衣笠山、きぬかけの道ウォーキング

 

 春立ちて 柳襲(やなぎがさ)ねと 見ゆるかな 衣笠岡の 松の白雪 (貧道集)

 

妙心寺〜仁和寺(にんなじ:世界文化遺産)〜龍安寺(りょうあんじ:世界文化遺産)〜金閣寺(北山鹿苑寺:ろくおんじ/世界文化遺産)

 

衣笠山

北区衣笠町の西方に一際高く聳える山容優婉な一丘陵を衣笠山と称し宇多法皇が真夏に雪見を思い立ち山に素絹を掛けられたという伝説から衣笠山とも絹掛山とも言われますが、これは牽強付会説で、この山は上代の葬送地で遺骸を障屏(しょうへい)する布帛(ふはく:布地)が掛絹であり衣笠であって往昔は遺骸をそのまま、或いは、藁、衣服、棺などで覆って放置する風葬が行われたが、その遺制が山名になったと考察されます。藤原道長は寛弘2年(1005年)、衣笠山で御霊会を催し悪死した人の怨霊の祟りを恐れ崇め祀った事があり、この怨霊を祀ったのが衣笠岳(きぬがさのおかの)御霊社で後に六所明神と呼ばれました。六所はムショとも読み墓所(むしょ)が訛ったもので現在、等持院の東にある六請(ろくしょ)神社は、その後身と言われます。衣笠山々中、山麓が葬送地であった事は円融天皇以下、歴代天皇を埋葬、或いは火葬し奉った事や鎌倉時代に如大禅尼は、その師・無学祖元の塔所を営み室町時代には、足利氏が累代の廟所を造営した事によっても伺えます。

京阪線乗り入れ線跡

近鉄・桃山御陵前駅

JR嵯峨野線(JR京都駅32番線)

妙心寺

臨済宗妙心寺派の大本山で正法山と号します。古の時代、この辺りは公卿邸があり花畑では四季折々に美しい花が咲き乱れ、いつしか花園と呼ばれるようになり康永元年(1342年)、禅宗に帰依した花園上皇が当地に造営した離宮花園殿を関山慧玄(かんざんえげん)を請うじて開山とし禅苑に改めました。上皇は傍らに玉鳳院を建てて塔所としました。足利義満の為に一時中絶の憂き目にあいましたが細川勝元、政元父子の外護を得て復興し戦国末期には大小名の帰依を受け多くの塔頭子院が建立され寺運は隆盛に赴きました。明治以後も臨済九派の随一として栄え今尚、末寺は全国に3500ヶ所寺の多きを有します。現在の伽藍は応仁の乱の罹災後、慶長年間〜江戸時代に再建されたものが多く勅使門(重文:桃山期)、三門(重文:桃山期)、仏殿(重文:江戸期)、法堂(はっとう/重文:江戸期)など威風堂々の七堂伽藍を始め、46もの塔頭が立ち並んでいます。法堂の天井には狩野探幽筆の雲龍画「八方睨みの龍」が描かれ日本最古の銘をもつ黄鐘調(おうじきちょう)の梵鐘(国宝:奈良期)などがあり七堂伽藍を中心に子院塔頭が取囲むように並んでいます。

JR花園駅

妙心寺(南総門)

勅使門(重文:桃山期)

境内(手前から三門、仏殿、法堂)

(重文:桃山期)

浴室(明智風呂(蒸し風呂)重文:桃山期)

仏殿(重文:江戸期)

本尊・釈迦如来、脇士に伽葉、阿難尊者像

法堂(はっとう/重文:江戸期)

大方丈

多くの塔頭子院が並ぶ参道

山内家(山内一豊、千代)の菩提寺・大通院

生活道路も兼ねる参道@北門

妙心寺北門

仁和寺(にんなじ:世界文化遺産)

真言宗御室派の大本山で第58代・光孝天皇によって、先帝の菩提を弔い、仏法の興隆を図るため「西山御願寺」と称する一寺の建立を発願された事に始まりその後、宇多天皇が仁和4年(888年)に造営を完成されました。「御願寺」と称する寺院は、皇室の私寺を意味しますが、西山御願寺は完成と共に、先帝から受け継がれた「仁和」の年号をもって寺号と定められ、大内山仁和寺と呼ばれました。応仁元年(1467年)、応仁の乱によって一山ことごとく灰燼しました。徳川幕府三代将軍・家光の御代に再興されました。京都御所の再建とも重なり御所から仁和寺金堂になっている「紫寝殿」、他多数の建造物と再建資金として20数万両を徳川幕府から得て再興されました。明治の大火で本坊、寝殿などが消失しましたが現存するほとんどの伽藍は寛永年間の遺構で明治維新では第30世・純仁法親王が還俗した事で皇族が門跡となる宮門跡になる時代が終わりました。平成6年(1994年)に仁和寺は世界遺産に登録されました。仁王門は、知恩院の「三門」や南禅寺の「山門」と共に、京都三大門と呼ばれ、同時代を代表する建築物として知られますが知恩院や南禅寺の門が禅宗様式(唐様)であるのに対し、仁和寺の仁王門は和様である事に違いがあり寛永14年(1637年)〜正保元年(1644年)にかけて建てられました。

嵐電・妙心寺駅

仁和寺

仁王門(重要文化財:江戸期)

境内

中門(重要文化財:江戸期)

花丈が低いのでお多福桜と言われる御室桜

金堂(本殿:国宝・桃山期)

金堂は京都御所より下賜されたもので、慶長年間に建立された「紫宸殿」の遺構だけに平安時代の建築様式である「寝殿造」の様式を残し我が国の建築史上重要な建造物として国宝に指定され金堂には本尊の阿弥陀三尊像が安置されています

五重塔(重要文化財:江戸期)

金堂(国宝:桃山期)

経堂

花の菩薩

真言宗別格本山「五智山蓮華寺」

鐘楼

五智如来石仏群

前方に胎蔵界の大日如来を中心とする丈六の五智如来(薬師、室生、大日、阿弥陀、不空成就釈迦)、後方に地蔵菩薩を中心に観世音などの諸像11体が並び伏見深草・石峰寺のそれと共に京都市における石仏群の双璧と言われます。

海軍第四期兵科予備学生の追憶の碑と錨

五智如来石仏群

龍安寺(りょうあんじ:世界文化遺産)

臨済宗妙心寺派に属し大雲山と号する禅苑の古刹です。宝徳2年(1450年)、室町幕府官領・細川勝元が徳大寺家の別荘を譲り受けて山荘内に一宇の仏堂を創建し妙心寺の義天玄承を開山として龍安寺と号したのが起源です。応仁の乱に焼失し長享2年(1488)、細川勝元の子・政元が再興し近世は塔頭子院20余有を数える大寺になり妙心寺派十刹の一に数えられましたが寛政9年(1797)の火災で方丈を残して仏殿、開山堂などを失い現在の建物は、その後の再建によるものです。方丈(重文:桃山期)は、慶長11年(1606年)、塔頭・西源院の本堂を移築したもので入母屋造り、柿葺(こけらぶき)で簡素な中にも桃山期の建築様式を伝え釈迦如来像、細川勝元像などを安置しています。方丈の前庭は枯山水の庭(史特名・室町期)として世にも有名です。ユネスコ世界文化遺産にも登録されています。

きぬかけの道碑

龍安寺

山門

庫裡

煙出しの梁木@庫裡

風格のある書の屏風

方丈

方丈

石庭(枯山水:虎の子渡しの庭)のミニチュア

方丈庭園(史跡特別名勝:室町期)

作庭の年代、作者、制作の意図などは確実な資料が無い為に諸説があるが室町時代末期の作で特芳禅傑らの優れた禅僧によって作られたものと伝え三方を低い油土塀で囲まれた東西約31m、南北約15mの白砂の庭に15個の岩石を7、5、3に配し一樹一草も植えず砂庭を海洋に岩石を島嶼に模った枯山水(石庭)です。あたかも虎が子を負うて河を渡るような趣きがあるので俗に「虎の子渡しの庭」とも言われ巧みに配置された15個の岩石のうち12個は常にどれかの石に隠れて見えず15は満で円満具足を表し実際は15石で完全なものであるべきを13、4個しか見せないのは「仏教教経」の「知足者は貧しと言えども富めり、不地足の者は富めりと言えども貧し」とある教えを取り入れたものと言われます。見る人によって自由な解釈、連想させるこの庭は見る人に深い感動を起こさせます。「瞑想の庭」、「悟りの庭」とも言われ15個の石全てを一方向から見る事ができない事から禅の教えを称えたり、壁に遠近法が練られたり、簡素な落ち着きと美しさを醸し出しています。

15個の石を7、5、3に配し常に1、2個の石が見えず「仏遺教経」の教えを採り入れた石庭(枯山水:虎の子渡しの庭)・・・瞑想・・・Zzz (^◇^;)

水戸光圀寄進のつくばい(石造り手水鉢:非公開)

茶席蔵六庵にあるつくばい(手洗鉢)の真中の口を共有すれば、「吾れ唯足ることを知る」と表し「知足のものは貧しといえども富めり、不知足のものは富めりといえども貧し」という禅の格言を謎解きにされた無言の悟道とされます。このつくばいは水戸光圀の寄進と伝えます。

方丈庭

水戸光圀寄進の石造り手水鉢(レプリカ)は「吾唯知足:われ唯だ足る事を知る」と表しています。

秀吉が賞賛した侘助椿(聚楽第から移植)

油土塀

西の庭

勝元廟

足利管領・細川右京太夫勝元坐像

開山堂(非公開)

パゴダ(ビルマ戦線での戦没者仏塔、供養塔)

納骨堂

回遊式庭園(史跡・特別名勝)

回遊式庭園(史跡・特別名勝)

鏡容池(きょうよぅち:おしどり池)

真田幸村供養塔(墓所@大珠院:非公開)

弁天島

水分石

京都府立堂本印象美術館

京都出身で文化勲章を受章した近代日本画家・堂本印象画伯の作品を紹介した美術館で伝統的な日本画〜抽象画まで印象の多彩な作品を鑑賞できます。美術館は外装〜内装に至るまで様々なオブジェで埋め尽くされていますが全て画伯の作品です。

伏虎島(鏡容池)

京都府立堂本印象美術館

金閣寺参道

北山文化の象徴・・・金閣寺(北山鹿苑寺:ろくおんじ/世界文化遺産)

臨済宗相国寺派の別格本山で正しくは北山鹿苑寺と号し金閣寺は俗称で応永4年(1397年)、足利3代将軍・義満が、西園寺公経の山荘を譲り受け壮麗な北山殿を造営しました。応永15年(1408年)、義満の没後、子・義持が遺言により禅宗寺院に改め、義満の法号(鹿苑院殿)に因んで鹿苑寺と号し方丈、仏殿が新たに建立されました。足利歴代将軍の参詣する所となったが応仁の乱に罹災し金閣のみを残して他は焼失し足利氏の衰退と共に寺運も衰えました。後に豊臣秀吉、徳川家康の帰依を受け西笑承兌(さいしょうじょうたい)、鳳林承章(ほうりんしょうしょ)、文雅慶彦が相次いで住持となり庭園の整備、金閣寺の補修にあたり現在の鹿苑寺は江戸中期頃に完成したと伝えます。

総門

船形石(一文字蹲踞:そんきょ)

金閣と鏡湖池(きょうこち)

金閣(舎利殿)

金閣は舎利殿として建てられたもので鏡湖池(きょうこち)に臨む三層宝形造の楼閣の一層は藤原時代の寝殿造りの法水院、二層は鎌倉時代の武家造りの潮音洞(ちょうおんどう)、三層は花頭窓を設けた中国風の禅宗仏殿造りの究竟頂(くっきょうちょう)で室内に仏舎利を安置します。特に二層、三層は漆の上から純金箔が張られ宝形造の屋根は椹(さわら)の薄板を何枚も重ねたコケラ葺で頂きに中国で、めでたいとされる鳳凰が輝きます。住宅と仏寺を折衷した楼閣は違様式の三層を見事に調和させ衣笠山を借景とした池泉回遊式庭園は室町時代の北山文化を象徴する遺構ですが三島由紀夫や水上勉の小説でも知られるように昭和25年(1950年)、学僧に放火され焼失し現在の建物は昭和30年(1955年)に再建され昭和62年(1987年)には金箔が全面張り替えられ壮麗できらびやかな姿を蘇らせました。

金閣は寝殿造り(一層)、武家造り(二層)、禅宗仏殿(三層)を折衷した三層宝形造の舎利殿(楼閣)で違様式を見事に調和させています。

足利義満手植えと伝える京都三松の一「陸舟の松:りくしゅうのまつ」

足利義満寵愛の盆栽を移し帆掛け舟の形に仕立てたと伝える樹齢600年の五葉の松で義満の手植えとも伝え「陸舟の松」と呼ばれます。

金閣

樹齢600年と伝え京都三松の一「陸舟の松」

義満が茶の水に用いたと伝える銀河泉

龍門瀧と中国故事「登龍門」に因んだ鯉魚石

義満の手洗いの水と伝える巌下水(がんかすい)

安民沢(あんみんたく)、白蛇の塚

周囲を樹木で取り囲まれた幽邃な地で池中に島があり白蛇の塚と呼ばれる石塔があります。西園寺家の鎮守と伝え、ある時は三条天皇陵に擬せられた事もあった伝説地です。この池は龍門滝と共に西園寺家の池泉の遺蹟を留めています。

白蛇の塚(石塔)

安民沢(あんみんたく)白蛇の塚(石塔)

足利8代将軍・義政寵愛の富士型の手水鉢と石灯篭

夕佳亭(せっかてい)

江戸時代の茶道家・金森宗和が好んだ数寄屋造りの茶席で、夕日に映える金閣が殊(こと)に佳い(よい)と言うことから、「夕佳亭:せっかてい」と名付けられた茶席で、正面の床柱が有名な「南天の床柱」、その右にある三角の棚が「萩の違棚:はぎのちがいだな」、中央の古木が、「鶯宿梅:おうしゅくばい」です。平成9年(1997年)、解体修理が行われました。茶席の前の石灯籠と富士型の手水鉢は、銀閣(慈照寺)を建てた足利8代将軍・義政が愛用したものと伝え茶席横の「貴人榻:きじんとう」は身分の高い人の椅子という意味です。

夕佳亭(せっかてい)・・・茶屋は三畳で奥に勝手、前に土間を取った草庵風のもので屋根は茅葺(かやぶき)で作られています。

不動堂

天正年間、浮田秀家の再建によるもので岩窟内に安置する本尊・石造不動明王(鎌倉期)は弘法大師の自作とされ生身にて摂津国(兵庫県)より歩いて来られたと伝えます。古来、有験の霊仏(秘仏)として足利氏の頃には、特に信仰されました。節分と8月16日に開扉法要が営まれます。

貴人榻(とう)は身分の高い人の椅子という意

不動堂

弘法大師の自作と伝える本尊・石不動明王

金閣寺参道

BAIKAL・・・金閣寺ロールなどをゲット!σ(^◇^;)

わら天神(敷地神社)

平野神社

嵐電(京福電車)北野白梅町駅

JR円町駅

京都行き普通電車に乗りまつ・・・

JR嵯峨野線ホーム@JR京都駅32番線

JR奈良線@JR京都駅10番線

JR桃山駅

御香宮

Tourist  2006.02.06(M)

 

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