草津の湊、赤井河原 |
草津の湊・・・下鳥羽は、古くは草津と言い木津、今津とも言われ船で西国に赴く人達の乗船地で道路交通上重要な遺跡地です。延喜元年(901年)、太宰府へ流された菅原道真、「平家物語」によれば保元元年(1156年)、讃岐国(香川県)へ流された崇徳上皇、治承4年(1180年)、厳島神社へ行幸の高倉天皇、建永2年(1207年)、法然上人が讃岐国へ流された時も当地より乗船したと伝わります。又、瀬戸内海の鮮魚などが陸揚げされ都に運ばれた水路、陸路交通の中継地として重要だった河川港でした。赤井河原・・・桂川の西側(羽束師:はづかし)を称し古くは赤日崎、赤江ノ崎とも記され広漠とした河州であった。保元の乱後、朱雀野で処刑された六条判官為義の夫人は赤江の淵に身を投じたとされ新宮十郎行家も当河原にて斬られました。元弘3年(1333年)、千種頭(ちぐさのとう)中将忠顕(ただあき)率いる500余騎の軍勢が当河原に布陣するなど中世には淀、八幡を結ぶ戦略上の要点としてその名は史上にしばしば登場し山城盆地を一眼に納めた景観はすこぶる雄大であったと伝えます。 |
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草津の湊(桂川(左)、鴨川合流地点) |
赤井河原 |
神川神社 |
神川(かみかわ)神社 |
神川座住吉神社と称した。
式内社。鴨川村の産土神で元は、住吉神社と云った。文政年間の当社神主古川為猛の『住吉社之略記』によれば、鴨川、桂川の落ち合う瀬の為ため、度々難破船があり、摂津の住吉社の御神霊を勧請したものとされている。 |
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拝殿 |
境内から見えるのどかな羽束師鴨川町 |
久我(こが:くが)神社 |
8世紀末、桓武天皇の長岡京遷都の延暦3年(784年)頃、都の北東の守護神として鎮座されたと云われる。延喜式内社であり京都市でも最古の神社の一つである。一説には「山城国風土記」逸文にいう賀茂氏が「久我の国」に居をすえ、祖神を祀ったのが当社であり、更に鴨川を北上して今の賀茂の地に鎮まったとも伝えます。又、西方から丹塗り矢が当社(玉依比売命)に飛んできて、別雷神が生まれたとも伝えます。尚、境内には「お唐臼(おからうす)」という石臼が奉られています。これを持ち帰った者に祟り、元に戻したと伝えます。 |
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本殿 |
久我神社 |
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森乃そり橋(大井出川) |
拝殿 |
京都市指定保存樹「クスノキ」 |
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お唐臼(おからうす)と末社 |
本殿 |
満願寺参道 |
満願寺 |
久我には満願寺、妙昌寺、本清寺、妙真寺、福王寺など日蓮宗の寺院が多いです。「老諺集:ろうげんしゅう」によれば戦国時代の終わり頃、久我荘の預所職(あずかりどころしき)をしていた竹内秀治の感化により全村が日蓮宗に改宗したと伝えます。 |
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山門 |
境内 |
本堂、庫裡 |
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池のりっぱな錦鯉 |
菱妻神社参道 |
菱妻(ひしづま)神社 |
旧久我村の産土神です。平安時代初期〔永久元年(1113年)〕、鳥羽天皇に久我家の祖右大臣・源雅実が奈良の春日大明神から藤原氏の祖神、天児屋根命を勧請し、源氏の安護神・火止津目大明神として祀られました。広大な神鎮社殿であったが、桂川の大洪水で久寿元年には、菱妻大明神と改められ久我の郷の鎮守、学問運筆上達の神として崇拝されています。 |
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二の鳥居 |
拝殿 |
本殿 |
道元禅師ゆかりの妙覚山誕生寺 |
誕生寺は久我家(道元の父・久我通親:みちちか)の旧跡と伝え、大正8年(1919年)、47世日置黙仙(ひおきもくせん)禅師によって曹洞宗の祖・道元禅師誕生地といわれる久我(こが:くが)に越前小松荘にあった妙覚寺の本堂を移築した為、安置されている道元御尊像、50世玄透(げんとう)即中禅師木造も全て妙覚寺のままです。昭和63年(1988年)11月、本堂や庫裡などが、完成し伽藍の整備もされました。 |
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曹洞宗々祖・道元禅師ゆかりの妙覚山誕生寺 |
ブッタカヤの仏足跡(水琴窟) |
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宝篋印塔(ほうきょういんとう:久我雅美墓所) |
道元禅師産湯の井戸 |
豊川咤枳尼眞天堂(だきにしんてん/豊川稲荷) |
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道元禅師幼少像と本堂 |
西門 |
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桂川洗い堰(久我橋) |
サイクリングロード(鴨川) |
Tourist
2006.01.16(M) |