雲母坂ウォーキング大比叡散策

 

白雪の 消えぬにつけて 大比叡の 山の高さを 空にしるかな (桂のひと葉) 熊谷直好

 

一乗寺下り松〜詩仙堂〜八大神社〜雲母(きらら)坂〜比叡山延暦寺(世界文化遺産)

雲母(きらら)坂

林丘寺の東から音羽川の渓谷沿いに叡山四明ヶ岳を経て延暦寺に至る約5kmの山路です。急坂の険路で今は利用する者も少ない比叡山への最短コースで山頂まで2時間30分とされます。この坂を一に「勅使坂」、「表坂」、「不動坂」とも言われるのは、昔、朝廷より延暦寺参向など勅使が登ったと伝えます。「山州名跡志」第五によれば比叡山は王城諸山の中で最も高く常に雲がたなびき京都市内から見るとこの坂より雲が生じたように見えるので雲母坂と称すると伝え、一説に土石に雲母を含有するからとも伝えますが名義は明らかでありません。又、親鸞聖人が9歳の時、得度出家の為に登った道、六角堂へ百日参籠の為に行き来した道としても知られ途中に「親鸞聖人御旧跡きらら坂」、「雲母寺跡」の碑、延暦寺の西の浄刹結界があったと伝える「水飲対陣跡」、南北朝時代の南朝方の武将・千種忠顕(ちぐさただあき)が戦死した「千種忠顕碑」などがあります。叡山学院の武覚超教授の調査によると比叡山の登山古道は東塔へ13本、西塔へ9本、横川へ12本が確認されています。

一乗寺下り松(いちじょうじさがりまつ)「宮本、吉岡決闘之地」、「大楠公戦陣蹟」

一乗寺下り松町の三叉路になった道路傍に松を植え「宮本、吉岡決闘之地」なる石碑があります。慶長9年(1604年)、剣豪として有名な宮本武蔵と吉岡又七郎始め門弟数十人を迎えてこの松の木の下で決闘をしたと伝えます。一説に上京区堀川一条の戻り橋にある下り松が、その跡とも伝えますが真偽は、明らかでありません。この付近は、南北朝時代に度々合戦のあった所で楠木正成が3,000余騎を率いて比叡山を下り、この付近に布陣して足利尊氏の軍勢を迎撃したとも伝え近世まで一乗寺背後の山中には城塞を築いた際の堀跡があったと伝えます。

叡山電車・一乗寺駅

雲母坂へテチテチ・・・前方に大比叡

武蔵と吉岡一門の決闘の地「一乗寺下り松」

詩仙堂

石川丈山隠棲の山荘で堂内四方の小壁に漢、晋、唐、宋の詩人36人の肖像画を掲げるにより詩仙堂と称します。石川丈山は江戸初期の文人で名は重之、字は丈山と号し別に四明山人、凸凹窠  、藪里、東渓など多くの号があります。三河の出身で徳川家康に仕え大坂夏の陣で軍規を犯して先駆けをした為に家康の忌避に触れ禄を辞して京都に来住し藤原惺窩の門に学び一時、広島藩に仕えましたが母の死後、当地に隠棲し寛文12年(1672年)5月23日、90才で没するまでの30年間、煙霞(えんか)に嘯き(うそぶき)、風月に吟じ琴を撫でし悠々自適しました。かって、後水尾天皇のお召しを受けた事もあったが「渡らじな 瀬見の小川の 浅くとも 老いの波そふ 影ぞはづかし」と一首の歌を奏って拝辞したと伝えます。

宮本、吉岡決闘之地碑(左)、大楠公戦陣蹟

詩仙堂

宮本武蔵ゆかりの八大神社

映画「宮本武蔵一乗寺の決斗」(昭和39年・東映)など、武蔵を萬屋錦之助が佐々木小次郎は高倉健が演じたようです・・・

お通さま・・・美しい〜 σ(^◇^;) どもども

武蔵の決闘地にあったと伝える松の古株

「小次郎敗れたり!!!」宮本武蔵像

宮本武蔵時蹟

昭和10年頃の一乗寺下り松の鳥瞰図

本殿

伏見学校(下野足利学校)ゆかりの圓光寺 (えんこうじ)、天台宗門跡・曼殊院 (まんしゅいん)

圓光寺・・・瑞巌山と号する臨済宗南禅寺派の寺院で寛文7年(1667年)に当地に移転し明治維新で衰退しましたが、尼僧専門道場として再興され現在は南禅寺派研修道場になっています。慶長6年(1601年)、徳川家康は文治政策として足利学校の元佶(げんきつ)三要和尚を招き、伏見指月の丘に学問所(伏見学校)を開校し朝鮮文書二百部、日韓の書籍ならびに木製活字十万を寄せて管理にあたらせると共に多くの伏見版とも圓光寺版と言われる書籍を印行した当時の木製活字(重文:江戸期)を所蔵し我が国印刷文化史上貴重とされます。他に元佶和尚一幅(重文:桃山期)、円山応挙筆と伝える竹林図屏風六曲一双(重文:桃山期)なども所蔵しています。曼殊院・・・竹内門跡とも称する天台宗の門跡寺院で洛北屈指の名刹です。元は比叡山西塔の北谷にあって東尾坊と言いましたが天暦年中、北野神社の別当職を兼ねてより今の金閣寺の北山の地に移ったが足利義満が金閣を建てるにあたり御所近くに移りました。文明年中、伏見宮貞常親王の御子・慈運が入寺してより門跡寺院となって以来、連綿と法灯を継いできましたが江戸時代の明暦2年(1656年)、後水尾天皇の猶子・良尚法親王の奏請により現在地に移されました。良尚法親王は桂離宮を造営された八条宮智仁親王の御子で二代桂宮智忠親王の御弟にあたるので当寺の造営、庭園などは桂離宮と相通ずるものがあり江戸初期文化の大切な資料ともなっています。

圓光寺

天台宗門跡・曼殊院

親鸞聖人御旧跡きらら坂

浄土真宗の開祖・親鸞は、青蓮院の慈円の門に入り得度した後に比叡山で二十年余り修行積みました。後に六角堂(中京区六角通烏丸東入)で百日参籠して九十五日目に聖徳太子の示現を得て法然の念仏に帰依する決心をしたと伝えます。親鸞が六角堂に参詣する時に比叡山との往還に毎夜、通ったと伝える雲母坂の石標です。

北山方面の眺め

雲母橋

親鸞聖人御旧跡きらら坂石標

雲母寺(うんもじ)跡碑

平安末期の元慶年間(877〜84年)、相応和尚が開いた天台宗の寺院で比叡山延暦寺根本中堂へ至る険しい山路を雲母(きらら)坂と呼ばれその登り口に建立されました。延暦寺に属し往時は音羽川を前にして本堂が南面し本尊に伝教大師自作と伝える高さ八尺(約2.4m)の不動明王を祀り傍に不動滝、鐘楼、方丈などの建物があって、かなり崇敬を集めていたが明治18年(1885年)に廃寺となり本堂、本尊・不動明王は赤山禅院に移され西行法師が京都七口に建立した地蔵堂の一とされる地蔵堂の本尊・地蔵菩薩は山端森本町の帰命院に移されました。

きらら坂登山道入口

雲母寺(うんもじ)跡碑

きらら坂は、不思議な空間?

京都御所と根本中堂を結ぶ雲母(きらら)坂 「修学院〜水飲〜東塔(約5.7km)」

京都御所から比叡山への主要山道で回峰行者が京都へ下る「京都切り廻り」のコースになっています。途中、音羽川の深い谷と並行し降雨時は沢に流れ込む雨水が山道に溢れ花崗岩質の土壌が川底のように深くえぐられた急坂の険路です。本坂に対して「西坂」、御所の勅使が利用したので「勅使坂」、延暦寺の西の浄刹結界があった水飲(みずのみ)あたりを越えて行くので「水飲越え」、雲母不動堂があったので「不動坂」などとも呼ばれました。雲母坂は京都の公家、貴族が参拝した山道と伝えますが、本当に勅使が通ったのか?と思う険路でした。比叡山の僧徒が朝廷に強訴する時は、山上から神輿を奉じて雲母坂を大挙して下り御所へ参内したとも伝えます。

降雨時は、雨水が山道を滝となって流れ落ちるので登山は困難とされるとです・・・

川底のように深くえぐれた急坂の険路でつ・・・σ(^◇^;)

延暦寺西の浄刹結界があった水飲対陣跡

東山トレイル分岐(左:赤山禅院、右:無動寺谷)

尾根道からの眺め O(^◇^)O ふぉ〜

険路の上に積雪が! (>_<)

千種忠顕(ちぐさただあき)碑

四明ヶ岳山頂より西南約1km余、雲母坂に沿う山の中程にあり「太平記」によると千種忠顕は、後醍醐天皇に勤仕し延元元年(1336年)6月、足利尊氏の軍勢と雲母坂の途上で戦って戦死した建武中興の功臣とされ戦没地に因んで顕彰碑が建てられています。又、ここは昔に如法写経を行い埋蔵した塚のあった所で大正12年(1923年)、地下より陶質経筒や古銭を発掘した事があります。

雪ニモマケズ・・・スリップ注意!

千種忠顕(ちぐさただあき)碑

ケーブル比叡駅を目指してテチテチ σ(^◇^;)

雪に埋もれている千種塚

積雪で山道が分からん?! (@_@;)

尾根道はスリップ厳禁! (@_@;)

我は武蔵なり?!木杖の二刀流じゃ〜! σ(^◇^;)

尾根道からの絶景 O(^◇^)O ふぉ〜

約50分でケーブル比叡駅に到着!σ(^◇^;)ふ〜

絶景かな〜、絶景かな〜〜 O(^◇^)Oふぉ〜

積雪の叡山ケーブル比叡駅・・・(>_<) 寒〜

鞍馬寺が見えるとです・・・ O(^◇^)Oふぉ〜

ケーブルカーが発車しまつた・・・

昭和31年頃のゴンドラ(叡山ロープウェイ)

凄い積雪の延暦寺への山道 (@_@;)

叡山ロープウェイ下を通過・・・

比叡山人工スキー場跡(蛇ヶ池跡)

ロッジ跡

蛇ヶ池跡(人工スキー場跡)

昔、蛇が、わだかまった様な怪石があり人々の猥怖するところでした。ある時、伝教大師最澄が法力をもって祈願されると雷電がたちどころにこの怪石を打ち砕き池となったという伝説があります。一説には毒蛇が居て人々に危害を加えるので伝教大師最澄が祈願しこれらを追い払ったとも伝わります。

比叡山人工スキー場跡(ロッジテラスから)

前〜横高山(767m)、水井山(794m)、峰床山

リフト跡

供養塔(蛇ヶ池跡)

比叡山人工スキー場跡

雪深き山道・・・ウサギの気持ちが分かる?!(爆)

雪ニモマケズ・・・大原、峰床山(970m)方面

スリップしないようにテチテチ・・・

石仏群・・・北風が無っ茶強くて痛い?! (>_<)

雪ニモマケズ・・・しか〜し、益々雪深くなってきまつた! o(*^▽^*)o 突撃じゃ〜

比叡山延暦寺(世界文化遺産)

延暦寺は天台宗総本山です。延暦7年(788年)、伝教大師最澄は比叡山上に自ら刻んだ薬師如来像を本尊として、一乗止観院(根本中堂)を創立し比叡山寺と号したのが延暦寺の創始であると伝わります。延暦寺という単一の堂宇は無く、東塔(とうどう)、西塔(さいとう)、横川(よかわ)の三塔からなり夫々の中堂(本堂)と付随する堂宇があり三塔十六谷三千坊と称され比叡山全体が延暦寺です。桓武天皇の平安遷都に伴い都の鬼門の方向にある比叡山寺が官寺(国家を鎮護する為の寺院)に選ばれました。延暦寺と号したのは、伝教大師最澄没後の弘仁14年(823年)であると伝わります。その後、他山の宗教争い等で、しばしば多くの堂を焼失しましたが、その度に復興され現在に至ります。比叡山から数多くの名僧、高僧を輩出しており、平安〜鎌倉期に各宗派を広めた法然、親鸞、道元、一遍、栄西、日蓮らの僧もここで修行し日本仏教の発祥地とされる所以です。元亀2年(1571年)、織田信長の軍勢によって比叡山全山すべて焼き払われ建物で残ったのは西塔にある瑠璃堂のみとされ僧侶、坂本の住民など二千人以上が惨殺されました。その後、豊臣秀吉、秀頼、徳川家康、家光らによって延暦寺は復興されました。比叡山は日本仏教の母山とされ、文化遺産が豊富な寺院としても有名で63点の国宝、重要文化財を含む数百点もの寺宝を所蔵し世界文化遺産にも登録されています。かっては、皇室を檀越とし一般庶民を近づけずに長く女人禁制を守り続けていた叡山も今日では一般庶民に親しまれる寺院となりました。

国家鎮護碑

スリップしないよう・・・

約1時間50分で山王院に到達! σ(^◇^;) ふ〜

浄土院(伝教大師最澄御廟)

伝教大師の御廟がある浄土院は、弘仁13年(822年)6月4日56歳で入寂された大師の遺骸を、慈覚大師が仁寿4年(854年)7月ここに移して安置している比叡山で最も清浄な聖域とされています。現在も僧侶が生前と同じように大師の霊前に仕えています。厳しく戒律を守り十二年を一期とし籠山(ろうざん)して行に励んでいます。

山王院〜浄土院への石段・・・・結構きつくて長い石段です。

浄土院

椿堂

聖徳太子が比叡山に入山した時、杖に使っていた椿の枝をさして帰ったところ根をおろして辺り一面に椿が大きく育ったという伝説から、椿堂と名付けられたと伝える。

浄土院

湧き水がマイウ〜☆⌒(*^∇゜)v

聖徳太子所縁の椿堂

親鸞聖人修行の地

親鸞聖人旧跡

江戸初期創建、恵亮和尚所縁の恵亮堂

荷い堂(にないどう:重要文化財)

渡り廊下でつながった阿弥陀如来を本尊とする常行堂、普賢菩薩を本尊法華堂を俗に荷い堂と呼ばれます。弁慶が渡り廊下を天秤棒にして両堂を担いだという伝説から荷い堂と称されたと伝わります。にない堂では四種三昧行という修行が行われる。四種三昧は常坐、常行、半行半坐、非行非坐からなり、常坐は90日間、食事とトイレを除き一日も休むことなく坐禅し続ける行であり、常行は90日間本尊阿弥陀如来の周りを歩き続ける過酷な行であると言われます。

阿弥陀如来を祀る常行堂(荷い堂)

弁慶が担いだと伝わる荷い堂の渡り廊下

普賢菩薩を祀る法華堂(荷い堂)

釈迦堂(転法輪堂:重要文化財)、恵亮堂

西塔の中堂(本堂)で正式には天法輪堂と言います。貞和3年(1347年)に建てられた園城寺の弥勒堂を、織田信長の比叡山焼き討ち後、豊臣秀吉の命で文禄4年(1596年)に、ここに移築したものであるとされています。天台様式の典型な堂々とした風格のある建物で、延暦寺に現存する建物では最古です。釈迦堂と鎌倉時代に造られたという最澄自作の秘仏・木像釈迦如来立像は共に重要文化財に指定されている。大楽大師(恵亮和尚)を本尊として祀る。当時、比叡山で修力霊験に最も優れ京都の妙法院を創建した人です。

比叡山内に現存する最古建築物の釈迦堂

釈迦牟尼佛

伝教大師立像

比叡山ドライブウェイを横断して瑠璃堂へ

尾根道からの眺め O(^◇^)O ふぉ〜

雪深き黒谷への山道 σ(^◇^;)

織田信長の比叡山焼き討ちを唯一免れた瑠璃

釈迦堂の裏手から黒谷へ向かう途中にあり、織田信長の焼き討ちを唯一免れた堂宇です。本尊は薬師瑠璃光如来が祀られ室町末期の建築様式を今に伝え3間四方、正方形の入母屋造りで比叡山では珍しい唐様の建物です。

元亀2年(1571年)9月12日、織田信長の比叡山焼き討ちを唯一免れた瑠璃堂

相輪橖 、弥勒石仏への石段

相輪橖(そうりんとう:鬼門柱:重要文化財)

高さ約10mの青銅製の相輪で鬼門柱とも呼ばれ明治28年(1895年)に改修され、塔内には法華経、大日経などの経典が収められています。

相輪橖 

弥勒石仏(鎌倉初期作)

釈迦堂へ戻りました・・・σ(^◇^;)

弁慶水

浄土院〜山王院〜根本中堂に至る道中に有り千日間、山王院(千手院)に参籠していた弁慶が汲んだ水とも伝わり、現在も湧き出ています。

雪ニモマケズ・・・東塔へ向かいます・・・(^◇^;)

無縁仏、慰霊碑

弁慶水

法華総持院東塔(ほっけそうじいんとうとう)、阿弥陀堂(あみだどう)

法華総持院東塔・・・伝教大師最澄は、日本全国6ヶ所の聖地に宝塔を建立しました。「六箇所の宝塔」の中心をなすものとして貞観4年(862年)、慈覚大師によって創建されましたが、元亀2年(1571年)9月、織田信長の比叡山焼き討ちにより焼失しました。400年以上たった昭和55年(1980年)に再建されました。上層部に仏舎利と法華経1000部、般若心経50万巻、100万遍の念仏名号を納め下層部の須弥壇には胎蔵界大日如来を中心に五仏が祀られています。阿弥陀堂・・・昭和12年(1937年)の比叡山開創法要を記念して建立されました。本尊は阿弥陀仏坐像で全国の壇信徒、有縁各家の先祖を祀り念仏回向が日々行われています。

円仁が創建し昭和期再建の法華総持院東塔

宗派を問わず先祖の回向が受けられる阿弥陀堂

悟りへ52段階が必要とされる52段の石段

戒壇院(かいだんいん:重要文化財)、大講堂(だいこうどう:重要文化財)

戒壇院・・・天台宗の僧侶が受戒する道場として重要なお堂です。戒壇建立は伝教大師の入寂後に勅許がおり第一世天台座主・義真の時に創建されました。内陣には本尊の釈迦如来坐像と僧形の文殊菩薩、弥勒菩薩が祀られています。大講堂・・・五年に一度の法華大会(広学堅義:こうがくりゅうぎ)を始め経典の講義などに使用されるお堂で昭和31年(1956年)の焼失後坂本にあった讃仏堂を移築し本尊に胎蔵界大日如来を祀り聖徳太子、桓武天皇始め比叡山で修行した法然、親鸞、栄西、道元、日蓮などの各宗祖師の木造が安置されています。

江戸初期に再建され大乗戒を授かる戒壇院

法華大会広学堅義、経典の講義が行われる大講堂

根本中堂への参道

宮沢賢治の歌碑

円仁が創建し比叡山総門の文殊楼への石段

根本中堂(こんぽんちゅうどう:国宝)

根本中堂は東塔の中堂(本堂)であるだけでなく延暦寺第一の総中堂(本堂)でもあります。延暦7年(788年)、伝教大師最澄は一乗止観院(現・根本中堂)を創建し自らが刻んだ薬師如来像を安置して比叡山寺と号しました。これが延暦寺の始まりです。現在の建築は徳川家光の命により復興されたもので寛永19年(1642年)、落慶法要が営まれその後大小の修繕が加えられ現在に至っています。桁行は11間(20m)、奥行6間(11m)で中堂の前庭をコの字型に約90mの回廊が取り囲んだ入母屋作りの壮麗な建築物です。中央の大厨子には秘仏の薬師如来像祀られ、その前には開創以来1200年間灯され続けている「不滅の法灯」があります。

根本中堂(国宝)は平安初期、最澄が建立した一乗止観院。天台宗総本山の中心道場です。

法華総持院東塔

大講堂

登厳成仏碑と月(延暦寺バスセンター)

延暦寺バスセンター

京都駅行きの最終バスに乗車しまつ・・・

バスの車窓・・・琵琶湖の絶景! O(^◇^)Oふぉ〜

出町柳からの比叡山

おけいはんK特急に乗車しまつ・・・(出町柳駅)

ダブルデッカー(二階席)

 Tourist  2005.12.12(M)

 

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