明智越えチャリチャリ探訪

 

山里は 冬ぞさびしさ まさりける 人めも草も かれぬと思へば  源宗干朝臣

 

御香宮〜伏見桃山城〜古御香宮〜大乗寺〜南禅寺

 

徳川御三家の産土神(うぶずながみ)・御香宮神社

貞観4年(862年)9月9日、境内に清泉が湧き出し四方に水が香り病者が、この水を服用すればたちどころに病気が完治すると云われた。清泉を神格化した神社の1つです。祭神は、神功皇后、仲哀、応神両天皇とされています。旧伏見町の産土神で古来から信仰されている洛南屈指の大社です。豊臣秀吉は、征韓の役に際し肥前長光(重要文化財)の名刀を戦勝祈願時に奉納し今も社宝とされています。伏見城築城に際し深草大亀谷に移され城惶神(伏見城の鬼門除けの守護神)とし社領300石を寄進されました。その後、慶長10年(1605年)に徳川家康によって現在地に移され、徳川御三家(尾張・紀伊・水戸藩)藩祖と二代将軍・秀忠の娘(千姫)らが伏見で誕生し、御香宮を産土神(うぶずながみ)として社領も豊臣秀吉同様の深草地方など300石が与えられました。豊臣秀吉、徳川家康を始めとし特に徳川御三家藩祖らが特別の崇敬を払った洛南最大社です。

大鳥居

徳川頼房(水戸藩祖)が寄進した表門(重文:桃山期)

境内の様子・・・

表門(伏見城大手門 重文:桃山期)、割拝殿(府指定文化財:桃山期)、本殿(重文:桃山期)、千姫神輿

表門・・・元和8年(1622年)、徳川頼房(水戸藩祖、水戸黄門の父)が伏見城の大手門を拝領して寄進しました。三間一戸、切妻造(きりもやづくり)、本瓦葺、薬医門、雄大な木割、雄渾などが施され、どっしりと落ち着いた豪壮な構えは伏見城の大手門たる貫禄を示しています。割拝殿・・・寛永2年(1625年)、徳川頼宣(紀州藩祖)が寄進しました。桁行(けたゆき)七間、梁行(りょうゆき)三間、入母屋造(いりもやづくり)、本瓦葺の割拝殿形式で正面上部の軒唐破風(のきからはふ)は、手の込んだ彫刻が施されています。本殿・・・慶長10年(1605年)、徳川家康の命により京都所司代・坂倉勝重を普請奉行として建立されました。大型の五間社流造で屋根は桧皮葺(ひわだぶき)、正面の頭貫(かしらぬき)、木鼻(きばな)や蟇股(かえるまた)、向拝(こうはい)の手挟(たばさみ)に彫刻を施し、全ての極彩色で飾られ背面の板面の板壁には五間全体にわたって柳と梅の絵を描かれています。千姫神輿・・・慶長2年(1597年)、徳川秀忠が長女・千姫(豊臣秀頼室。元和3年、本多忠刻に再嫁)の誕生を祝って当社に寄進され元禄7年(1694年)以降、幾度の修繕を経て現在に至る絢爛豪華な装飾が施された神輿です。長さ:5.1m、高さ:3.5m、重さ:2,250kg(約2.3t)もあり現在は担ぎ手の不足により巡行されず祭礼中のみ拝観できます。平成14年(2002年)1月まで伏見桃山城に展示されていました。

寛永2年(1625年)、徳川頼宣(紀伊藩祖)が寄進した割拝殿(京都府指定文化財:桃山期)

雌雄の獅子(拝殿・西の間)

神輿(3基:拝殿・東の間)

二代将軍・徳川秀忠が寄進した千姫神輿

「名水百選」に選定された御香水

慶長10年(1605年)、徳川家康が再建し中央に神功皇后、仲哀天皇、応神天皇の三神を祀る本殿(重要文化財:桃山期)

常盤御前、牛若ゆかりの常盤井々筒の石橋 おまたせ!キララちゃん・・・

桃山御陵参道

明治天皇御陵(伏見城本丸跡)

石段上からの眺望とです・・・

昭憲皇太后御陵(伏見城名護屋丸跡)

伏見桃山城、月見ヶ岡越え

伏見桃山城・・・伏見のシンボル的存在の城で昭和34年(1959年)に有志の人々によって建設が着手されました。大天守閣、小天守閣を並べた連結式城郭で鉄筋コンクリート造、内部外観共に旧伏見城を偲ぶに足るべく城です。当地は旧伏見城の御花畑山荘があった桃山の西北丘陵台地にあり山城盆地を一望できる京洛随一の景勝地でしたが平成15年(2003年)1月31日に閉園されました。天守閣などは運動公園として予定され京都市によって公的保存されています。月見ヶ岡越え・・・宇治見山(月見ヶ岡)を南北に通ずる道で京都と伏見殿を結ぶ重要な道でした。足利将軍の春日社参もこの道を通ったと伝え現在の桓武天皇柏原御陵〜明治天皇桃山御陵に通ずる道とされます。

月見ヶ岡越え(柏原陵参道)で桃山城へ・・・

石田三成?鎧武者の幽霊伝説がある治部池

伏見桃山城

八科峠

古来、京都〜宇治へ抜ける「木幡道」として知られ伏見築城時に北へ移し道幅を拡張したのが現在の道路です。この峠を八科峠と呼び平治の乱で敗北した源義朝の愛妾・常盤御前(義経の生母)の逃亡を助けたという旧家の跡が残っているそうです。「木幡の関」という関所があったとされていますが現在ではその場所を特定することはできません。

伏見桃山城

逢坂山にあった車石と八科峠標石

古御香宮神社

御香宮神社

文禄年間、豊臣秀吉が、伏見築城に際し御香宮神社を移築し伏見城の鬼門除けとして祀りました。神社は、伏見城の廃棄後に徳川家康によって現在の御香宮に遷されました。旧地は古御香と呼ばれ同社のお旅所になりました。参道は結構な上り坂で大きな石(伏見城石)がゴロゴロとあります。当社辺りが、桓武天皇陵だという説もあり御陵参考地に指定されています。

伏見城石

坂の参道を上ると鳥居があるとです・・・

古御香宮神社々殿(社殿前にあるのが台石)

桓武天皇?石棺の台石(花崗岩製)

珍しい狛犬?

薫誉智香尼(くんよちこうに)が再中興した等泉寺

大亀谷陵墓参考地(御香陵墓参考地)

明治初年に桓武天皇柏原陵と内定していた所で室町期の文安2年(1445年)に作成されたとする「旧光厳院古図(伏見山図)」が発見され柏原陵が記され、それが大亀谷陵墓参考地を指すと見られる付近から花崗岩の板材を組み合わせた石棺(石槨:長さ2.57m、幅1.28m、高さ1.10m)が出土し石棺は仏国寺境内に移転、台石は古御香宮神社の社殿前にあります。

浅井長政の子孫が中興した尼寺

大亀谷陵墓参考地(桓武天皇陵候補地)

小栗栖(おぐるす)道・・・明智光秀が通った道と伝え「明智越え」と言い結構、急な峠道で右へ行きます。この道を光秀も通り小栗栖へ・・・

弘法大師が杖の先で掘ったと伝える「弘法大師杖の水」

おぐりす灸

明智薮、明智塚(明智光秀胴塚)

明智薮は天正10年(1582年)6月13日、山崎の合戦で羽柴秀吉に敗れた光秀は勝龍寺城から間道を抜けて伏見大亀谷を経て坂本の居城を目指して逃れる途中、当地にて竹槍で刺され最期を遂げたと伝えます。碑には「信長の近臣小栗栖館の武士集団・飯田一党の襲撃により・・・」と記されています。明智塚(明智光秀胴塚)は小栗栖で刺され自刃した明智光秀の胴体が埋められた所と伝わります

日蓮宗「本経寺」

明智日向守光秀供養塔

光秀が竹槍で刺されたと所と伝える明智藪

明智塚(明智光秀胴塚)

旧安祥寺川沿いの遊歩道をチャリチャリ・・・おっと!カモさんズでっす!

六所神社

拝殿

本殿

境内の真下はJR東山トンネル・・・大正10年(1921年)に開通したJR東山隧道の石額(題字)には「山紫水明」(右)、「古今相照」と彫られています・・・

亀の水(亀の水不動尊)

木食上人が元文3年(1738年)、峠道の改修工事と共に木食寺梅香庵を営み、 道路管理と休憩所を設けた所です。不動尊を祀り亀の口より井水が湧き出しているので井名となり街道を往来する人馬の喉を潤しました。傍らに木食上人が使用したとされる竃(カマド)が残っています。

旧東海道・・・急な坂道をチャリチャリ

亀の水不動尊(亀の水)・・・湧き水が、うっ うっ う〜〜 マイウ〜σ(^◇^;)

な、な、なんと!亀さんに耳が!!(@_@;)こわ〜

木食上人が使ったとされる竃(カマド)

酔芙蓉の寺と称される「大乗寺」

大乗寺

寺伝によると約300年前、京都七本松内野に建立され開基は戒禅比丘隆韶大和尚です。禅宗系の寺から法華の寺に改宗された後は代々、尼寺として受け継がれ無本山の寺でしたが、約200年前に法華宗大本山・本能寺の末寺になったと伝えます。昭和初期、尼僧の松崎恵浄が本堂、庫裡を改築し中興しましたが雨漏りや壁などが落ち、山科の現在地に移転しました。吟道宣州流瑛心会と言う吟詠会を興し吟友から酔芙蓉の苗木約100本の寄贈を受け、毎年百数十鉢に挿し木して今日約1300本を越えるまでになり「酔芙蓉の寺」として知られるようになりました。

延命階段・・・な石段をテチテチ

山門

酔芙蓉(すいふよう)

平安の頃から観賞され、栽培されていますが品種はあまり多くありません。その数少ない品種の一つが酔芙蓉です。芙蓉は中国では「蓮の花」の事で水中に咲くものを水芙蓉、木に咲くものを木芙蓉と呼びました。日本では、蓮を芙蓉という習慣がなく芙蓉と言えば木芙蓉の事です。朝に咲き、夕方には萎む一日花で、早朝に開花した時は本来の淡紅色、夕方になるにつれて色は次第に濃くなり、萎んでいきます。一方、酔芙蓉は朝は純白、午後には淡い紅色、夕方から夜にかけては紅色になります。酒を飲むと顔色がほんのりと赤みを帯びるのに似ている事からこの名がついたと言われます。

境内に咲き乱れる酔芙蓉の花と酔芙蓉観音さま・・・ほんのり酔っている様な淡いピンク色

十三重

1300本以上もの酔芙蓉が咲き乱れています・・・

供養塔

飲みすぎで酔いが回ったのかな?濃いピンク色

源 宗干歌碑、光孝天皇御製碑

仏堂(本堂)

旧東海道(右)への分岐

車石と荷車・・・米俵とキララが!σ(^◇^;)

車石と説明碑・・・ここにもキララが!σ(^◇^;)

義経所縁の地蔵尊(義経大日如来(粟田口)、大日如来(蹴上口)、延命地蔵大菩薩(蹴上地蔵)

金売吉次に伴われ奥州への旅立つ途中、粟田口を過ぎ九条山の坂にさしかかった時、馬に乗った関原与市と従者9人の武士が、水溜りの泥水を蹴りかけました。咎めた牛若丸と争いになり相手が平家の武士と聞いた牛若丸は激怒し9人を切り倒したが不憫に思い、9体の地蔵尊を安置し菩提を弔いました。日ノ岡峠を境として山科よりを九体町と言い、斬り倒された関原与市ら9人の菩提を弔う為に牛若丸が石仏9体を安置したのが地名の由来と伝え、蹴り上げた場所は蹴上(けあげ)という地名として残っています。9体の石仏のうち6体は所在不明ですが、3体は街道筋に残されていると伝え義経大日如来(疎水公園)、大日如来(蹴上口)、延命地蔵大菩薩(蹴上地蔵)の3体だと思われます。

延命地蔵大菩薩(蹴上地蔵)

大日如来(蹴上口)

この中の一体が義経が祀ったとされる

義経大日如来(疎水公園)

蹴上インクライン

第1、第2琵琶湖疎水が合流する蹴上の船留から岡崎動物園前の船留まで1/15という急勾配でこの間約600mだけ斜面にレールを敷き運輪船を乗せた四輪付き船台の鋼索を電力で上下に動かしました。この斜面をインクラインと言います。

蹴上インクライン

第1琵琶湖疎水の水位調整堰?浄水取水口?

琵琶湖疏水

明治14年(1881年)2月、京都府知事に就任した北垣国道は琵琶湖に着目し疏水を開削する事で琵琶湖と宇治川を結ぶ舟運を開き同時に動力(水車)、灌漑、防火などに利用して京都の産業を振興しようとしました。明治23年(1890年)に完成した琵琶湖疎水(第一疎水)は当時の京都市年間予算の十数倍という膨大な費用を投入した大事業の主任技師として北垣知事に選ばれたのが、工部大学(東京大学)を卒業したばかりの田辺朔郎(さくろう:当時21才)が設計し僅か5年で完成し水力発電などに利用され日本初の電気鉄道(伏見線)を開通させるなど京都の近代化に大きな役割を果たしました。当時は我が国の重大な工事は全てを外国人技師の設計監督に委ねていた時代にあって日本人の手によって行った我が国最初の大土木事業でした。

田辺朔郎像と顕彰碑

蹴上発電所水圧鉄管

疎水分水路

南禅寺水道橋(水路閣)へ・・・

水道橋(水路閣)上を流れる疏水分線・・・京都ではありえない?南〜北へ向かって流れています!

南禅寺水道橋(水路閣)

明治22年(1889年)、蹴上に発電所が建設され明治24年(1891年)に送電を開始しました。明治31年(1908年)、水力発電の増強、水道用水確保の為に第2琵琶湖疎水の工事が始まり、明治35年(1912年)に完成しました。同時期に蹴上浄水場も建設され赤レンガのアーチ型の水道橋は、橋上部に疎水分線が流れ上水道の水源として利用されています。

南禅寺水道橋(水路閣)

南禅寺

臨済宗南禅寺派の大本山で正式には瑞龍山太平興国南禅禅寺と号します。文永元年(1264年)、亀山上皇が母・大宮院の御所として造営した離宮禅林寺殿を正応4年(1291年)、離宮を大明国師(無関普門)に寄進し禅林禅寺としたのが開基と伝え、建武元年(1334年)、後醍醐天皇は大徳寺と当寺を五山(天竜、相国、建仁、東福、万寿)の上位に列しました。中世には叡山の僧徒の焼き討ちや応仁の兵火に焼亡し廃絶に帰せんとしたが豊臣秀吉、徳川家康の庇護により復興に及びました。家康の厚い信任を得た塔中・金地院の住持・以心崇伝(いしんすうでん)に負うところが大きく多くの文化財を今に伝えます。

南禅寺水道橋(水路閣)

亀山法皇が寄進した離宮禅林寺殿遺蹟で南禅寺発祥の南禅院

とっても落ち着く境内の風情

三門(重文:江戸期)

寛永5年(1628年)、藤堂高虎が寄進した巨大な楼門で天下の大盗賊の石川五右衛門が住まいしたと伝えますが三門は石川五右衛門の死後、約30年後に建てられました。

仏堂(本堂)

三門(重文:江戸期)

高さ約6mもある日本一大きい石灯篭

風情ある参道

勅使門(重文:江戸期)

中門

明智光秀首塚(梅宮社)

天正10年(1582年)6月、天王山の戦いで秀吉に敗れた光秀は、近江坂本城へ敗走の途次、小来栖の竹藪で飯田一党に襲われ落命し首は粟田の刑場に晒された後、当地に埋葬され供養塔を築いたという伝説があります。その傍に洛西の梅宮神社の分霊を祀る梅宮社という小祠があり首より上の病者が、この塚に祈れば霊験があるとされます。光秀が落命した所は明智薮と言われ伏見小栗栖に旧跡を留め、山科勧修寺には明智塚(光秀胴塚)があります。

京都一大きい大鳥居(平安神宮)

明智光秀首塚(梅宮社)

光秀首塚碑

風情ある白川の流れ

昭和51年(1976年)、祇園新橋伝統的建造物保存地区に指定された風趣のある街並みどすえ・・・

辰巳大明神

辰己稲荷とも言われ狐が祭神と思われますが、狸を祭神とします。昔、巽橋に悪戯な狸がおり、橋を渡る人(舞妓、芸妓など)を化かしては川の中を歩かせました。難儀した人々はこの狸に祠を建て神として祀ったところ、悪戯が止んだと伝わります。今は芸事の神として祇園の舞妓、芸妓達の信仰を集めています。

巽橋(たつみばし)

辰巳大明神

 Tourist  2005.10.03(M)

 

関連コラム

三条大橋〜逢坂山峠越え・・・東海道歩(ほ)っこ〜り探訪

三条大橋〜逢坂山峠越え・・・東海道歩(ほ)っこ〜り探訪

桃山、山科・・・洛東探訪

桃山、山科・・・洛東探訪

桃山、醍醐の史跡探訪

桃山、醍醐の史跡探訪

明智越え

明智越え

近江紀行「秀吉の城下町・長浜」

近江紀行「秀吉の城下町・長浜」

近江紀行「井伊家35万石の城下町・彦根」

近江紀行「井伊家35万石の城下町・彦根」

Pちゃんズの近江紀行「湖と周遊編」

Pちゃんズの近江紀行「湖都周遊編」

Pちゃんズの近江紀行「烏丸からすま半島編」

Pちゃんズの近江紀行「烏丸からすま半島編」

Pちゃんズの近江紀行「竹生島編」

Pちゃんズの近江紀行「竹生島編」

Pちゃんズの近江紀行「太閤さんの城下町・長浜編」

Pちゃんズの近江紀行「太閤さんの城下町・長浜編」

伏見クローズアップ散策のメニューページに戻る

華の道

上醍醐散策その1

山の華道(はなみち)1

上醍醐散策その2

山の華道(はなみち)2

古の道(いにしえのみち)

古の道(いにしえのみち)

明智越え

明智越え

伏見醍醐界隈

伏見醍醐界隈

 

戻る 洛雅記2005年探訪コラム

 

inserted by FC2 system