洛南(伏見、宇治)洛東(山科、東山)〜洛中(上京、中京、下京)洛南(伏見)ぐるリン破

 

風薫る 左文右武の 学舎跡 野風呂

 

寺田屋〜法界寺(日野薬師)〜日野誕生院〜善願寺(腹帯地蔵尊)〜醍醐天皇後山科陵〜酔芙蓉の寺「大乗寺」〜晴明神社

 

親鸞聖人生誕之地・日野の里

承安3年(1173年)、浄土真宗の開祖・親鸞聖人は、日野の里で生まれました。父は、日野氏一族・皇太后宮大進日野有範(ありのり)卿、母は、清和源氏・八幡太郎義家の孫娘・吉光女(きっこうにょ)です。当地は代々、藤原北家の一流である日野氏の所領でした。初代・藤原真夏は「ここは、仏法有緑の地である。」という老翁「萓尾の翁」のお告げにより光仁天皇より当地を賜ったと伝わります。七代の孫にあたる藤原資業(すけなり)が別荘を営み、自ら出家して法界寺を建立し日野氏と称するようになった。以来、法界寺には、阿弥陀堂を始め五大堂、三重塔、観音堂、地蔵堂などが次々造営され七堂伽藍に輝く威勢を誇ったが、比叡山を焼き討ちにした織田信長の兵火に焼かれ、往時を偲ばせる現存の建物は、阿弥陀堂のみとなりました。

坂本龍馬ゆかりの寺田屋

伏見の船宿・寺田屋は薩摩藩の定宿でした。文久2年(1862年)、討幕急進派が寺田屋に集まり決起を企てた「寺田屋騒動」は有名です。又、坂本龍馬の定宿で、お龍さんとの恋宿としても知られています。寺田屋の女将・お登勢は大津の船宿・大本重兵衛の次女で、18歳の時に寺田屋伊助に嫁した。伊助は放蕩者で店は女将お登勢が切り盛りし、二人の娘に加え五人の孤児まで養育した。義侠心が強く志士達にも援助を惜しまなかったと伝えます。

幕末維新のステージ・寺田屋 伏見といえば酒蔵 ビンクの芙蓉
十石舟・弁天橋乗船場 島の弁天さん・長建寺 近鉄京都線・澱川鉄橋(有形文化財:昭和期)
平戸樋門(宇治川派流合流地) 京と大坂を往来していた三十石船 京阪宇治線
山科川、宇治川合流地 木幡池 「黄檗開山隠元禅師渡岸之地」記念碑(功徳碑)
解説 解説 隠元禅師ゆかりの隠元橋
旧陸軍宇治火薬製造所(火薬庫)引込線、宇治火薬製造所(火薬庫)遺構

『淀川水系「火薬ベルト地帯」弾薬庫群』という旧陸軍の機密文書などで詳細判明した「宇治火薬庫、宇治火薬製造所」が、この引込線の終点と一致する事から、この廃線跡は同施設の引き込み線だと思われます。旧陸軍宇治火薬製造所(火薬庫)遺構だったと思われる辺りに「陸軍省所轄地」と記された石碑が残っており、現在は、「陸上自衛隊宇治駐屯地関西補給処」になっており、施設内には火気厳禁と表示された古建物が現存し、旧陸軍宇治火薬製造所(火薬庫)遺構です。

隠元橋 旧陸軍宇治火薬製造所(火薬庫)遺構 陸軍省用地碑
野辺の地蔵尊 向日葵・・ステキな名前(*^-^*) 宇治へ疾走するおけいはん
私も所持している珍しいミキストタイプの折たたみチャリ お彼岸の墓参りへ・・・萬福寺塔頭・法蔵院
えぇなぁ〜(*^-^*) 鉄眼一切経(重文:江戸期)収蔵庫 法蔵院の甍と宇治俯瞰
霊苑から宇治俯瞰 ヒマワリ さっ・・・日野へ行こっかo(*^▽^*)o
法界寺(日野薬師)

真言宗醍醐派に属する法界寺は、日野薬師とも言われ、一般に安産・授乳に霊験のあるお寺として知られています。弘仁13年(822年)、藤原家宗が薬師如来を祀ったのが始まりで、永承6年(1051年)、藤原氏一族、日野資業(ひのすけなり)が薬師堂を建立した寺院で「阿弥陀堂(国宝)」は兵火をかいくぐって残り、藤原時代の遺構として宇治・平等院鳳凰堂、大原三千院・往生極楽院や岩手県・中尊寺金色堂と並び貴重な平安時代の代表的な遺構とされる建物です。本尊の阿弥陀如来坐像も国宝に指定されています。僧によって元旦〜14日間、修正会と称して薬師堂で五穀豊穣、天下大平を祈願し結願の1月14日の夜、群参の内、精進潔斎した青少年、壮年の信徒が二組に分かれ、褌姿で水をかぶり身を清め、両手を上げて合掌しながら「頂礼ちょうらい頂礼ちょうらい」と連呼しながら踊ります。踊りに用いれられた下帯(褌)は、妊婦の腹帯として用いる信仰もあります。当夜は、牛王串(ごおうぐし)の御守が授与され、かす汁の振る舞いもあります。

旧陸軍宇治火薬製造所(火薬庫)引込線跡 のどかな風情・・・日野の里 法界寺(日野薬師)
解説 境内 阿弥陀堂
親鸞聖人産湯の井、胞衣塚(えなづか)

親鸞聖人の誕生時に産湯に使われた閼伽井(あかい)の水で「産湯の井戸」と伝えられています。聖人の「えな」(胞衣:胎児を包む膜と胎盤)を埋納したという胞衣塚(えなづか)があります。

薬師堂(本堂) ハスの花咲く放生池 親鸞聖人産湯の井戸、胞衣塚
胞衣塚 産湯の井戸 一子地のモニュメント
親鸞聖人生誕之地・日野誕生院

本願寺第20代・広如宗主の文政11年(1828年)9月、宗主・親鸞聖人の誕生地である日野を顕彰して1つの堂宇が建てられたのが日野誕生院の始まりです。親鸞聖人の父・日野有範(ありのり)卿に因んで有範堂とも宝物堂とも言われた。前代の本如宗主は、宗主の顕彰に熱意を示し、学僧に当地の調査をさせたり、日野家の菩提寺・法界寺との交渉をしました。文久2年(1862年)、講持の為、京都の同行の間に日野誕生講が結ばれました。第21代宗主・明如は、明治11年(1878年)、堂宇を日野別堂と改名、大正12年(1923年)、立教開宗700年記念の慶讃法要が営まれたのを契機に堂宇の一大改宗が計画され第23代宗主・勝如の昭和3年(1928年)5月、着工され昭和6年(1931年)5月、本堂が完成し落慶法要が営まれました。この時に、日野誕生院と改名され現在に至ります。

親鸞聖人生誕の地・日野誕生院
いつ訪ねても隅々まで清楚に手入れが行き届いているので気持ちよく参拝できます!(*^-^*)
親鸞聖人生誕之地碑 歌碑(左)と親鸞聖人童形の像(発心の像)
日野の里も宅地開発が急速に進んできました・・・ 日野家廟所
従三位平重衝(しげひら)卿墓

平清盛の五男で三位中将・平重衝は、一の谷の合戦で捕らわれ文治元年(1185年)6月、大津〜醍醐路を経て大和に向かう途中、日野へ立ち寄り北の方(妻)と今生の別れを惜しんだ。同年6月23日、大和・木津河原で処刑され遺骸は当地に埋葬されたと伝える。2人が相会した河原を阿以波川(現、合場川)、重衝が別離の情を琴の音に託した所以から琴弾山と称すると伝えます。

日野家先祖・真夏卿、有範卿、吉光女などの五輪塔婆 季節の移ろいを感じます・・(*^-^*)えぇなぁ〜 従三位平重衝(しげひら)卿墓

善願寺(腹帯地蔵尊)

近江国・坂本の聖衆来迎寺(地蔵教院)の末寺として創建。長保年間(999〜1003年)、恵心僧都源心を招き当地で再興されました。地蔵菩薩坐像(腹帯地蔵)は、重要文化財で鎌倉時代の作と伝わります。寺伝によれば、平重衝(しげひら)が生まれる時、安産を祈願の為に建立されたと伝わる。安産祈願の信仰がある。境内には、樹齢千年を下らないといわれる栢の木に先の住職によって彫られた不動明王があります。昔、この木から幽霊が出て街道を行く人々を怖がらせたと伝えます。

解説 善願寺(腹帯地蔵尊) 幽霊伝説のある樹齢千年を下らない栢の木
稲荷神として祀られる陀枳尼天(だきにてん) 腹帯地蔵尊 醍醐寺へ・・・
醍醐寺西総門 西総門〜仁王門参道 三宝院
唐門(勅使門@三宝院/国宝:桃山期) 仁王門(西大門/京都府指定文化財:桃山期) 清々しい参道

太田垣蓮月仮寓(かぐう)跡、朱雀天皇醍醐陵

太田垣蓮月仮寓(かぐう)跡・・・太田垣蓮月は、本名を誠といい、夫・子供・養父に先立たれ、33歳で出家し蓮月尼と称した。孤独を求めて岡崎、西賀茂等転々と住まいを移りましたが、ここもその一つで歌を詠み陶器を焼いて静かに余生を送ったと伝わります。朱雀天皇醍醐陵・・・人皇61代・朱雀天皇は醍醐天皇の13番目の皇子で延長元年(923年)藤原忠平の五条第において降誕され8才で即位しました。在位16年で天暦6年(952年)8月15日、30才で崩御されました。同月20日、来定寺の北野(東山区泉湧寺雀森町)で火葬し父帝の醍醐陵の傍に葬られました。江戸時代、人家の後方の竹薮に覆われていましたが元治元年(1864年)に修治され現在の陵は方形とし墳丘を造らず鬱蒼とした樹木に覆われています。

醍醐寺南門

太田垣蓮月仮寓(かぐう)跡

朱雀天皇醍醐陵
醍醐天皇後山科陵

円形で墳丘を造らずに平とし周囲に空堀をめぐらしています。天皇は敦仁(あつきみ)といい、宇多天皇の第一皇子として仁和元年(885年)、降誕され母は藤原胤子。
13才で即位し菅原道真を登用し国を統治したので世に延喜の世と称せられました。「三代実録」、「古今和歌集」が撰修されたのもこの時期です。在位33年、延長8年(930年)9月29日に46才で崩御されました。元は山稜を築かず平地に卒塔婆三基を建て周囲に空堀をめぐらせただけだったと伝えます。

朱雀天皇醍醐陵 醍醐天皇後山科陵
醍醐天皇後山科陵 山科の里 大宅一里塚
解説 真っ赤に花燃える彼岸花は毒(リコリン)があるので家に採って帰ると火事になると 触れないよう脅された?(^▽^;)
キララくんは、こんな急階段も走る?!(^^ゞ爆 上から新幹線を見るのは珍しいかも (*^-^*) のぞみが・・・きたあぁ〜!!!o(*^▽^*)o
彼岸花は曼珠沙華(マンジュシャゲ)と呼ぶ方がステキで鮮やかな真っ赤に咲く花は緑に映えます!(*^-^*)
亀の水(亀の水不動尊)

木食上人が元文3年(1738年)、峠道の改修工事と共に木食寺梅香庵を営み、 道路管理と休憩所を設けた所です。不動尊を祀り亀の口より井水が湧き出しているので井名となり街道を往来する人馬の喉を潤しました。傍らに木食上人が使用したとされる竃(カマド)が残っています。(竃(カマド)は現在、シートで覆われて見れません。)

大正10年(1921年)に開通したJR東山隧道 旧東海道の急坂から見る山科 亀の水不動尊(亀の水)
ペットボトル(4L)に汲み帰りました・・・(^_-) 酔芙蓉の寺と称される「大乗寺」 酔芙蓉の花
急な石段を上がります・・・ 山門 可憐やな〜
境内に咲き乱れる酔芙蓉の花・・・夕方になると白色からほんのり酔っている様な淡いピンク色に
えぇなぁ〜(*^-^*) 酔芙蓉観音
飲みすぎで酔い潰れたような濃いピンク色で萎んだ花もあります。。。(^▽^;)
1300本以上もの酔芙蓉が咲き乱れています・・・ 小倉百人一首の歌碑と酔芙蓉
旧東海道 車石と荷車(京阪京津線跡)
車石と説明碑 九条山の峠ピークを越えて楽チン走行o(*^▽^*)o 蹴上インクライン
カメハメハ〜(^▽^;) 琵琶湖疏水の噴水 日本最大の大鳥居(平安神宮)
平安神宮 京都守護職屋敷門が移築された武徳殿の総門
薫風(くんぷう)句碑 川端通りを北上o(*^▽^*)o 加茂大橋
鴨川下流@加茂大橋 鴨川(加茂川)上流@加茂大橋 京都御苑(御所)通過・・・今出川通り
陰陽師・安部晴明を祀る晴明神社

平安時代中期の陰陽師・安部晴明を祭神とし倉稲魂命(うがのみたま)を合祀します。安部晴明は平安時代中期、花山天皇、一条天皇に仕えた陰陽師で物事の吉凶を占うなど両天皇、藤原道長に重宝され活躍しました。天文学に通じ暦算、ト占、推歩の術を極め一条天皇の御代に天文博士となりました。かって、花山天皇が密に宮中を逃れ出て山科花山の元慶寺で出家された時、晴明は自宅で天の星座の急変を知り、天子位の去るの象であると急ぎ参内し伝えたと言います。また、式神(職神)を自由に駆使して人を驚かせたなど伝説が多く残ります。当地は安部晴明の屋敷跡と伝え、寛弘2年(1005年)、晴明が74才で没した2年後の寛弘4年(1007年)、一条天皇の勅願により屋敷跡に晴明神社を創建され安部神道は、朝廷の庇護を受け子孫は永く栄えました。境内には晴明の念持力で湧出したと伝える晴明井があり、病気の治癒平癒にご利益があると言われます。境内、社殿などに魔除けの力があるという晴明桔梗紋(五芒星:セーマン)があしらわれています。

出店がいっぱい・・・陰陽師・安倍晴明で知られる晴明神社の神幸祭(23日)o(*^▽^*)o 晴明神社
千利休聚楽屋敷跡

天正14年〜15年、豊臣秀吉が聚楽第を築きました。聚楽第の外郭に「其の中に寺ともなく武家とも見えざる家あり」といわれた千利休の聚楽屋敷があったのが今の晴明町、晴明神社辺りと伝えます。聚楽屋敷内にある茶室・不審庵で秀吉の命により利休は切腹し一条戻橋の畔に首を晒されました。

千利休聚楽屋敷跡碑 解説 参拝者で賑わう境内
旧一条戻り橋と式神像 晴明が自在に操った式神 取水口がその年々の恵方を指す晴明井
本社神輿の他に「桃薗神輿」、「聚楽神輿」の二社の若神輿も巡幸し道中、御旅所祭を行って午後5時本社に還御します・・・o(*^▽^*)o
厄除け桃 晴明桔梗紋(五芒星)が刻された本殿 神事が執り行われています・・・
一条戻橋

名の起こりは定かでないが平安中期、延喜18年(918年)、文学博士・三善清行の葬列が、丁度この橋を通りかかった時、紀州熊野にあった息子・浄蔵が急ぎ帰京し棺にとりすがり泣き崩れ神仏に熟誠を込めて祈願したところ不思議にも父・清行が一時蘇生し父子物語を交じたという故実により「戻橋」と名付けたと伝えます。陰陽師・安部晴明は鬼のような容貌した式神(職神:しきじん)12体を作り人間と同様にこれを駆使したが晴明の妻が恐れるあまり常は戻橋の下に封じ込め用事の時だけ呼び出し吉凶の橋占に用いたとも伝えます。戻橋を最も有名にしたのは河竹黙阿弥が「太平記」(剣の巻)を主材として作った歌舞伎芝居「戻橋」によるからで梗概は、源頼光の家来で四天王の一人である渡辺綱が、ある夜、この橋の畔で容貌美しい女子に出会ったが、川面に映る鬼女の形相によって正体を知り遂に鬼女の片腕を斬り落としたという。これは、戻橋の東南一帯に清和天皇の諸皇子の屋敷があったが、後に源頼光の居住するところとなり、かかる伝説が生じたとされます。戻橋という名を嫌って縁談一切は渡るのを避けると言われ、反対に戻橋の縁起をかついで出征兵士はこの橋を渡って出兵すると無事、帰還が叶うと言われます。

キララくんも晴明桔梗紋(五芒星)に守護されてます! 一条戻橋
元離宮 二条城(世界文化遺産)

慶長5年(1600年)、関が原の戦いに勝利し政権を握った徳川家康が慶長8年(1603年)、京都の守護と将軍上洛時の宿泊所として造営し、3代将軍・家光により伏見城の遺構を移すなどして寛永3年(1626年)に完成しました。慶長8年(1603年)2月、征夷大将軍に任ぜられると竣工早々の二条城で拝賀を受けました。当城で徳川家康が豊臣秀頼と会見したり大坂冬・夏の陣には二代将軍・秀忠らと軍議を凝らしました。寛永11年(1634年)、家光の上洛以降は将軍上洛の必要もなく城内殿舎は次第に取りこぼち留守居役の武士が留まるに過ぎませんでした。寛延3年(1750年)、雷火で天守閣を焼失、天明8年(1788年)正月、市中大火に再び本丸内殿舎や櫓などの類焼をみたが再興はなく家康が建てた二之丸御殿のみが残りました。文久3年(1863年)、家光上洛から229年ぶりに将軍・家茂が孝明天皇の勅を奉じて上洛し慶応3年(1867年)10月、将軍・慶喜が大政奉還を決し城中から上表、ここに武家政治の幕を閉じましたが豊臣秀吉の残した文禄年間の遺構と家康が建てた慶長年間の建築と家光がつくらせた絵画・彫刻などが総合された桃山時代様式の全貌を垣間見る事ができます。

解説 伏見へ帰ろっヾ(≧▽≦)ノ・・・堀川通りを南下中 史跡・元離宮 二条城(世界文化遺産)
東南隅楼 太鼓楼(新撰組屯所跡/西本願寺)
阿弥陀堂門(西本願寺) JR京都線

近鉄京都線

Tourist 2008.09.22(M)

 

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