秋の古都・東福寺、清水寺

 

音羽山 滝の流れも 名に高き 清水(しみず)も清き 法(のり)の寺かな (草根集) 清巌正徹(せいがんしょうてつ)

 

東福寺〜世界文化遺産・清水寺〜珍皇寺(ちんこうじ:ちんのうじ)〜六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)※閉門の為、拝観できず・゚・(つД`)・゚・

撞木町遊郭跡

慶長9年(1604年)、渡辺掃部、前原八右衛門の両名により開設されました。伏見の発展と共に元禄期(1688〜1704年)全盛を迎え、元赤穂藩家老・大石良雄(内蔵助)が敵の目を欺く為、この地で遊興した事で知られます。

旧奈良鉄道の鉄橋橋脚跡(レンガ部分) 墨染インクライン跡 撞木町遊郭跡
墨染発電所(墨染インクライン跡)

豊臣秀吉が伏見城の築城時に外堀として開削した濠川と、疎水の水運に役立てる為に明治27年(1894年)、インクライン(傾斜鉄道)で両川を連結しました。完成した当時、1日に100隻もの船を上げ下げしたそうです。しかし、戦後使用されなくなり、昭和34年(1959年)、レールも撤去されました。一方では、疎水と濠川の落差を利用した発電を目的に墨染発電所ができました。その電気を、日本最初の「チンチン電車」として伏見〜京都間を走った電車に供給しました。現在も発電されており伏見界隈などに送電されています。

大石良雄(内蔵助)遊興の地記念碑 撞木町遊郭遊郭之碑 現役の墨染発電所
写真左奥の溜まり場が墨染インクライン跡 疎水右岸を北上・・・ おけいはん(京阪電車)
市電・稲荷線 稲荷停車場跡 市電・稲荷線跡 田中神社(稲荷神社境外摂社)
東福寺塔頭・正覚庵(筆寺) 廃筆の労を謝する塚を築いた筆塚 高名な書道家や画家の筆塚

東福寺

臨済宗東福寺派の大本山で慧日山(えにちざん)と号します。6万坪(約20万u)に及ぶ広大な境内には本堂以下、幾多の堂舎が甍を並べています。当寺は平安中期以来、藤原氏の氏寺として藤原忠平が建立した法性寺(ほっしょうじ)に関白・九条道家(藤原道家)が聖一国師を請しで開山とし、鎌倉時代の嘉禎2年(1236年)に創立にかかり、19年後の建長7年(1255年)に竣工した九条家の氏寺で奈良の東大寺と興福寺の一字づつを採って東福寺と名付けました。当初は天台、真言、禅の三宗兼学院でしたが後に臨済禅寺となり、室町時代には禅宗五山の一に数えられる大寺となり塔頭子院37宇に及び壮観さは俗に「東福寺の伽藍面(がらんづら)」と言われました。中世の兵火にしばしば、罹災し大半を焼亡しました。更に明治14年(1881年)12月、方丈からの失火によって惜しくも仏殿、法堂、方丈などを焼失しましたが、三門、東司(とうす)、禅堂は類焼を免れました。明治の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)と失火で荒廃しましたが、現在の仏殿が竣工したのは昭和9年(1934年)で法堂は未だ再建に至っていません。塔頭25、末寺院370ヶ寺を統括します。国宝の三門は応永年間(1394〜1428年)の再建で禅宗寺院三門中では、最古です。

本堂 臨済宗東福寺派大本山・東福寺
禅宗寺院便所の古形式を伝える珍しい遺構の東司(重文・室町期)
禅宗三門最古の三門(国宝:室町期) 五社明神(成就宮)
比良明神(天狗)を祀る魔王石、十三重石塔(重要文化財:吉野期)

五社明神(成就宮)境内にあり、現在は東福寺鎮守ですが、元は法性寺の鎮守と伝えます。十三重石塔(重文:吉野期)は、かって「比良山明神塔」と呼ばれ、傍にある魔王石と一対とされます。東福寺を建立しようとした九条道家が病になった時、藤原家先祖という比良の魔王(比良明神:天狗)が家来の女御に降臨し、道家に祟っている怨霊の鎮め方を魔王に教えられ病が完治し、道家が当寺建立の決心をした時に比良明神のお告げで十三重石塔を建立したと伝えます。

本殿 十三重石塔(重文:吉野期)と藤原家先祖の天狗(比良明神)を祀る魔王石
昭和9年(1934年)再建の仏殿(本堂)は昭和の木造建築中最大で入母屋、裳階(もこし)付単層本瓦葺、正面七間・側面五間。
鐘楼 三ノ橋川に架かる通天橋、臥雲橋と共に東福寺三名橋・偃月橋(重要文化財:桃山期)
龍吟庵(国宝:室町期)、即宗院(そくそういん)

龍吟庵・・・東福寺第三世住持・無関普門(大明国師)の住居跡で方丈(国宝・室町)は単層入母屋造、こけら葺。その正面は七間(約12.7m)、梁間は五間(約9m)、柱間中央に両開き板唐戸の入口を設け、両端の柱間には遣戸をはめ込むなど書院造に寝殿造風の名残をとどめた現存最古の方丈建築です。即宗院・・・嘉慶元年(1387年)、薩摩藩六代藩主・島津氏久が、剛中玄柔(東福寺第五十四世住持)を開山として建立した島津家の菩提寺で、氏久の法名「齢岳立久即宗院」から寺名としました。当初、山内成就院の南にありましたが、永禄12年(1569年)に火災で焼失し慶長18年(1613年)頃に現在地に移ったのは、島津義久の施入と伝えます。

紅葉はまだまだ・・・ 龍吟庵(国宝:室町期) 即宗院
方丈 東福寺三名橋の一・通天橋 東福寺全景絵図
手前から仏殿、三門 臥雲橋(がうんきょう) 東福寺三名橋の一・通天橋
東福寺塔頭・退耕庵

貞和2年(1346年)、東福寺第43世・性海霊見(しょうかいれいけん)によって創建されました。応仁の乱により一時荒廃したが、慶長年間(1596年〜1615年)に安国寺恵瓊(あんこくじえけい)によって再興されました。幕末の鳥羽・伏見の戦の際、東福寺に長州藩が布陣し、退耕庵は鳥羽伏見の戦の戦死者の菩提寺となっています。地蔵堂には玉章(たまずさ)地蔵と称される地蔵菩薩坐像の他、小野小町100歳像などを安置され、玉章地蔵は京都市東山の渋谷(しぶたに)越えにあった小町寺から明治8年(1875年)に移されたもので、小野小町宛ての恋文で作られたとも伝えます。

築地塀 東福寺塔頭・退耕庵 駒札
この木何の木、気になる木?!(^▽^;) 新熊野(いまくまの)神社の樹齢900年以上、熊野神降臨の霊樹・大樟 坂で転ぶと三年以内に死ぬとも云われる産寧(三年)坂
世界文化遺産・清水寺、仁王門(重文:室町期)

清水寺・・・北法相楽の大本山で正しくは音羽山観音寺と号し清水寺は俗称です。寺伝によれば鹿狩りに来た坂上田村麻呂が此処で修行中の僧・延鎮に出会い殺生を戒められ延暦17年(798年)、一宇の仏堂を建て千手観音を祀ったのが起こりとされ弘仁元年(810年)、鎮護国家の道場となり奈良の長谷寺、近江の石山寺と並ぶ観音零場として崇められた。霊験談は清少納言を始め更級日記の作者による古典文学、謡曲「田村、熊野(ゆや)」によって紹介されています。中世の南北朝騒乱に巻き込まれ度々兵火の災厄を蒙ったが、その都度再建され現在の建物は寛永6年(1629年)の出火後、徳川三代・家光によって再建されたものが多いです。西門(重文:江戸期)は三間一戸、切り妻造り、桧皮葺の八脚門で正面に一間の向拝、背面に軒唐破風を付け上り勾欄を備えた珍しい形式で鐘楼(重文:桃山期)と共に桃山時代後期の華麗な装飾彫刻が施されています。門前左手の馬駐(うまとどめ/重文:室町期)は馬五頭が繋げる事ができる我が国最古の厩(うまや)です。仁王門・・・西面する清水寺の正門で応仁の乱後、15世紀末に再建され、平成15年(2003年)に解体修理されました。三間一戸、正面約10m、側面約4.8m、軒高8.5mの、入母屋造り、桧皮葺き(ひわだぶき)で室町様式の遺風堂々たる楼門です。丹塗りで赤門と呼ばれ正面軒下に平安時代の名書家・藤原行成の筆と伝える清水寺の額を掲げ、両脇間に勇壮な大仁王像が祀られています。「西門(さいもん/重文:江戸期)」は寛永8年(1631年)再建の三間一戸の八脚門で単層、切妻造り、桧皮葺きで正面に向拝をつけ木階に高欄を設けて一見拝殿風に作り背面に軒唐破風(のきからはふ)を架ける珍しい優雅な桃山様式です。持国天、増長天を安置します。轟門(とどろきもん/重文:江戸期)は正面軒下中央に月舟禅師の筆による普門閣の扁額を掲げる本堂への中門で、寛永8〜10年(1631〜33年)に再建された三間一戸の八脚門です。切妻造り、本瓦葺で、妻や天井の構造は東大寺転害門を縮小して写しています。左右両脇間に持国天像と広目天像を祀り、背面には阿吽形(あうんぎょう)の狛犬を安置します。門前には梟(ふくろう)の手水鉢が奉納されています。

赤門とも称される京都最大級の仁王像(鎌倉期)を祀る桃山様式の仁王門(重文:室町期) 日本最大の三重塔(重文:江戸初期再建)
西門(さいもん/重文:江戸初期再建)

寛永8年(1631)再建の、優雅な三間一戸の八脚門。単層、切妻造り、桧皮葺き。正面に向拝をつけ、木階に高欄を設けて一見拝殿風に作り、背面には軒唐破風(のきからはふ)を架ける大層珍しい形式になる。持国天・増長天を安置する。夕日に極楽浄土を観想するためかもしれません。随所に優れた蟇股や木鼻など多く備え、丹塗りと極彩色文様が復元されて赤門とも称される華麗な桃山様式を見せています。

西門(さいもん/重文:江戸初期再建)からの京都市街地俯瞰・・・Deep Impact!!!o(*^▽^*)o
上、各重の横木に桃山様式の極彩色文様を施され高さ31m弱で日本最大の三重塔(重文:江戸初期再建) 轟(とどろき)門(中門/重文:江戸所期再建)へ
随求菩薩(秘仏)を祀る随求堂(ずいぐどう) 手前から経堂、三重の塔(共に重文:江戸期) 謡曲「田村」に謡われている開山(田村)堂(重文:江戸期)
梟(ふくろう)の水盤

手洗水は梟の水と呼ばれ、水盤の台石には鎌倉時代の宝篋印塔(ほうきょういんとう)塔身を用い、台石の四隅に梟の如き鳥の浮き彫りがある。すぐ傍の轟門前に架かる轟橋は清水寺の口を象り、橋板中央の木板は舌、両側石板は歯を意味するといわれ、古来、水盤中に溢れる清泉で口を漱ぐと、歯痛、頭痛が癒ゆると伝えます。

水盤の台石四隅にある梟のような鳥の浮き彫りを見ようと必死のガイドさん (^▽^;)。。@轟橋 清水の舞台で知られる本堂前の檜造り舞台
えぇなぁ〜(*^-^*) 出世大黒天 本尊・十一面千手観音を祀り、「大悲閣」ともいう本堂
音羽の滝 釈迦堂(重文:江戸期再建)〜阿弥陀堂(重文:江戸期再建)へ
本堂(国宝:江戸期)

寄せ棟造り、桧皮葺、寝殿造り風の優美な建物で前面左右に翼廊を出しその間を板張りとしています。世に有名な清水の舞台とはこれを言ったもので数十尺の長材を縦横に組み合わせた束柱に支えられ断崖上に架かっています。堂内には秘仏の本尊・十一面観音立像、脇侍に将軍地蔵と勝敵毘沙門天像を安置します。

愛宕念仏寺と同体?ふれ愛観音(奥の院) 本堂(国宝:江戸初期再建)
地主(じしゅ)神社

当社は清水寺の地主神で清水八坂郷の産土神として信仰されています。創建年月は定かでなく、天禄3年(972年)、円融天皇は臨時祭に行幸された事から鎮座が頗る古いとされ元、地主権現と呼ばれていたが明治維新後に改名し祭神は大己貴命(大国主命:おおくにぬしのみこと)外四柱を祀る旧郷社です。社殿は桃山風の名残を見せ拝殿天井の竜画は狩野元信の筆と伝えます。当社は縁結びの社としても有名で修学旅行生、カップル、女性などには清水寺詣でより地主神社詣での方が人気があるそうです。o(*^▽^*)oあはっ♪

若いカップル、修学旅行生でいっぱい縁むすびの神・地主神社・・・皆さん必死?で祈願されてました (^▽^;) えっ?私??当然・・でつ?!(^^ゞ爆
栗光稲荷社 うら若き乙女の祈り(^_-)-☆ 良縁大国社 えぇなぁ〜(*^-^*)
悲しくも、子どもを亡くした親が、我が子に似た地蔵を探して手を合わす百体地蔵堂 えぇなぁ〜(*^-^*)
Deep Impact!!!☆⌒(*^∇゜)v 蓮華水盤の水を柄杓でくみ、肩からかけて心身の清めと諸願成就を祈願する濡れ手観音
最高12m強、16角・周2.3mの巨大な欅(けやき)柱を立て、懸造りに構築し、約190uの総檜(ひのき)張りの「舞台」を張り出す本堂
子安塔(重文:江戸期)

本堂の南谷(錦雲渓)を隔てた丘上に建つ高さ約15mの桧皮葺きの軽快な三重塔です。各重とも軒は二軒繁垂木(ふたのきしげたるき)、とぐみは三手先であるが珍しく尾垂木を設けず、縁には組高欄を繞(めぐ)らしています。子安観音(千手観音)を祀り、安産に大きな信仰を集めています。聖武天皇、光明皇后の祈願所とされますが創建時は定かでなく寛永期に再建され明治末年まで仁王門の左手前に建っていました。又、常盤御前は千手子安観音を厚く信仰し吹雪の中を都落ちする際に牛若・乙若・今若の無事を祈ったとも伝えます。

えぇなぁ〜(*^-^*) 千手子安観音を祀り、安産・子育ての信仰を集める子安(こやす)の塔(重文:江戸期再建)
えぇなぁ〜(*^-^*) 所謂五名水の一・音羽の滝
北国の雄・アテルイ、モレの碑

アテルイ、モレは、平安律令政府の東北征服戦争に対してゲリラ戦で頑強に抵抗した蝦夷(えみし)の首長と副将で、征夷大将軍・坂ノ上田村麻呂の軍に帰順、将軍が両雄の武勇と器量を惜しみ、戦後の蝦夷経営に登用すべく朝廷に助命嘆願したが、許容されず両雄は河内の国で処刑された。平安建都1200年を期し、両雄の故地、岩手県水沢・江刺地方出身の関西在住者や地元の有志が両雄の鎮魂・顕彰の碑を1994年に建立しました・・・余談ですが、映画『もののけ姫』に登場した主人公・アシタカは蝦夷(えみし)の末裔だったと記憶しています。(^^ゞ

右から長寿、金運、勉学に効く霊水 北国の雄・アテルイ、モレ碑 顕彰碑
舌きり茶屋

幕末、西郷隆盛と成就院住職で勤皇僧の月照上人が薩摩に落ち延びる時に、当寺の寺侍・近藤正慎が月照を庇って捕らえられ、六角獄舎において舌を噛み自害しました。清水寺が残された正慎の妻子に茶店の営業を許可し、いつしか「舌きり茶屋」と呼ばれ現在に至ります・・・余談ですが、近藤正慎の子孫が俳優・近藤正臣だそうです。

最高12m、139本の柱が支える清水の舞台 舌きり茶屋 えぇなぁ〜(*^▽^*)
Deep Impact!!!ヾ(≧▽≦)ノ 十一重石層塔 西門(さいもん/重文:江戸初期再建)

珍皇寺(ちんこうじ:ちんのうじ)

「六道さん」とも呼ばれお盆の精霊迎いに参拝する寺として世に名高い。当寺は京都市で最も古い寺院の一で弘法大師の師・慶俊僧都の開創とも小野篁(おののたかむら)の建立とも言われ一説には宝皇寺(ほうこうじ)の後身とも言われます。宝皇寺とは一に鳥部寺とも言い上古、東山阿弥陀ヶ峰(鳥部山)山麓一帯に蟠居していた鳥部氏の建立した氏寺ですが鳥部氏の哀徴により寺も無くなり今はその遺蹟も明らかにしません。当寺はこの宝皇寺の後身と言われ境内から奈良期の瓦を出土した事があるので平安遷都以前既にこの付近に古寺があった事が立証されています。珍皇寺は元、真言宗で東寺に属していましたが中世の兵乱に荒廃し正平12年(1361年)、建仁寺の僧・良聡によって再興され臨済宗建仁寺に属しています。現在の建物は延宝年間の再建で本堂に薬師如来坐像(重文:藤原期)を本尊とし脇檀に地蔵菩薩を安置します。篁堂には衣冠束帯姿の小野篁像(江戸期)と閻魔大王像が安されています。篁は嵯峨天皇に仕えた平安初期の官人であり歌人ですが古来、小野篁には不思議な伝説があり昼は朝廷に出仕し夜は閻魔庁でアルバイトをしていたと伝え、本堂背後の庭内には篁が冥土へ通ったいう井戸があり傍に彼の持念仏を祀った竹林大明神という祠があります。

産寧(三年)坂 おともだちのお店、産寧坂店・桜庭(^_-) 珍皇寺(小野篁卿舊跡)
鐘音が十万億土の冥土に迄届く・・・迎え鐘

毎年、盂蘭盆(うらぼん)にあたって精霊を迎える為に造られた事から迎え鐘と言いこの鐘の音響が十万億土の冥土に迄届くとされ亡者はその響きに応じ現世に呼び寄せられると伝わります。故人の名前を呼びながら鐘を撞くのですが先祖の多い人は相当時間、労力を要するので寺僧が立会い一人三回限りとされています。古事談によるとこの鐘は慶俊僧都が造らせたとされ慶都が唐国へ行く時にこの鐘を3年間地中に埋めておくようにと寺僧に命じて旅立ちましたが留居の寺僧は待ちきれず一年半ばかりして掘り出し鐘を撞いたところ、遥か唐国にある僧都に聞こえ「あの鐘は3年間地中に埋めておけばその後、人手を要せずして6時になると自然に鳴ったものを惜しい事をしてくれた。」と言って残念がったそうです。

駒札 境内 十万億土の冥土に迄届くと云われる迎え鐘
篁堂 閻魔大王像 小野篁像

六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)

普陀落山と号する真言宗智山派の寺で西国巡礼の札所として古来、庶民に親しまれている寺ですが、多くの仏像を有する事で美術史上重要な存在となっています。ここは、平家一門の広大な六波羅館があった所で清盛の泉殿を始め頼盛の池殿、重盛の小松殿、教盛の門脇殿などがありました。平治元年(1059年)12月の「平治の乱」で二条天皇が行幸され、娘の徳子が言仁親王(安徳天皇)を出産したのも六波羅ですが寿永2年(1183年)7月、平家都落ちの際に六波羅は一門の手で火をかけられ灰燼しました。又、常盤御前が義経らを連れて清盛の元へ出頭したのもこの辺りと伝えます。応和3年(963年)、空也上人が十一面観音を安置して西光寺と号した事が開基とされ本尊を中信が平家一門の館があった六波羅辺りに移し六波羅密寺と改名した真言宗智山派の寺で西国三十三ヶ所の第十七番札所です。寺内には平清盛の像が安置されています。

本堂 篁が冥土へ通った伝える井戸 西国三十三所、第十七番札所・六波羅蜜寺
駒札 京都七福神の一「福寿弁財天」と境内 この辺りに平家一門の六波羅館があった
平清盛塚、阿古屋塚(手前) JR奈良線 近鉄京都線

Tourist  2008.10.20(M)

 

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