西国街道「長岡京道」散策その2
桓武天皇のミステリー探訪など・・・城南宮〜誕生寺〜久我神社〜長岡京散策
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高麗門(粟生光明寺) |
本堂(粟生光明寺) |
法然上人が最初に念仏の教えを説いた浄土門根元地。参道両側の紅葉の見頃は見事で、毎年盛大な紅葉祭りが催されます。 |
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八条ヶ池(長岡天満宮) |
太鼓橋(長岡天満宮) |
菅原道真が大宰府に左遷される時に名残を惜しんだ地で「我が魂長くこの地に留まるべし。」と言い残したと伝わります。4月下旬になると樹齢100数年という霧島つつじが、咲き乱れます。 |
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JR東海道本線(京都線:サンダーバード) |
JR東海道新幹線(のぞみ500系) |
大阪〜富山方面を結ぶ特急で東海道・湖西・北陸本線を130km/h前後で走行し、小改造で160km/h走行も可能な性能をもち関西圏と北陸圏の輸送時間を大幅短縮しました。 |
世界最高営業運転速度の300km/hで平成9年(1997年)3月から新大阪〜博多を最速2時間17分で結び平成9年(1997年)11月から東京〜博多を結んでいます。500系の車体特徴は先頭部分が15mのロングノーズです。 |
桓武天皇のミステリーを探訪しに伏見・城南宮〜誕生寺〜久我神社〜長岡京などを散策してきました。 長岡京市は社寺領域の広い社寺が多く長岡天満宮の霧島つつじは見頃を過ぎていましたが大池の八条ヶ池に癒されました。 |
粟生光明寺(あおうこうみょうじ) |
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報国山と号する西山浄土宗の総本山で粟生光明寺と称され法然上人の廟所がある所として最も重んぜられています。法然上人の廟所は初め東山大谷にあったが安貞元年(1227年)、比叡山の僧徒にあばかれようとしたので遺弟らによって遺骸を太秦・来迎院に移し、次いで当地において荼毘に付し遺骨を納めて宗廊を築く時、法然上人の石棺から光明を放ち光明寺と名付けたと伝わります。当地は法然の徒弟・熊谷蓮生房(俗名・次郎直実)が建久年間(1190〜98年)、一宇の草庵をむすび、念仏三昧院と号し浄土往生を広めた所で、後に蓮生の徒弟・幸阿弥陀仏(こうあみだぶつ)に付与され、更に西山証空上人が入寺するに及んで西山派の根本道場となりました。当地は小塩山の支峰・鳥ヶ嶽麓に広大な地を占め、本堂以下多くの建物を有しますが、いずれも江戸時代以降の建造物です。 |
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光明寺門前 |
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高麗門 |
参道の石畳 |
山門跡 |
本堂 |
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一に御影堂ともいい、法然像を安置し世に「張抜の御影」と称され、上人の生母の消息文を張り合わせて作成されたと伝わります。脇壇に安置する千手観音立像(重文:貞観期)は元、観音堂にあったものと伝え、重厚で顔に一抹の明るさがあり衣文も貞観式の見事なものです。但し、脇手の千手は後補でいずれかの廃寺の遺仏を移した物であろうと言われます。 |
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参道の石畳 |
本堂 |
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法然上人石棺 |
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上人の遺骸を火葬後、空棺をここに移したもので蓋が縄掛突起のある組み合わせ式石棺であるのが注目される。開山廟後方の法然廟碑塔(文化年間建立)、台石もこの付近から発掘された石棺を利用したもので古墳時代の遺物として注目されています。 |
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法然上人像 |
法然上人石棺 |
阿弥陀堂 |
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子安地蔵尊 |
納骨堂への階段 |
法然廟所、開山廟塔碑への階段 |
方丈 |
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一に釈迦堂とも称され堂内に安置する釈迦立像は頬に焼け跡があるのて「頬焼如来」、「御鉢の釈迦」とも呼ばれています。 |
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方丈、書院、庫裡、法然火葬跡など |
鐘楼 |
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法然上人袈裟祇之松 |
本堂 |
観音堂 |
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石畳の参道 |
高麗門から見た伏見方面 |
走田神社一の鳥居 |
長岡天満宮 |
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一に長岡天神ともいい、菅原道真を祭神とします。社伝によれぱ昌泰4年(901年)、道真が筑紫左遷時に随従の中小路祐房に与えた自画像を安置して祀った事が当社の縁起と伝えます。洛南、特に桂川流域には道真の遺蹟、伝説が多くいずれも道真の遺徳を追慕して後に作られたもので当社もその一つです。中世その沿革を明らかにしないが江戸時代に当地が八条宮(桂宮)智仁親王の領地であった関係から同宮の崇敬を受け延宝4年(1676年)、社殿を改築し霊元天皇の勅額を賜りました。現在の本殿は、昭和16年(1941年)、平安神宮の社殿を移築したものです。 |
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長岡天満宮北参道 |
八条ヶ池 |
太鼓橋 |
大鳥居(正面参道) |
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総御影石製の大鳥居は、平成14年(2002年)、菅公御神忌1100年大萬燈祭を奉賛して、平成10年(1998年)10月に奉納 された石の大鳥居です。 |
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大鳥居(正面参道) |
八条ヶ池 |
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八条ケ池 |
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八条ケ池は、寛永15年(1638年)、当時の領主・八条宮智仁親王(桂宮)が灌漑用の溜め池を改造成した大池で八条ヶ池を二分する中堤は参道になっています。中堤道両脇に推定樹齢百数十年の霧島つつじ(市指定天然記念物)が群生し、八条ヶ池の中堤道の真中道に架かる石の太鼓橋は加賀藩・前田候の寄進と伝わります。 |
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太鼓橋 |
あやめ群 |
八条ヶ池ふれあい回遊のみち(水上橋) |
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八条ヶ池ふれあい回遊のみち(水上橋) |
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八条ケ池ふれあい回遊のみち(水上橋) |
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菖蒲群 |
参道 |
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官公御詠石碑 |
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境内参道の石段脇に菅原道真が「うみならず たたへる水の そこまでも きよき心は 月ぞてらさむ」と詠んだ歌を刻んだ石碑が建てられています。 |
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石碑の庭 |
参道 |
菅公の歌碑 |
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境内 |
拝殿、本殿 |
道真ゆかりの牛 |
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手水舎 |
八幡社、春日社 |
拝殿 |
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拝殿 |
道真ゆかりの牛 |
境内 |
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絵馬堂 |
拝殿、本殿 |
長岡稲荷大明神 |
長岡稲荷大明神 |
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明治33年(1900年)に建立された稲荷社で祭神は五穀豊穣、商売繁盛の神と称えられる倉稲魂神猿田彦命、大宮女神です。 |
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長岡稲荷大明神 |
松尾社、天満社(右) |
手水舎 |
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境内 |
酒樽奉献舎 |
参道 |
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参道 |
笠松地蔵尊御出現之地碑 |
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笠松地蔵尊祠 |
弁天堂 |
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蓮池跡 |
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延暦13年(794年)10月、桓武天皇は長岡京を廃し、平安京に遷都しました。廃都になった長岡京は、急速に田園風景へと変貌しました。廃都後は長岡京の土地などを国家機関に払い下げる事から始められ、延暦14年(795年)、長岡京左京三条一坊八町、九町、十五町、十六町、二坊三町、四町、六町を勅旨所の藍畑に、三条一坊十町を近衛府の蓮池にした事などが記されています(類聚三代格)。現在、蓮池辺りはJR向日町操車場となっています。 |
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阪急電鉄(京都線) |
」JR東海道本線(京都線:向日町操車場) |
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JR東海道本線(京都線:向日町操車場) |
JR東海道新幹線 |
桂川、鴨川合流地点(羽束師橋:草津の湊) |
草津の湊 |
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下鳥羽は、古くは草津と言い、木津、今津とも言われ船で西国に向かう人達の乗船地でした。延喜元年〔901年〕、太宰府へ流された菅原道真、保元元年(1156年)、讃岐国へ流された崇徳上皇、治承4年(1180年)、厳島神社へ行幸の高倉天皇、建永2年(1207年)、法然上人が讃岐国へ流された時も当地より乗船したと伝わります。又、瀬戸内海の鮮魚などが陸揚げされ都に運ばれた水路、陸路交通の中継地として重要だった河川港でした。 |
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桂川の夕陽(羽束師橋:草津の湊) |
新大手橋の夕陽(高瀬川) |
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Tourist 2004.05.24(M) |
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