都七福神まいり
新しき 年の初めの 初春の 今日降る雪の いやしけ吉事(よごと) (万葉集)大伴家持
日本最古の都七福神まいり
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★万福寺【布袋尊(富貴繁栄)】〜★赤山禅院【福禄寿神(開運・厄除)】〜★妙円寺【大黒天(開運招福)】〜★革堂【寿老神(福寿吉運・長寿)】〜
★ゑびす神社【ゑびす神(商売繁盛)】〜★東寺【毘沙門天(学業成就・安産)】〜★六波羅蜜寺【弁財天(福徳・諸芸能上達)】
七難即滅、七福即生・・・都七福神まいり
古来より民衆の間で信仰の篤い七福神は京都が発祥の地とされ、「都七福神」の巡拝は古くから行われています。★萬福寺【布袋尊(富貴繁栄)】 ★赤山禅院【福禄寿神(開運・厄除) 】 ★妙円寺【大黒天(開運招福)】 ★革堂【寿老神(福寿吉運・長寿)】 ★ゑびす神社【ゑびす神(商売繁盛)】 ★東寺【毘沙門天(学業成就・安産)】 ★六波羅蜜寺【弁財天(福徳・諸芸能上達)】の七社寺で七福神の神々の力をもって福運を授かろうとする民衆の願いであり、特に新春に巡拝すると七難即滅、七福即生極まりなしといわれ、功徳が大きいとされます。各朱印料300円(※大護符(色紙)授与の場合は1,500〜2,000円が目安) めぐる順番は自由☆⌒(*^∇゜)v
萬福寺は、1654年(江戸時代)、中国福建省から渡来した隠元禅師が後水尾法皇や徳川四代将軍家綱公の崇敬を得て1661年に開創された中国風の寺院。日本三禅宗(臨済・曹洞・黄檗)の一つ、隠元禅師、木庵禅師、即非禅師など中国の名僧を原点とする黄檗宗の大本山です。萬福寺の建造物は、中国の明朝様式を取り入れた伽藍配置です。正面 一間を吹放しとした主要伽藍を中心軸上に置き、同じ大きさの諸堂が左右対照に配されています。このように創建当初の姿そのままを今日に伝える寺院は、日本では他に例が無く、代表的禅宗伽藍建築群として主要建物23棟、回廊、額、聯などが国の重要文化財に指定されています。
比叡山延暦寺の別院で赤山明神を祀る。宇多天皇の仁和4年(888年)、天台座主・安慧が師の円仁(慈覚大師)の遺命により天台の鎮守神として壮健したものである・当地は京都の東北表鬼門にあたるので、古来、方除けの神として朝野の崇敬篤く、後水尾上皇は離宮御幸の時、社殿を修築され、赤山大明神の勅額を賜った。本殿に安置する赤山明神とは唐土の赤山にある泰山府君:たいざんふくん)のことで、古来、商売保護の神とされ、また懸けよせの神としても崇敬されている。五日払いという五日を懸け取日にするのは、赤山明神の賽日が五日であるからで、この日当院を詣って懸取りに廻ると、よく集金ができると言われている。本殿の東にある不動堂は、もと雲母(きらら)寺にあったものを移したと伝えます。
拝殿の屋根で御幣と鈴を持つ、神猿は比叡山を守護する日吉山王社の神使いの猿といわれ、都の北東にあたる表鬼門を守護しています。御所の猿ヶ辻の神猿と向き合って京の鬼門から邪気の進入を防いでいます。金網に覆われているのは、猿ヶ辻の神猿と同じく、夜な夜な逃げ出して、イタズラをしないように閉じ込められている。
都七福神の一つで、京都の人々からは「松ヶ崎の大黒さん」と親しまれています。元和2年(1616年)に建立され、正しくは松崎山妙円寺と号する日蓮宗の寺です。8月16日の五山の送り火の一つ「妙法」でも知られています。本尊の大黒天像は伝教大師の作で開運招福の福神として広く信仰を集めています。縁日は年六回の甲子祭(六十日に一回)と正月初子の日などに行われご祈祷、ご幣が授けられます。
正しくは行願寺(ぎょうがんじ)という天台宗延暦寺派の寺十一面観世音像を安置する西国三十三所第一九番霊場です。開山の行円上人は豊後国(大分県)速水郡の人、姓は園部、名を形部という。ある時、山中で一頭の雌鹿を射止めたが、腹中より子鹿が生まれ出るのを見て、殺生の身を深く悔い、それより仏心をお越し、諸国の霊山を修業して京都に来往、平安中期の寛弘元年(1004年) 、一条油小路に行願寺を建立した。上人は常に頭に仏像をいただき身には鹿皮の着物を着ていたので、世の人は革聖(かわのひじり)、皮上人と呼んだことから寺を革堂と呼んだ。往時は、上下貴賎の崇敬を集めたが中世の兵乱に寺町今出川の南に移り、次いで現在の地に三転した。今の本堂は天明以後の再建で本尊・十一面観世音像を安置します。
表面に若い女の幽霊の姿を描き、手鏡を添えている。寺伝によれば文化年間、革堂の近くに質屋があって、そこの子守娘が主人の子供を連れて寺へ遊びにくるうち、子守り歌代わりに御詠歌を愛唱するようになった。しかし、主人は熱心な法華信者であったので、いたく不満とし子守娘を折檻したあまり、誤って死に至らしめた。密かに遺骸を土蔵の中に埋め、親元へ口実を設けて事無く済まそうと計った。驚いた子守娘の両親は急ぎ主家を訪ねたが、娘の行方はわからない。途方に暮れた両親は革堂でお通夜をしていると、夜中に娘の亡霊が現れ一部始終を語ったので両親は奉行所に訴え出、遂に娘の遺骸を探しあてたと伝える。この絵馬は娘の両親が、そのお礼に奉納したもので、鏡は娘が愛用していたものと伝える。
桓武天皇の御代、各地で疫病が流行、これは怨霊の祟りであるとして大同2年(809年)、川原寺で憤死した伊予親王(桓武天皇皇子)と、その母・藤原吉子の霊を鎮める為、承和6年(839年)、出雲路に創祀それた御霊社の一で上御霊神社の南にあたる事から下御霊神社と呼ばれた。その傍らに下出雲寺を建て当社の修法堂とされた。祭神は、後に早良天皇(崇道天皇)、藤原広嗣、橘逸勢、文屋宮田麻呂、吉備真備、火雷天神(菅原道真)を加えた八柱の御霊を祀ることから八所御霊ともいう。中世、下出雲寺の退転により新町通出水(京都府庁)へ社地を移したが応仁の兵乱に焼亡し、天正18年(1590:一説に慶長年間)、現在地に遷座した。古来、上御霊神社と共に皇居の産土神として崇敬され、特に霊元天皇は享保年間(1716〜1736年)、二回にわたって行幸され、その時の御願文は一巻は、重要文化財として秘蔵されている。本殿は、天明の大火後、寛政3年(1791年)に宮中の賢所御殿を賜って再建されたもので中央に八所の御霊を祀り、楼門は、建礼門を移したものと伝える。
栄西禅師が宋より帰朝の時、海上で暴風雨の難に遭ったが夷神の守護により難を免れたとされ建仁寺創建にあたって寺の鎮守としたのが当社の起こりと伝えます。されば、昔は西海へ赴かんとする者は当社に詣で風波の難がない事を祈りました。応仁の兵乱後に社殿を当地に移して再建され、今は八重言代主、少彦名、大国主の三神を祭神とし毎年、1月10日の十日夷と10月12日の夷講には参拝者で大変に賑わいます。
元弘三年(1333年)、小笠原信濃守貞宗が建立し清拙和尚(大鑑禅師)を開祖とした建仁寺塔頭の一寺院です。庵内の摩利支尊天堂は清拙和尚が宋国より招来した土で作ったと伝える摩利支天像を安置する。摩利支天は日月の光を神格化したもので、その姿は天女形を表し足下に猪を踏んでいます。これを信仰すれば、一切の災難を除き、身を隠す術を得ると信じられ、古来、武士の守護神として崇められた。今は付近の宮川町や祇園花街の参拝者が多い。また、摩利支尊天が訛って「まるしてん」とも言われ亥年生まれの守護としても信仰がある。ちなみに日本三大摩利支天は、摩利支尊天堂(禅居庵)、徳大寺(東京)、宝泉寺(金沢)です。
延暦13年(794年)、桓武天皇が平安京造営に際し国家を鎮護する為に、羅城門を挟んで朱雀大路の東西に二官寺として建てたのが、東寺と西寺でした。造営当初の平安京では、僧の政治干渉を排除する為に東寺、西寺の二官寺しか建造が許されませんでした。東寺は、大路の東(左京)にあったので東寺と言い、一に左寺、左大寺とも言います。始め、造寺司を置き、延暦16年(797年)頃から造営が開始されましたが、弘仁6年(815年)、僧侶を別当とする造寺所が設けられ東寺は弘仁14年(823年)、嵯峨天皇から弘法大師(空海)に下賜され大師は天長2年(825年)、仁王護国の本尊を安置し真言密教の根本道場とし、教王護国寺と号しました。以来、朝野の崇敬篤く、天下に事あるごとに当寺において修法祈祷を行い、延暦寺と並んで顕蜜(げんみつ)二教と言われ、我が国の宗教界に君臨しました。中世の兵乱等で創建時の建物は失われ、往時の遺構を留めませんが、今も鎌倉初期〜江戸初期に至る各時代の古建築を有します。後白河法皇の皇女・宣陽門院、後醍醐天皇、豊臣家、徳川幕府の庇護を受け復興し現在の伽藍配置は、南大門(重文:桃山期)、豊臣秀頼が再建した金堂(国宝:桃山期)、貞観仏群がひしめく講堂(重文:桃山期)、食堂(じきど う)、北大門が一直線に並び、南大門の東に徳川家光が再建した五重塔(国宝:江戸期)、西に潅頂院(かんじょういん/重文:江戸期)など奈良時代の寺院建築様式で再建されたものです。弘法大師は「祈りなき行動は妄動であり、行動なき祈りは妄想である」との信念を持っていました。塀で区画された境内はそのまま曼荼羅であり、東寺から様々なメッセージを汲み取る事ができるとも言われます。国宝20件、重要文化財45件の寺宝を収蔵する事でも有名です。五重塔(国宝)は徳川家光の寄進で総高55mの現存する古塔中、日本一の高さを誇ります。南大門(重文:桃山期)、蓮花門(国宝:鎌倉期)、北大門(重文:鎌倉期)、東大門(不開門:あけずもん/重文:鎌倉期)、慶賀門(重文:鎌倉期)を四方に配置し宝物館には、我が国最古とされる兜跋毘沙門天像(とばつびしゃもんてんぞう:国宝)を始め彫刻、絵画、書跡など真言密教に関する寺宝が23,000点以上と多数収蔵されています。因みに、西寺も延暦13年(794年)、平安京建都時に羅城門の西(右京)に二官寺の一として建立され弘仁14年(823年)、嵯峨天皇から勅賜され勧操、守敏(じゅびん)などの高僧が住持となりました。伽藍も金堂、講堂などが甍を並べ荘厳の美を誇りました。
南大門(重文:桃山期)・・・九条大路に面して建つ三間一戸の八脚門で屋根は切妻造、本瓦葺で蟇股(かえるまた)などに桃山風の建築様式が見られます。元の南大門は重層の楼門で正面五間と言われ文覚上人の再建後、文明18年(1486年)の土一揆に焼かれました。今の門は明治28年(1895年)、蓮華王院三十三間堂の西門を移したもので堂々たる威容を見せています。金堂(国宝:桃山期)・・・延暦15年(796年)に創建された東寺の本堂です。文明18年(1486年)に焼失し今の金堂は豊臣秀頼が発願し片桐且元を奉行として再建させたもので、慶長11年(1606年)に完成しました。奈良大仏殿の古制を真似て天竺様の挿肘木(さしひじき)を用い細部には唐、和風の各技術も巧みに折衷した桃山時代仏寺建築の優作で堂内には薬師三尊(桃山期)、十二神将を安置します。近年、金堂を解体修理の時に創建当時の礎石が発見され位置及び規模が大体、創建時と同じである事が確認されました。
方三間、高さ55もmからなる本瓦葺の塔で我が国現存塔婆では最高、最大とされます。正保元年(1644年)、徳川家光が古制に則って再建したもので塔内部は心柱を初層まで通し、八方の板壁には真言八祖、扉には護法八天などを極彩色で描いています。
康歴元年(1379年)に焼失しましたが、翌年に再建されました。前堂と後堂の二堂に分かれ檜皮葺、入母屋造の屋根二棟が混み入って建っています。外面は蔀戸(しとみど)をはめ、妻唐戸(つまからと)を用い一見、寝殿造を思わせます。ここは、弘法大師の住房跡と伝え堂内には弘法大師坐像(重文:鎌倉期)、大師の念持仏の秘仏・不動明王坐像(国宝:貞観期)、五重小塔(重文:鎌倉期)を安置します。
「六道さん」とも呼ばれお盆の精霊迎いに参拝する寺として世に名高い。当寺は京都市で最も古い寺院の一で弘法大師の師・慶俊僧都の開創とも小野篁(おののたかむら)の建立とも言われ一説には宝皇寺(ほうこうじ)の後身とも言われます。宝皇寺とは一に鳥部寺とも言い上古、東山阿弥陀ヶ峰(鳥部山)山麓一帯に蟠居していた鳥部氏の建立した氏寺ですが鳥部氏の哀徴により寺も無くなり今はその遺蹟も明らかにしません。当寺はこの宝皇寺の後身と言われ境内から奈良期の瓦を出土した事があるので平安遷都以前既にこの付近に古寺があった事が立証されています。珍皇寺は元、真言宗で東寺に属していましたが中世の兵乱に荒廃し正平12年(1361年)、建仁寺の僧・良聡によって再興され臨済宗建仁寺に属しています。現在の建物は延宝年間の再建で本堂に薬師如来坐像(重文:藤原期)を本尊とし脇檀に地蔵菩薩を安置します。篁堂には衣冠束帯姿の小野篁像(江戸期)と閻魔大王像が安されています。篁は嵯峨天皇に仕えた平安初期の官人であり歌人ですが古来、小野篁には不思議な伝説があり昼は朝廷に出仕し夜は閻魔庁でアルバイトをしていたと伝えます。
毎年、盂蘭盆(うらぼん)にあたって精霊を迎える為に造られた事から迎え鐘と言いこの鐘の音響が十万億土の冥土に迄届くとされ亡者はその響きに応じ現世に呼び寄せられると伝わります。故人の名前を呼びながら鐘を撞くのですが先祖の多い人は相当時間、労力を要するので寺僧が立会い一人三回限りとされています。古事談によるとこの鐘は慶俊僧都が造らせたとされ慶都が唐国へ行く時にこの鐘を3年間地中に埋めておくようにと寺僧に命じて旅立ちましたが留居の寺僧は待ちきれず一年半ばかりして掘り出し鐘を撞いたところ、遥か唐国にある僧都に聞こえ「あの鐘は3年間地中に埋めておけばその後、人手を要せずして6時になると自然に鳴ったものを惜しい事をしてくれた。」と言って残念がったそうです。本堂背後の庭内には篁が冥土へ通ったいう井戸があり傍に彼の持念仏を祀った竹林大明神という祠があります。
今は昔、慶長4年(1599年)、京都の江村氏妻を葬りし後、数日を経て土中に赤子の泣き声がするので掘り返して見れば亡くなりし妻が産んだ児でした。その当時、夜な夜な飴を買いに来る婦人があったが赤子を掘り出して以後は来なくなりました。この子が8才の時、僧となり修行怠らず成長し遂に高僧になったという。因んでこの飴を誰ともなく幽霊子育飴と言われ京名物になったと伝えます。
桂光山と号する浄土宗鎮西派の寺で空海上人(弘法大師)が当地に辻堂を建て自作の地蔵尊を祀ったのが寺の起こりです。この地蔵は六波羅地蔵といい、檀林皇后(嵯峨天皇皇后)が、しばしば参詣され、皇子・正良親王が病気の際、この地蔵尊に祈願したところ無事平癒し後に仁明天皇として即位された。以来、子育て地蔵としても信仰されています。寺宝は、「熊野参詣曼茶羅図」、「熊野観心十界図」や嵯峨天皇の妃であった檀林皇后の亡骸が鳥辺野で風葬され白骨になり土に返っていく九段階の姿を描写した「檀林皇后九相図絵」や「六道十界図絵」など多数を所持しています。昔、六道の辻には六仏堂があったのですが、現在は三仏堂が残り毎年8月8日からのお盆のお精霊迎えの「六道詣り」では大勢の参拝者が訪れ堂内に「檀林皇后九相図絵」や「六道十界図絵」を掲げて説法が行われます。
普陀落山と号する真言宗智山派の寺で西国巡礼の札所として古来、庶民に親しまれている寺ですが、多くの仏像を有する事で美術史上重要な存在となっています。平家一門の広大な六波羅館があった所で清盛の泉殿を始め頼盛の池殿、重盛の小松殿、教盛の門脇殿などがありました。平治元年(1059年)12月の「平治の乱」で二条天皇が行幸され、娘の徳子が言仁親王(安徳天皇)を出産したのも六波羅ですが寿永2年(1183年)7月、平家都落ちの際に六波羅は一門の手で火をかけられ灰燼しました。又、常盤御前が義経らを連れて清盛の元へ出頭したのもこの辺りと伝えます。応和3年(963年)、空也上人が十一面観音を安置して西光寺と号した事が開基とされ本尊を中信が平家一門の館があった六波羅辺りに移し六波羅密寺と改名し、寺内には平清盛の像が安置されています。
2009.1.5(M),12(M)、19(M)
関連サイト
Pちゃんズの古都珍道中記
「洛雅記」2009年探訪コラム