠置駅が見えます・・・ 宝蔵坊跡(もみじ公園) 宝蔵坊跡駒札
後醍醐天皇行宮(あんぐう)跡

弥勒石の西北方、山頂に近い所と伝え石柵を廻らし樹木が鬱蒼と繁茂しています。ここは笠置城の本丸跡にあたり、その北の二の丸跡との間には空堀となった濠跡があります。後醍醐天皇は、かねてより鎌倉の北条執権を倒そうと画策していたが、幕府に漏れた為に元弘元年(1331年)8月24日、天皇は密に京都を逃れ、先ず南都の東大寺に赴き更に鷲峰山金胎寺を経て同29日、笠置寺へ還幸され行幸所としました。近郷の武士達を招集し幕府の大軍を向かえ討たんとしました。合戦は9月6日頃から始まり連日に亘って両軍の激戦が繰り返されたが、天嶮の要害に篭る天皇勢を容易に破れませんでした。9月26日の夜、鎌倉方の一小隊(約50名)が風雨に乗じて北面の絶壁をよじ登り、坊舎に焼き討ちを仕掛けた事から総崩れとなり天皇は辛うじて笠置を脱出し、和束の白栖から井出の有王山まで落ち延びたが遂に捕らわれ隠岐の島に流されました。この時の兵火で大磨崖仏始め笠置寺山内49ヶ寺全てが灰燼に帰しました。因みに「拾遺都名所図会」巻四によると夜討が成功したのは飛鳥路の村民が陶山(すやま)、小見山らの鎌倉勢を密に案内したといわれ、それより笠置村民は飛鳥路村と不仲となり物資の交換は元より縁組なども固く禁じていた時代(過去)があったと伝えます。

後醍醐天皇行在所跡(笠置城本丸跡/笠置山々頂(標高:289m)
後醍醐天皇行在所跡駒札 後醍醐天皇御製(歌碑) 行場めぐり(1周約800m)のラスト! 大師堂
毘沙門堂

元来、笠置山に点在した数多くの寺院の多聞院という一寺院です。本尊は、楠正成が彫刻した正成の念持仏と伝えます。楠正成は、現在の大阪府千早赤坂村にあった赤坂城を拠点とした土豪で、足助次郎重範(あすけじろうしげのり)などと共に後醍醐天皇方の武将として、鎌倉幕府軍と戦いました。

大師堂駒札 毘沙門堂 毘沙門堂駒札
山道脇にある地蔵石仏 速歩で下山開始
史の道コース(東海自然歩道)で下山したはず?!なぜか??柳生の里?!(@_@;) 剣豪の宮本武蔵、柳生十兵衛も歩いた道?! この先に分岐が???(_ _;) 
ゲッ!目前に柳生の里が見えてますがな?!(@_@;) あららら〜 笠置町へ下山予定でした!(>_<) 今来た山道を急いで戻ります!(>_<)
ふぅ〜 速歩でようやく笠置の町が 笠置大橋 あぁ〜 乗車予定のディーゼルカーが (T_T)/~~
笠置町 新旧二道分岐地点 笠置の町並み@柳生街道
笠置の町並み@柳生街道 大手橋(白砂川) 笠置大橋
栗栖(くるす)天満宮

菅原道真を祭神とする旧村社で「笠置山記」、「相楽郡誌(所引)」によると昌泰年間(898〜900年)、菅原道真は醍醐天皇に従って笠置山に登った時、その風光の美しさを愛し、晩年当地に閑居を望んだが大宰府へ流罪になって果たす事が出来なかった。村民達はこれを哀れみ道真の神霊を勧請して当社を建立し、後に笠置山の鎮守神として崇敬されたと伝えます。

笠置の町並み 栗栖天満宮 栗栖天満宮由緒
急坂の石段(128段)を速歩でテチテチ (;^◇^ゞ ふぅ〜〜 境内に到着! 手水、拝殿
本殿 笠置駅(JR関西本線)
名所案内 笠置山@JR笠置駅 ディーゼル特急が通過
「加茂行き」ディーゼルカーが到着! 「笠置駅」発車・・・ガッタンゴットン ガタコン
木津川左岸の山麓沿いの鉄路をガタッンゴットン・・・のんびり一両で走るディーゼルカー(ワンマンカー)
ガタコン ガタコンとの〜んびり走ります・・・笠置駅は加茂駅まで一駅(約6.7km) 約8分間のちょっとしたローカル線の旅したな〜 間もなくJR加茂駅
加茂駅(JR大和路線)に到着!次は「奈良行き」普通電車に乗り換え木津駅へ・・・
「奈良行き」普通電車@加茂駅 大和路快速電車「加茂行き」@木津駅 みやこ路快速電車「奈良行き」@木津駅
「京都行き」普通電車@木津駅

桃山駅(JR奈良線)に無事到着! ちょっとした鉄路の旅を満喫!!!(^_^)v

Tourist  2006.06.05(M)

 

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