平安の古道・久我畷の今をゆく・・・

 

待つ宵に ふけゆく鐘の 声きけば あかぬわかれの とりはものかは  小侍従集

 

城南宮(鳥羽離宮跡)〜鳥羽離宮跡公園(秋の山)〜誕生寺〜久我畷(こがなわて)探索〜西国街道〜離宮八幡宮〜山崎ノ関跡(関戸院跡)〜淀

久我畷(赤線)と三川合流と巨椋池地図(昭和7年要部修正測図 1:50,000地形図「京都東南部」)

鳥羽作り道、久我畷(なわて:縄手)

羅城門(朱雀大路)から真っ直ぐ南下する鳥羽作り道は、現在の上鳥羽(鳥羽離宮跡)に至る道で、久我畷は鳥羽作り道(鳥羽離宮)と西国街道(山崎駅)を直結する直線道でした。久我畷と言われるのは、後世になってからで当初は京道(山崎道)と言われたようです。ともに平安京遷都後に造られた計画道と伝える。・・・伏見区久我から南西方向の乙訓郡大山崎町へ向かう耕野の中の一筋道。北東へ桂川、鴨川を渡ると秋山付近(鳥羽離宮)で上鳥羽からの鳥羽作り道の南延長に合し、南西は山崎駅(うまや)に向かう為、平安初期に山陽道の一部として作られたと伝える。資料上の初見は『太平記』で元弘3年(1333年)4月27日、六波羅勢(北条勢)の名越尾張守高家は7,600余騎の軍勢を久我畷一帯に布陣、足利尊氏と共に後醍醐天皇方の軍勢を迎え撃った。この戦いの高家の奮戦ぶりは、見事なものであったが惜しくも赤松円心一族の佐野左衛門三郎範家の矢に射られ、壮絶な最後を遂げた。六波羅勢(北条勢)は赤松勢に対するが、路幅が狭く、両際が低湿な深田の為、この付近での合戦を避けた事なども記す。また天正10年(1582年)6月13日、明智光秀の軍勢は羽柴秀吉との天王山の戦いに敗れて久我畷を経て敗走するなど古来、幾多の戦場になった所とも伝える。久我畷は低湿地であるがゆへ通行が難儀で、江戸時代には消滅し始めたとも伝え現在、東海道新幹線、名神高速道路、国道171号線、工場、住宅開発など(特に長岡京スポーツセンター〜小畑川の落合橋)で寸断され遺構破壊が著しい。※畷とは・・・縄手とも記される盛り土で作られた道の事で、土手道、田の中の細道、あぜ道、なわてじ、なわて道、まっすぐな長い道という意味がある。

酒蔵 キララくんのタイヤ、パーツ交換など総点検中・・一輪車状態?!(^▽^;)
城南宮(方除、鬼門除の神)

城南宮の由緒は、上古の時代、神功皇后は出陣に当たり、軍船の御旗に八千矛神を招き寄せて戦勝を祈願され、戦が終わると御旗は宮中で大切に保管されていました。桓武天皇が平安京に都を定めた時、御旗を城南の当地に御神体として納め、八千矛神(やちほこのかみ=大国主命:おおくにぬしのみこと)、国常立尊(くにのとこたちのみこと)、息長帯日売命(おきながたらしひめのみこと=神功皇后:じんぐうこうごう)の三柱、伊勢、石清水神社など七社が合祀され、都の南を擁護する神として祀られた。御旗の日月星の紋章が城南宮の三光の神紋の由来とされます。

リフレッシュしたやんか〜\(●⌒∇⌒●)/ 城南離宮・・・方位除けの社・城南宮
息災でありますように・・・キララ発進!(0  ^〜^)ノ 城南宮の三光の神紋(御旗の日月星の紋章)
伏見名水・菊水若水 清々しい境内 本殿
楽水苑(城南宮神苑)・平安の庭 楽水苑・春の山に咲き乱れるしだれ梅は、もう少し先のよう・・
鳥羽・伏見戦が勃発した小枝橋界隈(鴨川) 鳥羽・伏見戦跡碑 道標石
鳥羽離宮跡(鳥羽離宮跡公園:秋の山)、鳥羽伏見の戦

鳥羽離宮跡・・・今の城南宮を中心とし、東は竹田〜西は小枝(鴨川畔)まで、北は名神高速道路〜南は久我橋筋に至る東西1km、南北1.2kmにも及ぶ広大な離宮であったと伝えます。白河上皇(法皇)が平安時代後期の寛治元年(1087年)2月、後院として造営した離宮で都の正南にあたるので一に城南(せいなん)離宮とも言い、地名によって鳥羽殿とも城南寺離宮とも言われました。離宮には、仏殿と寝殿を兼ねた壮麗な建物が「南北八丁、東西六丁、水深八尺」と伝える広大な苑池の畔に造られました。鳥羽天皇も譲位後にここを御座所とされ引き続き多くの仏殿や仏塔を建立されたので池水に映じた有様は、さながら極楽浄土をこの世に現したものだったと伝えます。広大な敷地に南殿、 北殿、泉殿、馬場殿、田中殿などが造られました。その光景は広大な池を有する 庭園、舟が行き交う遊園の地、浄土の地とも言われました。鳥羽伏見の戦い・・・慶応4年(1868年)1月3日、東軍(幕府軍)は小枝橋に陣取る西軍(薩摩軍)に通行を迫るが通さない。その場で朝廷工作の成果報告を待つが、使者は、戻らない。夕刻、東軍は武力突破を宣言した時、秋の山から薩摩軍のアームストロング砲が、火を噴きました。薩摩軍が発砲した一発の砲弾で戊辰戦争の開戦となった「鳥羽伏見の戦い」勃発の地です。鳥羽伏見戦跡碑(鳥羽離宮跡公園:秋の山)は、戊辰戦争の発端となった鳥羽伏見の戦いを記念し、明治45年(1912年)2月、有志によって建立され小牧昌業の撰文、小田得多の筆による碑です。

鳥羽作り道(鳥羽街道/大阪街道) 鳥羽離宮跡公園
城南宮(鳥羽離宮)・春の山 と対を成す鳥羽離宮跡公園の秋の山 鳥羽・伏見の戦い碑
鳥羽・伏見戦跡碑(秋の山) 史跡・鳥羽殿跡
鳥羽作り道(鳥羽街道・大阪街道) 久我橋(桂川) 大山崎へ南西方向に伸びる久我畷をイメージ
道元禅師生誕の地・誕生寺

誕生寺境内は久我家の旧跡と伝えられ、大正6年(1917年)、47世日置黙仙(ひおきもくせん)禅師によって曹洞宗の祖・道元禅師誕生地といわれる久我(くが)に建立した寺です。昭和63年11月に本堂や庫裡などが、完成し伽藍の整備もされました。

ひたすら南西に進め!(^▽^;) 久我畷探訪開始! おっと・・またまた寄り道くん?! (^^ゞ 曹洞宗々祖・道元禅師ゆかりの妙覚山誕生寺
道元禅師幼少像と本堂 ブッタカヤの仏足跡(水琴窟) 道元禅師産湯の井戸
宝篋印塔(ほうきょういんとう:久我雅美墓所) 慈母観音像 蝋梅のいい香り(*^-^*)
改めて南西に進め!(^▽^;) 久我畷探訪再開! 桂川右岸堤防を南西へ堤防離脱・・右下へ・・ 振り返っています・・・
おっと、この先で民家に突き当たり(>_<) 左へ・・ 振り返っています・・・ 迂回して南西に伸びる道に遭遇!o(*^▽^*)o
左の府道123号(水垂上桂線)と合流 今来た道(右)を振り返っています・・・ 南西に向かう府道123号(水垂上桂線)
・・・ 間もなく外環の菱川交差点 久我畷の四つ辻に立っていたと伝える道標石
羽束師(はづかし)神社

正しくは、羽束師坐高御産日神社(はづかしにいますたかみむすひじんじゃ)といい、旧羽束師村の産土神で志水、古川、樋爪、菱川地域を氏子とします。創建は、すこぶる古く大宝元年(701年)以前からの鎮座と云われています。羽束師は、羽束首(はづかしのおびと)の居住地で一族は、土器を作り石灰を焼いたりする泥部(はつかしべ)の伴造家であった。羽束氏の祖神を祀った神社と伝えます。羽束師は元、乙訓郡に属し古くは羽束師郷とも言いました。境内の森が鬱蒼としているだけで歴史の大きさを感じます。

説明碑 羽束師神社
境内 本殿
菅原道真ゆかりの北向見返天満宮

延喜元年(901年)、菅原道真公の太宰府左遷の際、草津の湊から出発する前に羽束師神社に参拝し北(京)を向いて見返りの場所(別れを惜しんだ)に建立されたのが、北向見返天満宮です。

恵比寿さまやんか〜 o(*^▽^*)o 北向見返天満宮 東風(こち)吹かば・・・(*^-^*)
匂ひおこせよ 梅の花・・・紅梅もチラホラ 社殿 府道123号線、外環菱川交差点
羽束師川右岸道へ・・・ 外環菱川交差点から南西に伸びる道へ・・・斜めだとこんな道も進撃?! (≧▽≦;)
JT(日本たばこ関西工場)の横から五間堀(川)沿いの道に無事に合流!(*´ο`*)=3ホッ
五間堀(川)沿いの道は南西方向へまっすぐ伸びています・・・
耕野の中を五間堀(川)に沿って南西方向に伸びています・・・ 新幹線が疾走していきます・・・(*゜▽゜)/
京都(淀)競馬場遠望(京都市、長岡京市境) ※)道は南西に続いてるのですが・・・この先は立ち入り禁止!更に獰猛犬が数頭!!ワンワン (>_<)
※↓イナイチ(R171号)経由で大きく迂回し先ほどの南西側(反対側)・・近づくと、ワンワン!(>_<)爆 新幹線の高架をくぐります・・・
※↑ 2012年4月に再訪すると・・盲導犬ならぬ獰猛犬が何頭も放し飼いだった自動車解体業者が跡形もなく整備され通り抜け可能に!!(^-^)v
すぐに南西方向(右)へ伸びる斜めの道発見! 当時の久我畷を彷彿するやんか〜 先でスポーツセンターに行き当たり迂回・・(>_<)
迂回中・・・振り返って北東を見ています。 イナイチ(R171号)、名神高速に出ました・・・ 東北方向を振り返っています・・・
長岡京スポーツセンター〜落合橋(小畑川)辺りは殆ど消滅している難所!(>_<) イナイチ(R171号)、名神を超えて南西をイメージして迂回中・・・
南西に伸びる道を探しながら迂回中・・左へ やった〜南西へ伸びる斜め道発見!(⌒▽⌒) 北東を振り返っています・・・
再々工場などに行き当たり(>_<) 南西をイメージして迂回中・・神足、城の里、勝竜寺界隈は難所 ありました〜!南西へ伸びる斜めの道
・・・ 振り返って北東を見ています・・・ 今度はマンションに行き当たりました!(>_<)
坂を上がって北東を振り返っています・・・ サントリー通りの落合橋(小畑川)から南西を見ています・・8日は、勝竜寺迄でありんす〜(^^ゞ
15日は、生憎の空模様なので電車&ウォーキングで久我畷を探索!(^▽^;)・・京阪・中書島駅

高架になった淀駅で下車

淀本町商店街・・帰りに使命を果たさねば(^^ゞ 宮前橋(桂川)から目指す大山崎町を眺望

傘を差しながら府道・204号線をテクテク・・・

サントリー通りの落合橋(小畑川)着! 今日は、長岡京市久貝からウォーキングで久我畷の探索開始! 天王山山麓を目指すでありんす〜(^▽^;)
小畑川右岸堤防から落合橋を見ています・・・ 南西を目指し堤防下へ・・・ 階段を下りて南西に続く道をテクテク・・・
・・・ 府道(R212号)と合流 今来た道(左)を振り返っています・・・
名神高速道路が迫ってきました・・・ 南西を目指してテクテク・・・ 振り返っています・・・
名神高速に行き当たりました!(>_<) ここ左折! 歩いてきた道を左折、名神高速道路の高架下へ212号線の道なりに迂回しています・・・
名神高速高架下の歩行者通路を抜けて府道212号線から五条本交差点を振り返っています・・・ 名神高速道路に沿ってテクテク・・・
大山崎ICで南西の道は消滅しているので府道・212号線の道なりにクネクネと歩きます・・・
下植野南遺跡の解説パネル 大山崎ICを通過・・・もう大山崎町に入っています!o(*^▽^*)o
振り返っています・・・ 小泉川に架かる山崎橋 新幹線が疾走していきます!(*゜▽゜)/
南西へ伸びています・・・ 振り返っています・・・ ・・・
天王山が目前やんか〜!\(●⌒∇⌒●)/ 歩いてきた道(左)を振り返っています・・・ この先の傍示木辺りで右へ大きくカーブ!
久我畷は大山崎町・松原交差点で西国街道と合して終わり(始まり)・・大きくカーブするのは、魔物は曲がれないので進入できないとか`s(・'・;)
地蔵尊と、歴史街道「山陽道(西国街道)と久我畷(こがなわて)」解説パネル 久我畷図
西国街道にあった離宮八幡宮・東の黒門跡 魔除けの石敢当(いしがんとう/せきかんとう) 東の黒門跡にある高瀬川碑
久我畷から西国街道(R67号)をテクテク・・・ 新幹線が見えてきました・・・ 振り返っています・・・
観音寺(山崎聖天堂)参道口 振り返っています・・・ 阪急・大山崎駅が見えてきました・・・
振り返っています・・・ 大山崎町商工会、資料館など・・休館日!(>_<) 離宮八幡宮が見えてきました・・・
離宮八幡宮

社伝によると平安時代の始め、清和天皇が太陽が我が身に宿る夢を見、神の神託を聞きました。その神託とは国家鎮護のため、九州は宇佐八幡宮より八幡神を京へ遷座せよというものでした。そこで清和天皇は僧・行教にそれを命じました。天皇の命を受け、八幡神を奉じて帰京した行教が山崎の津(淀川に設けられていた港)で夜の山(神降山)に霊光を見ました。不思議に思いその地を少し掘ってみると岩間に清水が湧き出したので、ここにご神体を鎮座し、社を創建する事にしました。貞観元年(859年)に国家安康、国民平安を目的とする「石清水八幡宮」が建立されました。当地は、嵯峨天皇の離宮である河陽宮跡であった為、後に社号が「離宮八幡宮」と改称されました。祭神は本殿に応神天皇、左殿に酒解大神(さかとけのおおかみ/別称大山祇神(おおやまつみしん)、右殿に比売三神(ひめさんしん)です。平安時代末頃に当地で始まった荏胡麻油生産は中世に活発化し、生産者たちは八幡宮を本所として油座を組織し、全国の油専売権を握り販売を独占しました。

離宮八幡宮東門(大山崎町指定文化財) ソテツ、石灯籠が並ぶ境内
河陽宮跡碑と社殿 扇形石(かしき石:大山崎町指定文化財 駒札
油祖

神人(じにん:寺社の雑役、力仕事をする人)のことで、山崎の油売りは山崎石清水八幡宮の神人として八幡宮の燈油を納め、日使神事(八幡宮の例祭)の頭役、御綱曳き(淀川を渡る船を曳く)といった奉仕をし、その代償として八幡宮の保護を受け油座(同業者組合)を結成し、関所の通行料や津(港)の使用料免除などの特権、製油独占権を得ました。その活動範囲は東海、瀬戸内、四国、九州にまで及んだと伝える。

神馬像 全国油脂販売店標識(左)と寺社の雑役、力仕事をする油祖像
荏胡麻油発祥の地碑 神領境標石(大山崎町指定文化財) 中門
本殿 宝塔跡 惣門(大山崎町指定文化財)
関戸明神(山崎ノ関跡)へ・・・ 西国街道にある道標石 JR山崎駅
妙喜庵(みょうきあん)

室町時代の連歌師・山崎宗鑑が住まいした草庵を後に臨済宗東福寺の僧・春嶽が開山しました。当庵には国宝の茶室待庵があり、千利休が唯一残した茶室であるといわれ室内はニ畳という極小の空間で豊臣秀吉もしばしば、来遊したそうです。極めて質素な小間の茶室の原点といわれ、待庵茶室以後このような茶室が一般化したものと考えられ、にじり口が設けられた最初の茶室とも言われています。

妙喜庵 山崎駅(うまや)跡、河陽宮離宮跡、離宮八幡宮の池跡
山崎ノ関跡(関戸院跡)

山城、摂津国境に設けられた関所で長門国(山口県)の赤間と共に西国交通の要所。一朝有事の際には派兵して警備に当たらせました。山崎ノ関がいつ頃に廃棄されたかは、不詳ですが河陽離宮が造営された頃といわれ関の廃棄後、関戸院として残され平安時代には公館の宿舎になりました。藤原道長も高野山参詣の途中に、しばしば少憩した事があり、平家一門が都落ちの際に宝輦(ほうれん)を停めて、男山八幡宮を遙拝したとも伝えます。

解説パネル 歌碑 この先、大阪府三島郡島本町
関戸明神、山崎ノ関跡

関戸明神・・・祭神は伯耆国(ほうきこく:鳥取県)大山の大智明神といわれ当初は山崎ノ関の守護神として疫神を祀ったものと伝わります。「山州名跡誌」巻十によれば昔、伯耆の大山の衆徒が神輿を担いで朝廷に強訴しようと当地迄辿りついた時、朝廷は官人を差し向けこれを防御したので神輿を放棄して帰国してしまい残された神輿を祀ったのが当社の起こりです。社殿は一間社流造、和様に唐様の手法を交えた鎌倉風建築で大阪府の重要美術品に指定されています。山崎ノ関跡・・・山城、摂津国境に設けられた関所で長門国(山口県)の赤間と共に西国交通の要所。一朝有事の際には派兵して警備に当たらせました。山崎ノ関がいつ頃に廃棄されたかは、不詳ですが河陽離宮が造営された頃といわれ関の廃棄後、関戸院として残され平安時代には公館の宿舎になりました。藤原道長も高野山参詣の途中に、しばしば少憩した事があり、平家一門が都落ちの際に宝輦(ほうれん)を停めて、男山八幡宮を遙拝したと伝えます。

山城摂津国境碑 関戸明神(山崎ノ関跡/関戸院跡) 西国街道史跡案内図
淀経由で帰還モードへ・・・JR山崎駅通過・・・ 西国街道(R67号線)をテクテク・・・離宮八幡宮、阪急大山崎駅通過・・・
西国街道・松原交差点で久我畷(右)へ・・・ R212号をテクテク・・・大山崎ICを通過・・・ 国道五条本交差点で名神をくぐり北東へ・・・
薄日が射してきたぁ〜 北東へ向かうR212号をテクテク・・・ R212号(右)分岐を北東へ直進(左)・・・
帰りは、ひたすら北東を目指してテクテク・・・(^▽^;) イナイチ(R171)〜府道204号を淀へテクテク・・・
昔、このルートを淀畷と言った・・・宮前橋(桂川) 本日の最重要任務遂行?!(^^ゞ爆 地元で淀名物とまで言われるチキンカツなどをゲッツ!(^^♪
淀城跡の石垣と堀 京阪淀駅・・上り線(出町柳・宇治方面)は既存の駅 下り線(淀屋橋・中ノ島方面)は高架駅

Tourist  2010.02.08(M)&15(M)

 

あとがき・・・

古の久我畷の探索コラムは、自転車のメンテや時間、天候などの諸事情もあり二回に分けて自転車とウォーキングで訪ねました。

開発などで分断され随分と消滅していますが伝承通り、久我からは南西、大山崎町からは北東にほぼ直線的に作られたと実感。

探索ポイントは南西、北東側双方のスタート地点とゴール地点をしっかりと把握して、ひたすら南西(北東)に進めばいいかと(^^ゞ

初回は、地図や資料などを持たずに自転車でチャレンジしましたが、R171、名神高速道路界隈は道路と工場などに分断され難所でした。

地図、航空写真地図などでルートを確認され、プリントアウトして携帯されると消滅区間をイメージしやすく迂回もしやすいと思います。(^▽^;)

しかし、道の風情を写真に撮る事や説明は難しいと痛感・・・二回目は、京阪淀駅〜大阪府三島郡島本町〜京阪淀駅まで往復テクテク。

久我畷の探索コラムも一個人の見解ですが、ふ〜ん、こんな作り道があったのか・・・と、気軽にご覧頂き一参考になれば幸いです。

管理人・Syo

 

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