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81系統「京都駅」、京都駅下車
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205系統「北大路バスターミナル」北野白梅町下車 |
大文字駅伝のモニュメント「都大路の風になれ」 |
北野天満宮 |
菅原道真を祭神とする旧官幣中社で北野神社、北野天神とも呼ばれ境内には50種約2000本の梅が植えられ例年2月初旬〜梅苑が公開されます。創建はすこぶる古く、天慶5年(942年)に神霊を勧請し天満天神として崇めたのに始まり藤原師輔(もろすけ)は神殿を造営し神宝を献じ永延元年(987年)、一条天皇の令により初めて勅祭が執り行われ「北野天満宮天神」の神号を得て二十二社の幣例に加えられました。道真は「和魂漢才」の精神を以って学問に勤しまれ、幼少の頃より文才を表し、朝廷の官吏として活躍しました。寛弘元年(1004年)、一条天皇の行幸以来、歴代天皇の行幸多く、奉幣祈願の絶える事なく江戸時代には文道の大祖・風月の本主と崇められ全国各地に神霊を勧請し分社が建立され「北野の天神さん」と親しまれ「東寺の弘法さん」と共に市民に崇敬されています。
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「報徳思想」を唱えた二宮金次郎(尊徳)像
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北野天満宮@今出川通り |
初雪の日に神が降臨すると伝える影向松 |
三斎井戸 |
天正15年(1587年)10月1日、豊臣秀吉が北野松原で大茶の湯を際した時、細川三斎は、ここに茶席を設け松向軒と称しました。井戸は、その時に茶の湯に用いたと伝えます。往時の松向軒は、現在、大徳寺内の高桐院に移されています。
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北野大茶会の時、細川三斎が茶の水を汲んだと伝える井戸がある松向軒
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上方落語「咄家の祖」・露の五郎兵衛石碑 |
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参道
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道真の母・伴氏を祀る伴氏社(ともうじのやしろ) |
筆塚 |
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天満宮と言えば牛さん・・・撫で牛さんでつ
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文道の大祖・風月の本主の額を掲げる楼門 |
豊公北野大茶会跡 |
天正15年(1587年)10月1日、豊臣秀吉は当地で大茶会を催し「茶道執心の者は何人にもよらず、釜一つ、つるべ一つ、飲み物一つ、茶は焦しにしても苦しからず、引っさげて来るべし。」と呼びかけ参加した者、千余名。当日、秀吉は秘蔵の名物茶器を揃えて会衆に誇示し、自ら松原の中に設けられた各茶席をめぐって諸家の出品する名器を賞しました。この時の大茶会は、すこぶる開放的であったと伝え茶寄合の精神と秀吉の庶民性によるもので秀吉の権力者としての一面とも言われます。昭和11年(1936年)10月、350年を記念して大茶会が行われ現存する当時の茶器も多数出陳されました。
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梅苑・・・開花は、まだまだでつ。。。
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豊公北野大茶湯の跡 |
太閤井戸 |
中門(三光門/重文:桃山期)、三十六歌仙 |
中門(三光門)・・・後西天皇御宸筆による「天満宮」の勅額を掲げる中門は慶長12年(1607年)11月13日に建立された桃山風の装飾彫刻を施した四脚唐門で梁間に日輪、月輪、三日月の三光を彫刻するので三光門とも呼ばれます。日、月、星が門に彫られているので三光門という説がありますが平安京造営当初の大内裏が千本丸太町にあったので旧大極殿が天満宮の真南に位置し、帝が当宮を遥拝されるにあたり三光門真上に北極星が瞬いていたと伝え星は刻まれていません。「三十六歌仙」・・・平安時代中期の歌人・藤原公任(ふじわらのきんとう)の「三十六人撰」に記されている在原業平、大伴家持、小野小町、柿本人麻呂、紀貫之など和歌の名人36人を三十六歌仙と称します。
36人の家集を集大成した「本願寺本三十六人家集」は現存する最古の写本で後世に「中古三十六歌仙」、「女房三十六歌仙」などができ連歌形式の三十六句を歌仙と呼ぶのは、これに因みます。
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境内
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豊臣秀頼が再建した中門(三光門) |
絵馬堂に掲げられる三十六歌仙 |
本殿(国宝:桃山期) |
本殿は朝廷や将軍家が造営修繕に当たりました。慶長12年(1607年)、豊臣秀頼が造営したもので、この時に作られた中門、東門、絵馬堂、神楽殿、校倉等も現存しています。この社殿造営は、豊臣秀吉の遺志であったと伝えます。古来、神社祭祀は庭上で行われていたので、壮大な殿内で祭典を執行する当宮現社殿の出現は神社建築史上画期的なものとされます。八棟造と称され、総面積約500坪の雄大な桧皮葺屋根を戴く大威容は、造営当時の豪華絢爛な桃山文化を伝えます。
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梅花
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檜皮葺の本殿(国宝:桃山期) |
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拝殿と本殿が相の間で結ばれ左右に入母屋造の楽の間を付し多数の屋根が融合しているので一に「八棟造:やつむねづくり」と呼ばれる社殿
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井戸祠
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蝋梅・・・見頃を過ぎた? |
撫で牛さんでつ・・・ |
御土居(史跡:桃山期) |
北野天満宮境内西側、紙屋川に沿って築かれた土堤を称し土堤には多くの梅樹を植え、平野の社を隔てて衣笠山を望む景勝の地となっていました。御土居は天正15年(1587年)、豊臣秀吉が京都の市街区整理を行った時、洛の内外を区分する為に築造した土堤で外側には濠をうがち、7ヶ所(一説に10ヵ所)の出入り口には番舎を設け治安の維持を図ると共に出水による市内の被害を防ぎました。御土居は東は鴨川右岸(西側)に沿って上加茂の西南端に達し紫竹の北方を経て鷹ヶ峰の南に至り、紙屋川に沿って南下し南は東寺・四塚を囲んで東は鴨川に及んだ延長5里26丁4間1尺3寸5分(約22.5km)の長大な土塁を以って都を囲みました。南北に長いのに比べ東西がやや狭いのは、当時に予想された市街区の発達に秀吉が考慮を払った結果によるものと伝え、後に京都市街の変遷は、秀吉の予想にほぼ的中したが近年は都市開発などにより追々と破壊され今は北野天満宮境内、鷹ヶ峰などに一部が現存するに過ぎません。
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豊臣秀吉が築かせた御土居に多くの梅樹を植えた「御土居下梅苑」
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北野天満宮の前身とも言われる「文子(あやこ)天満宮」 |
醍醐天皇の治世下、菅原道真55才の時、右大臣に昇進、道真の異例の出世が、時の権力者の藤原氏や公家らに疎まれ昌泰4年(901年)1月25日、左大臣・藤原時平の讒言により道真は失脚し太宰府に左遷され、延喜3年(903年)2月25日、58才の時に太宰府で亡くなりました。後に時平始め藤原一門が災難に見舞われたり紫宸殿に落雷があり朝臣の頓死、地震、災害、天候不順など天災で農作物が不作になったり政治経済も大変に混乱しました。これは道真の怨霊による祟りだとされ道真を祀る信仰が興りました。天慶5年(942年)、西京の巫女・多治比文子(たじひのあやこ)は、「我を右近の馬場(北野右近馬場)に祀れ」と火雷天神(道真)の託宣を受けますが文子は貧しくて社殿を建立できず自宅の畔に小祠を設けて道真の霊を祀ったと伝えます。近江比良宮禰宜神(みわ)良種の男・太郎丸にも火雷天神(道真)の「我を右近の馬場(北野右近馬場)に祀れ」の託宣があり、天暦元年(947年)6月9日、文子と神(みわ)が協力して、北野朝日寺の僧・最鎮と図って祠宇を設けたのが北野天満宮の創建と言われると共に文子天満宮の始まりと伝え北野天満宮の前身と言われる所以です。文子天満宮は、明治6年(1873年)、西京の旧地から当地に移し祀ったもので毎年の4月12日に西京の旧跡に神輿渡御があります。
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御土居下梅苑・・・開花は、まだまだでつ。。。
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文子天満宮
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西陣名技碑
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北門 |
御土居から出土した石仏群を祀る祠 |
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御土居と御土居から出土した石仏群(史跡:桃山期)
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平野神社 |
延暦13年(794年)、桓武天皇が平安遷都にあたり、大和国(奈良県)から今木(いまき)神、久度(くど)神、古開(ふるあき)神、比賣(ひめ)神、四座を移し祀られた本市における著名な神社です。今木神とは、桓武天皇母后・高野新笠(たかのにいかさ)姫の始祖・百済国王を祀ったもので久度、古開とは人間生活に欠かす事のできないクド、竃を神格化したものであり比賣(ひめ)神は平野神に近待された内親王、女王が後に神として祀られたものと伝えます。延喜の制には名神大社となり次いで22社の一に列せられました。創始以来、皇室の崇敬が篤く、天元4年(981年)に円融天皇が行幸して以来、歴代の天皇が行幸されましたが中世以降、朝廷の式徴に伴い社殿も荒廃するに至りましたが江戸時代初期の寛永年間(1624〜43年)、に再興され慶安2年(1649年)東福門院は拝殿、玉垣、華表など建立され明治維新後の明治4年(1871年)に官幣大社に列せられ明治12年(1879年)に更に社殿を修造されました。境内には約50種500本余の桜木(桜苑)があり「平野の夜桜」とも称され御室、嵐山などと並ぶ都を代表する桜苑があり3月下旬〜5月上旬まで楽しめます。
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平野神社
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楼門 |
「接木の拝殿」として有名な拝殿 |
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平野造(比翼春日造)の本殿(重文:江戸期)
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開花している十月桜(冬咲きの桜) |
約50種500本余の桜木(桜苑) |
敷地神社(わら天神) |
正しくは、敷地神社と言い木華咲耶姫(このはなさくやひめ)を祭神とする衣笠町の参土神です。古くは北山ノ神と称し元、北山天神丘(金閣寺西北)に鎮座されていたが、足利義満が北山殿を営むに際し当地に移したと伝えます。天長5年(828年)、淳和天皇は勅使を遣わし止雨を祈願させた事があり又、安産守護の神として信仰されています。俗に「わら天神」と言われるのは当社で授ける護符にワラの節がついていれば男児、ついていなければ女児が生まれるという俗言によるものです。境内左手に綾杉明神があり、樹齢1500年という杉の巨木根が祀られています。明治29年(1896年)の暴風雨で倒れた木の根で、神功皇后がみごもった時「この綾杉の下で御腹帯を結肌給いし所」と言われたと言う伝説があります。現在も、安産御符のほか、安産、授子祈祷、腹帯、産衣を授与し毎月9日には授乳甘酒を授しています。
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平野神社西参道
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敷地神社(わら天神) |
拝殿 |
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社殿
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樹齢1500年と伝える杉の木根を祀る綾杉明神 |
左大文字(大北山大文字山) |
北山文化の象徴・・・金閣寺(北山鹿苑寺:ろくおんじ/世界文化遺産) |
臨済宗相国寺派の別格本山で正しくは北山鹿苑寺と号し金閣寺は俗称で応永4年(1397年)、足利3代将軍・義満が、西園寺公経の山荘を譲り受け壮麗な北山殿を造営しました。応永15年(1408年)、義満の没後、子・義持が遺言により禅宗寺院に改め、義満の法号(鹿苑院殿)に因んで鹿苑寺と号し方丈、仏殿が新たに建立されました。足利歴代将軍の参詣する所となったが応仁の乱に罹災し金閣のみを残して他は焼失し足利氏の衰退と共に寺運も衰えました。後に豊臣秀吉、徳川家康の帰依を受け西笑承兌(さいしょうじょうたい)、鳳林承章(ほうりんしょうしょ)、文雅慶彦が相次いで住持となり庭園の整備、金閣寺の補修にあたり現在の鹿苑寺は江戸中期頃に完成したと伝えます。
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黒門(金閣寺参道)
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総門 |
船形石(一文字蹲踞:そんきょ) |
金閣(舎利殿) |
金閣は舎利殿として建てられたもので鏡湖池(きょうこち)に臨む三層宝形造の楼閣の一層は藤原時代の寝殿造りの法水院、二層は鎌倉時代の武家造りの潮音洞(ちょうおんどう)、三層は花頭窓を設けた中国風の禅宗仏殿造りの究竟頂(くっきょうちょう)で室内に仏舎利を安置します。特に二層、三層は漆の上から純金箔が張られ宝形造の屋根は椹(さわら)の薄板を何枚も重ねたコケラ葺で頂きに中国で、めでたいとされる鳳凰が輝きます。住宅と仏寺を折衷した楼閣は違様式の三層を見事に調和させ衣笠山を借景とした池泉回遊式庭園は室町時代の北山文化を象徴する遺構ですが三島由紀夫や水上勉の小説でも知られるように昭和25年(1950年)、学僧に放火され焼失し現在の建物は昭和30年(1955年)に再建され昭和62年(1987年)には金箔が全面張り替えられ壮麗できらびやかな姿を蘇らせました。
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庫裡(方丈は改修中)
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唐門 |
金閣と鏡湖池(きょうこち) |
足利義満手植えと伝える京都三松の一「陸舟の松:りくしゅうのまつ」 |
足利義満寵愛の盆栽を移し帆掛け舟の形に仕立てたと伝える樹齢600年の五葉の松で義満の手植えと伝え「陸舟の松」と呼ばれます。
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金閣は寝殿造り(一層)、武家造り(二層)、禅宗仏殿(三層)を折衷した三層宝形造の舎利殿
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義満手植えの京都三松の一「陸舟の松」 |
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義満が茶の水に用いたと伝える銀河泉
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義満の手洗いの水「巌下水(がんかすい)」 |
龍門の滝(鯉魚石) |
安民沢(あんみんたく)、白蛇の塚 |
周囲を樹木で取り囲まれた幽邃な地で池中に島があり白蛇の塚と呼ばれる石塔があります。西園寺家の鎮守と伝え、ある時は三条天皇陵に擬せられた事もあった伝説地です。この池は龍門滝と共に西園寺家の池泉の遺蹟を留めています。
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石仏
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安民沢(あんみんたく)と白蛇の塚(石塔) |
夕佳亭(せっかてい) |
江戸時代の茶道家・金森宗和が好んだ数寄屋造りの茶席で、夕日に映える金閣が殊(こと)に佳い(よい)と言うことから、「夕佳亭:せっかてい」と名付けられた茶席で、正面の床柱が有名な「南天の床柱」、その右にある三角の棚が「萩の違棚:はぎのちがいだな」、中央の古木が、「鶯宿梅:おうしゅくばい」です。平成9年(1997年)、解体修理が行われました。茶席の前の石灯籠と富士型の手水鉢は、銀閣(慈照寺)を建てた足利8代将軍・義政が愛用したものと伝え茶席横の「貴人榻:きじんとう」は身分の高い人の椅子という意味です。
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貴人榻(きじんとう)
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夕佳亭(せっかてい)・・・三畳で奥に勝手、前に土間を取った草庵風の茶室 |
不動堂 |
天正年間(1573〜1592年)、安土桃山時代の大名で豊臣秀吉の重臣・宇喜多秀家の再建によるもので、岩窟内に安置する本尊・石造不動明王(鎌倉期)は弘法大師の自作とされ生身にて摂津国(兵庫県)より歩いて来られたと伝えます。古来、有験の霊仏(秘仏)として足利氏の頃には、特に信仰されました。節分と8月16日に開扉法要が営まれます。
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足利8代将軍・義政寵愛の石灯篭と富士型の手水鉢
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天正年間(1573〜1592年)に宇喜多秀家が再建した不動堂 |
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参道
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洋菓子のBAIKAL |
左大文字(大北山大文字山) |
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205系統「京都駅」に乗車@金閣寺停留所
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「京都駅」下車 |
京都駅ビル |
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チンチンバス
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特81系統「竹田駅東口経由、横大路車庫」 |
「竹田街道大手筋」下車 |
Tourist
2006.02.13(M)
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