酒蔵
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伏見は古来、名水処として酒造りが地場産業となっています。伏見の酒造りが開花したのは安土・桃山時代で豊臣秀吉の伏見城築城時に城下町として大きく栄え酒の需要が高まる中、全国にその名を知られるようになりました。江戸時代には宿場町・港町として水陸交通の要所として発展、酒造家も急増し酒処として益々発展しました。往時に比べ酒蔵も減りましたがこの界隈は往時を偲ぶ事ができます。
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どの道から来ても突き当たる「四辻の四つ当り」 |
伏見と言えば・・・酒蔵 |
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酒蔵 |
長建寺
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紅柄塗りの唐模様山門で知られ真言宗醍醐派の寺で東光山と号する。元禄11年〔1698年〕時の伏見奉行・建部内匠頭が、中書島を開拓するにあたり深草大亀谷の多聞院を移しその姓の一字をとり長建寺と改めたと伝える。本堂に安置する本尊弁才天は、世に音楽を司る神とし古来花柳界の信仰を集めました。桜と椿の花名所です。
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宇治川派流 |
十石舟(弁天浜) |
長建寺 |
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境内 |
伏見七名水の一「閼伽水:あかすい」 |
弁天型灯篭(伏見奉行・建部内匠頭奉納) |
常盤御前就捕処
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平治の乱(1159年)で源義朝が敗死、常盤御前は3人の子供(今若8歳〔阿野全成〕、乙若6歳〔愛智円成、後に義円と改名〕、牛若2歳〔源義経〕)を連れ大和街道を逃げ落ちる時に当地で平清盛の追っ手に捕まったと所とされています。源氏の棟梁(義朝)の子を産み、後に平家の棟梁(清盛)の子を産むという波乱万丈な人生を送りました。
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伏見奉行所跡(伏見工兵第16大隊跡) |
常盤御前就捕処の碑 |
常盤井跡 |
徳川御三家の産土神(うぶずながみ)・御香宮
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社伝によれば貞観4年(862年)9月9日、境内に清泉が湧き出し水が芳しく四方に香り病者がこの水を服用すれば病気がたちどころに癒ゆるといわれ、これに因んで御香宮と称し地名も石井郡(紀伊郡)と称したと伝えています。又、御香宮は、旧伏見町の産土神(うぶずながみ)として古来から最も信仰されている洛南屈指の大社です。筑前国糟屋郡(福岡市香椎(かしい)町)にある香椎宮(祭神・神功皇后・仲哀天皇)を勧進し御香椎の椎を略し御香宮となったという説が、あります。"延喜式に記す御諸(みもろ)神社"であると言う説もあります。御諸(みもろ)とは、森と同義で神の鎮座する森をいい神の降臨する山や森を神格化したものを御諸(みもろ)神社と言います。豊臣秀吉は、征韓の役に際し肥前長光(重要文化財)の名刀を戦勝祈願時に奉納し今も社宝とされています。伏見城築城に際し深草大亀谷に移され城惶神(伏見城の鬼門除けの守護神)とし社領300石を寄進されました。その後、慶長10年(1605年)、徳川家康によって現在地に移され、徳川御三家(尾張・紀伊・水戸藩)藩祖と2代将軍・秀忠の娘(千姫)らが伏見で誕生し、御香宮を産土神(うぶずながみ)として社領も豊臣秀吉同様の深草地方など300石が、与えられました。
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表門(伏見城大手門/重文:桃山期) |
白菊石、歌碑と伏見城残石 |
鳥羽・伏見の戦い戦碑 |
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割拝殿(京都府指定文化財:桃山期)の絢爛豪華な花鳥などの彫刻とです・・・伏見城の車寄せ?古御香宮の拝殿?を移築したとも言わます。 |
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割拝殿(京都府指定文化財:桃山期) |
慶長10年(1605年)、徳川家康の再建と伝える本殿(重文:桃山期) |
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桃山御陵参道(明治天皇陵、昭憲皇太后陵) |
石田三成?鎧武者の幽霊伝説がある治部池 |
どうなる?(_
_;) 伏見桃山城 |
古御香宮神社
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文禄年間、豊臣秀吉が、伏見築城に際し御香宮神社を移築し伏見城の鬼門除けとして祀りました。神社は、伏見城の廃棄後に徳川家康によって現在の御香宮に遷されました。参道は結構な上り坂で大きな石(伏見城石)がゴロゴロとあります。当社辺りが、桓武天皇陵だという説(明治初年に内定していた)もあり御陵参考地に指定されています。
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天明年間(1781〜88年)、浅井長政の子孫・浅井亮政の娘・薫誉智香尼(くんよちこうに)が再中興した尼寺「等泉寺」 |
古御香宮神社 |
桓武天皇陵の候補地・・・大亀谷御陵墓参考地
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桓武天皇陵は当初、平安京の西北郊の山城国葛野郡宇太野(現・京都市右京区宇多野辺り)に定められましたが、凶事が相次ぎ、山陵が賀茂神社に近い為の祟りだと天皇陵は山城国紀伊郡(京都市伏見区)柏原山陵に改葬されましたが、南北朝〜室町時代の争乱などで朝廷の陵墓祭祀が衰退し、桓武天皇陵の所在地が不詳になりました。江戸時代後期の陵墓探索では、元禄年間の修陵で、伏見区深草鞍ヶ谷町浄蓮華院境内の谷口古墳(6世紀後半)に決定。又、伏見区深草鞍ヶ谷町の山伏塚古墳(6世紀後半)や同区桃山町遠山の黄金塚2号墳(5世紀)などの古墳を推す説、伏見区深草大亀谷古御香町の古御香宮社(大亀谷陵墓参考地)とする説、豊臣秀吉の伏見城築城で完全に破壊されたとする説など、諸説があります。幕末に、谷森善臣(平種松)が紀伊郡堀内村字三人屋敷(伏見区桃山町永井久太郎)を桓武天皇陵と考定、明治政府に継承され現在に至ります。大亀谷陵墓参考地は明治初年に桓武天皇柏原陵と内定していた所で室町期の文安2年(1445年)に作成されたとする「旧光厳院古図(伏見山図)」が発見され柏原陵が記され、それが大亀谷陵墓参考地を指すと見られる付近から花崗岩の板材を組み合わせた石棺(石槨/長さ2.57m、幅1.28m、高さ1.10m)が出土し石棺は仏国寺境内に移転、台石は古御香宮神社の社殿前にあります。
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古御香宮神社々殿(社殿前にあるのが台石) |
大亀谷陵墓参考地(桓武天皇陵候補地) |
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激坂をチャリチャリ・・・れれれ〜曲がる道を間違えたとです!(>_<)
大岩ゴルフセンターを越え・・・NTT電波塔ですがな?!(@_@;)
あちゃ〜 |
大岩神社
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創祀は定かでなく大岩、小岩と呼ぶ2つの神石からなり男神、女神として奉祀したのが起こりで社伝によれば「男女二人の神がそれぞれが胸の病気にかかった際に、互いの献身的な看病によって病を治した事から、胸や心の病を治癒する霊験があるとされます。
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大岩神社(大岩山々頂:標高182m) |
勧修寺(かしゅうじ)
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真言宗山階派大本山で亀甲山と号し俗に「かしゅうじ」とも呼ばれます。昌泰3年(900年)、醍醐天皇が皇后・胤子(いんし:生母)の菩提の為、母の里方の宮道弥益(みやじのいやます)の屋敷を寺に改めたと伝え皇室、藤原家の帰依のもと、代々の法親王が相次いで入寺したので皇室とは特別に関係が深く宮門跡として荘園も多く所有していましたが文明2年(1470年)、兵火にかかりその後、寺勢は著しく衰えたが江戸時代には徳川家より1000石の寺領をもって名刹寺院の品格を維持しました。寝殿作り風の宸殿や、江戸初期書院作りの典型とされる書院(重要文化財)は元禄10年(1697年)、明正天皇の旧殿を外賜され、書院には土佐光起作とされる襖絵などがあります。庭園は広く醍醐の峰々が借景され気宇広大な眺めです。池泉庭園「勧修寺氷池園(氷室池)」も有名で池には大小3つの島が浮かびます。平安時代には、毎年1月2日宮中に献上し氷の厚さでその年の五穀の豊凶を占ったと伝えます。書院の前庭にある雪見灯篭は「勧修寺型灯篭」とも呼ばれ水戸光圀の献上したもので、その周りに茂る這柏槇(ハイビャクシン)は樹齢約800年という銘木です。
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塚群 |
風情があるとです・・・勧修寺参道 |
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表門 |
境内 |
玄関 |
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宸殿(明正殿) |
樹齢約800年の銘木・這柏槇(ハイビャクシン) |
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水戸光圀が献上した雪見灯篭 |
書院(重文:江戸期) |
観音堂 |
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観音堂 |
本堂 |
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弁天堂 |
勧修寺氷池園(氷室池)池には、睡蓮、ハス、カキツバタなどが群生しとるとです・・・ |
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庭園の芝生も和むとです・・・勧修寺庭園の風情 |
小野小町ゆかりの隋心院
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真言宗善通寺派大本山で小野門跡(小野御殿)と言われるが小野小町ゆかりの寺として知られます。隋心院は、平安時代中頃に仁海僧正の開基にして、一条天皇の正歴2年(西暦991年)に奏請し、この地を賜り一寺を建立しました。古くは牛皮山曼荼羅(ぎゅうひざんまんだら)寺と称されました。晩年の小野小町が移り住んだといわれ、敷地内のいたる所に小町の縁所があります。又、深草少将の百夜通いの折り、小町は榧の実を糸に綴って数をとりました。後、その実を当地に蒔き、かっては99本あったと伝えられています。
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隋心院総門 |
小野小町歌碑 |
庫裡 |
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山門(大玄関) |
大玄関 |
小町住居跡の小町井 |
醍醐寺(世界文化遺産)
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醍醐寺は、真言宗を学んだ理源大師が山中で修行を積もうと、貞観16年(874年)、笠取山々上に草庵を建てた事に始まり山岳信仰の拠点となり薬師堂・五大堂などが次々と建ち、上醍醐が形成されました。延喜7年(907年)、醍醐天皇の帰依によって朝廷の保護を受ける御願寺(ごがんじ)となり、朱雀・村上天皇の帰依により発展を遂げ、山麓にも伽藍を広げ金堂(こんどう)の前身となる釈迦堂が延長4年(926年)、五重塔が天暦5年(951年)に落成し醍醐寺は、山の上(上醍醐)と下(下醍醐)に伽藍を連ねる大寺院となりました。山の上下にまたがる約8万坪にもおよぶ寺域の広さ、伽藍の規模などは、洛南随一と言われ、上醍醐は西国33カ所巡り第11番札所の准胝(じゅんてい)堂、薬師堂、如意輪堂など佇まいです。山麓の下醍醐には、桃山時代の豪華絢爛さが漂う三宝院(さんぼういん)、京都府で現存最古にあたる木造建築の五重塔、霊宝館などがあります。伽藍ばかりではなく春には広大な境内を約2000本の桜が薄紅色に、秋には山一帯を紅葉が人々の目を楽しませてくれます。唐門は門跡寺院としての三宝院にあり、朝廷からの使者を迎える時だけに扉を開いたとされる門が唐門(勅使門)です。大胆な意匠は、桃山時代の気風を今に伝え、庭園全体を眺めることのできる表書院(おもてしょいん)と共に国宝です。平成6年(1994年)に世界文化遺産に登録されました。
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小町井は小町が愛用していた井戸とです・・・ |
醍醐寺総門 |
唐門(勅使門/国宝:桃山期) |
金堂(国宝:平安期) |
金堂(国宝)は豊臣秀吉の命により紀州(和歌山県)の湯浅から移築され主要部は平安末期の様式を完全に残しています。本尊の薬師如来と両脇侍は鎌倉時代の作で、いずれも重要文化財に指定されている。「五大力さん」として親しまれているこの法要は、千百余年のの歴史があり、醍醐寺開山以来継承され、毎年の2月23日には、「五大力尊仁王会」があり、「五大力さん」の分身御影は、醍醐寺一山の僧侶によって7日間、21座にわたり、上醍醐の五大堂においてご祈願されたものです。ご祈願された御影・御守は、あらゆる災難を除いてくれる利益があると伝わり、毎年2月23日のみ授与されます。名物の餅上げの法要は、男子150Kg、女子90Kgの大鏡餅に挑戦します。
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仁王門(西大門/京都府指定文化財:桃山期) |
金堂(国宝:平安期) |
清滝宮拝殿 |
五重塔(国宝:平安期) |
五重塔は、醍醐天皇のご冥福を祈る為に朱雀天皇が起工し村上天皇の御代、天歴5年(951年)に完成しました。京都府下最古の建造物で内部の壁画は、日本密教絵画の源流をなすものと伝わります。
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清滝宮本殿(重文:室町期) |
五重塔(国宝:平安期) |
不動堂 |
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祖師堂 |
日月門(上醍醐入り口) |
大講堂 |
女人堂と御千度石 |
上醍醐の登り口に女人堂があります。「女人禁制」であった頃は女性が入れるのはここ迄で、ここから上醍醐寺に向かって参拝しました。その前に水掛不動尊(手水場:左から不動明王、聖宝理源大師:醍醐寺開山、弥勒菩薩、役行者(えきのぎょうじゃ)神変大菩薩:修験道開祖、地蔵菩薩)がありその傍に「御千度石」と刻まれた小さな石碑があって、この石碑と女人堂の間を千回往復すると、山上の上醍醐寺に参拝した事になり功徳を得られたと伝えます。
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弁天堂と林泉(池) |
女人堂 |
御千度石 |
三宝院 |
三宝院は永久3年(1115年)、醍醐寺第14世座主・勝覚(しょうがく)僧正の創建。その後、座主の住房とされていた金剛輪院に名称がうつされ、現在に至っています。醍醐寺の塔頭の一で上醍醐寺の本坊です。
応仁の乱の兵火で焼失しましたが豊臣秀吉により再建された為に桃山建築の美しさがあり特別史跡、特別名勝に指定されている庭園は、慶長3年(1598年)、豊臣秀吉が「醍醐の花見」に際し、庭奉行・竹田梅松軒などに命じて築庭させました。藤戸石(ふじといし=千石石(せんごくいし))は聚楽第より運ばれた名石です。又、桃山時代の豪華な襖絵や障壁画で飾られた葵の間、秋草の間、勅使の間(ともに重要文化財)、表書院(国宝)があります。
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水掛不動(弥勒菩薩など5体の銅像) |
上醍醐(西国11番札所)登り口 |
三宝院 |
太田垣蓮月仮寓(かぐう)跡 |
太田垣蓮月は、伊賀上野の城代家老・藤堂氏の子として京都三本木に生まれ名を誠(のぶ)と言います。知恩院寺侍・大田垣光吉の養女となり、2度結婚したが、どちらの夫とも死別し、前後して4人の実子も相次いで失い33歳で出家し蓮月尼と称しました。孤独を求めて岡崎、西賀茂などを転々と住まいを移りましたが、ここもその一つで歌を詠み陶器を焼いて静かに余生を送ったと伝わります。
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玄関(三宝院) |
風情があるとです・・・石畳みの参道 |
太田垣蓮月仮寓(かぐう)跡 |
善願寺(腹帯地蔵尊) |
近江国・坂本の聖衆来迎寺(地蔵教院)の末寺として創建。長保年間(999〜1003年)、恵心僧都源心を招き当地で再興されました。地蔵菩薩坐像(腹帯地蔵)は、重要文化財で鎌倉時代の作と伝わります。寺伝によれば、平重衝(しげひら)が生まれる時、安産を祈願の為に建立されたと伝わる。安産祈願の信仰があります。境内には樹齢千年を下らないといわれる栢(かや)の木に先の住職によって彫られた「栢(かや)の木不動」と呼ばれる不動明王があります。昔、この木から幽霊が出て街道を行く人々を怖がらせたと伝えます。
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善願寺(腹帯地蔵尊) |
平戸樋門と澱川鉄橋(宇治川) |
Tourist
2005.6.20(M)
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