夢幻コラム]【白河・鳥羽・後白河院三代院政の地・伏見鳥羽離宮】

 

雁さわぐ 鳥羽の田づらや 寒の雨  芭蕉

 

平安末期、藤原摂関政治〜上皇による院政、そして武士の政界進出へ・・当時、都遷りの賑わいと称された鳥羽殿の栄華を追って・・・

白河、鳥羽、後白河上皇院政の地・鳥羽離宮

鳥羽離宮は平安時代後期の応徳3年(1086年)、白河天皇が藤原季綱(すえつな)から献上された鳥羽の地に後院として造営を始め、鳥羽上皇が継承して完成させました。規模は約100町と伝え、1町とは1辺が約109mで面積が11,881u(約3,600坪)になり、100町といえば、約36万坪にもなる広大な離宮でした。半分近くが池で、河川海などの水運交通の拠点、都への陸運交通の玄関として物流拠点、経済拠点でもありました。現在、鳥羽離宮遺跡は国指定史跡で鳥羽離宮遺跡と伝える「竹田四十八塚」と三ヶ所の「陵墓参考地」となっていますが宅地開発なとで現存が少なく竹田在住のF.Y君や紹介頂いた竹田の長老さん達にご協力頂き、どうにかこれだけの塚など鳥羽離宮遺跡を探訪できました。現在、鳥羽離宮の往時を偲べるのは、安楽寿院や城南宮界隈などで竹田、下鳥羽界隈は、王朝貴族の文化を漂わせる平安貴族、皇族にも所縁のある土地です。

鳥羽離宮跡全景(イメージ図)

下鳥羽、竹田にある鳥羽離宮遺跡と伝える竹田四十八塚、三つの陵墓参考地などを探訪

鳥羽離宮遺跡図

北向不動院道標石

近衛、鳥羽、白河天皇御陵道標石

かつて、白河・鳥羽・後白河帝三代が院政を執った鳥羽離宮跡とその庭園解説

北向不動院迄の道標ですが近鉄の踏み切り内にあります。

近衛、鳥羽、白河天皇陵迄の道標ですが近鉄の踏み切り内にあります。

近衛、鳥羽、白河天皇御陵道標石

山王権現大宮社の跡碑

南天塚跡碑

近鉄の踏み切り内にあり保線員の方達に許可を得て線路内に入って撮影しましたが途中特急が通過するなど迫力満点でした?!(^▽^;)

保延元年(1135年)、鳥羽上皇が鳥羽離宮内に山王権現大宮社を勧請しました。最盛期には社領もあり、例祭には神輿が御旅所に渡興したり催馬楽や走馬も催されたと伝わります。明治13年(1880年)、廃社に伴い山王七社の神像を北向山不動院に移し、現在は竹田小学校になっています。

竹田四十八塚として竹田には古来、多くの古墳が散在している一つで詳細は不明ですが鳥羽離宮遺跡とも伝わります。

国分寺跡辺り

猿塚の跡

御幸ノ森跡

山城の国分寺は南山城(相楽郡瓶原:みんのはら)の恭仁宮跡地にありましたが江戸時代にもこの地を山城国分寺の跡と称され現に安楽寿院にこの寺の木額を有し、その旧仏と伝わる宝冠阿弥陀坐像(藤原初期)を安置している事から後世、当地に寺名を移したと伝わります。明治7年(1874年)、廃寺になり安楽寿院に合祀されています。

猿塚(申塚)は竹田四十八塚として旧竹田村地域に散在している墓塚の一つで山王権現の猿を産土神とした猿塚を示すもので何故か民家の庭内にあります。鳥羽離宮遺跡とも伝わり鳥羽上皇が保延元年(1135年)、鳥羽離宮内に山王権現大宮社を勧請しましたが明治13年(1880年)に廃社となり、山王七社の神像を北向山不動院に移し、跡地は竹田小学校になっています。

御幸の森は竹田四十八塚として旧竹田村地域に散在している墓塚の一つの「社の神塚」とも考えられています。詳細は不明ですが鳥羽殿の遺跡とも伝えます。

中宮塚

金剛心院塚(後宮塚とも称する?)

成菩提院塚

詳細は不明ですが鳥羽離宮遺跡の1つで現在陵墓参考地となっています。鳥羽離宮跡は国指定史跡です。

詳細は不明ですが鳥羽離宮遺跡の1つで現在陵墓参考地となっています。白河院没後、鳥羽上皇も引き続き28年間院政を行ったが、その時建てられたのが田中殿(御所)であった。田中殿は皇女八条院の御所として鳥羽上皇が造り、金剛心院は田中殿内にあった御堂でした。鳥羽離宮跡は国指定史跡です。

詳細は不明ですが鳥羽離宮遺跡の1つで現在陵墓参考地となっています。鳥羽離宮跡は国指定史跡です。

式内真幡寸(まはたぎ)神社跡碑(若宮宮)

近衛天皇安楽寿院南陵(多宝塔)

車塚跡碑(現在不明)

真幡寸神社は鳥羽真幡木里にあったと云われ秦氏の氏神と考えられ平安京遷都時(794年頃)の創建と伝える。弘仁7年(816年)、官社に列した延喜式内社でした。応徳3年(1086年)、本社を中心に鳥羽離宮が造営されました。真幡寸神社は、明治10年(1877年)、城南宮に合祀され現在に至ります。

平安京の羅城門(正門)から「鳥羽の造り道(つくりみち:鳥羽街道)」を南進すると当地界隈に出ます。この所以から鳥羽離宮を城南(せいなん)離宮と称したと伝わります。鳥羽離宮として往時を偲べるのが安楽寿院です。安楽寿院は、鳥羽離宮の東殿でしたが、保延3年(1137年)、覚行法親王が寺院に改めました。

「竹田四十八塚」として竹田に散在している一つで鳥羽離宮遺跡とも伝わります。元は竹田三坑町にありましたが、いつしか当地に移され現在は所在地不明です。石碑には「鳥羽離宮より東山へ 花見の宴に御幸の白河法皇 裾野の外れたりし当所に輦(車)を駐め 桜花を愛で給う」と記されています。

安楽寿院

明治天皇御小休所安楽寿院石碑

三宝荒神社

本尊は鳥羽上皇の念持仏と伝わる阿弥陀如来座像(重要文化財)で、本堂、諸塔などは 後世の再建ですが、この本尊だけは台座の 修理銘により平安時代後期、造営当時の 本尊と伝わります。胸に卍が刻まれてある事から「卍の阿弥陀」とも知られています。鳥羽上皇が東殿の境内に建立した御堂など「鳥羽伏見の戦い」時、薩長軍の本営となった寺院です。 明治5年(1872年)5月23日、明治天皇は行幸で伊勢、大阪を経て入洛し6月4日、再び大阪へ行幸途中に安楽寿院で休憩されました。 保延3年(1137年)、落慶し何度も火災に遭いました。天文17年(1548年)の火災では伽藍の大部分を焼失しました。慶長11年(1606年)の復興時に火災に遭わないようにと荒神を勧請されました。以後の400年間は一度も火災に遭っていません。火難消除の神として信仰されています。

三尊石仏の祠

薬師三尊石仏

釈迦三尊石仏

薬師三尊石仏、釈迦三尊石仏は質素な祠にありますが、平安時代(藤原時代)の作で薬師、釈迦、阿弥陀三尊の3面が江戸時代に出土し松香石で創られています。阿弥陀三尊石仏は京都国立博物館に保管されています。これら石仏には石仏の体を削って水で練り、子供の顔や体に塗るとクサが治癒するという信仰、歯痛治癒の信仰があった為に削られ結構傷んでいます。平癒のお礼に土団子を竹の皮に包み供える風習があったとも伝わります。

安楽寿院遺跡発掘現場

石碑積場?

安楽寿院西側の遺跡発掘調査現場です。

安楽寿院北側にあり、所在不明の石碑などあるかと思いましたが・・・重すぎて分からず?!

『保元の乱合戦図屏風』 メトロポリタン美術館所蔵

朝廷の政権争いが招いた保元(ほうげん)の乱は、政権が朝廷から武士へ推移(摂関政治→院政→武家政治)していくきっかけとなった。

保元の乱・・・平安時代末期の保元元年(1156年)7月、皇位継承問題や摂関家の内紛により崇徳上皇と後白河天皇、そして摂関家では藤原頼長と忠通が対立。崇徳上皇・頼長側は源為義・平忠正軍を招き、後白河天皇・忠通側は平清盛・源義朝軍を招いて交戦したが、崇徳上皇側が敗れ、上皇は讚岐(さぬき)に流された。朝廷の政権争いは結果として貴族の無力化と武士の実力を示した一戦となり、武士の政界進出を促した。 崇徳天皇の退位、近衛天皇へ譲位・・・永治元年(1141年)12月7日、鳥羽法皇は待賢門院(藤原璋子)との子・崇徳天皇を退位させ、寵愛する美福門院(藤原得子)との子・体仁親王(近衛天皇)を僅か3才で即位させた。体仁親王は崇徳中宮・藤原聖子の養子で皇太子のはずだったが、譲位の宣命には皇太弟と記されていた(『愚管抄』)。天皇が弟では将来の院政は不可能であり、崇徳帝にとってこの譲位は大きな遺恨となった。翌年、得子呪詛の嫌疑で待賢門院は出家に追い込まれ、崇徳の外戚である閑院流勢力は後退した。中御門流や村上源氏の公卿は得子とその従兄弟で鳥羽法皇第一の寵臣といわれた藤原家成に接近し、朝廷は待賢門院派と美福門院派に二分された。両派の対立は人事の停滞を招き、保延4年(1138年)に藤原宗忠が辞任してからは右大臣、久安3年(1147年)に源有仁が辞任してから左大臣も空席となり、大臣は一人(内大臣・藤原頼長)になった。  摂関家の内紛・・・白河院政下で逼塞していた摂関家は、鳥羽院政が開始されると藤原忠実の娘・藤原泰子(高陽院)が鳥羽上皇の妃となり息を吹き返した。関白・藤原忠通は後継者に恵まれなかったため、異母弟・頼長を養子に迎えた。しかし、康治2年(1143年)に基実が生まれると、忠通は摂関の地位を我が子に継承させようと望み、忠実・頼長と対立することになる。久安6年(1150年)正月4日、近衛天皇は元服の式を挙げ、同月10日に頼長の養女・が入内、19日に女御となる。しかし、2月になると忠通は藤原伊通の娘・呈子を養女に迎え、鳥羽法皇に摂関以外の者の娘は立后できない。と奏上した。呈子は美福門院の養女で、忠通は美福門院と連携することで摂関の地位の保持を図ったと考えられる。鳥羽法皇はこの問題に深入りすることを避け、多子を皇后、呈子を中宮とすることで事を収めようとしたが、忠実・頼長と忠通の対立は修復不可能となっていた。同年9月、激怒した忠実は摂関家の正邸である東三条殿や宝物の朱器台盤を接収し、氏長者の地位を剥奪して頼長に与え、忠通を義絶する。鳥羽法皇は先の入内問題と同じく曖昧な態度に終始し、忠通を関白に留任させる一方で頼長の宣旨を下す。ここに関白と内覧が並立する異常事態となった。 保元の乱へ・・・鳥羽法皇が崩御して程なく、事態は急変。7月5日、「上皇左府同心して軍を発し、国家を傾け奉らんと欲す」という風聞に対応するため、勅命により検非違使・平基盛(清盛次男)、平維繁、源義康が召集され、京中の武士の動きを停止する措置が取られた(『兵範記』7月5日条)。翌6日には頼長の命で京に潜伏していた容疑で、大和源氏の源親治が基盛に捕らえられている(『兵範記』7月6日条)。法皇の初七日の7月8日には、忠実・頼長が荘園から軍兵を集めることを停止する後白河天皇の御教書(綸旨)が諸国に下されると同時に、蔵人・高階俊成と源義朝の随兵が東三条殿に乱入して邸宅を没官した。没官は謀反人に対する財産没収の刑であり、頼長に謀反の罪がかけられたことを意味する。藤原氏長者が謀反人とされるのは前代未聞で、摂関家(『兵範記』の記主)は「子細筆端に尽くし難し」と慨嘆している(『兵範記』7月8日条)。この一連の措置には後白河天皇の勅命・綸旨が用いられているが、実際に背後で全てを取り仕切っていたのは側近の信西と推測される。この前後に忠実・頼長が何らかの行動を起こした様子はなく、武士の動員に成功して圧倒的優位に立った後白河・守仁陣営があからさまに挑発を開始したと考えられる。忠実・頼長は追い詰められ、もはや兵を挙げて局面を打開する以外に道はなくなり崇徳上皇VS後白河天皇間で保元の乱が勃発し、政治は貴族から武士へ(摂関政治→院政→武家政治)推移していく。

鳥羽、白河法皇院政之地碑

冠石

鳥羽天皇安楽寿院陵

鳥羽上皇が三代(崇徳・近衛・後白河天皇の御代28年間)に渡って院政を執り行った離宮としても知られ、貴族から使用人に至るまで宅地が設備され、その様は「あたかも都遷 (みやこうつり)の如し」と記されています。広大な敷地に鳥羽殿と云われた東殿、南殿、北殿、泉殿、馬場殿、田中殿などが造営されました。冠石は保延7年(永治元年:1141年)、鳥羽上皇が法皇になった時この石の下に冠を埋めたと伝わります。上皇が出家されると法皇(法王)と称します。

鳥羽天皇は鳥羽上皇となり白河上皇の院政を引き継ぎ ました。崇徳帝を退位させて 籠妃・美福門院が、生み奉った近衛天皇を3歳で即位させ、一方では後白河天皇を擁立するなど保元の乱因を作った事でも史上有名な天皇で保元元年(1156年)、鳥羽殿にて崩御されました。鳥羽離宮の金剛院別当となった所以から鳥羽僧正とも云われカエルやウサギを人物に見立てた絵巻物「鳥獣戯画」を描いた人として有名ですが戯画に鳥が全く描かれず「鳥羽戯画」が正しいという説もあります。

ファイル:Emperor Sutoku2.jpg ファイル:Sotoku invoking a thunder storm.jpg

現世では玉座を追われた崇徳院だったが、魔界では最強の怨霊に君臨した?!

保元の乱が終戦し、崇徳院は罪人として扱われた事が後白河天皇方の勝利を高らかに宣言した宣命(『平安遺文』2848)に表れている。崇徳院が讃岐国で崩御した際も、「太上皇無服仮乃儀(太上皇=崇徳上皇)、服仮(服喪)の儀なし)」、『百錬抄』)と後白河院はその死を無視、「付国司行彼葬礼、自公家無其沙汰(国司を付けてかの(崇徳上皇)の葬礼を行い、公家よりその沙汰なし)」『皇代記』)とあるように国司によって葬礼が行われただけで、朝廷による措置はなかった。崇徳院を罪人とする朝廷の認識は、配流された藤原教長らが帰京を許され、藤原頼長の子・師長が後白河院の側近になっても変わらなかった。当然、崇徳院の怨霊についても意識されることはなかったが安元に状況は一変する。この年は延暦寺の強訴、安元の大火、鹿ケ谷の陰謀が立て続けに起こり、社会の安定が崩れ長く続く動乱の始まりとなった。『愚昧記』安元3年5月9日条には「讃岐院ならびに宇治左府の事、沙汰あるべしと云々。これ近日天下の悪事彼の人等所為の由疑いあり」とあり、以降、崇徳院の怨霊に関する記事が貴族の日記に頻出するようになる。『愚昧記』5月13日条によると、すでに前年には崇徳院と藤原頼長の怨霊が問題になっていたという。安元2年(1176年)は建春門院・高松院・六条院・九条院が相次いで死去。後白河院や忠通に近い人々が相次いで死去したことで、崇徳や頼長の怨霊が意識され始め、翌年の大事件続発がそれに拍車をかけたと思われる。崇徳院の怨霊については、『吉記』寿永3年(1184年)4月15日条に藤原教長が崇徳院と頼長の悪霊を神霊として祀るべきと主張していたことが記されており、かつての側近である教長がその形成に深く関わっていたと見られる。精神的に追い詰められた後白河院は怨霊鎮魂のため保元の宣命を破却し、8月3日には「讃岐院」の院号を「崇徳院」に改められ、頼長には正一位太政大臣が追贈された(『百錬抄』)。寿永3年(1184年)4月15日には保元の乱の古戦場である春日河原に「崇徳院廟」(のちの粟田宮)が設置された。この廟は応仁の乱後に衰微し天文年間に平野社に統合された。また崩御直後に地元の人達によって御陵の近くに建てられた頓証寺(現在の白峯寺)に対しても官の保護が与えられたとされている。怨霊としての崇徳院のイメージは定着し、近世の文学作品である『雨月物語』(「白峯」)、『椿説弓張月』などにも怨霊として描かれている。その一方で後世には、四国全体の守り神であるという伝説も現われるようになる。承久の乱で土佐国に流された土御門上皇(後白河院曾孫)が途中で崇徳天皇の御陵の近くを通った際にその霊を慰めるために琵琶を弾いたところ、夢に崇徳天皇が現われて上皇と都に残してきた家族の守護を約束。その後、上皇の遺児であった後嵯峨天皇が鎌倉幕府の推挙により皇位に就いたとされている。また、室町幕府の管領・細川頼之が四国の守護となった際に崇徳天皇の菩提を弔ってから四国平定に乗り出して成功して以後、細川氏代々の守護神として崇敬されたと言われている。明治天皇は崇徳天皇の怨霊は、天皇が表舞台に立った時に登場するので、明治元年(1868年)、自らの即位の礼を執り行うに際して勅使を讃岐に遣わし、崇徳天皇の御霊を京都へ帰還させて崇徳天皇の陵墓のある白峯山の名前をとって白峯神宮を創建した。昭和天皇も崇徳天皇八百年祭に当たる昭和39年(1964年)に、香川県坂出市の崇徳天皇陵に勅使を遣わして式年祭を執り行わせている。

碁盤の梅(鳥羽天皇安楽寿院陵)

五輪石塔

法華堂の右横にある梅は、当時、僧侶や役人らが碁ばかりして気風が乱れ、碁を禁止して碁盤を埋めその上に梅木を植えて戒めたと云う。見えにくいですが、写真の松の後辺りです。

五輪の石塔は如法経塚とも云われ鳥羽上皇が如法経を埋めたと伝わります。弘安10年(1287年)の年号が刻まれています。約3mもあり鎌倉時代の五輪塔で重要文化財に指定されています。微かに読める刻字から、阿弥陀信仰によって建立されたと言われています。

北向山不動院

千手観音、虚空蔵、文殊、普賢菩薩

鳥羽上皇により大治5年(1130年)に建立された。不動明王像を建立し、王城鎮護(平安京鎮護)を祈願し、北向きに安置したと伝わる。応仁の乱ので焼失し、現在の本堂は、正徳2年(1712年)、東山天皇の旧殿が、移築され、ご本尊は、伝教大師作・不動明王坐像が、都の南にあたる為に北向きの都を守る寺として播磨国大国庄に寺領千石を賜り、北向きに安置したと伝えます。山門を潜ると東側に千手観音、虚空蔵(こくうぞう)、文殊、普賢菩薩が鎮座しています。

金剛不動明王

軍荼利(ぐんだり)明王

真北を向いている本堂

応仁の乱で焼失し、現在の本堂は正徳2年(1712年)、東山天皇の旧殿が移築され、本尊は、伝教大師作と伝える不動明王坐像が、安置されています。

地蔵尊堂

地蔵菩薩

六体地蔵尊

多数の不動尊、明王だけでなく地蔵尊も祀られています。

大日如来、弁財天、阿弥陀如来

金剛夜叉明王

降三世夜叉明王

境内には弁財天、阿弥陀如来、大日如来の他に軍荼利(ぐんだり)、金剛夜叉、降三世(ごうさんぜ)夜叉の各明王。荼枳尼天(だきにてん)、山王大権現、火頭烏素慧麼明王(かずうすさまみょうおう)、布袋(ほてい)、地蔵菩薩など多数鎮座しています。

鳥羽上皇寵愛の松

洗心井(せんしんい)と御滝

鳥羽上皇の手植えで寵愛したと伝える松

洗心井(せんしんい)という井戸があり名水として知られています。傍にお滝業場もあります。

白河天皇成菩提院陵

西行寺跡碑(火消地蔵堂)

鳥羽離宮田中殿跡碑

当地は藤原季綱(すえつな)の領地でしたが応徳3年(1086年)、季綱が白河天皇に献上し白河天皇が退位後の院として鳥羽離宮を造営しました。白河上皇、鳥羽上皇、後白河上皇の院政の地となりました。平清盛が後白河上皇を鳥羽殿に幽閉し院政は一旦中断しました。源平の争乱、南北朝の争乱など兵火に遭う事が多く急速に衰退したと伝えます。

口碑によれば西行法師が佐藤義清(のりきよ)と称し鳥羽殿の北面の武士であった頃の宅跡と伝えます。江戸時代、一宇の草庵があり境内には月見ノ池や剃髪塔などがありました。明治11年(1878年)、東竹田の観音寺に併合されました。観音寺には西行法師坐像が安置されています。

白河上皇没後、鳥羽上皇も継承し28年間に亘り院政を執りました。当時に建てられたのが田中殿でした。田中殿は皇女・八条院の御所として鳥羽上皇が造営し殿内には御堂(金剛心院・阿弥陀堂)などが附属していました。

南の守護神・朱雀・・・城南宮【方除け、鬼門除け、旅行安全】

上古の時代、神功皇后は出陣に当たり、軍船の御旗に八千矛神を招き寄せて戦勝を祈願され、戦が終わると御旗は宮中で大切に保管されていました。桓武天皇が平安京に都を定めた時、御旗を城南の当地に御神体として納め、八千矛神(やちほこのかみ=大国主命:おおくにぬしのみこと)、国常立尊(くにのとこたちのみこと)、息長帯日売命(おきながたらしひめのみこと=神功皇后:じんぐうこうごう)の三柱、伊勢、石清水神社など七社が合祀されました。創祀については不詳で平安遷都に際し、王城の守護神として創祀されたとも城南寺の鎮守として創祀されたとも伝えます。応徳3年(1086年)、鳥羽離宮が造営されると社寺は域内となり競馬は離宮の年中行事となり、祭礼に日に行われる競馬がいかに盛大なものであったかは承久の変の時、後鳥羽上皇が城南寺の流鏑馬(やぶさめ)に託して、密に鎌倉幕府打倒の兵を集めた事に想像されます。応仁の乱後、離宮は荒廃し城南寺も退転したが神社だけが残りました。中世以降、上鳥羽、下鳥羽、竹田の産土神として崇敬され特に方除けの神として信仰を集めています。御旗の日月星の紋章が城南宮の三光の神紋の由来と伝えます。

鳥居

城南宮石碑と黄桜

社務所

城南宮の名庭「洛水苑」

社殿を取り巻く約1万坪(33,000u)の社苑は、春の山(本殿西側)、平安の庭(本殿東側)、室町・桃山の庭(本殿南側)と繋がり、総称して楽水苑(らくすいえん)と称します。

平安の庭

室町・桃山の庭

往時の離宮を表した城南離宮の石庭など創意工夫された名庭は見事で貴族に扮した人達が「遣水(やりみず)」と呼ばれる曲がりくねった小川の畔に座して上流から流れてくる朱色の酒杯が目前にくるまでに、一首詠んで短冊にしたため、酒を飲みます。流れの上手の者が上の句を詠んで流し、下手にいる者がそれを受け下の句を詠む「曲水の宴(うたげ)」が、平安の庭において春(4月29日)と秋(11月3日)に行なわれ、王朝の雅を再現します。平安末期、当地に白河上皇が鳥羽離宮を造営し院政を執りました。城南宮は平安京、離宮の守護神として崇められ梅・桜・つつじ・藤・ササユリが美しく「源氏物語」に因む草花が約100種類あり、平安植物園の様ですが今は梅がチラチラ程度咲いていました。

真幡(まはたぎ)神社

芹川(せりかわ)神社

三照宮社(城南宮)

明治10年(1877年)、延喜式内真幡寸神社と して公定された後、昭和40年(1965年)城南宮に名復しており、社伝とは少々異なる事になるのですが・・・

絵馬舎

鳥居

手水舎

城南(鳥羽)離宮は都を凌ぐほど賑わったといわれ院や上皇は熊野を初めとする物詣でにあたり城南宮を方除けの為の御幸や精進所としたので方除信仰の対象になりました。「吏部王記」(りほうおうき)に延長3年(925年)8月、城南寺祭行幸との記述が残ります。祭の一つに城南寺明神御霊会と云われ、降雨祈願、競馬(くらべうま)、流鏑馬(やぶさめ)が催されました。承久3年(1221年)、後鳥羽上皇が鎌倉幕府打倒を画策し、流鏑馬に乗じて密かに兵を集め挙兵、「承久の乱」に敗れ隠岐に流されました。歌人としても優れ、「後鳥羽院御集」、「遠島百首」等の歌集がある。

菊水井

神輿倉

拝殿

江戸時代の随筆に「城南宮の菊水(延命水・若水ともいう)の水を飲むと、病が治るというので参詣者が絶えない。」と記されています。

拝殿

神 楽 殿

本 殿

平安庭の豊かな緑に臨んで寝殿造りを模した神楽殿が平成8年(1996年)に完成しました。流れ造りの本殿、変形入母屋造りの前殿、そして左右に伸びる翼廊が一体となった城南宮独特の複合建築。総檜造り。檜皮葺の緩やかに流れる屋根、飾り金具の細部に至るまで平安時代後期の様式に統一され優美な姿を見せています。

本 殿

末社(庚申、稲荷、粟島社)

末社(住吉、大黒、春日、大杉社)

鳥羽離宮パノラマ(全景) 当地から出土した瓦
鳥羽離宮の採掘調査の折に次々と出土した瓦
鳥羽離宮南殿

南殿は、最初に作られた離宮御所で証金剛院がありました。後に新しく作られた御所を北殿と呼ぶのに対して、南殿と呼ばれました。現在、南殿跡は、鳥羽離宮公園として整備され公園の北側には、離宮の築山遺構と伝える秋の山が残っています。

鳥羽伏見の戦い勃発地 鳥羽伏見戦跡碑(旧小枝橋) 鳥羽離宮跡公園
鳥羽伏見戦跡碑

鳥羽伏見戦跡碑(鳥羽離宮跡公園:秋の山)は、戊辰戦争の発端となった鳥羽伏見の戦いを記念し、明治45年(1912年)2月、有志によって建立され小牧昌業の撰文、小田得多の筆による碑です。

鳥羽伏見の戦い碑 鳥羽離宮の秋の山と鳥羽伏見戦跡碑(鳥羽離宮跡公園)
飛鳥田(あすかだ)神社
創建等の由緒が一切不明の荷田竜頭之遠祖霊(かたりゅうとうのえんそのれい)を祭神とする式内社(旧無格社)です。
鳥羽離宮南殿跡碑 飛鳥田神社
松尾神社

祭神は木花咲那姫命(このはなさくやひめのみこと)で鎮座の縁起は不詳です。当地を野田村(深草南西部)と称した頃の鎮守社で当地で一番高い現在地に祀るようにと神託があったと伝える。神得は火の神、水の神、安産の神として崇敬され女性の参拝者が多いです。

松尾神社

神馬像

2012.07.17(M) 加筆

☆ 参考資料:京都魔界案内

京都府の歴史散歩(上)、(中)、(下)

Wikipedia (ウィキペディア)

所持資料etc

 

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