バス&ウォーキング@二条城、新撰組発祥の地・壬生

 

永き日を いはで暮るるや 壬生念仏 蕪村

 

京都所司代跡〜出世稲荷神社〜元離宮 二条城〜神泉苑〜新撰組ゆかりの地・壬生寺界隈散策

 

新撰組発祥の地・壬生(みぶ)

四条大宮の西、西院(右京区)に至るまでの地域を言い、壬生寺や新撰組屯所のあった所として世に知られます。壬生は元、葛野郡朱雀村大字壬生と呼ばれた一閑村で今の壬生寺周辺を称したが、大正7年(1918年)4月、京都市に編入されて中京区に属し、その地域は三条通〜南は松原通まで、東は大宮通〜西は西大路通までの広範囲に及びます。古来、当地は湿潤で水が常に湧き出るところから水生(壬生)と言われるが一説に、ここが平安京左京壬生大路にあたるからなど諸説があって明らかにしません。平安末期、左大史・小槻隆職は太政官の事務をもっぱら司る官務となり、その子孫は長くこの地に住したので地名によって壬生官務家と称しました。歌人・藤原家隆も当地にあって歌集「壬生集」を著し、三十六歌仙の一人に数えられた歌人・壬生忠岑(ただみね)、忠見(ただみ)親子も当地に住しました。忠岑(ただみね)が生前愛用したと伝える硯(すずり)が江戸中期に発掘され壬生寺に秘蔵されています。右京が早く衰徴してからは、多くは田畑と化し特に水菜は世に壬生菜と呼ばれクワイ、セリ、ゴボウなどと共に壬生の名産とされました。近年、染色業者が壬生の豊富な地下水に目をつけ染色工場街となりました。

81系統「京都駅」に乗ったつもり@竹田街道大手筋バス停・・・「竹田駅東口」行きでつた!(>_<) 南5系統「京都駅」に乗り継ぎ京都駅着!

京都所司代屋敷跡

二条城の北辺り、北は丸太町通り、南は竹屋町通りまで、東は猪熊通り、西は大宮通りに至る方150mの一帯で現在、旧待賢小学校一帯が屋敷跡とされます。所司代は室町幕府の「侍所の司の代官」に始まり徳川幕府が関ヶ原合戦直後に設け、朝廷の監察、守護、西国大名の監視、京都諸役人の統率、京都町方の取り締まり(後に京都町奉行所の任)、畿内天領の訴訟処理など老中に次ぐ重要職でした。初代の奥平(松平)信昌の後、板倉勝重、重宗が任じられ、重宗は、中世以来の自治的な町組を活用した町政、公平な訴訟処理の仕方を定めるなど京都市政の根本法規を制定しました。以後、幕末まで58人が任じられた。文久2年(1862年)、京都守護織が設けられ会津藩主・松平容保(まつだいらかたもり)が任命されると所司代は管轄下に置かれ元治元年(1864年)、松平容保の実弟である桑名藩主・松平定敬(さだあき)が京都所司代に就きましたが慶応3年(1867年)12月、王政復古と共に廃止されたました。跡地には明治3年(1870年)、我が国最初の中学校、京都府立京都第一中学校が建てられましたが明治4年(1871年)に府庁の地に移転し跡地は養蚕場となり同39年(1906年)、待賢(たいけん)小学校を移し他は全て民有地となりました。

9系統「西加茂車庫」@堀川丸太町バス停 京都所司代屋敷跡(旧待賢小学校一帯)
京都所司代上屋敷跡(旧待賢小学校一帯)

伝鵺池跡(京都所司代屋敷跡)

最近、整備された二条公園の池の中島に「鵺池碑」なる石碑を建てて記しとしています。池の北、公園の柵外には地蔵堂や「ぬえ大明神」を祀る小社があり傍らに「鵺池(ぬえ)碑」なる石碑が建っています。碑文によると元禄13年(1700年)庚辰3月、松平紀伊守の家臣・松崎正祐が同藩の太田毎資(つねもと)から聞いた話しによれば、毎資(つねもと)の屋敷背後に池があってこれを俗に鵺池と言う。この池は源三位頼政が鵺を射止めた時、血のついた鏃(やじり)を洗ったところの池と伝えます。毎資(つねもと)は太田道灌七世の孫、頼政の遠裔にあたるので自分は、この話しを聞いて大いに驚き、喜ぶと共に鵺池遺蹟が湮滅するのを思んぱかり、ここにその事を石に録するものである云々。(原漢文)との意味を記しています。この地は古来、鵺池と称し池の畔にその伝説を記した石碑があったが、ここは江戸時代、徳川幕下の所司代屋敷内にあたるので、これをはばかって当時の名所地誌類は、この事を記しませんでした。維新後、屋敷は廃されその跡に監獄が出来たが、昭和2年(1927年)に山科に移転し昭和9年(1934年)に二条公園となりました。元の石碑は風雨に侵され銘文も判読しづらくなり監獄所に勤務していた元看守長・青山威懐氏が在職中に認めておいた手記と原文を対照し、ここに改めて石碑を建立するものである云々。(原漢文)として出水学区の有志の人々が昭和11年(1936年)3月に建立した旨を認めています。

鵺池元碑と鵺池大明神小社 鵺池新碑と鵺池大明神小社 鵺池大明神小社

源三位頼政の鵺退治伝説

高倉天皇(一説に近衛天皇)在位の時、御不予の事があって丑の刻(午前2時)頃になると東三条の森の方から一叢の黒雲が湧き上がり御殿の上を覆うとみるや、怪しげな鳥の鳴き声がし、それを聞かれると天皇は、ひどく怯え給うた。よってこの怪物を退治すべき勅命が頼政に下されたので彼は家来の猪早太(いのはやた)と供に殿中にて待受け、見事に鵺を射止めて天皇の御脳を癒し奉った・・・と伝えます。この怪鳥は、頭が猿、胴体は狸、尾は蛇、手足は虎の姿で鳴き声は鵺に似ていたと言われ、この功により頼政は獅子王なる御劔を賜ったと伝えます。この伝説は「平家物語」巻四を始め「源平盛哀記」巻十六、「十訓抄」第十などにも詳しく記され、当時は、余ほど有名な話であったとされます。しかし、頼政在世の頃、天皇は多くの里内裏を御座所とされていたので、この池を以って直ちに頼政の鵺退治に付会するのは難しいともされます。

頼政が鵺を射止めた鏃(やじり)を洗ったと伝える鵺池 外濠@二条城西北 寂れて貧乏稲荷と称される大宮姫稲荷神社

出世稲荷神社

天正15年(1587年)、豊臣秀吉が造営した聚楽第内に勧請した稲荷社を聚楽第の破毀後、当地に移されたと伝えます。秀吉に因んで出世稲荷と称します。本殿には倉稲魂命(うがのみたま)、猿田彦命(さるたひこのみこと)、天鈿女命(あめのうづめのみこと)、他、二柱の神を祭神としその神像(陶製)は六代目・清水六兵衛の作、本殿天井の「登り龍」図は堂本印象の筆になります。末社の三石社は福禄寿にあたる三個の石を神体とし昔は勝負師の信仰を得ていたと伝えます。境内石鳥居には尾上松之助(大正時代の時代劇俳優)や牧野省三(映画監督)などの寄進による石鳥居があり庶民の信仰が篤く毎年4月8日に例祭が行われます。

出世稲荷神社 社殿 この辺り平安京朱雀門跡碑
西町奉行所跡 二条城西南隅楼(重要文化財) 桓武帝が設けた冠吏養成の大学寮跡
東町奉行所跡 二条城南門(重要文化財) 外濠@二条城東南隅楼(重要文化財)

元離宮 二条城(世界文化遺産)

慶長5年(1600年)、関が原の戦いに勝利し政権を握った徳川家康が慶長8年(1603年)、京都の守護と将軍上洛時の宿泊所として造営し、3代将軍・家光により伏見城の遺構を移すなどして寛永3年(1626年)に完成しました。慶長8年(1603年)2月、征夷大将軍に任ぜられると竣工早々の二条城で拝賀を受けました。当城で徳川家康が豊臣秀頼と会見したり大坂冬・夏の陣には二代将軍・秀忠らと軍議を凝らしました。寛永11年(1634年)、家光の上洛以降は将軍上洛の必要もなく城内殿舎は次第に取りこぼち留守居役の武士が留まるに過ぎませんでした。寛延3年(1750年)、雷火で天守閣を焼失、天明8年(1788年)正月、市中大火に再び本丸内殿舎や櫓などの類焼をみたが再興はなく家康が建てた二之丸御殿のみが残りました。文久3年(1863年)、家光上洛から229年ぶりに将軍・家茂が孝明天皇の勅を奉じて上洛し慶応3年(1867年)10月、将軍・慶喜が大政奉還を決し城中から上表、ここに武家政治の幕を閉じましたが豊臣秀吉の残した文禄年間の遺構と家康が建てた慶長年間の建築と家光がつくらせた絵画・彫刻などが総合された桃山時代様式の全貌を垣間見る事ができます。

東大手門(重要文化財) 築地塀(重文:桃山期)

二の丸御殿(国宝:桃山期)

桃山時代の武家書院造の代表的な建物で御車寄につづいて遠侍(とおさむらい)、式台、蘇鉄の間、大広間、黒書院、白書院の六棟が東南〜西北にかけて雁行に建ち並んでいます。建物総面積は3,300u、部屋数33室、畳は800畳余り敷かれています。各部屋の襖絵は狩野派の手によるもので部屋の目的に応じて描かれています。欄間の彫刻、飾金具、長押(なげし)に打たれた花熨斗形(はなのしがた)の釘隠しなどは、金飾あざやかに豪華を極めます。御殿東北には台所、御清所(おきよどころ)があり何れも重要文化財に指定されています。

唐門(重文:江戸期) 遠侍と車寄(二の丸御殿) 京都所司代との連絡にも使われた鐘

二の丸庭園(特別名勝:江戸期)

古来からの造庭術に従い池の中央に蓬莱島、左右に鶴亀の島を配し池泉回遊式庭園で小堀遠州の作庭と伝えます。大広間から眺められるように造園されましたが寛永3年(1626年)、後水尾天皇の行幸御殿が池の南側に建てられた時に御殿からも眺められるように改造されたとも伝えます。色彩に富んだ大小様々な石組に表れた力強さは、豪壮な城郭建築とよく調和しています。

二の丸庭園(特別名勝:江戸期) 二の丸御殿(国宝:桃山期) 慶応3年(1867年)、徳川慶喜が大政奉還をした大広間
二の丸庭園(特別名勝:江戸期) 黒書院(将軍と親藩、譜代大名の内輪の対面所) 二の丸庭園(特別名勝:江戸期)
二の丸庭園(特別名勝:江戸期) 冬の風物詩、養生の蘇鉄と黒書院 内濠の東橋と本丸楼門(重文:江戸期)

本丸御殿(重要文化財:江戸期)

寛永3年(1626年)、徳川3代将軍・家光により増築したもので元は、城内に高く聳えた壮麗を持っていた三層の天守閣(元、伏見城天守閣)がありましたが寛延3年(1750年)、雷火により焼失、天明8年(1788年)には大火による類焼で本丸の殿舎も焼失しました。現在の建物は、京都御所にあった旧桂宮御殿を明治26年〜27年(1893年〜94年)に移し建てられました。この建物は、弘化4年(1847年)に建てられたもので宮御殿遺構として完全な形で残っている唯一のもので重要文化財(江戸期)に指定されています。本丸御殿の南側にある本丸庭園は明治時代に作庭されたものです。

明治26年(1893年)、京都御所内にあった旧桂宮家の御殿を移築した本丸御殿(重文:江戸期) 伏見城の天守閣が移築されていた天守閣跡
東方向の眺め@天守閣跡 西南土蔵(米倉/重文:江戸期) 西北方向の眺め@天守閣跡
本丸御殿など北東の眺め@天守閣跡 本丸御殿と本丸庭園 本丸御殿(重要文化財)
本丸御殿玄関(重要文化財) 米倉(西北土蔵/重文:江戸期)
本丸の石垣と内濠 北中仕切り門(重要文化財) 加茂の七石

清流園

江戸初期の豪商・角倉了以の屋敷から建物の一部と約800個の庭石を譲り受け、これを元に二条城に相応しく雄大、明朗、風雅をモチーフに全国より集めた銘石約300個と新築のお茶室を加えて昭和40年(1965年)に完成しました。池泉回遊式の和風庭園部分と洋風庭園部分からなり面積約16,500uの園内には香雲亭、茶室・和楽庵があり市民大茶会を始め二条城を訪れる国賓公賓の接遇所として利用されます。

和楽庵と清流園 清流園 香雲亭と清流園
清流園 本丸石垣と内濠(北東〜南の眺め) 本丸石垣と内濠(北東〜西の眺め)
鳴子門(重要文化財) 本丸楼門(重文:江戸期)と内濠の東橋 桃山門(重要文化財)
南中仕切門(重要文化財) 大和郡山城から移されて再建された三層の伏見城天守閣が移築されていた天守閣跡石垣
梅林 西南土蔵(米倉/重文:江戸期) 桜の園
築地塀(重文:桃山期) 土蔵(重文:江戸期) 土蔵、収蔵庫(米倉/重文:江戸期)
築地塀(重文:桃山期)と遠侍(二の丸御殿) 番所 東大手門(重要文化財)
町屋の昔なつ菓子「格子屋」 昔なつ菓子が並んでいます・・・
懐かしい雰囲気でホッコリする店内 なつ菓子を色々買いまつた〜σ(^◇^;) 義経と静御前が出会った神泉苑

義経、静御前出会いの地・・・神泉苑(史跡)

義経と静御前が出会った所で平家の祖・桓武天皇のお気に入りの場所でもあったと伝えます。平安京造営当時の遺蹟としては現存唯一のもので昭和10年(1935年)に史跡に指定されました。現在の神泉苑は元和年間、筑紫の僧・覚雅が官に請うて再興したもので方一町に亘る苑内には池中の島に善女竜王を祀り傍らに弁才天祠があり本堂には本尊の聖観音像を安置します。現在は真言宗東寺派の寺となっていますが昔、弘法大師が雨乞い祈願をしたという旧縁によるもので寺宝に竹内栖鳳が若年の折に描いたと伝わる竜神の絵馬を有します

石仏群 鯉塚、亀塚 龍頭船@放生池
弁財天祠と善女竜王堂

二条陣屋(重要文化財:江戸期)

同家の伝えによると中興の祖・小川土佐守は豊臣秀吉臣下で伊予国(愛媛県)今治を領していたが秀吉の没後、近江国(滋賀県)高島に蟄居しました。その子・千橘は叔父を頼って上洛し現在地に住して「よろず」屋平衛門と称し米、両替、薬種商を営み禁裏、二条城へ出入りし諸大名の恩顧を受けました。そのうち京都に本陣を持たない大名の為に自分の家を宿所としたのが陣屋の起こりとされますが定かではありません。二階建て(一部三階建て)、総桟瓦葺、外部は全て土蔵造りとされ完全な防火設備が施されています。内部は表と奥の二つに大別され階下に十一室、階上に十三室の大小様々な部屋があり入念贅沢な材料で出来ています

宝篋印塔(供養塔) 本堂 二条陣屋(重文:江戸期)

武信(たけのぶ)稲荷神社

創祀年月を明らかにしないが延命院の鎮守社と伝え延命院は三条通の勧学院の南にあって平安時代初期、清和天皇貞観元年(859年)2月、西三条大臣といわれた右大臣左近衛大将・藤原良相(よしすけ)が私邸の一部を割き勧学院に学ぶ子弟の為に病舎としたもので延命院廃亡後、神社のみが残りました。藤原武信なる人が旧地の近くの当地に勧請奉祀したものと伝え江戸時代には青山播磨守の邸内にあったが明治の廃藩置県後も残って創祀以来、今日まで一千年余に亘り信仰されています。創祀した藤原良相が一族の名付けをしていた事から名付け、命名所縁の神社としても知られます。又、樹齢数百年に及ぶエノキの老木は、平重盛が安芸(広島県)宮島の厳島神社から苗木を運んで植えたと伝え天然記念物に指定されています。エノキの老木は、昔この辺から西を葛野郡朱雀野村と呼んだ往時を偲ばせます。

二条陣屋(重文:江戸期) 武信稲荷神社 平重盛が安芸の厳島神社から移植したと伝えるエノキ

六角獄舎跡、山脇東洋観臓(やまわきとうようかんぞう)の地碑

平安時代の獄舎は左獄、右獄の二ヶ所があって右獄は早くに廃され左獄が京都府庁の西側にあったが天正13年(1585年)、豊臣秀吉の命によって小川通り御池上ル下古城町に移転されました。宝永5年(1708年)、大火に類焼して当地に移転し六角通りに面していたので俗に六角の獄舎と呼ばれました。東西約69m、南北約53m、敷地面積約3640uと伝わり罪科の軽重によって構造を別にし上がり屋、本牢、切支丹牢がありました。天明の大火で類焼し維新後は監獄署と改名し上京区竹屋町通り日暮西入ルに移転し昭和大典にあたって山科に移転したのが現在の山科刑務所です。史上有名になったのが幕末期の元治元年(1864年)7月19、20日の両日に起こった蛤御門の変で牢獄中の平野国臣(くにおみ)ら33名が処刑された事です。この時の兵火は蛤御門付近から生じ河原町・長州屋敷の放火にもよるもので兵火は京都市内の大半を焼き尽くし翌20日には堀川を越えて六角獄舎に及ばんとしました。時の町奉行・滝川讃岐守具挙(ともよ)は「破獄を企てた」として平野国臣始め大和義拳の乾嗣竜(つぐたつ)、足利尊氏の木像を斬った長尾武雄、池田屋騒動の発端となった古高俊太郎や横田精之、大村包房ら33人が切支丹牢の東側に集められ昼〜夕刻にかけて断首されました。当時、勤皇という美儀の元に行われた長州勢の暴挙がいかに京都市民などに甚大な被害を与えたかを物語っています。又、山脇東洋は山脇玄修に医学を学び養子となり宝暦4年(1754)年、六角獄舎で日本で初めて男性刑死人の解剖を行い人体構造を観臓し解剖記録として「臓志」を著しました。

拝殿 本殿 平野国臣他勤王志士終焉跡、日本近代医学発祥地碑

新撰組壬生屯所跡・旧前川邸(非公開)

新撰組壬生屯所・・・文久3年(1863年)8月18日、浪士隊は新撰組と命名され「八.一八の政変、(七卿落ち)」に出動しました。新撰組隊士を「壬生狼」とも呼ばれるのは、壬生屯所での活動が広く知られたからで壬生は新撰組誕生の地にあたります。八木邸を屯所としてから程なく、前川邸にも分宿するようになりました。慶応元年(1865年)2月に西本願寺に屯所を移転する迄の2年間、壬生を屯所としました旧前川邸(非公開)・・・山南敬介は、島原の明里に会いたいと永倉新八に頼み駆けつけた明里と出窓越しに別れを惜しんだと伝わりますが当時の出窓は現在ありません。前川邸は非公開です。総長・山南敬介他2名の墓と松原忠司他11名、副長助勤・大石鍬次郎の実兄・大石造酒蔵(非隊士)の3つの墓が光縁寺にあり何れも些細な事が隊規に触れて切腹、断首の憂目にあった隊士らで新撰組の局中法度がいかに峻烈を極めていたかを物語っています。

六角獄舎跡、山脇東洋観臓の地碑 新撰組屯所跡・旧前川邸(非公開)

新撰組壬生屯所跡・八木邸

文久3年(1863年)、将軍警護の為に組織された浪士隊(新徴浪士組)として上洛した近藤勇、芹沢鴨ら13名の宿舎として、前川荘司邸、南部亀二郎邸と共に、慶応元年(1865年)2月に西本願寺へ屯所が移るまでの2年間、新撰組屯所として使用されました。現在、八木邸は一般公開されています。門を入って右側の式台のある奥座敷が、芹沢鴨等が暗殺された部屋で、刀傷が鴨居に残っています。慶応元年(1865年)2月頃、西本願寺・集会所に屯所を引っ越す時に近藤勇、土方歳三らは主なる郷士の家々へ挨拶回りを行い二年間の部屋代の謝礼として八木家に金子5両、前川家へ金子10両を差し出し郷士の人達をア然たらしめたと伝えます。

新撰組屯所跡・旧前川邸(非公開) 新撰組発祥の地・・・新撰組壬生屯所跡・八木邸

壬生の名水「鶴寿井」

説明碑によると八木家に現存する三本の井戸の一本で数百年前から湧き出て水質に大変優れ、飲用すると健康長寿に恵まれるとされ「鶴寿井」と命名されました。当時、近藤勇、土方歳三、沖田総司など新選組隊士も毎日飲んでいたと伝えます。

新撰組隊士も毎日飲んだと伝える「鶴寿井」 隊士腰掛の石 新撰組壬生屯所跡(八木邸長屋門)

徳禅寺

文久3年(1863年)2月23日、幕府は清河八郎などで浪士隊を結成し将軍警護として京都に入洛させ宿舎の一つとしたのが新徳禅寺でしたが、清河八郎が当寺で浪士隊の私目的(尊攘倒幕)を暴露し浪士隊は江戸に返されました。しかし江戸帰還を拒否し京都に残ったのが後の新撰組を結成した士衛館道場の近藤勇、土方歳三ら8名と水戸脱藩の芹沢鴨、新見錦ら5名の13名でした。

士隊の宿舎となった新徳禅寺 壬生 千体仏塔

壬生寺

宝憧三昧寺、心浄光院と号し地蔵菩薩立像を本尊とする律宗の大本山です。寺伝によれば奈良時代の創建で正暦2年(991年)、三井寺の快賢僧都により復興され小三井寺としょうされました。火災により堂宇を焼亡しましたが正元元年(1259年)、平政平によって再興され正安2年(1300年)、円覚上人が「壬生大仏狂言(壬生狂言)」を創始しました。「壬生さんのカンデンデン」とも称され古来から庶民に親しまれています。近藤勇、土方歳三ら隊士も壬生狂言を鑑賞したり沖田総司が境内で子供達とよく遊んでいたと伝えます。

宝篋印塔(供養塔)と石仏群 本堂 水掛地蔵菩薩

壬生寺と新撰組

寺伝によると慶応2年(1866年)頃、新撰組は毎月の四と九の付く日を壬生寺境内での兵法訓練日とし、壬生寺の全門を閉じて禁じられていた馬で境内への乗り入れを行い、大砲を打ち続けるというものであった。寺の役僧が西本願寺屯所にまで出向き、中止の申し出を再三したにも関わらず一向に中止されず参拝者は減り、大砲の振動で堂宇の屋根瓦や戸障子が破損したと伝えられている。一番隊々長・沖田総司は境内で子供達と遊んだり近藤勇始め隊士達が壬生狂言を鑑賞したり、新選組が相撲興行を壬生寺で企画し、寺の放生池の魚やすっぼんを採って料理し、力士に振る舞ったと伝わります。壬生塚には新撰組や所縁の遺族達により墓碑4基が建立されています

壬生塚(隊士墓など新撰組遺蹟)・・・おっと、うら若き美女隊士? またまた (@^.^@) えへっ 「あゝ新撰組」の歌碑

壬生塚(新撰組遺蹟)

新撰組局長・近藤勇の胸像と遺髪塔、局長・芹沢鴨と副長助勤・平山五郎の墓、勘定方・河合耆三郎の墓、池田屋騒動で亡くなった隊士・奥沢栄助、安藤早太郎、新田革左衛門ら7名の合祀墓もあります。壬生寺境内は新撰組の兵法調練場として大砲の訓練などが行こなわれたと伝える。

壬生塚 人丸塚 新撰組慰霊碑と宝篋印塔(新撰組隊士供養塔)

百度石(車止石)

説明碑によると、かつては壬生寺の参道に建てられていた・・・云々・・・側面に「車通るべからず」と刻まれ、当時、車馬で境内への進入は禁止されていたが、新撰組は、これを意に介せずに馬を乗り入れていたと記されています。。。さすが、やりますなぁ〜 新撰組!σ(^◇^;)

百度石(車止石) 芹沢鴨と平山五郎の墓(右)、隊士7名合祀墓 勘定方・河合耆三郎の墓(左)
壬生塚の近藤勇遺髪塔と胸像 総長・山南敬助ら隊士の墓がある光縁寺 循環バス207系統が九条車庫で車庫入り!
循環バスが九条車庫で車庫入り・・・ 新たに循環バス207系統に乗車 81系統「竹田街道大手筋」下車

Tourist  2006.02.27(M)

 

関連サイト

花の御所、花の乱遺構『洛中、洛外図』探訪ウォーキング

花の御所、花の乱遺構『洛中、洛外図』探訪ウォーキング

秀吉の聚楽第、平安京遺構探訪ウォーキング

秀吉の聚楽第、平安京遺構探訪ウォーキング

バス&ウォーキング散策@堀川

バス&ウォーキング散策@堀川

新撰組壬生屯所跡、御室仁和寺散策(Pちゃんズ)

きぬかけの道散策(Pちゃんズ)

新撰組幕末回廊散策その2

新撰組幕末回廊散策その2

平安京道「鳥羽の造り道:羅城門編」

平安京道「鳥羽の造り道:羅城門編」

新撰組

新撰組

幕末〔維新〕回廊

幕末(維新)回廊

おまけ!懐かしの貴重映像?!新撰組ドラマテーマ曲!!☆⌒(*^∇゜)v

大河・新撰組!  新撰組【日野燃ゆる!栗塚 旭と土方歳三】

新撰組血風録

燃えよ剣

 

戻る 洛雅記2006年探訪コラム

 

inserted by FC2 system