洛西チャリ探訪U

 

待つ宵に ふけゆく鐘の 声きけば あかぬわかれの とりはものかは  (新古今和歌集 巻第十三)小侍従

 

與杼(淀)神社〜京都長岡競馬場跡〜水無瀬神宮〜桜井駅跡〜高浜砲台跡〜水無瀬の滝〜離宮八幡宮〜宝積寺(宝寺)〜長岡天満宮

 2.14(M)、風雪の悪天候につき止む無く途中帰還したので洛西チャリ探訪と二部作となります。

竹田街道大手筋 伏見百系・酒蔵@新高瀬川 新高瀬川右岸堤防を南下・・
宇治川右岸を淀へ・・ おけいはん特急 ・・・
JRA京都(淀)競馬場 淀城跡碑
與杼(淀/よど)神社

淀・納所・水垂・大下津の産土(うぶすな)神です。祭神は、豊玉姫命(トヨタマヒメノミコト)、高皇産霊神(タカミムスビノカミ)、速秋津姫命(ハヤアキツヒメノミコト)の三柱です。僧・千観内供が応和年間(961年〜963年)に肥前国(佐賀県)佐賀郡河上村に鎮座の與止日女(ヨドヒメ)神社より、淀大明神として勧請したのに始まると伝えるが、延喜式(901年〜)第9巻「山城国乙訓郡」中に、與杼神社の名がある処からみて、応和年間より以前に鎮座していたと考えられます。元の鎮座地は、今の宮前橋の下流、桂川右岸の川原になっているあたりで、古来よりこのあたりを「大荒木の森」と呼ばれていた。桂川河川敷の拡幅工事が実施されることになったので、本殿以下の建物は、明治33年5月24日付の神社移転許可により、明治34年7月移転工事に着工、翌年5月完成、明治35年6月21日、神社のすべてが現在の淀城址内に遷座されました。※当社由緒書きより

淀小橋など京街道道標石、唐人雁木跡碑 與杼(よど:淀)神社
京都守護の目的で徳川によって再建された新淀城

元和9年(1622年)、徳川幕府2代将軍・徳川秀忠は伏見城を廃城とし、松平定綱が淀に新しく築城しました。伏見城天守閣を淀城に移す計画(二条城へ移築)で広大な天守台を築いたが、二条城の天守閣を移築した為に天守台が大き過ぎて天守の四隅に小櫓が急遽設けられました。宝暦6年(1756年)、落雷で天守閣は焼失しました。秀吉、淀君ゆかりの淀城は、淀城跡公園から北東へ約500m行った妙教寺辺りで淀古城と言われます。

淀藩、稲葉家祖・稲葉正成を奉る稲葉神社 知る人ぞ知る・・こんな所に三等三角点 淀城!(@_@)
城跡から見る淀駅の風景も変わっていく・・ 井戸跡 古老によると姫様が使った手水鉢だとか・・・
当初、淀城は伏見城天守閣を移築予定だったが天守台が小さいため二条城から天守閣を移築し、伏見城天守閣は二条城へ移築された。
石垣に残るくさび跡(矢穴痕) 薩摩・島津の家紋が記された石垣 天守台から見た本丸跡
神心石 淀城跡碑 明治天皇御車駐処碑
旧淀川河川道にある淀川水車跡碑 ・・・ 気温13℃・・宮前橋へ・・・(; ̄ー ̄A
大荒木の森と呼ばれた旧與杼神社鎮座地 府道・204号線を長岡京市へ・・・ 新幹線
名神高速道路、R171(勝竜寺交差点) 一鳥・・ニ鳥・・・三鳥〜?!。。。(^^ゞ サントリー京都ビール工場
下りの221系快速を130km/hの爆走モードで追い抜く223系新快速(外線)・・・新快通過時の風圧に飛ばされそうになりまつた。。。(@_@;)
上り221系快速を追って爆走する213系新快速電車・・・ 281系・特急はるか、営業Max130km/h
京都長岡競馬場跡

現在の長岡京市竹の台、友岡1丁目(乙訓郡神足村大字友岡小字北谷)の竹の台団地と乙訓高校に昭和4年(1929年)、に開設され昭和32年(1957年)に廃場になった京都長岡競馬場がありました。馬場は、1周1000mありました。当時の馬場直線コース跡は、学園通りという道路になっており、内馬場跡には乙訓高校、長岡天神竹の台団地などが建っていますが、当時の馬場コーナー跡も道路となって現存しています。

長岡天神竹の台団地は京都長岡競馬場跡 カーブしている道路は当時の馬場コーナー跡を今に残している。
長岡天神竹の台団地案内図はコースの名残を示す。馬場の直線コース跡は、学園通りという道路になっており、内馬場跡は乙訓高校
\(◎o◎)/!ヤギさんやんか〜 小泉川から南は大山崎町 名神高速道路側道
側道の上から市内眺め・・いい天気 681系・683系特急・サンダーバード 130km/hで爆走する上り213系新快速
120km/hで疾走する下りの223系快速 6代目・225系新快速電車、営業Max130km/h・・・223系に比して走行音が静かに感じた。
妙喜庵(みょうきあん)

室町時代の連歌師・山崎宗鑑が住まいした草庵を後に臨済宗東福寺の僧・春嶽が開山しました。当庵には国宝の茶室待庵があり、千利休が唯一残した茶室であるといわれ室内はニ畳という極小の空間で豊臣秀吉もしばしば、来遊したそうです。極めて質素な小間の茶室の原点といわれ、待庵茶室以後このような茶室が一般化したものと考えられ、にじり口が設けられた最初の茶室とも言われています。

妙音山・観音寺(山崎聖天堂) 妙喜庵 JR天王山駅
山崎ノ関跡(関戸院跡)

山城、摂津国境に設けられた関所で長門国(山口県)の赤間と共に西国交通の要所で、一朝有事の際には派兵して警備に当たらせました。山崎ノ関が、いつ頃に廃棄されたかは不詳ですが、河陽離宮が造営された頃と伝えます。関の廃棄後、関戸院として残され平安時代に公館の宿舎になり、藤原道長も高野山参詣の途中にしばしば少憩した事があり、平家一門が都落ちの際に宝輦(ほうれん)を停めて男山八幡宮を遙拝したとも伝えます。

大山崎、島本町案内図 山崎駅(うまや)跡、河陽宮離宮跡、離宮八幡宮の池跡 関戸明神(山崎ノ関跡/関戸院跡)
山城摂津国境碑・・この先、大阪府三島郡島本町 関戸明神(山崎ノ関跡/関戸院跡) 日本で最初のウイスキー工場・SUNTORY山崎蒸留所
東大寺水無瀬(みなせ)荘園跡

天平勝宝年間(749〜757年)、聖武天皇より奈良・東大寺に与えられた荘園です。現在も当地が東大寺と呼ばれるのもこの事に由来します。正倉院に残されている日本最古の絵図の一つ「摂津の国水無瀬絵図」は、この水無瀬荘を表したもの。当地が水陸交通の要衝であることより西日本諸国の東大寺の荘園から淀川や木津川や陸路を使い奈良に運ばれる物資の中継基地ではないかと考えられています。水無瀬荘は、東大寺領として室町時代まで継いたと推察されている。

ECO-POWER レッドサンダーと呼ばれるEF510形+EF81形電気機関車の重連が高速牽引する貨物列車 水が流れる・・水無瀬川(東大寺水無瀬荘園跡)
水無瀬(みなせ)神宮

水無瀬は、後鳥羽上皇の造営した水無瀬離宮があった場所です。「承久の変」によって上皇が隠岐に流され、その地で亡くなったので、生前親しんだ水無瀬離宮に御影堂が建てられ、弔われてきました。神仏習合の祭祀が行われてきましたが、明治6年(1873年)に神社として制定された際に神道式の祭祀に統一されました。また、土御門・順徳量天皇の合祀も同時に行われました。祭神は、後鳥羽天皇、土御門天皇、順徳天皇の三柱です。神門(薬医門)には、石川五右衛門が付け残したと伝える手形があります。これは、石川五右衛門が神宮の宝物である太刀を盗もうと付近の竹薮に潜んでいましたが、神威に阻まれて境内に入る事が出来ず、なす術なく諦めて去る時に手形を残したと伝えます。

水無瀬神宮 神門
神門に残されている石川五右衛門の手形 全国名水百選に選ばれた「離宮の水」
桜井駅跡(国史跡)

楠木正成・正行父子決別の地として知られ、駅跡には、明治45年(1912年)に陸軍大将・乃木希典の筆による「楠公父子決別の所」の碑が、建てられました。現在は公園に整備されています。桜井は、西国街道と淀川を渡った対岸の河内の樟葉から高野街道に向かう交通の要所(宿場町)でした。後醍醐天皇が、足利尊氏、新田義貞、楠木正成らを擁して、鎌倉幕府を倒しましたが、新政治(建武の新政)に不満を持つ尊氏が挙兵しました。「太平記」では、延元元年(1336年)、後醍醐天皇は、尊氏の軍が九州から大軍を率いて上洛してくるのを阻止すべく、楠木正成に討伐せよと命じました。正成は、わずかな兵を率いて兵庫・湊川に向かう途中、嫡子・正行に「父が討ち死にした後も一族を率いて戦え」と遺訓を残して別れたのが、桜井の駅と伝えます。正成は湊川の戦いで戦死しました。太平記に記されているこの話は、忠孝の見本として戦前の小学校唱歌「青葉茂れる桜井の(桜井の決別)」として歌われました。

本殿 桜井駅跡 解説
明治天皇御製碑 解説 旗立松
解説 楠公六百年祭記念石碑 解説
JR島本駅 ホーム先端に撮り鉄くんが(^▽^;) 桜井駅跡
手水鉢 解説 楠木公父子決別之所碑
解説 楠木公父子別れの石像
解説 忠義貫乾坤(ちゅうぎけんこんをつらぬく)碑 解説
楠公父子訣児之處碑の裏面に英国公使、ハリー・S・パークスの英文が記される。 解説
史跡・桜井駅跡 謡曲「楠露:くすのつゆ」と桜井の駅駒札
国指定史跡・桜井駅跡案内図 JR島本駅 新幹線、阪急水無瀬駅
高浜砲台跡

外島(淀川河川敷)の広瀬村界にあり、淀川に臨み、高さ八尺(約2.4m)、周囲100間(約180m)の規模であった。淀川改修時に破却され、今はゴルフ場となっている。当時、山崎・高浜が藤堂藩、橋本(楠葉)は酒井藩が守備していた。慶応4年1月5日、藤堂藩は勅使・四条隆平に説得され帰順に決した。翌6日朝、対岸の旧幕軍に向かって、高浜砲台の新式四斤山砲で砲撃を開始した。この砲撃に対して橋本(楠葉)砲台も応戦し、夕刻まで砲戦は続いたが、不意をつかれた旧幕軍は大阪城へ撤退した。

・・・ ・・・ 高浜砲台跡
実際の高浜砲台の位置は、ここから北東へ460mの高浜と広瀬の境界付近と伝える。慶応4年1月6日朝、対岸の橋本(楠葉)砲台と打ち合った。
高浜砲台は水無瀬ゴルフ場になっていて、人影のある辺りが砲台跡で対岸の橋本(楠葉)砲台へ砲撃を開始し両砲台間で砲撃戦となった。
楠葉方面 山崎方面 遠く比叡山が見える。
新幹線、阪急・水無瀬駅 史跡・桜井駅跡@西国街道 223系快速が通過・・
八幡神社 説明碑
宝城庵

補陀山と号する臨済宗大徳寺派の寺で創建年代は不詳とされ本尊・観世音菩薩を安置する。また薬師堂の薬師如来は夢のお告げで、淀川河中に沈んでいた山崎橋の柱でつくり、長治2年(1105年)に祀ったと伝える。

臨済宗大徳寺派・宝城庵
鎌倉期?石仏、石塔など 境内から見えるJR島本駅、水無瀬の街並み・・この辺り桜井遺跡(桜井御所跡)
スイセンの花は春の香り・・ええなぁ〜(*^▽^*) 水が流れるのに水無瀬川 (^▽^;)
水無瀬の滝へ・・・激坂上がり(; ̄ー ̄A 名神高速道路天王山トンネル西口 小滝
水無瀬(みなせ)の滝

古来より歌に詠まれる景勝地でした。平安朝の頃は、狩猟、春の桜、秋の紅葉と大宮人が優雅に遊び興じた処です。名神高速道路の開通により、水量が年々少なくなりった上、滝の入口まで住宅が立ち並び、今はわずかな滝の音が往時を物語っています。

平安の時代より歌に詠まれる景勝地・水無瀬の滝は水源を天王山西尾根の深谷に発した滝谷川で、天王山断層により生じた高さ約20mの滝
説明碑 王朝時代、水無瀬川とともに水無瀬の歌枕となった。上半分を女滝、下半分を男滝といわれる。
八大竜王、白姫竜王、玉竜大神を祀る 雨を司る神としての竜神を祀る小祠 春を告げるスイセンの花
春日神社 由緒
竜神の水口から勢いよく出る手水 こじんまりとした祠 春日神社は激坂の上にあります・・
地蔵石仏 天王山トンネル西口 名神高速道路、大阪方面
男山、八幡市方面 楠葉方面 高槻方面
天王山断層露頭説明碑と天王山断層露頭 天王山断層露頭
離宮八幡宮

貞観2年(860年)、僧・行教が豊前の宇佐八幡神を勧請するにあたり当地に斎祀し翌年、男山に移したと伝わり、その所以で後に嵯峨天皇の河陽離宮旧跡に離宮八幡宮が誕生しました。平安時代末頃に当地で始まった荏胡麻油生産は中世に活発化し、生産者たちは八幡宮を本所として油座を組織し、全国の油専売権を握り、販売を独占しました。高さ1m、長さ2mを超える巨石で表面中央に円形の彫り込みがあり更に深さ45cmの扇形が刻まれています。

天王山断層露頭説明 西国街道にある道標石 離宮八幡宮惣門(大山崎町指定文化財)
境内 全国油脂販売店標識(左)と寺社の雑役、力仕事をする油祖像
河陽宮跡碑と社殿 宝塔跡
礎石 石清水 手水鉢
こま札 本殿 荏胡麻油発祥の地碑
扇形石(かしき石)

一に「かしき石」とも呼ばれ出所を明らかにしません。元、当地には貞観年間、権僧正壱演が開創した相応寺という名刹がありましたが、衰徴しこの石は相応寺の塔の心礎だと伝えます。一説に彫り込み様式の古さから見てそれ以前の寺院のものを相応寺が利用したものとも伝えます。

扇形石(かしき石) JR山崎駅 歴史街道百選・天王山碑
霊泉連歌講跡碑 こま札 天王山登り口碑
宝積寺(宝寺)

真言宗智山派の寺で寺宝に竜神が伝来したという「内出の小槌」を有する事から俗に宝寺と呼ばれ山号も古くから補陀落山と号しましたが後に銭原山と改めました。創建は明らかでないですが神亀4年(727年)、聖武天皇の御願により僧・行基が開創した山崎院を継承したと伝わり一条天皇の長徳年間(995〜8年)寂昭和尚が中興し定額寺となりました。中世には寺運興隆し多くの塔頭子院を有する大寺となりましたが兵火にしばしば遭い明治維新後は衰退しました。多くの古文化材を有し乙訓屈指の名刹として現在に至ります。

宇治川、桂川合流地点 宝積寺(宝寺)仁王門 三重塔
待宵の鐘(まちよいのかね)

永正16年(1519年)、在銘の銅鐘(室町期作)です。近衛天皇皇后・多子に仕えていた歌人待小侍従(石清水別当清水光清女)が詠んだ「まつ宵の更け行く鐘の声きけば帰るあしたの鶏はものかは」の和歌に因んで待宵の鐘と称されます。

待宵の鐘 大日不動明王堂
三重塔 天王山の扁額を掲げる本堂
小槌の宮(こづちのみや)

「打出」と「小槌」を祀ります。寺伝によれば聖武天皇が皇太子の頃、竜神より賜ったと伝えそれより75日後に天皇に即位したといいます。この伝説は唐より請来した事を竜神化したものと伝えます。これに因んで福を預かろうとする者は打出の小槌で男は左掌、女は右掌を叩いてもらうとご利益があるそうな・・・中には財布の口を叩いてもらう者もあるとか・・(@_@;)

なで仏・おぴんずるさま 小槌宮 弁財天社
九重石塔(聖武天皇供養塔) 四面石仏(聖武天皇供養塔) 十七烈士埋骨地碑
大念寺

見仏山と号する浄土宗の寺で孝治元年(1555年)、井尻但馬守が徳誉上人を開山として建立したと伝えます。現在の建物は元治元年(1864年)の禁門の変時の兵火後の再建です。本堂に安置されている阿弥陀如来坐像は鎌倉時代の造彫で脇壇に安置する阿弥陀如来立像(重要文化財:鎌倉期)は元、西山上人証空臨終仏として三鈷寺に安置されていたものを移したといわれます。仁治4年(1243年)、胎内から在銘の経巻などが発見されました。境内には天正12年(1584年)在銘の石灯籠、鎌倉時代作の宝篋印塔(ほうきょういんとう)があります。

天王山、大山崎案内図 大念寺 こま札
本堂 ・・・ 山崎院跡
自然振り子式の381系・特急くろしお、営業Max120km/h 681系・683系特急・サンダーバード
681系・683系特急・サンダーバード 6代目・225系新快速電車、営業Max130km/h・・・223系に比して走行音が静かに感じた。
下り221系快速を抜き去っていく223系新快速(外線)

史跡・大山崎瓦窯跡

阪急京都線 男山方面 下りの223系快速電車
223系快速を追う223系新快速電車(外線) 上り223系快速を追う223系新快速電車(外線)
小泉川から北は長岡京市 京都長岡競馬場跡(乙訓高校、長岡天神竹の台団地)の馬場直線、曲線コース跡道路
長岡天満宮

一に長岡天神ともいい、菅原道真を祭神とします。社伝によれぱ昌泰4年(901年)、道真が筑紫左遷時に随従の中小路祐房に与えた自画像を安置して祀った事が当社の縁起と伝えます。洛南、特に桂川流域には道真の遺蹟、伝説が多くいずれも道真の遺徳を追慕して後に作られたもので当社もその一つです。中世その沿革を明らかにしないが江戸時代に当地が八条宮(桂宮)智仁親王の領地であった関係から同宮の崇敬を受け延宝4年(1676年)、社殿を改築し霊元天皇の勅額を賜りました。現在の本殿は、昭和16年(1941年)、平安神宮の社殿を移築したものです。

阪急電車・長岡天神駅 長岡天満宮 えぇなぁ〜 (*^▽^*)
加賀藩・前田候寄進と伝える石の太鼓橋 ・・・ 菅公歌碑
・・・ なでウシさんは、ウシさんですが、シカとなでなで・・(^▽^;)どもども
本殿 書道上達を願う筆塚 梅苑@長岡公園
東風(こち)吹かば 匂ひおこせよ 梅の花・・・梅苑の梅はチラッと咲きです。
「梅一輪 一輪ほどの あたたかさ」(服部嵐雪) えぇなぁ〜(@^▽^@)
紅梅 さっ、茶月に寄って帰ろう・・・

養生中の霧島ツツジ

・・・ 白梅のいい香りが・・・春〜(*゜▽゜)/
八条ヶ池 八条ヶ池ふれあい回遊のみち(水上橋)
私の友人・O.Kくんが取締役社長に就任した茶月。長岡天神へ来るとイケメン?オーナー・K.Kくんの茶月でお寿司を買って帰りまつ。(^-^)v

イナイチ(R171)、名神高速道路

樋爪口 羽束師橋
淀、男山方面 天王山、大山崎方面 西山の稜線と長岡京市方面
田中神社

下鳥羽、横大路の産土神として冶暦年間(1065年)に八坂神社より牛頭天王を勧請した。当初は上流の鳥羽郷田中に社殿があったが、天正年間(1573〜1591年)、この地に移転したと伝えます。

桂川、鴨川合流地(草津湊) 田中神社
茶月のお寿司が重い(^▽^;) ヒヒヒ〜ンといななく?こま馬さん?!(@_@;)
御神水・牛頭水 本殿 大手筋

Tourist.2011.2.21(M)

 

関連コラム

洛西チャリ探訪 洛西チャリ探訪
京洛の天満宮詣で 京洛の天満宮詣で 平安迷宮案内「洛中」 平安迷宮案内「洛中」
洛西花めぐり 洛西花めぐり 柳谷観音寺(楊谷寺)、浄土谷花めぐり 柳谷観音寺(楊谷寺)、浄土谷花めぐり
柳谷観音寺(楊谷寺)、浄土谷 オブ ちゃりビアン 柳谷観音寺(楊谷寺)、浄土谷 オブ ちゃりビアン 西山チャリ探訪 西山チャリ探訪
「乙訓(おとくに)八景」花めぐりPartT 「乙訓(おとくに)八景」花めぐりPartT 「乙訓(おとくに)八景」花めぐりPartU 「乙訓(おとくに)八景」花めぐりPartU
伏見、久御山、八幡の洛南名残り桜めぐり 伏見、久御山、八幡の洛南名残り桜めぐり 桜花つれづれ・・・背割堤(剣先)、伏見水郷めぐり 桜花つれづれ・・・背割堤(剣先)、伏見水郷めぐり

乙訓、八幡歴史街道散策

乙訓、八幡歴史街道散策

桜花繚乱・・・背割堤、石清水八幡宮散策

桜花繚乱・・・背割堤、石清水八幡宮散策

浄土谷、楊谷寺(柳谷観音)散策

浄土谷、楊谷寺(柳谷観音)散策

丹波街道・善峯寺道散策

丹波街道・善峯寺道散策

金蔵寺道・小塩山(大原山)散策

金蔵寺道・小塩山(大原山)散策

「山陰街道・史跡めぐり」散策

「山陰街道・史跡めぐり」散策

「竹の径・古墳めぐり」散策

「竹の径・古墳めぐり」散策 西国街道「ちょっと長岡京」散策 西国街道「ちょっと長岡京」散策

山城散策

山城散策

流れ橋、八幡散策

流れ橋、八幡散策
西国街道「天下覇道」散策Part1 西国街道「天下覇道」散策Part1

西国街道「天下覇道」散策その2

西国街道「天下覇道」散策その2

西国街道「長岡京道」散策その1

西国街道「長岡京道」散策その1

西国街道「長岡京道」散策その2

西国街道「長岡京道」散策その2

鳥羽の造り道:楽水編

平安京道「鳥羽の造り道:楽水編」散策

平安京道「鳥羽の造り道:羅生門編」散策

平安京道「鳥羽の造り道:羅生門編」散策

浪漫ちっく華街道

浪漫ちっく華街道

伏見一の名園!!!楽水苑の華繚乱:スライドショー

城南宮の「楽水苑」

雅の杜〜絢爛の山散策

絢爛の華道

鳥羽殿の雅散策

雅の里

花・水・木散策

源氏物語ゆかりの華庭

王朝〔貴族〕文化散策

王朝ロマン

 

戻る 洛雅記2011年探訪コラム

 

inserted by FC2 system