燃え盛る古都の錦秋&光輝くX'masイルミネーション探訪

 

君がため 惜しからざらし 命さえ 長くもがなと 思ひけるかな (小倉百人一首第五十番) 藤原義孝

 

東福寺〜お半、長右衛門供養塔〜嵐山公園亀山地区〜小倉百人一首編纂の庵厭離庵(えんりあん)〜ロームのイルミ〜京セラのイルミ

 

嵯峨野めぐり

家族、カップル、修学旅行生まで幅広い人気の散策エリアです。賑やかな町並みを離れると一転した静寂な空間、里山の風情が目の前に広がり、そこに点在する歴史物語を桜、紅葉、竹林など四季折々の風情と一緒に楽しめます・・・先ずは、渡月橋からスタートされる事をおススメします。

料亭旅館・清和荘にある地下70mから汲み上げる伏見名水の一・清和の井(せいわのい) 疎水右岸を北上・・・
東福寺

臨済宗東福寺派の大本山で慧日山(えにちざん)と号します。6万坪(約20万u)に及ぶ広大な境内には本堂以下、幾多の堂舎が甍を並べています。当寺は平安中期以来、藤原氏の氏寺として藤原忠平が建立した法性寺(ほっしょうじ)に関白・九条道家(藤原道家)が聖一国師を請しで開山とし、鎌倉時代の嘉禎2年(1236年)に創立にかかり、19年後の建長7年(1255年)に竣工した九条家の氏寺で奈良の東大寺と興福寺の一字づつを採って東福寺と名付けました。当初は天台、真言、禅の三宗兼学院でしたが後に臨済禅寺となり、室町時代には禅宗五山の一に数えられる大寺となり塔頭子院37宇に及び壮観さは俗に「東福寺の伽藍面(がらんづら)」と言われました。中世の兵火にしばしば、罹災し大半を焼亡しました。更に明治14年(1881年)12月、方丈からの失火によって惜しくも仏殿、法堂、方丈などを焼失しましたが、三門、東司(とうす)、禅堂は類焼を免れました。明治の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)と失火で荒廃しましたが、現在の仏殿が竣工したのは昭和9年(1934年)で法堂は未だ再建に至っていません。塔頭25、末寺院370ヶ寺を統括します。国宝の三門は応永年間(1394〜1428年)の再建で禅宗寺院三門中では、最古です。

東福寺 東福寺・六波羅門 禅宗三門最古の三門(国宝:室町期)
方丈八相の庭、方丈南庭

方丈八相の庭・・・禅宗の方丈には古くから多くの名園が残されてきましたが、四周に庭園をめぐらせたものは東福寺唯一の試みです。庭園は昭和13年(1938年)、重森三玲氏が作庭しました。釈迦成道を表現し、八相の庭と命名され、近代禅宗庭園の代表庭園として紹介されています。方丈南庭・・・方丈正面の南庭は210坪(693u)、東西に細長い地割に、蓬莢・方丈・瀛洲(えいじゅう)、壺梁(こうりょう)の四島に見立てた巨石と、砂紋による荒海の表現に加え、西方に五山を築山として大和絵風に表し、神仙境を表現しています。鎌倉時代の質実剛健な風格を基調に、近代芸術の抽象的構成をとり込んだ枯山水式庭園です。

仏殿(法堂:本堂) 五山を築山として大和絵風に表し、神仙境を枯山水で表現した方丈庭園(南庭)
方丈東庭、方丈西庭

方丈東庭・・・北斗の庭は、もと東司(とうす:トイレ)の柱石の余材を利用して北斗七星を構成し、雲文様地割に配している小宇宙空間を表現しています。方丈西庭・・・「井田市松」の庭。さつきの刈込みと砂地が大きく市松模様に入り、くず石を方形に組んで井田を意図して表現します。色彩の変化も楽しい庭です。

もと東司の柱石の余材を利用した方丈東庭(北斗の庭) 方丈西庭 名勝・通天橋
方丈北庭(裏庭)

市松の庭は、作庭以前に南の御下賜門内に敷かれていた石を市松模様に配したもので、通天紅葉の錦織りなす景観を借り、サツキの丸刈り、苔地の妙が調和するという、南庭とは逆に色彩感あふれる空間となっています。

方丈北庭(裏庭) (*^-^*)
光源氏のモデル・源融(みなもとのとおる) 河原院跡

左大臣・源融は嵯峨天皇の皇子で源氏物語の光源氏のモデルと伝えます。宇治・平等院の近くにも別荘(別業)を持っていました。摂政・藤原基経の台頭により隠棲した邸宅の「河原院」が、この辺り東西、鴨川の中央辺り〜西へ柳馬場。南北、五条以南正面通り辺りまでの大邸宅であった。この榎の大樹は、邸宅内にあった森林の名残と伝えます。すぐ傍の小社には、小さな鳥居と榎大明神が祀られています。この河原院の名から河原町という通り名が生まれたと伝えます。

川端通りを北上・・・京都タワー 五条大橋 光源氏のモデル・源融 河原院跡
駒札 高瀬川も彩り鮮やか(*^-^*)
高瀬川沿いにある御茶屋さん(^_-) 桂川左岸からの眺めもえぇなぁ〜(*^▽^*)
五条通りを一気に西進して桂川左岸へ・・・お半、長右衛門供養塔 えぇなぁ〜(*^▽^*)
亀山上皇が月が渡るのに似てと言った名橋・・・紅葉が渡るが如くの渡月橋 琴聴橋(車折神社頓宮:くるまざきじんじゃとんぐう)
小督(こごう)塚

小督局(こごうのつぼね)は権中納言成範の女とも藤原信西の女とも伝え平清盛の女・建礼門院に仕え宮廷一の美女で琴の名手とされます。高倉天皇の寵愛を受けますが、以前には藤原隆房(清盛の五女の夫)の寵愛を受けた為に清盛が激怒しそれを伝え聞いた小督は帝にまで害が及ぶ事を案じて秘かに宮中を去り嵯峨野に隠棲しますが帝から命を受けた北面の武士・源仲国は小督を捜し求めて渡月橋の畔に来た時、かすかに聞こえる琴の音で彼女を探し出したと平家物語は伝えます。こうして帝の元に戻りやがて女子が生まれますが、中宮徳子より先に帝の子供を生んだ事で更に清盛の怒りを招き23歳で無理矢理に出家させられました。高倉帝が亡くなった後は清閑寺で菩提を弔い、没後に高倉陵の傍らに葬られたと伝えます。

Deep Impact?! (^_^;)\(^。^。) 欧米か?!  小督(こごう)塚 嵐山公園亀山地区案内図
キララくん共々お茶でも ( ^-^)o旦~~ 茶店でハーフタイム!(・_・)ヾ(^o^;) 欧米か?! Deep Impact?! (^_^;)\(^。^。) 欧米か?! 
嵐山公園亀山地区へ・・・えぇなぁ〜(*^▽^*) 周恩来総理記念詩碑
キララくんと共にめぐります(^▽^;)・・・亀山公園の錦秋も・・・えぇなぁ〜o(*^▽^*)o
よかとね〜(*^-^*) 小倉百人一首の歌碑が点在しています・・・
角倉了以(すみのくらりょうい)

角倉家は医業や土倉(金融業)を営む豪商でした。慶長9年(1604年)、保津川を開削しました。幕府の要請で富士川の開削に成功し天竜川の開削は失敗しました。慶長16年(1611年)、高瀬川(二条〜伏見)を開削しました。晩年は仏門に帰依し千光寺(大悲閣)を建立し保津川の開削協力者などの菩提を弔いました。

えぇなぁ〜(*^-^*) 角倉了以(すみのくらりょうい)像
村岡局(むらおかのつぼね)

津崎矩子(つざきのりこ)と言い大覚寺門跡諸大夫の妹で、近衛家に仕え村岡局(むらおかのつぼね)と称しました。朝政を預かる近衛忠熙の信任が篤く、僧・月照や西郷隆盛なども交渉があった。安政の大獄で捕らえられたが、30日の押しこめの後に許され京都へ帰り、直指庵(じきしあん)を再興しました。

村岡局(むらおかのつぼね)像 解説 後嵯峨・亀山・後伏見天皇火葬塚
竹林と紅葉 (*^-^*) 小倉池
藤原定家、小倉百人一首編纂の地・厭離庵(えんりあん)

もと愛宕の中院があったところで藤原定家が百人一首を編纂した山荘跡があった所と伝えます。久しく荒廃していたが近年に冷泉家によって再興され、霊元法皇より「厭離庵」の寺号を賜り臨済宗天龍寺派の寺となりました。明治43年、山岡鉄舟の娘、素心尼が庵主に就き、それ以後尼寺となりました。西南の竹林は善光寺山と言われ時雨亭があったと伝え、境内には茶室・時雨亭、藤原定家塚、定家が小倉百人一首を染筆する時に筆洗いに使った柳の井があります。定家が書き記した「名月記」に彼の嵯峨山荘は、常寂光寺の北方、小倉山麓にあったものと思われ、この地は定家の嫡子・為家の妻父・宇都宮入道頼綱(蓮生入道)が定家の嵯峨山荘近くの当地に中院に別荘を建てるにあたり、障子に貼る色紙を定家に依頼した。早速、定家が多くの勅撰和歌集の中から百人一首ずつを編纂したが、この時、後鳥羽、順徳両帝の歌がなく、その代わりに百人一首にない三人の歌が入って合計百一人であったと伝え、後日、為家によって補訂されたのが現在の百人一首です。紅葉の名所として知られ、紅葉の時期(11月〜12月)のみ拝観が出来ます。

よかとね〜☆⌒(*^∇゜)v 厭離庵(えんりあん)へ・・・
厭離庵(えんりあん)・・・非公開寺ですが、紅葉の時期(11月〜12月)のみ拝観が出来ます。
紅葉の絨毯と燃え盛るような錦秋☆⌒(*^∇゜)v Deep Impact?! (^_^;)\(^。^。) 欧米か?! 
非公開寺ですが手入れが行き届いた見事な苔生す庭園、11月〜12月の紅葉時分にのみ特別公開されています・・・
よろしぃなぁ〜(*^-^*) 定家塚 厭離庵(本堂)
知る人ぞ知る 手入れの行き届いた素晴らしい名庭園(*^-^*)
厭離とは、飽きないという意味で、いつまでも眺めていたい・・・えぇなぁ〜(*^-^*)
美しい錦秋・・・再訪してよかった☆⌒(*^∇゜)v
書院 厭離庵の茶席・時雨亭は、裏千家出入りの数奇屋大工・岡田永斉によって建てられました。
桂離宮に模した四畳向切の茶席内 広縁は苔寺の湘南亭を模した茶席
傘のような屋根裏 広縁から眺める庭園・・・えぇなぁ〜(*^-^*) (*^-^*)
よかとね〜(*^-^*) 定家が筆を洗ったと伝える柳の井

厭離庵をあとに・・・ 定家の子・為家は厭離庵の東に埋葬され「中院入道前大納言藤原為家卿之墓」という石碑が傍らに立つ、為家卿之墓
えぇなぁ〜(*^-^*) 二尊院(伏見城の薬医門) 紅葉の馬場(二尊院)
落柿舎(らくししゃ)

ひなびた茅葺き屋根の庵は、松尾芭蕉の十哲(弟子)の一である向井去来(むかいきょらい)の閑居地で洛東・聖護院村に住んでいましたが元禄初期に嵯峨に古屋を買い求め隠居所としました。邸内に柿の木があり去来が商人に柿の実を売る約束をしたが、一夜のうちに風で全て落ちてしまい買約中の商人が驚き破談にした事から落柿舎と名付けたとされます。松尾芭蕉は元禄4年(1691年)4月18日に去来を訪ねて5月5日までの17日間滞在しその間に名所古跡を訪ね随想を書き留めたのが世にも有名な「嵯峨日記」です。落柿舎は去来の没後に荒廃しましたが明治になって有志の人達によって再興され舎中の庭からの嵐山、嵯峨野を望んで景観は良く俳望の隠棲に相応しい庵です。

夕暮れの嵯峨野 落柿舎・・・工事中の為に閉門中(/≧◇≦\)アチャ〜!!
嵯峨野屈指の紅葉の名所・常寂光寺(じょうじゃっこうじ)

小倉山と号し日蓮宗本圀寺派の寺で寛永年間に本圀寺の日槇上人の退穏所を寺に改めたもので天台四土の一つ常寂光土を思わせるところから寺名となりました。茅葺きの仁王門には運慶作と伝える仁王像が立っている。檜皮葺きの多宝塔(重要文化財:桃山期)は、天和年間の建築ながら華麗な桃山様式を伝えています。豊臣秀吉、小早川秀秋との所縁も深く、仁王門は本圀寺の南北朝時代のものです。藤原定家が小倉山百人一首を編集した場所の時雨亭趾もあります。特に仁王門〜本堂迄の石段脇の紅葉は見事で嵯峨野屈指の紅葉の名所とされます。

落柿舎 嵯峨野屈指の紅葉の名所と言われる常寂光寺
Beautiful〜!!!(・_・)☆ヾ(^^ ) 欧米か?!
Wonderful〜! (・_・)☆ヾ(^^ ) 欧米か?!
えぇなぁ〜(*^-^*) 小督庵

たそがれの嵐山、渡月橋 Deep Impact?! (^_^;)\(^。^。) 欧米か?! 

桂川左岸をナイトランモードで南進・・・

ロームのX'masイルミネーション☆⌒(*^∇゜)v ローム本社に面した五条通と佐井通に、欅など計72本の木々に約60万個の電球を点灯されます。
紅葉とイルミネーション(*^-^*) 期間は11月27日〜12月25日まで。点灯時間は16:45〜22:30まで
イルミネーションが幻想的な世界を演出してくれます☆⌒(*^∇゜)v
星の金貨が降ってくるよう・・・光のシャワーでつ (^_-)-☆ イルミと夜空に輝く三日月と金星、木星☆⌒
伏見にある京セラ本社のX'masイルミネーション☆⌒(*^∇゜)v
「積雪の光の森」をテーマに、白、ブルー、緑やオレンジのイルミネーションを約18万7000個のランプ(省電力タイプのLEDなど)が、幻想的な世界を演出しています。
12/15〜25日は、同社ビルの東西壁面に、室内照明を活かした巨大なX'masツリーが登場。夜空に浮かび上がるX'masツリーと、幻想的な樹木の光を楽しめます☆⌒(*^∇゜)v
11/27〜12/31(巨大X'masツリーのみ12/15〜25日)点灯時間は、17:30頃〜23:00頃まで(12月31日のみ21:00頃迄)

とあるご家庭のX'masイルミ

Tourist2008.12.01(M)

 

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