川端康成の小説『古都』の舞台、北山杉の里・中川

 

ねぶたさの 春は御室の 花よりぞ 与謝蕪村

 

城南宮〜仁和寺〜五智山蓮華寺〜鳴滝〜高雄〜西明寺〜高山寺〜北山杉の里・中川〜北山杉資料館〜吉祥院天満宮

 

北山杉の里・中川 ☆地図

中川は、京都市街の西北約20kmに位置する高雄の北、杉坂の南にあって周山街道に沿うた山間の一集落。小野郷より流れ来る清滝川は、中川を貫流し、高雄、清滝を経て保津峡で桂川に合流する。中川の民家は清滝川に沿うた街道筋に建ち並び、北山丸太を磨く婦女子の姿が所々で見られる。いずれも紺の立掛けをうがち、腹掛けをし小巾の帯をして労働本意の服装をしている。磨き丸太は、室町時代から茶室や数寄屋に重用された。特に、現在の京都市北区中川を中心とする地域は、北山杉の産地として栄えた。中川地域は隣接する小野庄(京都市北区小野郷)や梅ヶ畑庄(京都市右京区高雄)と共に京都御所に産物を献上する「供御人」としての地位を授かり古来より磨丸太類の生産、販売を行った。室町時代、中川地域の磨丸太は千利休により完成された茶の湯文化を支える茶室や数奇屋の建築材として重用され桂離宮、修学院離宮や島原の角屋などは北山丸太を使った数寄屋づくりの代表的な建築です。江戸時代〜明治時代にかけて、中川地域の磨丸太は京都市内を始め関西一円に販売された。第二次世界大戦後、吉田五十八や篠原一男らを始めとする著名な建築家による近代数奇屋建築が華々しく登場し、中川地域の磨丸太の需要は絶頂に達しブームに乗って、京都府京北町、八木町、日吉町にまで磨丸太育林が波及したのもこの頃からです。このような背景の中で中川を中心に高雄、鷹ヶ峰、小野郷を含めた地域からの丸太は地山丸太、京北町等からの丸太は丹波物と呼ばれた。中川は元来、林業を生業とする梅ヶ畑村の村民が漸次、山中へ入り込んで一集落をなした所と伝え、元は梅ヶ畑村の中河と称した。後の明治維新後は葛野郡第三区に属し、小野・大森・真弓・杉坂の諸村と合したが、明治22年(1889年)に分離、中河を中川と改めて独立町村となった。昭和23年(1948年)に京都市に編入され北区中川町となった。住民は、もっぱら林業を主として男子は山に入り薪、材木を切り出し、女子は、これを市中に運搬して米、野菜、魚肉類などの日用品と交換する慣わしであったが、明治37年(1904年)、周山街道が拡張整備されてからトラックなどによって搬出された。尚、菩提の滝は由緒不詳だが中川より鷹ヶ峰に至る山道途中、中河谷と称する渓谷にある。北山杉は北山丸太、磨丸太ともいい、この滝壺の砂を用いて丸太を磨いた。・・・ノーベル賞作家・川端康成の小説『古都』は、中川辺りが舞台となり、山口百恵のラスト映画・古都のロケ地にもなりました。・・・北山杉を育てる職人夫妻の双子の姉として生まれた千重子(山口百恵)は、貧しさ故に生後まもなくに捨てられ、室町筋の呉服問屋のお嬢さんとして不自由なく育つ。ある時、以前から訪ねたい思っていた北山杉の村を訪ねた時、自分と瓜二つの娘を見かける。後日、祇園祭に出かけた時、その娘・苗子(山口百恵二役)から「神さまのお引き逢わせどす。あんた、うちの姉さんや」と声を掛けられ、当惑しながらも喜びを覚える。苗子は千恵子に懸想する織屋の息子・秀男に間違えられて帯を作ってもらったことから懇意になりプロポーズされるものの、姉の代りの幻であることを重々知っている為に切なさを感じた。迷惑になるからと一度の約束で泊りに来る。その夜、エリートサラリーマンである竜助を婿に取ることが決まった千恵子は苗子に結婚を勧める。一夜を話し明かした翌朝早く、「うち、一生の幸せやったと忘れしまへん。人に見られんうちに帰らしてもらいます・・」という言葉を残し、千恵子が、「また降るかも知れまへん、これ私が使こうてたもんどす。持っていっておくれやす。さいなら・・また、来とおくれやすな・・」と言うと苗子は黙ったまま寂しげに首を横にふり、もらった傘を持って淡雪舞う中を北山に帰っていった。・・物語は、千重子が幼なじみの真一と出かけた平安神宮の春の桜見から始まり、祇園祭の人混みの中で双子の苗子と出会い、秋の時代祭りを経て、淡雪の降る冬で終わります。京都の代表的な年中行事のほか、京都の名所、北山の美しい自然を背景に、実の姉妹であるふたりの娘が偶然出逢い、そして別れ・・・生き別れになった双子姉妹の数奇な運命を描いた物語の舞台となったのが北山杉の里・中川です。

寺田屋で伏見奉行所の幕吏に襲われて手傷を負った龍馬が匿われた薩摩藩伏見藩邸跡 (*^-^*)
東高瀬川右岸を北上ing・・・ 黄桜(御衣黄) 城南宮
いつも手入れが行き届いた静寂な境内 菜の花で埋まる鴨川河原
水保全センター(下水処理場)のフジの満開は、今少し先・・・
桂川左岸堤防道の菜の花も美しい・・
菜の花の黄色に包み込まれているよう・・
天神川に沿って北上ing・・・ 黄桜(御衣黄)
天神川通りを北上ing・・・雲行きが怪しくなってきた。。。; ̄ロ ̄)!! わかさスタジアム京都(西京極球場)
天神川左岸の桜並木 八重桜@京都外大
八重桜@京都外大 周山街道とも呼ばれる若狭・小浜に至る国道162号線を北上ing・・・風が強くなってきた(>_<)
世界文化遺産・仁和寺(にんなじ) ☆地図

真言宗御室派の大本山で第58代・光孝天皇によって、先帝の菩提を弔い、仏法の興隆を図るため「西山御願寺」と称する一寺の建立を発願された事に始まりその後、宇多天皇が仁和4年(888年)に造営を完成されました。「御願寺」と称する寺院は、皇室の私寺を意味しますが、西山御願寺は完成と共に、先帝から受け継がれた「仁和」の年号をもって寺号と定められ、大内山仁和寺と呼ばれました。応仁元年(1467年)、応仁の乱によって一山ことごとく灰燼しました。徳川幕府三代将軍・家光の御代に再興されました。京都御所の再建とも重なり御所から仁和寺金堂になっている「紫寝殿」、他多数の建造物と再建資金として20数万両を徳川幕府から得て再興されました。明治の大火で本坊、寝殿などが消失しましたが現存するほとんどの伽藍は寛永年間の遺構で明治維新では第30世・純仁法親王が還俗した事で皇族が門跡となる宮門跡になる時代が終わりました。平成6年(1994年)に仁和寺は世界遺産に登録されました。仁王門は、知恩院の「三門」や南禅寺の「山門」と共に、京都三大門と呼ばれ、同時代を代表する建築物として知られますが知恩院や南禅寺の門が禅宗様式(唐様)であるのに対し、仁和寺の仁王門は和様である事に違いがあり寛永14年(1637年)〜正保元年(1644年)にかけて建てられました。

突然の激しい雷雨と風に雨宿り(>_<)  嵐電(京福電車)名所「桜のトンネル」 仁和寺
仁王門(重要文化財:江戸期) 黄桜(御衣黄) 勅使門@旧御室御所御殿(白書院、寝殿)
済信僧正塚 こま札 中門(重要文化財:江戸期)

名勝・御室桜

御室桜は遅咲きで知られ、背丈の低い桜で花(鼻)が低いところから、お多福桜とも呼ばれます。近年まで、桜の下が硬い岩盤である為に根を地中深くのばせないので背丈が低くなったと言われましたが、現在の調査で岩盤ではなく粘土質の土壌であることが判明し、土中に酸素や栄養分が少なく、桜が根を伸ばせず背丈が低い要因の一つだと推察されています。

仁王門〜中門の参道 名勝・御室桜(お多福桜とも泣き桜とも呼ばれる) 雨上がりに濡れて輝く花びらが雪のよう・・
えぇなぁ〜 (@^▽^@)
遅咲きで知られる御室桜(お多福桜)・・散った花びらが積雪のよう・・・
御室桜(お多福桜)と五重塔(重要文化財:江戸期)
Beautiful!! (・_・)☆ヾ(^^ ) 欧米か?!
えぇなぁ〜 (@^▽^@)
観音堂(重要文化財:江戸期) 御影堂(重要文化財:江戸期)
菅公腰掛石

水掛不動尊の台座石は宇多天皇に右大臣として登用されていた菅原道真が後年無実の罪で九州太宰府に流されるとき、宇多法皇の元に別れの挨拶に参上したところ、法皇は勤行中であったので、この石に腰を掛けて勤行が終わるのを待ったと伝えます。

水掛不動 水掛不動尊と管公腰掛石 閼伽水井
鐘楼(重要文化財:江戸期 経蔵 金堂(国宝:桃山期)

日本最古の織部灯篭(重文:江戸期)と九所明神(重文:江戸期)

五重塔(重要文化財:江戸期/仁和寺)
花の菩薩 紅葉してます!(@_@;) ぼたん桜
五智如来石仏群(五智山蓮華寺) ☆地図

前方に胎蔵界の大日如来を中心とする丈六の五智如来(薬師、室生、大日、阿弥陀、不空成就釈迦)、後方に地蔵菩薩を中心に観世音などの諸像11体が並び伏見深草・石峰寺のそれと共に京都市における石仏群の双璧です。

キララくん 五智山蓮華寺 境内
五智如来石仏群 後宇多天皇旧御所、五智山蓮華寺略史碑
五智不動明王を祀る不動堂(本堂) 仁和寺の鎮守神・福王子神社 周山街道(162号線)を高雄へ・・・
雨上がりの増水で大きくなった滝の水音で以前から探していた鳴滝を発見!(*^-^*)  芭蕉歌碑「梅白し 昨日ふや鶴 を盗れし」
御室川にある落差3m程の二段に分かれる小滝ですが、滝の水音が遠くまで鳴り響いていたことから鳴滝と名付けられたと伝える。
地元の方?綺麗に手入れされ花が供えられている。対岸の壁に不動明王が祀られている。 いよいよ・・上り坂の始まり、始まり〜(^▽^;)
平岡八幡宮 ・・・ ギョギョッ?!工事中で一車線(@_@;)
高雄、周山街道

高雄は一に高尾につくり、梅ヶ畑の西北、清滝川の中遊にあって渓流に沿って北は槙尾(まきのお)、栂尾(とがのお)と共に三尾(さんび)と言います。洛西きっての紅葉の名所で渓谷を埋める楓と共に清滝の渓流と相俟って天下の絶景と謳われます。周山街道は一条通りの西延長道で京都〜丹波へ抜ける街道です。御室・仁和寺から周山街道(R162)を西北へ進むと御経坂峠を超えて景勝地の三尾(高雄(尾)、槙尾、栂尾)、清滝川沿いに山間を北へ進み、中川〜周山までの沿道は世に名高い北山杉の美観に思わず見惚れます。川端康成の小説「古都」に中川辺りの情景を書き映画化もされました。銘木の北山丸太(磨き丸太造りの台杉:床柱)は、当地でしか生産出来ず、和室の床の間の必需品として価値は高く桂離宮、修学院離宮を始めとする室町期の茶室の床柱、垂木などに使用されています。周山は古くから丹波と京を結ぶ交通の要所で明智光秀は、周山の西北「城山」に、約400年前の天正7年(1579年)、周山城を構え本丸跡の石垣を始め15もの遺跡が残っています。周山という地名も明智光秀が中国の周の武王が善政を布いたという故事から名付けられたと伝える。

高雄小学校の枝垂れ桜も美しい・・・ ・・・
周山街道最初の峠・御経坂峠・・・ここから高雄です。 ・・・
・・・ 槙尾山(西明寺背後)山ツツジ
槙尾山(西明寺背後)山ツツジ
・・・ 槙尾の里 指月橋
清滝川 石段を上ります・・・
西明寺 ☆地図

槙尾山と号する古義真言宗大覚寺派の寺で一に平等心王院と言います。天長年間(824〜34年)、空海の高弟・智泉が神護寺の別院として改創したが荒廃し鎌倉時代の建治年中、和泉国(大阪府)槙尾山の白証上人が再興し正応元年(1288年)、後宇多上皇が新たに堂塔を建立し平等心王院と号しました。永禄年中、兵火に掛かり伽藍を悉く焼失し一時は神護寺に合併され別院となっていたが慶長7年(1602年)、神護寺の僧・明忍によって再興され律宗を兼ねました。元禄年間(1688〜1704年)、徳川五代将軍・綱吉の生母・桂昌院は本寺に帰依し諸堂建立に努め再興しました。本堂の唐様須弥壇上に安置する本尊・釈迦如来立像(重文:鎌倉期)は高さ51cmの小像ですが嵯峨清涼寺像を真似た尊像で高山寺明恵上人の造顕と伝え脇檀には千手観音立像(重文:藤原期)を安置します。境内は幽邃閑寂で三尾の一として紅葉の名所でもあります。

宝篋印塔(ほうきょういんとう) ・・・ 山門
こま札 本堂 シャクナゲの花
客殿(旧祖師堂) 庫裏 山ツツジ
・・・ ・・・ 山ツツジ
清流・清滝川のせせらぎ
山ツツジを真下から見上げます・・・ 高雄観光マップ
天照太神宮? 枝垂れ桜 茶山栂尾(とがのお)碑
世界文化遺産・高山寺・・・緑茶発祥の地 ☆地図

栂尾(とがのお)山と号する真言宗の単立寺院です。初め神願寺都賀尾坊(とがおぼう)と称する天台寺院でしたが久しく荒廃していたのを鎌倉時代の建永元年(1206年)、明恵(みょうえ)上人によって再興され、後鳥羽上皇から「日出先照高山之寺(ひいでてまずこうざんをてらすやまのてら)」の勅額を賜り高山寺と改めました。以後、華厳宗興隆の道場となり次第に朝野の崇敬を集め北条泰時は政治の要諦を上人に謀り、建礼門院は上人より受戒したとされます。南北朝時代は寺域も広大でしたが室町時代の応仁の乱で退転し諸堂の多くを失ったが近世、豊臣秀吉から寺領58石を与えられ寛永11年(1634年)、仁和寺の旧御所の建物を移築し金堂を再建しました。本尊・釈迦如来像を安置し開山堂には明恵上人樹上坐像(重文・鎌倉期)を安置します。石水院は鎌倉時代初期の寝殿造りの形式を留める貴重な建造物で国宝に指定され文化財も頗る多く、絹本著色仏眼仏母像一幅(国宝・鎌倉期)、薬師如来坐像(重文:天平期)、善妙神、日光神立像(重文:鎌倉期)、狛犬四対(重文:鎌倉期)、華厳宗祖師絵伝(国宝・鎌倉期)など国宝8点、重要文化財51点にも及び中でも鳥羽僧正筆による紙本墨画鳥獣人物戯画四巻(国宝・鎌倉期)は有名で平成6年(1994年)にユネスコ世界文化遺産に登録されました。境内にある栂尾茶園は鎌倉初期に栄西禅師が宋から将来した茶種を明恵上人に送り栂尾の深瀬三本木に植えたのが我が国最初の茶栽培となって隆盛し宇治の茶は栂尾から移植したもので宇治の茶業家は現在も新茶を明恵上人の廟前に供えるを慣わしとしています。

高山寺 世界文化遺産碑 参道
高山寺境内案内図 客殿、石水院(国宝:鎌倉期)
日本最古之茶園(茶畑) ・・・
開山堂 開山廟(明恵みょうえ上人墓所) 高山寺仏足石
金堂 ・・・ ・・・
高雄〜中川は周山街道(国道162号)で約3.3km 北山杉は京都の府木に指定され丁寧に枝打ちされて手入れが行き届いている杉林
国道162号線は周山街道と呼ぶ方が有名・・明智光秀が縄野に築城し自らを周の武王になぞらえ縄野を周山と改めた事に由来する。

清滝川に沿って枝打ちされ整然とした杉山の間を蛇行する周山街道(国道162号)を中川へ走る。・・・川端康成の小説『古都』で、この辺りを「清滝川の岸に急な山が迫ってくる。やがて美しい杉林がながめられる。・・」 と描写されている。

新しくできた杉の里トンネル 清滝川、中川トンネル手前を中川へ・・

清滝川に沿って旧街道を中川へGoing ・・・「山は高くも、そう深くもない。山の頂にも、ととのって立ち並ぶ、杉の幹の一本一本が、見上げるほどである。数寄屋普請に使われる杉だから、その林相は数寄屋風のながめと言えるだろうか・・・ただ、清滝川の両岸の山は急で、狭く谷に落ちている。・・」 川端康成・古都より

二匹でもワンちゃん?(^▽^;) いきなりワンちゃんが飛びかかりながらワンワン攻撃の熱烈歓迎?!(@_@;) 猟犬仕様?獲物じゃねぇ〜よ?!(^^ゞ爆
清滝川に沿った旧街道 北山杉を乾燥させる建物施設 ・・・
川底が深く、川幅の広い清滝川 綺麗に磨かれた磨き丸太は製品になるまで30〜40年も掛かるとか・・(@_@;)
・・・ 八幡宮 中川小学校
「京都府の木」の選定記念に建立された北山杉碑と皇太子、皇太子妃行啓記念碑 ・・・

川端康成『古都』で、ヒロイン・千重子が「北山杉の真っ直ぐ綺麗に立ってるのを眺めると、うちは心が、すうっとする・・」という一説がある。この先の杉坂、北山杉資料館辺りは、山口百恵が最後に演じた「古都」のロケ地も訪ねたいところ。

山峡に見事な杉林が広がる深山幽谷な中川の集落は川端康成『古都』の舞台になった。・・・山間集落の中川は京都市北区です。
中川を抜け周山街道国道(162号線)の杉坂口 北山杉と清滝川 北山杉資料館(閉館?)
ノーベル賞作家・川端康成文学碑【古都抄】 古都・再会の像 中川へ戻ります。・・えぇなぁ〜 (*^▽^*)
伝統的な数寄屋普請になくてはならない床柱や桁、垂木等に用いられる磨き丸太。時の流れで需要が少なくなったのか閑散としている・・
北山杉を乾燥させたり材木加工する作業場前には幾本も清滝川に架けられた幅広の一本橋
山滝商店のおばちゃんに、磨き丸太、台杉の話なども伺って、湧き水も頂きました。帰りは二匹でもワンちゃんも静かに見送ってくれた。(^^ゞ爆
中川俯瞰・・おばちゃんに立派な台杉があるから見ておいでと勧められて宗蓮寺へ急坂上りing。。。(; ̄ー ̄A

道沿いの畑で仕事をしていたお爺さん達に樹齢600年とも400年とも伝えるのがこの台杉だと聞きました。・・・ほんに立派な中川の台杉です。
室町時代に創建された浄土宗捨世派・宗蓮寺

住職が丹精込めて育てた貴船菊(秋明菊)は愛好家の間で京都一との評判を受け貴船菊(秋明菊)の寺とも呼ばれる。・・参道、境内にも手入れが行き届いた美しい台杉が幾つもある。

台杉と山門 境内 杉塚と台杉
台杉と本堂 茅葺の民家と台杉?真っ直ぐに伸びる杉 磨き丸太と枝垂れ桜
北山杉の里・中川俯瞰・・川端康成の「古都」で、離れ離れになって暮らす双子姉妹の妹・苗子が住む村として描かれる中川集落
北山杉の里・中川をあとに・・・日暮れ前に、かっとびモードで帰路へ o(*^▽^*)o 杉の里トンネル
・・・ ・・・ 栂尾(とがのお)、高山寺駐車場
槙尾山(西明寺背後)に群生している山ツツジ
槙尾の里俯瞰 山ツツジ 御経坂峠
快適な50km走行ing・・・\(●⌒∇⌒●)/ おっ、虹が出てる・・(*^-^*) この先で事故処理中のPMに ちとスピード出し過ぎやねって (^∀^ヾ
JR嵯峨野線(山陰本線)花園駅 嵐電(京福電車)・・やっぱり京都は、路面電車が似合うなぁ〜(*^-^*)
吉祥院天満宮(受験合格、開運招福) ☆地図

菅原道真没後31年の承平4年(934年)、菅原家ゆかりの道真誕生の地に朱雀天皇の勅命により創建された最初の天満宮です。これより先、平安遷都とともに文章博士として恒武天皇に随行された道真の祖父・清公卿は遣唐使の命を受けて唐へ渡航中暴風に遭遇、船上にて吉祥天女(きっしょうてんにょ)の霊験を得て入唐、無事任務を終えて帰国後、自邸内にお堂を建て吉祥天女の尊像を祀りました。これが吉祥院の由来で地名の起源となっています。境内には道真のへその緒を埋めたと伝える胞衣(えな)塚を始め、少年時代に習字に使用したという硯(すずり)の水や顔を写したと伝える鑑(かがみ)の井などがあります。(当社創建由緒より)

西大路通り 道真生誕地と伝える吉祥院天満宮 弁財天社
境内へ・・・ キリシマツツジが綺麗!(*^-^*) 道真のへそ緒を埋めたと伝える胞衣(えな)塚
祭礼の露天や参拝者で賑やか・・ 道真が習字に使用したという硯(すずり)の水
お礼参りさせていただきました。O(-人-)O 鳥羽伏見戦が開戦した小枝橋界隈 鳥羽伏見戦跡碑(旧小枝橋)
油小路通りを南下ing・・・ 大手筋商店街

風呂屋町商店街

Tourist.2011.4.25(M)

 

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