初春の古都ご利益めぐり・・・平清盛ゆかりの地探訪

 

すむ月も 弥陀の御顔に 詠(なが)むれば 雲居が寺も 名のみなりけり (夫木集)式部太夫定業

 

城南宮、安楽寿院(鳥羽離宮跡)〜ゑびす神社〜摩利支尊天堂〜建仁寺〜八坂神社〜珍皇寺南禅寺〜六波羅蜜寺〜伏見稲荷大社

要所に地図をリンクしましたのでご参考に!(^_-)

六波羅(ろくはら)と平家一門の六波羅館 ☆地図

京都の東山山麓の六波羅は京都の鴨川東岸の五条大路〜七条大路一帯の地名で鴨川東岸,五条大路(現松原通)から七条大路一帯の地名。六原とも古い地名である轆轤原(ろくろがはら)とも記される。六波羅は、古くは葬送地の鳥辺野(とりべの)の入口に当たり珍皇寺(ちんこうじ)の前が賽河原(さいのかわら)と伝えられ彼岸(ひがん:あの世)と此岸(しがん:この世)の境界地とされました。よって古来より信仰の場となり、空也が創建した六波羅蜜寺や小野篁(おののたかむら)の冥土(めいど)通いの伝承をもつ珍皇寺などの寺院や御堂が建てられました。・・六波羅館は、かつて栄華を誇った平家一門の広大な館で清盛の泉殿を始め頼盛の池殿、重盛の小松殿、教盛の門脇殿などがありました。平治元年(1059年)12月の平治の乱で二条天皇が行幸され、娘の徳子が言仁親王(安徳天皇)を出産したのも六波羅ですが寿永2年(1183年)7月、平家都落ちの際に六波羅館は一門の手で火をかけられ灰燼しました。又、常盤御前が義経らを連れて清盛の元へ出頭したのもこの辺りと伝えます。はじめ伊勢平氏の居館として築かれ、伊勢平氏が滅亡した後には六波羅探題が置かれた。この地に伊勢平氏が根拠地を築くきっかけとなったのは、平正盛建立の阿弥陀堂(現在の常光院)である。六波羅館と呼ばれる邸宅群の範囲は時代により異なるが、伊勢平氏が繁栄を謳歌した最盛期には、北側が平安京の五条大路を東(現在の松原通)に延長した通り、東側が車大路、南側が平安京の六条大路を東に延長した通りであったと推察される。南北はおよそ500m、東西はおよそ600mで、周囲は塀を巡らせ、内部には伊勢平氏の惣領家の邸宅・泉殿(いずみどの)を中心として屋敷三千二百余宇が立ち並び、伊勢平氏の一族郎党が起居していたと伝える。平忠盛、平清盛らの居館となった泉殿は、それ以前の寝殿造に較べて極端に小さいものであったと思われている。また泉殿の南には、平頼盛の居館である池殿があった。泉殿は氏長者の邸宅と位置づけられており、仁安4年(嘉応元年:1169年)に清盛が福原に移ると、この邸宅は後継者の平重盛に譲られた。その後、清盛が入洛した際には泉殿ではなく、西八条にあった妻・平時子邸に滞在していた。また清盛の時代、六波羅館のすぐ南には後白河法皇が住まいした法住寺があった。

風呂屋はないけど・・風呂屋町?!(^▽^;) 流れが止まっている濠川(伏見城外堀跡) 新高瀬川右岸堤防
城南宮 ☆地図

上古の時代、神功皇后は出陣に当たり、軍船の御旗に八千矛神を招き寄せて戦勝を祈願され、戦が終わると御旗は宮中で大切に保管されていました。桓武天皇が平安京に都を定めた時、御旗を城南の当地に御神体として納め、八千矛神(やちほこのかみ=大国主命:おおくにぬしのみこと)、国常立尊(くにのとこたちのみこと)、息長帯日売命(おきながたらしひめのみこと=神功皇后:じんぐうこうごう)の三柱、伊勢、石清水神社など七社が合祀され、都の南を擁護する神として祀られた。御旗の日月星の紋章が城南宮の三光の神紋の由来と云われています。

方避けの社・城南宮
鳥羽離宮

平安時代後期の応徳3年(1086年)、白河天皇が藤原季綱(すえつな)から献上された鳥羽の地に後院として造営を始め、鳥羽上皇が継承して完成させました。規模は約100町と伝え、1町とは1辺が約109mで面積が11,881u(約3,600坪)になり、100町といえば、約36万坪にもなる広大な離宮でした。敷地面積の半分近くが池で、河川海などの水運交通の拠点、都への陸運交通の玄関として物流拠点、経済拠点でもありました。現在、往時の鳥羽離宮を偲べるのは安楽寿院、城南宮界隈です。

鳥羽離宮は平安時代後期に白河上皇、鳥羽上皇によって完成されたが、現代は京都市最大のLH街になっている鳥羽離宮跡
金剛心院塚(後宮塚とも称する?) 鳥羽離宮田中殿跡碑 西行寺跡碑(火消地蔵堂)

詳細は不明ですが鳥羽離宮遺跡の1つで現在陵墓参考地となっています。白河院没後、鳥羽上皇も引き続き28年間院政を行ったが、その時建てられたのが田中殿(御所)であった。田中殿は皇女八条院の御所として鳥羽上皇が造り、金剛心院は田中殿内にあった御堂でした。鳥羽離宮跡は国指定史跡です。

白河上皇没後、鳥羽上皇も継承し28年間に亘り院政を執りました。当時に建てられたのが田中殿でした。田中殿は皇女・八条院の御所として鳥羽上皇が造営し殿内には御堂(金剛心院・阿弥陀堂)などが附属していました。

口碑によれば西行法師が佐藤義清(のりきよ)と称し鳥羽殿の北面の武士であった頃の宅跡と伝えます。江戸時代、一宇の草庵があり境内には月見ノ池や剃髪塔などがありました。明治11年(1878年)、東竹田の観音寺に併合されました。観音寺には西行法師坐像が安置されています。

白河天皇陵は鳥羽天皇が、白河法皇の菩提を弔う為に鳥羽離宮の傍に成菩提院を建立し改葬しました。 鳥羽天皇勅願所・北向山不動院
北向山不動院 ☆地図

鳥羽上皇により大治5年(1130年)に建立された。不動明王像を建立し、王城鎮護(平安京鎮護)を祈願し、北向きに安置したと伝わる。応仁の乱で焼失、現在の本堂は、正徳2年(1712年)、東山天皇の旧殿が、移築され、ご本尊は、伝教大師作の不動明王坐像が安置されている。

北向山不動院 右〜普賢、文殊、虚空蔵、千手観音菩薩 境内
鳥羽上皇寵愛の松 不動尊にお供えする龍水泉
洗心井戸 こちらも洗心井戸
参拝しました・・・ 五輪石塔(重文:鎌倉期)
鳥羽天皇陵 ☆地図

鳥羽天皇は鳥羽上皇となり白河上皇の院政を引き継ぎ ました。 籠妃・美福門院が、生み奉った近衛天皇を3歳で即位させ、一方では後白河天皇を擁立するなど保元の乱因を作った事でも史上有名な天皇で保元元年(1156年)、鳥羽殿にて崩御されました。鳥羽離宮の金剛院別当となった所以から鳥羽僧正とも云われカエルやウサギを人物に見立てた絵巻物「鳥獣戯画」を描いた人として有名ですが戯画に鳥が全く描かれず「鳥羽戯画」が正しいという説もあります。

石仏(鎌倉期?) 鳥羽天皇陵(安楽寿院陵)
冠石(かんむりいし)

鳥羽天皇は譲位後、白河上皇が創建した鳥羽離宮に入り、殿舎や仏殿を増築した際、この石の上に冠を置き、これを中心に造営したとも鳥羽上皇が法皇になられた時に、冠を納めた所とも伝えます。

冠石 鳥羽、白河法皇院政之地碑 発掘調査で出土した石で再現した本御塔庭園

鳥羽上皇が三代(崇徳・近衛・後白河天皇の御代28年間)に渡って院政を執り行った離宮としても知られ、貴族から使用人に至るまで宅地が設備され、その様は「あたかも都遷 (みやこうつり)の如し」と記されています。広大な敷地に鳥羽殿と云われた東殿、南殿、北殿、泉殿、馬場殿、田中殿などが造営されました。冠石は保延7年(永治元年:1141年)、鳥羽上皇が法皇になった時この石の下に冠を埋めたとも伝える。上皇が出家されると法皇(法王)と称します。

三尊石仏(左・薬師三尊石像、釈迦三尊石像) 鳥羽離宮跡図

薬師三尊石仏、釈迦三尊石仏は質素な祠にありますが、平安時代(藤原時代)の作で薬師、釈迦、阿弥陀三尊の3面が江戸時代に出土し松香石で創られています。阿弥陀三尊石仏は京都国立博物館に保管されています。これら石仏には石仏の体を削って水で練り、子供の顔や体に塗るとクサが治癒するという信仰、歯痛治癒の信仰があった為に削られ結構傷んでいます。平癒のお礼に土団子を竹の皮に包み供える風習があったとも伝わります。

三宝荒神社 安楽寿院境内 鳥羽離宮イメージ図

保延3年(1137年)、落慶し何度も火災に遭いました。天文17年(1548年)の火災では伽藍の大部分を焼失しました。慶長11年(1606年)の復興時に火災に遭わないようにと荒神を勧請されました。以後の400年間は一度も火災に遭っていません。火難消除の神として信仰されています。

本尊は鳥羽上皇の念持仏と伝わる阿弥陀如来座像(重要文化財)で、本堂、諸塔などは 後世の再建ですが、この本尊だけは台座の 修理銘により平安時代後期、造営当時の 本尊と伝わります。胸に卍が刻まれてある事から「卍の阿弥陀」とも知られています。鳥羽上皇が東殿の境内に建立した御堂など「鳥羽伏見の戦い」時、薩長軍の本営となった寺院です。

当地は藤原季綱(すえつな)の領地でしたが応徳3年(1086年)、季綱が白河天皇に献上し白河天皇が退位後の院として鳥羽離宮を造営しました。白河上皇、鳥羽上皇、後白河上皇の院政の地となりました。平清盛が後白河上皇を鳥羽殿に幽閉し院政は一旦中断しました。源平の争乱、南北朝の争乱など兵火に遭う事が多く急速に衰退したと伝わります。

近衛天皇陵(安楽寿院多宝塔) 安楽寿院

平安京の羅城門(正門)から「鳥羽の造り道(つくりみち:鳥羽街道)」を南進すると当地界隈に出ます。この所以から鳥羽離宮を城南(せいなん)離宮と称したと伝わります。鳥羽離宮として往時を偲べるのが安楽寿院です。安楽寿院は、鳥羽離宮の東殿でしたが、保延3年(1137年)、覚行法親王が寺院に改めました。

安楽寿院 ☆地図

今は往時を偲ぶ形跡もない鳥羽離宮跡の中で、辛うじて 往時を偲ばせるのが安楽寿院です。新義真言宗智山派で山号はなし。保延3年(137年)、鳥羽上皇が、鳥羽離宮の東殿に一宇を建立し無量寿仏三尊を安置した事に始まり、同5年(1139年)に三重塔(本御塔)を建立し、崩後は遺骨を納める塔所としました。次いで久安3年(1147年)、九体阿弥陀堂や不動堂が建立されました。中宮美福門院得子も院内に二層の宝塔(新御塔)を建立し崩後の山稜とする予定でしたが、故あって近衛天皇陵に改められました。創建以来、多くの荘園が寄せられ堂塔は巍々として洛南の郊野に輪奐の美を誇りましたが中世以降は兵火に罹災し寺運は哀徴しました。鳥羽伏見の戦いでは薩長軍の大本営となったが幸い兵火は免れました。近年まで僅かに残っていた諸堂宇も台風によって倒壊し今は、塔頭前松院を以って本坊としています。

こま札 安楽寿院 近鉄京都線
北向不動院道標石 道標石なのに踏切内にあるのです・・・(^▽^;) 近衛、鳥羽、白河天皇御陵道標石
今も残る道きりの風習・・・竹田のエンザサンザ(道切り)

エンザサンザは道切りと云われる風習です・・・道切りとは、村落に悪霊などが入れないよう縄を張り、村の境界に注連縄などを飾り結界を標す事を云います。村人の生活拠点である為、安全と清浄を祈願しました。昔は、単に耕地や隣村があると云うだけでなく、悪霊、祖霊、神仏などの住む他界とも考えられていました。特に悪霊、疫病神は道を伝ってやってくると考らえ、村境に注連縄などを飾って悪霊防除(結界)を祈願しました。注連縄などで道を区切る事を道切りと言います。村境を守る標し(結界)は、悪霊、疫病神の侵入禁止の意味で道祖神、御幣、藁細工、縄を張るなどと伝わります。道切りは結界の意味だけでなく、村中の災いなどを排除し、五穀豊穣・村内安全などを祈願したと伝わります。以前は全国的に行われていた風習ですが、現在は数少ない地域にしか伝承されていないようです。

裏(南西)鬼門のエンザサンザ

表(北東)鬼門のエンザサンザ

竹田丈六町では古来"延座参座"という講があり、毎年正月の8日に講の人達(地元9軒)で清浄なワラをもって15mあまりの注連縄(しめなわ)2本を作り、更に小さな注連縄に御幣(ごへい)を付けて12本(閏年は13本)垂らします。他に13神将の名を書いた絵馬(木札)を中央に掲げてあります。

小注連縄と十三神将名を書いた絵馬(木札) 御神木のクスノキと祠(国分寺跡辺り) 山王権現大宮社の跡碑

エンザサンザは、御神木のクスノキ2本に渡してありますが以前はクスノキがもっとあったそうですが切り倒したそうです。切り倒した人が祟りにあったという伝説もあり今は御神木の傍に祠が建てられています。

山城の国分寺は南山城(相楽郡瓶原:みんのはら)の恭仁宮跡地にありましたが江戸時代にもこの地を山城国分寺の跡と称され現に安楽寿院にこの寺の木額を有し、その旧仏と伝わる宝冠阿弥陀坐像(藤原初期)を安置している事から後世、当地に寺名を移したと伝わります。明治7年(1874年)、廃寺になり安楽寿院に合祀されています。

保延元年(1135年)、鳥羽上皇が鳥羽離宮内に山王権現大宮社を勧請しました。最盛期には社領もあり、例祭には神輿が御旅所に渡興したり催馬楽や走馬も催されたと伝わります。明治13年(1880年)、廃社に伴い山王七社の神像を北向山不動院に移し、現在は竹田小学校になっています。

竹田街道で使われていた車石 竹田街道(R24号線)を北上ing・・・ かつては銭取り橋と言った勧進橋
鴨川左岸堤防・・この辺は元治元年(1864年)7月19日、禁門の変で新撰組が布陣した九条河原 川端通りを北上ing・・・
JR奈良線 JR東海道新幹線、琵琶湖線 川端通り
ゑぴす神社へ 十日ゑびすの参拝者で賑わう大和大路
★ ゑびす神社ゑびす神(商売繁盛)】 ☆地図

栄西禅師が宋より帰朝の時、海上で暴風雨の難に遭ったが夷神の守護により難を免れたとされ建仁寺創建にあたって寺の鎮守としたのが当社の起こりと伝えます。されば、昔は西海へ赴かんとする者は当社に詣で風波の難がない事を祈りました。応仁の兵乱後に社殿を当地に移して再建され、今は八重言代主、少彦名、大国主の三神を祭神とし毎年、1月10日の十日夷と10月12日の夷講には参拝者で大変に賑わいます。

・・・ 都七福神の一・ゑびす神社・・さすがに凄い人出です〜(@_@;)
商売繁昌・家運隆昌・吉兆の笹に付ける縁起物など賑やかな露店
FKM(福娘)??AKB48???(^^ゞ爆 かわいい巫女さんや福娘さんたちが「商売繁盛で笹もってこいっ」と掛け声を出しています・・(*^-^*)/
福娘さんが商売繁昌・家運隆昌・吉兆の福笹を持ってお神楽を舞っています。o(*^▽^*)o
・・・ ゑべっさんを参拝します・・・ゑびす神は耳が遠いので大きな拍手や板を打って拝みます!
真ん中に奉納まぐろが奉られています・・ 御朱印をいただきます。(^-^)v ゑびす神社をあとに・・・
摩利支尊天堂(まりしそんてんどう:禅居庵) ☆地図

元弘三年(1333年)、小笠原信濃守貞宗が建立し清拙和尚(大鑑禅師)を開祖とした建仁寺塔頭の一寺院です。庵内の摩利支尊天堂は清拙和尚が宋国より招来した土で作ったと伝える摩利支天像を安置する。摩利支天は日月の光を神格化したもので、その姿は天女形を表し足下に猪を踏んでいます。これを信仰すれば、一切の災難を除き、身を隠す術を得ると信じられ、古来、武士の守護神として崇められた。今は付近の宮川町や祇園花街の参拝者が多い。また、摩利支尊天が訛って「まるしてん」とも言われ亥年生まれの守護としても信仰がある。ちなみに日本三大摩利支天は、摩利支尊天堂(禅居庵)、徳大寺(東京)、宝泉寺(金沢)です。

大和大路・・・ 建仁寺塔中・禅居庵(摩利支天堂)・・・塔頭・禅居庵は非公開
摩利支尊天が猪に乗って現れることから、狛犬ならぬ、狛猪(こまいのしし)がある。 日本三大摩利支天の一の摩利支尊天堂
日本最古の禅宗本山寺院・・・建仁寺 ☆地図

東山(とうざん)と号する臨済宗建仁寺派の大本山です。開山・栄西禅師は鎌倉時代の建仁2年(1202年)、源頼家(開基)の帰依を得、中国の百丈山の殿舎を模して建立したのが起こりで土御門天皇は勅願寺とされ、当時の年号によって建仁寺の号を賜りました。創建当時は天台、真言宗の旧仏教勢力が強く天台、真言、禅の三宗兼学を建前とし比叡山の末寺という形で止観院、真言院を設けたが大覚禅師(蘭渓道隆)の時に禅宗のみの寺に改めました。以来、武家の信仰を集め足利義満が五山制度を設けると当寺は第三位となったが中世の兵乱にしばしば罹災しました。天正年間(1573〜1592年)、豊臣秀吉の信任を得た東福寺の恵瓊(えけい)によって復興されましたが仏殿は未だに再建に至らず法堂(はっとう)との兼用になっています。

献灯、献香して合掌 平重盛(一説に教盛)の館門を移築した勅使門 建仁寺山門
寛永5年(1628年)に創建された浴室 茶碑 こま札
法堂「拈華堂」(ねんげどう:仏殿兼用)

明和2年(1765年)に上棟された法堂(はっとう/拈華堂:ねんげどう)は、未だ再建に至らずの仏殿を兼用する五間四間、一重、裳階付の堂々とした禅宗様仏殿建築で正面須弥壇には本尊釈迦如来坐像と脇侍迦葉尊者、阿難尊者が祀られています。法堂の天井に平成14年(2002年)、創建800年を記念して小泉淳作画伯筆の「双龍図」が描かれました。

明和2年(1765年)に創建された法堂(はっとう) 庫裏(裡:本坊)
花見小路と言えば・・・祇園
祇園の町並みは、風情がよろしぃなぁ〜(*^-^*)
祇園社(八坂神社) ☆地図

創建は甚だ古く、諸説多く明らかでないが、斉明天皇2年(656年)2月、我が国に来朝した高麗の調進副・伊利之使王(いりしのおおきみ:八坂氏祖)が朝鮮の牛頭山(ごずやま)に祀る素戔嗚尊(すさのおのみこと)の神霊を移し、子孫代々当社の祀官として奉仕したと伝える事から初め、八坂氏の氏神として創祀されたと思われます。天智天皇の御世、社号を感神(かんじん)院と名付けられ、以来、明治元年(1868年)、八坂神社と改める迄、この社号を用いました。平安初期の貞観年中に僧・円如が播磨国広峰より牛頭天王を勧請し下河原の地に一宇を建てて祇園天神社と号し、朱雀天皇の承平4年(934年)に、傍らに薬師堂を創建し観慶寺と号し、別に祇園寺とも呼んだ為に甚だ紛らわしくなりました。その後、八坂氏が哀徴するに及び中世には、感神院は延暦寺の別院となり、祇園社は日吉の末社となり叡山の僧徒が神輿を奉じて朝廷へ強訴する基地になりました。当社は古来、疫病除けの神として朝野の崇敬篤く、延喜式外社ではあるが、二十二社の内に列せられました。神領は60余ヶ所の多きに及んだが、明治の神仏分離令にあたり寺院を廃し神社のみ残った旧官幣大社です。

八坂神社
幕末、志士たちが集ったと伝える中村楼 境内 福娘やんか〜o(*^▽^*)oあはっ♪
祇園ゑびす社の福娘さんたちヾ(≧▽≦)ノ
後光が射す?FKM(福娘)??AKB48か??/(^◇^;) 美御前社・・身も心も美しくなる美容水ですよ! 美容水〜!!顔に付けてきました!(≧▽≦)ぷっ
祇園ゑびす社の宝船?!「商売繁盛で笹もってこい・・・」♪♪v(⌒o⌒)v♪♪イエーイ
平忠盛灯篭 こま札 ご神水
自己責任でご神水をいただきます?!(^-^)v 参拝します・・ 坂本龍馬、中岡慎太郎像
・・・ 石塀小路
石塀小路は情緒ある石畳の小路
かつて京都市内を走っていた京都市電の敷石が石畳に移設された。
しっとりした風情にほっこり、はんなりでよろしぃなぁ〜(*^-^*) ・・・
八坂庚申堂(金剛寺) ☆地図

寺伝によると大黒山金剛寺庚申堂と号し、大阪四天王寺庚申堂、東京入谷庚申堂(現存せず)と並び日本三庚申の一つ。本尊・青面金剛は飛鳥時代に中国大陸より渡来した秦河勝により秦氏の守り本尊として祀られました。平安時代、当代随一の験者であった浄蔵貴所が、すべての人々が参拝できるよう八坂の地に当寺を建立しました。以後、日本最初の庚申信仰の霊場として信仰を集めています。現在の本堂は江戸時代の延宝6年(1679年)の再建と伝えます。

テレビなどでお馴染みの八坂の塔(法観寺) 日本三庚申の一・八坂庚申堂
法観寺境内には近江粟津で討たれた木曽義仲の首が六条河原で晒された後、ここに葬られたと伝承される木曽義仲の首塚があります。
色とりどりの「くくり猿」が吊り下げられてカラフルで華やかやんか〜o(*^▽^*)o ポスターの撮影?! o(*^▽^*)oあはっ♪
招福開運?2012年の干支瓦(*^-^*) 本堂に奉られている色とりどりの「くくり猿」と三サル(聞かザル、見ザル、言わザル)
珍皇寺(ちんこうじ:ちんのうじ) ☆地図

「六道さん」とも呼ばれお盆の精霊迎いに参拝する寺として世に名高い。当寺は京都市で最も古い寺院の一で弘法大師の師・慶俊僧都の開創とも小野篁(おののたかむら)の建立とも言われ一説には宝皇寺(ほうこうじ)の後身とも言われます。宝皇寺とは一に鳥部寺とも言い上古、東山阿弥陀ヶ峰(鳥部山)山麓一帯に蟠居していた鳥部氏の建立した氏寺ですが鳥部氏の哀徴により寺も無くなり今はその遺蹟も明らかにしません。当寺はこの宝皇寺の後身と言われ境内から奈良期の瓦を出土した事があるので平安遷都以前既にこの付近に古寺があった事が立証されています。珍皇寺は元、真言宗で東寺に属していましたが中世の兵乱に荒廃し正平12年(1361年)、建仁寺の僧・良聡によって再興され臨済宗建仁寺に属しています。現在の建物は延宝年間の再建で本堂に薬師如来坐像(重文:藤原期)を本尊とし脇檀に地蔵菩薩を安置します。篁堂には衣冠束帯姿の小野篁像(江戸期)と閻魔大王像が安されています。篁は嵯峨天皇に仕えた平安初期の官人であり歌人ですが古来、小野篁には不思議な伝説があり昼は朝廷に出仕し夜は閻魔庁でアルバイトをしていたと伝えます。

テレビでよく見るお馴染みのロケーション 珍皇寺(ちんこうじ:小野篁卿舊跡)
閻魔大王像 小野篁像 鐘楼(迎え鐘)
平家一門の広大な六波羅館旧跡・・・六波羅蜜寺(ろくはらみつじ) ☆地図

平家一門の広大な六波羅館があった所で清盛の泉殿を始め頼盛の池殿、重盛の小松殿、教盛の門脇殿などがありました。平治元年(1059年)12月の「平治の乱」で二条天皇が行幸され、娘の徳子が言仁親王(安徳天皇)を出産したのも六波羅ですが寿永2年(1183年)7月、平家都落ちの際に六波羅は一門の手で火をかけられ灰燼しました。又、常盤御前が義経らを連れて清盛の元へ出頭したのもこの辺りと伝えます。応和3年(963年)、空也上人が十一面観音を安置して西光寺と号した事が開基とされ本尊を中信が平家一門の館があった六波羅辺りに移し六波羅密寺と改名した真言宗智山派の寺で西国三十三ヶ所の第十七番札所です。寺内には平清盛の像が安置されています。

篁が冥土へ通ったいう井戸と竹林大明神 この世(右)とあの世(左)の境と伝える六道の辻 西国三十三ヶ所第十七番札所・六波羅蜜寺
六波羅蜜寺は平家一門の広大な六波羅館があった所で清盛の泉殿を始め頼盛の池殿、重盛の小松殿、教盛の門脇殿などがあった旧跡地
こま札 平清盛塚(左)、阿古屋塚 とっても立派な石仏は鎌倉期の作かな・・
本堂に上がらせていただき、しばし瞑想・・・穏やかな気持ちになってついウトウトしてしまい何も悟れませんでした。。。(^^ゞ
ありがたいご利益があるという銭洗い弁天 都七福神の一「福寿弁財天」 ご朱印をいただきます!(^-^)v
京都らしい裏路地裏の風情(*´ο`*)=3ホッ 五条通り おけいはん(京阪電車)
伏見稲荷大社 ☆地図

京都市における最古社の一で伝承によると、和銅4年(711年)2月の創建と伝えます。「山城風土記」の逸文によれば、秦の中家(なかつけ:本家)の遠祖・秦伊侶具(はたのいろぐ)は奢福のあまり、餅を的に矢を討った時、餅は一羽の白鳥と化して山の頂に飛び去った。その白鳥が留まった所に稲がなったのでイナリという名になりました。以来、秦氏の家運が傾くに至り、子孫は、この事を懺悔し社の木を家に植えて祀ったところ再び冨栄えるに至ったと伝えます。稲荷大社背後に聳える稲荷山は、東山三十六峰の最南端に位置し、神奈備型と言われる円錐形の優美な霊峰として親しまれています。海抜:232mで山頂に一ノ峰(上之社)、二ノ峰(中之社)、三ノ峰(下之社)の三つの峠(峰)からなり神の降臨地として崇められています。古代人は神は白鳥と化して人間に飛び来り、人間は、これを祀る事によって幸福を得ると信じました。これを神話化したのが先記した伝承話ですが、稲荷社を創祀した古代豪族の秦氏との関係を説いたものてす。稲荷は伊奈利とも記し、イナリとは、イネナリ(稲生、稲成、飯成)の約言で祭神が農耕神である事を端的に表しています。神像が稲を荷っているところから稲荷という字が用いられたが、一にミケツノ神、ウガノミタマノ神とも言われるのは、時代の推移によって神の観念の変化を表したもので正しくは、稲荷神です。一説にイナリのイは、イカシ、イカヅチなどのイカの意をもつ接頭語で、ナリは雷の鳴りと読む事で、むしろイナリ神は雷神であるとも言われます。古代人にとって雷神は稲作にあたって水を給与する神として最も崇敬したので稲荷社は当地にあった先住民が雷神を祀って農耕神とし奉斎したのが起こりとされ、後に秦氏の来住によって氏神と崇められるに至ったと伝えます。平安遷都以来、当社は稲荷神の中央的神格になり真言宗と結びつき農民の咒術(じゅじゅつ)宗教的要請と相俟って信仰を広めました。延喜の制には、名神大社に列し四度の官幣並びに祈雨祭の幣に与かり二十二社に班せられ、神階は正一位の極位を賜るなど上下貴賤の信仰を集めました。特に他の多くの神社が一部の特権階級と結びついて勢力を振るい、それと栄枯盛衰を共にしたのに比して今なお、昔と変わりなく多くの人々から信仰を得ているのは、単に商売繁盛、招福除災の神としてのみならず、まったく庶民の神社として広く親しまれてきたからです。

おまいりやすぅ〜伏見のおいなりさん♪♪v(⌒o⌒)v♪♪・・・伏見稲荷大社 ご朱印をいただきまっす!(^-^)v
御鎮座1300年に伴って改修されて美しくなった拝殿・本殿・・参拝します!(^-^)v 縁起物の熊手!ヾ(≧▽≦)ノ
招きニャンコ48?(爆・・左手を上げるのは人招き!右手はお金!!じゃー両手を上げれば最高じゃん?!・・・えっ?お手上げやんか〜┐(´ー`)┌爆ニャン
・・・ 表参道に車が入れなくなり歩きやすい!(*^-^*) 自転車も入り口までです。(・o+) アチャー
近鉄京都線・丹波橋駅 風呂屋はないけど・・風呂屋町?!(^▽^;)

Tourist 2012.01.09(M)

  

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