伏見祭に染まる秋の伏見九郷ポタ

 

10月の伏見は、祭りの季節・・・

御香宮神幸祭は、伏見九郷の総鎮守の祭礼とされ、古来「伏見祭」と称せられ洛南最大の祭礼とされています。

昔、神輿は伏見九郷の各々一郷から一基づつで全九基ありましたが、現在は二代将軍・徳川秀忠が娘・千姫の誕生を祝い

寄進したと言われる千姫神輿と氏子が、寄進した三基の神輿(現在も橘会、礼場会、六地蔵組によって各々三基の

神輿巡行されています)があります。御香宮、三栖神社、田中神社、城南宮そして與杼(よど)神社へと祭が続いていきます・・・

【各社の祭り情報】 御香宮 三栖神社 城南宮 與杼(よど)神社 田中神社 ※第二日曜日〜7日間(14〜21日) 秋祭り(神幸祭)

 

坂本龍馬ゆかり船宿・寺田屋 地図

伏見の船宿・寺田屋は薩摩藩の定宿でした。文久2年(1862年)、討幕急進派が寺田屋に集まり決起を企てた「寺田屋騒動」は有名です。又、坂本龍馬の定宿で、お龍さんとの恋宿としても知られています。寺田屋の女将・お登勢は大津の船宿・大本重兵衛の次女で、18歳の時に寺田屋伊助に嫁した。伊助は放蕩者で店は女将お登勢が切り盛りし、二人の娘に加え五人の孤児まで養育した。義侠心が強く志士達にも援助を惜しまなかったと伝えます。

坂本龍馬、お龍ゆかりの寺田屋は幕末維新のステージ 坂本龍馬像と薩摩九烈士(寺田屋騒動)顕彰碑
酒蔵(宇治川派流)と三十石船
十石舟弁天橋乗り場 長建寺 伏見と言えば・・・
常盤御前拿捕之地、伏見奉行所跡 地図

常盤御前拿捕之地・・・平治の乱(1159年)で源義朝が敗死、常盤御前は3人の子供(今若8歳〔阿野全成〕、乙若6歳〔愛智円成、後に義円と改名〕、牛若2歳〔源義経〕)を連れ大和街道を逃げ落ちる時に当地で平清盛の追っ手に捕まったと所と伝えます。源氏の棟梁(義朝)の子を産み、後に平家の棟梁(清盛)の子を産むという波乱万丈な人生を送りました。伏見奉行所跡・・・慶長5年(1600年)に設置された徳川幕府の出先機関で伏見町の民政、宇治川の船舶の監督、京都御所や西国大名の監視にあたった。幕末の動乱下では、徳川方の根拠地となり慶応3年(1867年)12月に新撰組が移り、慶応4年(1868年)1月、鳥羽伏見の戦いに薩長軍と激戦を交わしたが、薩摩軍の砲撃により奉行所は焼滅しました。

・・・酒蔵でっす?! 常盤御前拿捕之地碑 伏見奉行所跡
伏見奉行所跡碑 伏見工兵第16大隊跡碑(伏見奉行所跡) 御香宮の大鳥居(大手筋)

徳川御三家の産土神(うぶずながみ)、伏見九郷の総鎮守社の御香宮神社 地図

縁起には、諸説があり社伝によれば貞観4年(862年)9月9日、境内に清泉が湧き出し水が芳しく四方に香り病者がこの水を服用すれば病気がたちどころに癒ゆるといわれ、これに因んで御香宮と称し地名も石井郡(紀伊郡)と称したと伝えます。又、御香宮は、旧伏見町の産土神(うぶずながみ)として古来から最も信仰されている洛南屈指の大社です。筑前国糟屋郡(福岡市香椎(かしい)町)にある香椎宮(祭神:神功皇后、仲哀天皇)を勧進し御香椎の椎を略し御香宮となったという説があります。延喜式に記す御諸(みもろ)神社であると言う説もあります。御諸(みもろ)とは、森と同義で神の鎮座する森をいい神の降臨する山や森を神格化したものを御諸(みもろ)神社と言います。豊臣秀吉は、征韓の役に際し、肥前長光(重要文化財:桃山期)の名刀を戦勝祈願時に奉納し今も社宝とされています。伏見城築城に際し深草大亀谷に移され城惶神(伏見城の鬼門除け守護神)とし社領300石を寄進されました。その後、慶長10年(1605年)に徳川家康によって現在地に移され、徳川御三家(尾張、紀伊、水戸藩)藩祖と二代将軍・秀忠の娘(千姫)らが伏見で誕生し御香宮を産土神(うぶずながみ)として社領も豊臣秀吉同様の深草地方など300石が与えられました。豊臣秀吉、徳川家康を始めとし特に徳川御三家藩祖らが特別の崇敬を払った洛南最大社です。

【お祭り情報】☆第一日目(9月29日) 第7回ちびっ子相撲大会(午前9時半〜) ・オイデマツリ花傘総参宮(午後7時頃〜9時頃) ・能舞台において、神賑行事を奉納(午後7時〜) ・お神酒頂戴(午後7時〜8時半) 雨天中止 ☆第八日目(10月6日)宵宮祭花傘総参宮(表門付近午後7時頃〜9時頃) ・オクライモライ(猿田講社、武者組、皇馬) ・お神酒頂戴(午後7時〜8時半) 雨天中止 ☆最終日(10月7日) 神輿巡幸神輿A班(橘会) 午前9時半〜午後8時半 ☆神輿B班(礼場会) 午前9時半〜午後8時 ☆神輿C班(六地蔵組) 午前10時半〜午後5時半 【その他】 ・獅子若 午前7時〜午後3時 ・稚児行列午前10時〜午後5時半 もっと詳しく→御香宮のまつり情報

1150年記念に50年ぶりに再揚された社号額 徳川頼房(水戸藩祖)が寄進した表門(重文:桃山期) 御香宮東神門
露店も国際色が豊かになってきました!(#^.^#) 露店が並ぶ境内
昔ながらのみずあめ(^^♪ 定番の金魚すくいは子供たちに大人気! (^^♪ ・・・
・・・ 昔ながらの串カツ・・懐かしい味や!(^^♪ じゃがバタくんもええなぁ〜(#^.^#)
祭ムード一色の境内 寛永2年(1625年)、徳川頼宣(紀伊藩祖)が寄進した割拝殿(京都府指定文化財:桃山期)
補足:紀州大納言・頼宣が寄進した拝殿は、元伏見城の車寄を割拝殿形式に改造したとも、古御香宮の拝殿を移築したとも伝えます。
広大な氏子地域を巡行している三基の神輿(拝殿・東の間)
伏見奉行・仙石大和守寄進と伝える雌雄の獅子(拝殿・西の間) 千姫神輿の解説こま札
二代将軍・徳川秀忠が長女・千姫の誕生を祝って寄進したと伝える千姫神輿 ご朱印を頂いています!(^-^)v
京都市登録天然記念物・ソテツの樹齢は不明だが、慶長10年(1605)、本殿建築時からそれほど下らない時期に植えられた可能性もある。西株は雌株、東株は雄株である。
「名水百選」に選定された御香水・・・ペットポトルに頂戴しております。※自己責任 神鑒(かん)静井(石井)と御香水碑
慶長10年(1605年)、徳川家康が再建し中央に神功皇后、仲哀天皇、応神天皇の三神を祀る本殿(重要文化財:桃山期)
常盤御前、牛若ゆかりの常盤井々筒が利用されている弁天社の弁天池石橋 境内摂社・弁天社
境内摂社・松尾社 境内摂社・東照宮
桃山天満宮

菅原道真を祭神とする旧村社で天安2年(1445年)桃山の中腹にあった竜播山(りゅうばんざん)蔵光庵の鎮守社であったが、伏見城築城時、寺は嵯峨臨川(りんせん)寺の東に移り神社は、前田家の屋敷内に祀られました。伏見城の破却に伴い前田家も取り払いとなりましたが、神社のみ残りました。俗に「山の天神」といわれ久しく旧地にありましたが、天保12年(1841年)近鉄桃山御陵前駅の東(観音寺南側)に移転、後の昭和44年(1969年)11月、現在の御香宮境内に遷座されました。

北神門 ※ここのたこ焼きが美味い!(^^ゞ 伏見城残石 桃山天満宮
本殿 芭蕉、去来の句碑 楽しそう!(^^)!
これまた定番の焼きモロコシ!(^^♪ ミドリガメをデジ亀で撮ります?!(≧▽≦)ぷっ ・・・
伏見義民一揆(天明義民一揆)

江州(近江)小室藩主・小堀和泉守政方(まさみち)は二代・政一、父・政峰に続いて安永7年(1779年)11月、3人目の伏見奉行に赴任しました。当初は善政を行い名奉行と評判が高かったが、ふとした事から愛妾・お芳の色香に溺れ、それを取り巻く奸臣どもに魂を抜かれたように賄賂、博打、遊興の限りを尽くし暴政を振舞うになり7年間で伏見町民に強要した御用金は10万両にも及んだと伝えます。その為に数万もの伏見住民を窮地に陥れる結果となり、こうした町民を救おうと立ち上がったのが町年寄・文珠九助始め、焼塩屋權兵衛、丸屋九兵衛、伏見屋清左衛門、麹屋伝兵衛、板屋市右衛門、柴屋伊兵衛ら7人の伏見義民でした。文殊九助、麹屋伝兵衛、丸屋九兵衛の3名は天明5年(1785年)に江戸に行き難儀を重ねた末、松平伯耆守に直訴に及びました。その間、伝兵衛は疲労で病死しました。同年、願書は却下されましたが、小堀政方は伏見奉行を罷免され、京都町奉行で再吟味が行われたが、權兵衛、伊兵衛、市右衛門、清左衛門の4名は牢死しました。悪名高き老中・田沼意次に代わり松平定信が老中首座となると、江戸で吟味が行われ政方は領地没収の上、大久保加賀守へお預け、更に吟味を引延した責任を問われて京都所司代、同町奉行、伏見奉行らにも謹慎が命じられ直訴は成功し小堀政方(まさみち)は失脚、一万余石の大名を失い祖先の名園家・小堀遠州の名を汚しました。義民7名は改めてお構いなしの申し渡しが出たが、既に残り2名の義民もこの世にいなかったと伝えます。「伏見義民碑」の題字は三条実美の書で、その碑文は勝海舟の撰文によるものです。

伏見義民碑(勝海舟撰文、三条実美筆) 駒札 参道びっしりに露店が並びます。
中国二十四孝の訓話を表現した表門の蟇股(かえるまた)

【孟宗(もうそう)】・・ 孟宗は父親に早く別れ母一人に育てられてきた。そのため母を思う心は人一倍であったので何時までも長生きしてもらおうと孝養をつくしていたが、その母も年老いて病床の身となった。或冬の日、母が死ぬまでに筍が食べたいと言ったので、孟宗はこの無理な願いを何とか叶えてやりたいと竹藪に行き、竹を抱いて天に向かい、どうか母に最期の孝養を叶えて下さいと一心に祈ったところ、この真心が天に通じたのか、くぼんだ落葉の中から筍が出ている。何と不思議やと早速掘り出し急ぎわが家に持ち帰り与えたところ母は見違えるように元気に恢復したという。この事から早春の筍を孟宗竹と名づけるようになった。【 唐夫人(とうふじん)】・・ 唐夫人の姑は高齢で歯は一本も無かった。そのため果実は申すまでもなく穀類も食べられなかったが、唐夫人はこれを憐れみ毎日自分の乳を姑に飲ましていた。そもため姑は米粒を口に入れない用になってから嫁の乳ばかりで五,六年も長生きしたという。何時の世にも嫁と姑間の仲は噂に上るがこのような美談は珍しく、この為唐家は益々栄え豊かな暮らしになったという。 【郭巨(かっきょ)】・・ 郭巨夫妻は母と三才になる幼児をかかえた四人暮らしであったが、家が貧しく三度の食事も欠かす時もあり苦しい生活であったが、母は孫可愛さに自分の食をも孫に与えることが多くそのため母は日に日に痩せ衰えていった。
これを悲しんだ郭巨は妻と相談して、子は又得られようとも母は二度と得られない掛け替えのない人だ、子は不憫であるが犠牲にしようと、子を埋める穴を掘ったところ地下から光るものがあり掘り上げてみれば黄金の釜であった。そのため郭巨は一躍富豪となり母に孝養を尽くし一家繁栄した。 【楊香(ようこう)】・・ 孝女楊香が十五才の時父と共に山にでかけた折、突然竹藪から虎が現れ父子二人は逃げる隙もなかった。
猛虎は父に向かい襲いかかってきたが折り悪しく刃物も武器もなく防ぎようもなく、二人は大声をあげて救いを求めたが人里離れた山中である。
この時娘楊香は父を助けたい一念で我を忘れ襲いかかる猛虎の背上に飛び乗り、天に向かって一心に父の助命を祈った。虎は背上に跨った楊香を振り落さんと走り回り、遂に走り疲れて斃れてしまい父親を無事助けた。 

蟇股(かえるまた)の造りは桃山文化の代表作。 彫刻の題材は中国二十四孝の訓話で左から、孟宗(もうそう)、唐夫人(とうふじん)、郭巨(かっきょ)、楊香(ようこう)の順です。 
JR奈良線・桃山駅 桃山御陵参道・・・マイナスイオンシャワーや〜!(^^)!
近辺から出土した伏見城の石垣に使われていた石材 ・・・
明治天皇桃山御陵(伏見城本丸跡)、昭憲皇太后桃山東陵(伏見城名護屋丸跡) ☆地図

桃山丘陵の頂に明治天皇陵、昭憲皇太后陵がある。伏見桃山陵は、明治天皇が生前からこの土地(指月丘陵)を大変に気に入られていたとの事で御陵地となりました。明治天皇陵は、伏見城本丸跡を陵墓としたとされ、少し離れて名護屋丸跡には昭憲皇太后御陵があります。明治天皇陵前(四の丸跡)には230段もある石段があり眺望絶景のポイントです。

明治天皇桃山御陵(伏見城本丸跡)・・平安遷都を成した桓武帝御陵の近くに明治維新で近代国家・日本の礎を成した明治帝の御陵がある。
御陵階段上(伏見城四の丸跡)からの眺め・・・石段は230段あります!(@_@;)
かつて伏見城から眼下に巨椋池(おぐらいけ)が広がっていました・・・ 昭憲皇太后桃山東陵(伏見城名護屋丸跡)
昭憲皇太后桃山東陵(伏見城名護屋丸跡) ・・・ 学生時代、トレーニングした230段の大階段
乃木神社(勝運・勉学の神) ☆地図

陸軍大将・乃木希典と妻・静子を祀る神社です。日清戦争では歩兵第一旅団長として参加。日露戦争では第3軍司令官として旅順攻撃をしたが、多くの犠牲者を出し作戦に対する非難が生じたが明治天皇の信任厚く明治40年に学習院院長に任命され明治天皇の大喪には静子婦人とともに殉死。境内に、ロシアのステッセル将軍から贈られたという愛馬「璞号(あらたまごう)」と「寿号」の銅像があり、希典の生家や旅順の第3軍司令部舎も復原されています。

・・・ 乃木神社
境内 学習院院長時代の乃木希典胸像 清々しい境内
国家・君が代に出てくるサザレ石 本殿
山城えびす神社 幸せになり鯛?!(^▽^;)
幸せになりタイので触り鯛?!(≧▽≦)ぷっ 伏見名水・乃木の勝水
山口・下関から移築された乃木希典が少年時代に住んでいた家
解説 乃木神社創設者・村野山人像 中国の柳樹房から移築された日本軍第三軍司令部
日本軍第三軍司令部 乃木希典肖像画 装甲巡洋艦「吾妻」主錨、海軍犠牲者の慰霊碑
・・・ ・・・ 御香宮の杜
御香宮 大手筋 大手筋商店街
お祭ムードが漂う大手筋商店街 この先は枡形で遠見遮断になっている。
金井戸神社(三栖神社御旅所:加藤清正伏見屋敷跡) 地図

肥後橋の東南、濠川(宇治川派流)の畔にあり天武、応神両帝、伊弉諾(いざなぎ)命を祀る旧村社で通称、三栖神社と呼ばれます。元は、横大路下三栖の三栖神社の御旅所として付近の新中町にありましたが、氏子区域の発展により分離、地名にちなんで金井戸神社と改名しました。神社前の橋を肥後橋というのは、この辺りに虎退治、地震加藤で有名な肥後守・加藤清正の屋敷があった事に因みます。清正は朝鮮出兵(慶長の役)時に石田三成の讒訴により本国に召還された後、蟄居を余儀なくされていた慶長元年(1596年)閏7月13日、伏見に大地震が起こりました。清正は蟄居中にも関わらず、手勢300名を率いて秀吉、秀頼父子の警護を務め秀吉は清正の忠義を賞賛して蟄居処分を解いたと伝えます。

【お祭り情報】☆10月7日(日曜日)神幸祭(炬火巡行)☆10月14日(日曜日)還幸祭 ※神幸祭の宵(20時)に大炬火(だいたいまつ)に火を灯し、神輿巡幸の先導として、巡行します。炬火は宇治川に自生する葭(よし)を使って作られています。大きな頭部が約20分ほどで燃え尽きるほどの火勢ですから、近くで見ているだけで熱いです。・・・【祭りの謂われ/大炬火(だいたいまつ)約1300年の壬申の乱の時、大海人皇子が大友皇子率いる近江朝廷との決戦に向かう途中、三栖村を通られる際に、住民が炬火を灯し、暗夜を照らして、歓迎したという故実が謂われとされています。大炬火(だいたいまつ)の巡行は京都市登録無形民俗文化財(48号)に指定されています。もっと詳しく→三栖のまつり情報★【三栖と三栖神社の歴史

酒蔵 戦国武将・加藤清正の伏見屋敷跡と伝える金井戸神社(三栖神社お旅所)
本殿 宇治川派流 横大路変電所
五輪さん、三栖神社 地図

五輪さん・・・鎌倉時代の五輪石塔で昔の武人を葬った場所というだけで単に五輪さんと称する。近年、篤信者が神体化し「山城三好竜神」なる木札を建てて崇拝している。永禄年間当地に津田城を築いた三好左京太夫義継に因果があるかと思われますが不詳です。三栖神社・・・横大路下三栖の産土神で天武天皇を祀るところから天武天皇社、単に三栖ノ宮ともいいます。毎年10月に行われる祭礼では、世に炬火〔たいまつ〕祭りといい、直径1m以上もある大炬火一基を作り担ぎ回る慣わしがあります。※(昔は、2地域が、1本ずつを作り、奉納したとのことです。
平成20年には、復活20年の節目として、二基の炬火が奉納されました。)これは、
約1300年の壬申の乱の時、大海人皇子(後の天武天皇)が大友皇子率いる近江朝廷との決戦に向かう途中、当地を通過された時に村人が、松明を灯して暗夜を照らしたという伝説によります。拝殿は入母屋唐破風向庇(いりもやからはふうむかいひさし)を持った立派な社殿でしたが焼失して以来、再建されていません。本殿は二重の基壇上に三間流造の社殿を構え周囲に堀が廻らされているのが特徴です。この辺りを城ノ前と言い、永禄年間(1558〜69年)、三好左京太夫義継が津田城という城館を構えていた所と伝えます。宝永2年の絵図には、三栖神社の南に城郭の一部であったと見られる「土居薮」という所があり最近まで堀も残っていたようです。

五輪さん 天武天皇の杜と呼ばれる三栖神社 二重の基壇上に三間社流造の本殿
梅姫塚

塚は東面する方形墳で梅の老木と一体石像地蔵尊を安置する。「山城名跡巡行志」第5巻に掲げる蓮如上人の息女・妙勝尼の塚とはすなわち此処を云ったものですが「山城志」に記す「女郎塚」がこれに該当するかは不詳です。三栖付近に現存している唯一の古墳です。

梅姫塚 西日本最大級のおかしの国というA堂工場内にある知る人ぞ知る直売所
田中神社 地図

下鳥羽、横大路の産土神として、冶暦年間(1065年)、八坂神社より、牛頭天王を勧請し、当初は、上流の鳥羽郷田中に社殿があったが、天正年間(1573〜1591年)、この地に大洪水が発生し、現在地に神社の本殿のみが、無傷のまま流れ着き村人達は、この奇跡に驚きお祀りしたと伝えられている。一説に田んぼのまん中にあったので田中神社という社名になったと伝える。

【お祭り情報】☆第二日曜日〜7日間(14日〜21日) 秋季例祭 (通称)秋祭り (神事名)神幸祭

10/14〜21日まで神幸祭が行われる田中神社は下鳥羽、横大路の産土神(うぶずながみ)  駒札
御神水「牛頭水:ごずすい」 いななくは・・ディプインパクトか?!(・・;)爆 本殿には、こま馬像ならぬ勝馬像?!(^-^)v
桂川に架かる羽束師橋と西山の稜線 淀、八幡方面 草津の湊(桂川、鴨川合流点)
道元禅師ゆかりの妙覚山誕生寺 地図

誕生寺は妙覚山と号する曹洞宗の寺ですが、正しくは誕生山妙覚寺と号し曹洞宗の祖・道元禅師生誕地に因んで俗に誕生寺と称します。この地は久我家の旧跡と伝えられ明治初年同家が東京へ移住後、久しく凋落していたが大正8年(1919年)、永平寺貫主の47世・日置黙仙(ひおきもくせん)禅師によって道元禅師誕生地といわれる久我(くが)に越前国(福井県)小松荘にあった華厳山妙覚寺を移して当寺を建立しました。本堂に安置されている道元御尊像、50世玄透(げんとう)即中禅師木像も妙覚寺のままです。一説には道元禅師は鎌倉時代の正治2年(1200年)、母方の藤原基房の宇治山荘で生誕したとされ父は内大臣・久我通親(みちちか)、母は藤原基房(もとふさ)の女・則子と伝えます。幼にして出家剃髪し建仁寺の栄西に禅を学び宋国へ渡って修学しました。帰国後、深草や宇治(興聖寺)において教化に務め晩年、越前に赴き永平寺を創建しました。名門の出でありながら権勢に近寄らず名利に捉われず理論を捨て体験による行の宗教を強く主張した鎌倉時代の偉僧です。建長5年(1253年)8月、西洞院高辻の俗弟子・覚念邸で54歳で没しました。昭和63年(1988年)11月に本堂や庫裡など伽藍の再興もされました。

二層式の羽束師橋 桂川右岸堤防 曹洞宗々祖・道元禅師ゆかりの妙覚山誕生寺
曹洞宗々祖・道元禅師ゆかりの妙覚山誕生寺 道元禅師幼少像
ブッタカヤの仏足跡(水琴窟) 慈母観音立像 宝篋印塔(ほうきょういんとう:久我雅美墓所)
道元禅師産湯の井戸 豊川咤枳尼眞天堂(だきにしんてん/豊川稲荷) 桂川に架かる久我橋
桂川に架かる久我橋 台風一過で増水して激流の桂川・・洗い堰付近で魚を獲っている?網を持ったおじさんが?!(@_@)
油小路通り(阪神高速8号線) アイスと月見の夢ウサギ(ケーキ)を買いました!(^^♪
 お祭りクマちゃん! ★10/7 いよいよ御香宮神幸祭のクライマックス!! 札場会の神輿巡行!\(●⌒∇⌒●)/
掛け声と共に一気に大手筋を神輿巡行・・・ヨイヨイヨイヨイ!o(*^▽^*)o 続いて橘会!
ヨ〜サ〜、ヨ〜サ〜、ア〜ヨイヨイヨ〜! あ〜よいよいよ〜!! ヨイヨイヨイヨイ! o(*^▽^*)o
よ〜さ〜、よ〜さ〜 長〜いセレモニー?に観衆から、まだ出えへんのかいな〜の声が・・(>▽<;;
ア〜ヨイヨイヨ〜! あ〜よいよいよ〜!! ヨイヨイヨイヨイ! ほいっとほいっと!!o(*^▽^*)o
天武天皇(大海人皇子:おおあまのみこ)ゆかりの三栖神社・大炬火(だいたいまつ)

今から約1300年、壬申の乱の時、大海人皇子が近江朝廷との決戦に向かう途中、三栖地域を通られる際に、住民が炬火を灯し、暗夜を照らして、歓迎したという故実が謂われとされています。・・・神幸祭の宵(20時)に大炬火(だいたいまつ)に火を灯し、神輿巡幸の先導として、巡行します。炬火は宇治川に自生する葭(よし)を使って作られています。 製作期間は、葭の生育に合わせて、一年掛かりです。 前年の秋に、穂が付いた葭を刈り取ります。今年になって、芯にする葭と、胴の部分を飾る葭を刈り取り、製作されます。大きさは、芯の直径が4尺(120cm)、火をつける頭部が直径13尺(4m)。 重さが約800kgほどあり、立てたままでは、動かせないので、横に寝かせ、32人の男衆で担がれますが年々巨大化しているらしい?!(>▽<;; 。頭の部分に火を灯し、巡行します。この大きな頭部が約20分ほどで燃え尽きるのですから、近くで見ているだけでとっても 熱〜いです大炬火から抜け落ちた担ぎ手の男衆を火勢から守る火除け(燃え残ったススキ)を火除けの「まじない」として、家に持ち帰ります。(注)頭部は、穂葭と火除けで作られています。穂葭は、乾燥しており、ほとんどが燃え尽きます。火除けは、前日に刈り取ったススキを使い、打ち込まれますので燃え難いのです。そして、神幸祭当日の巡行前、火除けには入念に水を掛け担ぎ手の男衆を火炎から守ります。・・・当日、和太鼓演奏に続き、剣鉾、高張り提灯、大炬火、神輿の順に、竹田街道を中書島駅付近から、京橋まで進みます。日本の奇祭とも言われています。       もっと詳しく→三栖のまつり情報★【三栖と三栖神社の歴史

陣ぶれのような和太鼓が流れる中、ヨ〜サ〜、ヨ〜サ〜の掛け声と共に剣鉾、高張り提灯、大炬火がゆっくりと進みます。ヨ〜サ〜o(*^▽^*)o
葦でできた大炬火が燃え過ぎないように充分な散水が終わり、いよいよ出発や〜!(*゜▽゜)/ 先頭のお多福さん、えぇ感じや〜(^-^)v
出陣太鼓の中を剣鉾、天武天皇と記された高張り提灯、大炬火がゆっくり進む・・ええ感じや〜!観衆から自然と大喝采が起こりました!ヾ(≧▽≦)ノ
ア〜ヨイヨイヨ〜!・・大炬火の後ろを神輿が巡行していきます・・・あらうんよいよい!観衆が半端ない数!今日の祭りで一番の人出や〜(@_@;)
いよいよ大炬火に火が入ります!大歓声と拍手喝采で怖いほどの異様な盛り上がりになりました! あ〜よいよいよ〜!o(*^▽^*)o

古来、三栖では、「たいまつ」を松明ではなく、炬火と書くのは、三栖周辺は宇治川や、横大路沼などがあり葭(よし)が特産で、簾(すだれ)や蒸篭(せいろ)の製造が盛んだったので三栖の「たいまつ」は葦で作られている由縁。葭で作られたタイマツは松より巨大な火炎になるらしい。

大炬火の炎が夜空を焦がすように大きく燃え上がり近くにいるだけで、とっても熱いです・・・あかんと思うけど、みんな大炬火の後ろを歩く?!(^▽^;)
あっちこっちから歓声と拍手喝采が起こっています・・やっぱ、理屈抜きで観衆と一体となって盛り上がる祭りは最高〜や〜!o(*^▽^*)o
ア〜よいよいよ!あ〜よいよいよ〜!!の掛け声で時計周りに回転しています・・・夜空を焦がすような炎と熱風が半端ない熱さや〜(>▽<;; 
いよいよ、クライマックスや〜・・後ろを清掃車(散水車)が大炬火を追尾してきました・・
あ〜よいよいよ!あ〜よいよいよ〜!!o(*^▽^*)o・・・神輿が続きます。いよいよクライマックス! 担がれていた大炬火が立てられます!
夜空に立ち上る火炎が火の鳥を彷彿させます・・がんばれ日本!フェニックス(不死鳥)のように復活できる!!!\(●⌒∇⌒●)/
燃え盛る大炬火に散水して消火しています・・すごい水蒸気が立ち上っています!(@_@;) 勇壮で幻想的なえぇ祭り見させてもらいました!m(__)m

何年ぶりかで大炬火を見させていただき感動しました!\(●⌒∇⌒●)/ 大炬火から抜け落ちた火除け(燃え残ったススキ)を拾って火除けのマジナイとして持ち帰りました!(^-^)v

★10/8 えぇ天気や〜\(●⌒∇⌒●)/ 徳川頼房(水戸藩祖)が寄進した表門(重文:桃山期) すっかり祭りモードが終わって静かな境内
伏見義民碑(勝海舟撰文、三条実美筆) 露店が一軒もない!(@_@;) 伏見城石垣
伏見の戦い碑 絵馬堂 金網に覆われた猿曳の絵馬
手水・・以前は名水を汲めたけど今は×! 神鑒(かん)静井(石井)と御香水碑 徳川頼宣(紀伊藩祖)が寄進した割拝殿
昨夜、広大な氏子地域を無事に巡行した三基の神輿(拝殿・東の間)
京都市登録天然記念物・ソテツ 徳川家康が再建し中央に神功皇后、仲哀天皇、応神天皇三神を祀る本殿(重要文化財:桃山期)
京町通り 鳥羽伏見の戦で新撰組が京町筋に布陣していた激戦地・・・窓格子に激戦を物語る弾痕
宇治川派流(濠川)の河畔、肥後橋東詰に金井戸神社・・鳥居には三栖神社という扁額が架かっていますがここは金井戸神社(三栖神社お旅所)
三栖神社(下三栖:本社)

横大路下三栖の産土神で天武天皇を祀るところから天武天皇社、単に三栖ノ宮ともいいます。毎年10月に行われる祭礼では、世に炬火(たいまつ)祭りといい、直径1m以上もある大炬火一基を作り担ぎ回る慣わしがあります。※(昔は、2地域が、1本ずつを作り、奉納したとのことです。
平成20年には、復活20年の節目として、二基の炬火が奉納されました。)これは、
約1300年の壬申の乱の時、大海人皇子(後の天武天皇)が大友皇子率いる近江朝廷との決戦に向かう途中、当地を通過された時に村人が、松明を灯して暗夜を照らしたという伝説によります。拝殿は入母屋唐破風向庇(いりもやからはふうむかいひさし)を持った立派な社殿でしたが焼失して以来、再建されていません。本殿は二重の基壇上に三間流造の社殿を構え周囲に堀が廻らされているのが特徴です。この辺りを城ノ前と言い、永禄年間(1558〜69年)、三好左京太夫義継が津田城という城館を構えていた所と伝えます。宝永2年の絵図には、三栖神社の南に城郭の一部であったと見られる「土居薮」という所があり最近まで堀も残っていたようです。

祭礼が始まって神輿蔵も開放されている。 祭りモードの本殿 天武天皇の杜と呼ばれる三栖神社(下三栖)
城郭の一部であったと見られる土居薮か? 二重の基壇上に三間社流造の本殿
境内 とっても美しいサンセット!(^-^)v

Tourist  2012.10.01(M)、07(Sun)、08(M)

 

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