大原野散策

 

大原や せがいの水を 手にむすび 鳥はなくても 遊びてゆかん  大伴家持

 

光明寺〜大原野神社〜花の寺(勝持寺)〜金蔵寺

西山々麓にのどかな風情を残すエリアで春日大社(奈良)の分霊を祀る大原野神社、「伊勢物語」の主人公・在原業平(ありわらのなりひら)ゆかりの十輪寺、境内に西行桜を始め約100本もの桜木があり春には桜花が見事に咲き乱れ世に花の寺と呼ばれる西行ゆかりの古刹・勝持寺など見所は、山裾や山中に点在しています。私的には山間の桜、楓が色づく春、秋の頃がオススメかと思います。

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新高瀬川と疎水放水路(右) 桂川(久我橋) 道元禅師ゆかりの妙覚山誕生寺
山門 ブッタカヤの仏足跡(水琴窟) 道元禅師産湯の井戸
慈母観音像 本堂 阪急電鉄・京都線
粟生光明寺(あおうこうみょうじ)

報国山と号する西山浄土宗の総本山で粟生光明寺と称され法然上人の廟所がある所として最も重んぜられています。法然上人の廟所は初め東山大谷にあったが安貞元年(1227年)、比叡山の僧徒にあばかれようとしたので遺弟らによって遺骸を太秦・来迎院に移し、次いで当地において荼毘に付し遺骨を納めて宗廊を築く時、法然上人の石棺から光明を放ち光明寺と名付けたと伝わります。当地は法然の徒弟・熊谷蓮生房(俗名・次郎直実)が建久年間(1190〜98年)、一宇の草庵をむすび、念仏三昧院と号し浄土往生を広めた所で、後に蓮生の徒弟・幸阿弥陀仏(こうあみだぶつ)に付与され、更に西山証空上人が入寺するに及んで西山派の根本道場となりました。当地は小塩山の支峰・鳥ヶ嶽麓に広大な地を占め、本堂以下多くの建物を有しますが、いずれも江戸時代以降の建造物です。

光明寺 高麗門 境内
御影堂(本堂) 法然上人袈裟祇之松 法然上人石棺
時雨れてきました!(>_<) 貸し切り状態の境内@本堂 阿弥陀堂
Pちゃんズ?!σ(^◇^;) ・・・童地蔵 立派な越し屋根(煙出し)がある庫(くり) 勅使門
茂右ェ門屋敷跡

保元々年(1156年)、法然上人24歳の時、比叡山黒谷を出て南都(奈良)の学匠歴訪の途上、粟生の里長者の茂右ェ門邸に一夜を借り「われ正しく凡夫の往生の道を開いた暁には、まず御身にその悦びを分かとう」と約定し20年後の承安5年(1175年)春、法然上人43歳の時に粟生の里を再訪し茂右ェ門夫婦に念仏往生の教化の第一声を挙げました。その長者屋敷があった所と伝えます。

法然上人荼毘跡 茂右ェ門屋敷跡 石畳の参道とです・・・
大原野神社

藤原氏の祖神を祀った氏神で平安遷都にあたり奈良への社参が不便である為当地に勧請されたのが起こりと伝えます。社伝によれば嘉祥3年(850年)、左大臣・藤原冬嗣の奏請によって社殿を造営したとされ地名に因って大原野神社と言います。藤原氏の覇権確立と共に氏神とし大きな地位を占め歴朝の行幸啓、奏幣、祈願の事も度々あり神領も多く寄せられました。伊勢の斎宮、加茂の斎院に倣って斎女をおいて奉仕するなど王朝時代には社運も隆盛を極めたが藤原氏の哀徴によって次第に衰え室町末期頃には祭儀さえ途絶えがちになりました。江戸時代の慶安年間(1648〜51年)、後水尾天皇の勅によって再興され明治4年(1871年)には官幣中社となったが戦後は、社格も廃され現在は大原野の産土神(うぶずながみ)として崇敬されています。

ミゾレが降ってきたとです・・・西山は吹雪いているようでつ!(>_<) 大原野神社
参道 猿沢池(奈良)を模した鯉沢池
瀬和井(せがい)

大伴家持(おおとものやかもち)が愛飲した井水と伝え古来、多くの和歌の題材となった名水とされます。「大原や せがいの水を 手にむすび 鳥はなくても 遊びてゆかん」 家持。

瀬和井(せがい) 神門(鳥居)
拝殿、本殿 雌雄の狛鹿?阿吽の鹿ちゃん??
本殿 吹雪いてまつ・・・(>_<) 寒〜 花の寺(勝持寺)
花の寺(勝持寺:しょうじじ)

創建は定かでなく諸説があります。伝教大師最澄が比叡山の坤(ひつじさる/西南)にあたる当地に霊威を感じ薬師如来像を安置し天台道場としたのが起こりとされ小塩山大原院勝持寺(しょうじじ)と号する天台宗の寺です。初め、小塩山大原寺(だいげんじ)と号したが仏陀上人(千観僧都:勝持上人)が文徳天皇の帰依を得て伽藍を再興し大原院勝持寺と改名し大原野神社の供僧寺とし、それより多くの伽藍が造営され塔頭子院だけで49院を擁する大寺院となりました。足利尊氏が六波羅攻略の時に当寺に立ち寄った折に時の住僧が機転を利かせ「勝持」と記した旗竿を献じたところ尊氏の戦勝の吉瑞として嘉納して以来、足利氏の庇護を受け寺運は隆盛しました。歴代の足利将軍の古文書を多数所蔵する所縁です。応仁の兵火に焼亡したが天正11年(1583年)、青蓮院宮尊朝法親王は当寺の再建に努め織田信長、豊臣秀吉も庇護しました。寺伝によると白鳳8年(680年)、天武天皇の勅によって神変大菩薩役行者(えんのぎょうじゃ)が創建したとされ延暦10年(791年)に伝教大師最澄が桓武天皇の勅を奉じて堂塔伽藍を再建し薬師瑠璃光如来を一刀三礼をもって刻まれ本尊としました。承和5年(838年)、仁明天皇の勅により塔頭19院を建立しましたが応仁の兵火に仁王門を除き全てを焼失し桂昌院(徳川5代将軍・綱吉生母)により再建され、やや旧観に復しました。境内には古来、桜の木が多く洛西屈指の花の名所とされます。

本堂
鏡石、西行姿見池(瀬和井:せがい)

鏡石は珪石質で光沢があり西行が剃髪に用いたとされます。その傍らに西行が姿見をしたと伝わる小さな池泉があります。

花の寺の境内にある約100本の桜の木々 瀬和井(せがい)
鏡石 冴野(さえの)の沼
境内は貸し切りでつ・・・ 魚藍観音
市内の眺望(桜ヶ丘) 風情があるとです・・・ 銘木・西行桜
不動堂 茅葺屋根の庫裡 瑠璃光殿(収蔵庫)
のどかな花の寺の風情
正法寺(しょうほうじ)

天平年間(729年〜749年)に創建された法寿山と号する真言宗東寺派の寺で唐招提寺(奈良)を創建した鑑真和上の高弟・智威大徳が隠世したのが始まりで、弘仁年間の時、弘法大師が42歳の厄除けの為に巡錫され、聖観音を彫刻したと伝えます。応仁の兵火で焼失しましたが、元和元年(1615年)に恵雲、微円の両律師により再興され西山のお大師さんとして崇敬されてきました。徳川5代将軍・綱吉の生母・桂昌院の帰依を受けてから徳川家の祈願所となりました。枝垂桜の見事さで有名です。老木の桜は枯れたが、本堂前の庭園にある枝垂桜も美しく、鳥獣に見立てた石庭、水琴窟があります。

仁王門(花の寺/勝持寺) 相棒のキララちゃん 正法寺
春日不動尊 山門
脇門 本堂 
慈母観音像 境内から市内の眺め O(^◇^)O ふぉ〜 金蔵寺へチャリチャリ・・・
しぐれる西山、のどかな山里の風情 竹林の坂道をチャリチャリ・・・ 不動堂(金蔵寺結界)
産(三)の滝

境内には一の滝、二の滝、三の滝と三筋の滝があり、この滝は向日神出現の地と伝え「産(三)の滝」と称している。12mばかりもあり見上げるばかりの大岩から落下し幽邃な雰囲気を醸し出しています。

アイスバーンの坂道@積雪 (>_<) さすがに待機のキララちゃん(^◇^;) 凍てつく産(三)の滝
金蔵寺(こんぞうじ)

西岩倉山と号する天台宗延暦寺派の寺で寺伝によると養老2年(718年)、元正天皇の勅願により隆豊禅師が来山した時、向日明神が一老翁となって出現し鹿を射ようと矢を放ったところ、矢は楠に命中し矢を抜くと光明を放ったので、禅師と合作で一体の千手観音像を刻み安置したのが当寺の起こりと伝えます。聖武天皇から金蔵寺の額を賜り天平元年(729年)に華厳、普門品などの諸経を写して山中に埋納されました。桓武天皇は延暦遷都にあたり京都の四方に経典を埋納して王城の鎮護とされ当寺は、その西方の一で西岩倉山と号すると伝える。元は法相・三論宗でしたが後に天台宗に改宗しました。「今昔物語」巻17に「京の西山に西岩蔵と云う山寺あり、その山寺に仙久と云う持経住けり・・・」とあり早くから西山の名刹の一として知られたが文明・永禄の兵火(応仁の乱)に係り諸堂を焼失し中世以降寺運は哀微しました。現在の建物は江戸期の貞享年間(1684〜1688年)に徳川5代将軍・綱吉の生母・桂昌院の再建で本堂には本尊・十一面千手千顔観音像、護摩堂には不動明王、四大尊を安置します。洛西三十三観音霊場の二番札所です。

仁王門 鞍馬山〜比叡山方面の眺めとです・・・O(^◇^)O ふぉ〜
伏見方面の絶景 O(^◇^)O ふぉ〜 長嘯亭(ちょうしょうてい) 下川原弁才社
聖武天皇経塚碑 隆豊禅師を祀る開山堂 本堂(桓武天皇経塚跡)
本堂(桓武天皇経塚跡) 積雪している境内
愛宕大権現(火防勝軍地蔵愛宕大権現)

明治初年の神仏分離令で廃された愛宕山白雲寺の勝軍地蔵が当寺に移され、現在は本堂の背後上に鎮座しています。勝軍地蔵は明智光秀、豊臣秀吉、徳川家康ら戦国武将の崇敬が篤く明智光秀が「本能寺の変」の前に愛宕山へ参拝した事は世にも有名な伝説です。

積雪している境内 明智光秀も参拝した愛宕大権現 桂昌院塔(桂昌院御廟所)
石井(いわい)

一に霊生水と称され当山唯一の清泉です。延喜式内石井神社はこの井戸の上に祀られていたが昭和28年(1953年)、山麓の坂本村の山王社に合祀されました。石井神社は清泉を神格化した旧乙訓中、最古の神社の一とされ上代においては朝野の崇敬も篤かったようです。金蔵寺は当社の神官寺として建立されたもので現状は「ヒサシを貸して母屋を取られる」形になりました。因みに石井は向日神社の増井と同じ水脈とされ石井の水を汲み変えた時、数日後に増井の井水が濁ったそうです。

護摩堂 石井、石井神社跡 積雪している境内
本堂への石段 鐘楼 仁王門への石段
アイスバーンの坂道@積雪 (>_<) 相棒のキララちゃん。。。さぁ、伏見へ帰ろう!
金蔵寺道からの眺望 O(^◇^)O ふぉ〜
道標石碑(左:善峯寺、右:金蔵寺) 三鈷寺、善峯寺 金蔵寺、小塩山(大原山:642m)

Tourist  2005.12.18(M)

 

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