成就山「御室八十八ヶ所巡礼」 きぬかけの道

 

この里は 竹の葉わけて もる月の 昔の世々の かげをこふらし (新勅撰集)入道ニ品親王道助

 

新撰組

文久3年(1863年)2月、浪士隊は上洛後、分離し京都守護職に上申、幕末の都の地を警護し倒幕派浪士などを震憾させたのが新撰組でした。中心となったのが、近藤勇、土方歳三、沖田総司(そうじ)、井上源三郎といった日野宿(東京都日野市)に所縁のある者達で彼らは、「天然理心流・試衛館」という剣術や道場を通して結ばれた武士集団でした。新撰組は、京都の市中見廻り、不逞浪士などの取り締まりなどを遂行したが、池田屋事件後、隊の強化の為に隊士の増員、調練の強化、屯所の移転拡大などを行いました。幕政にも関わるようになり長州への糾問使である大目付・永井尚志に近藤勇ら幹部が広島迄同行しています。一方では隊内での対立も多く、幹部・山南(さんなん)敬介の切腹を始め伊東甲子太郎(かしたろう)一派(御陵衛士・高台寺党)の分派など抗争や粛清があった事も事実です。慶応3年(1686年)6月、正式に幕臣として取り立てられ見廻組と同格となりましたが、この頃は、大政奉還に向けて薩摩藩と土佐藩で盟約が結ばれるなど幕府の権威はすでに大きく失墜し始めていました。慶応3年(1867年)10月、徳川慶喜が二条城で大政奉還を表明し、慶応3年(1867年)11月〜12月にかけ伊東甲子太郎(かしたろう)ら高台寺党を油小路で襲撃したり、坂本竜馬暗殺を紀州藩士・三浦休太郎らの仕業と疑う海援隊々士らに天満屋で報復攻撃を受けたり12月18日、近藤勇が伏見街道の墨染〜丹波橋北辺りで高台寺党の残党・篠原泰之進らに銃撃され肩を負傷したりと事件が相次ぎました。同年12月16日、伏見奉行所を最後の屯所として布陣。慶応4年(1868年)1月3日、戊辰戦争の開戦となった鳥羽・伏見の戦いに幕臣として臨みました。

新徳禅寺

壬生塚の近藤勇遺髪塔と胸像

文久3年(1863年)2月23日、幕府は清河八郎などで浪士隊を結成し将軍警護として京都に入洛させ宿舎の一つとしたのが新徳禅寺でしたが、清河八郎が当寺で浪士隊の私目的(尊攘倒幕)を暴露し浪士隊は江戸に返されましたが江戸帰還を拒否し京都に残ったのが後の新撰組を結成した士衛館道場の近藤勇、土方歳三ら8名と水戸脱藩の芹沢鴨、新見錦ら5名の13名でした。

新撰組屯所跡・八木邸

新撰組隊士腰掛の石

文久3年(1863年)、将軍警護の為に組織された浪士隊(新徴浪士組として上洛した近藤勇、芹沢鴨ら13名の宿舎として、前川荘司邸、南部亀二郎邸と共に、慶応元年(1865年)2月に西本願寺へ屯所が移るまでの2年間、新撰組屯所として使用されました。現在、八木邸は一般公開されています。門を入って右側の式台のある奥座敷が、芹沢鴨等が暗殺された部屋で、刀傷が鴨居に残っています。慶応元年(1865年)2月頃、西本願寺・集会所に屯所を引っ越す時に近藤勇、土方歳三らは主なる郷士の家々へ挨拶回りを行い二年間の部屋代の謝礼として八木家に金子5両、前川家へ金子10両を差し出し郷士の人達をア然たらしめたと伝えます。

新撰組屯所跡・前川邸(非公開)

近藤勇、芹沢鴨達は当初、八木邸を宿舎としました。その後、京都守護職御預となり隊士が増え、八木邸だけでは手狭になりました。次に屯所となったのが、近所の前川邸でした。池田屋事件の発端となった、古高俊太郎を拷問した土蔵があります。局中法度に触れ、切腹を命じられた隊士も多く、総長・山南敬介は局を脱走し沖田総司に連れ戻され前川邸で切腹しました。山南敬介は、島原の明里に会いたいと永倉新八に頼み駆けつけた明里と出窓越しに別れを惜しんだと伝わりますが当時の出窓は現在ありません。前川邸は非公開です。総長・山南敬介他2名の墓と松原忠司他11名、副長助勤・大石鍬次郎の実兄・大石造酒蔵(非隊士)の3つの墓が光縁寺にあり何れも些細な事が隊規に触れて切腹、断首の憂目にあった隊士らで新撰組の局中法度がいかに峻烈を極めていたかを物語っています。

新撰組総長・山南敬介の墓所がある光縁寺

クラシカルな嵐電モボ27系(嵐電・御室駅)

仁王門(重要文化財:江戸期/仁和寺)

五重塔(重要文化財:江戸期/仁和寺)

御室桜(お多福桜とも泣き桜とも呼ばれる)

日本最古の織部灯篭(重要文化財:江戸期/仁和寺)

金堂(国宝:桃山期/仁和寺)

水掛不動尊と管公腰掛石

五智山如来像群11体(五智山蓮華寺)

新撰組壬生屯所跡〜世界文化遺産・仁和寺〜成就山「御室八十八ヶ所」〜五智山蓮華寺〜伏見酒蔵散策

Pちゃんズ!元気ハツラツ〜?!

近鉄電車・急行 8810系(近鉄・桃山御陵前駅)

地下鉄烏丸線 3200系(近鉄・地下鉄・竹田駅)

梛(なぎ)神社(元祇園社)

平安初期、疫病が流行り播磨国から牛頭(ごず)天王の神霊を迎え鎮疫祭を行いました。後に神霊を祇園八坂神社に移したので元祇園社とも言われます。

阪急電車・急行 5300系(阪急・大宮駅)

梛(なぎ)神社(元祇園社)

梛神社本殿(左)と隼神社本殿

新撰組屯所

文久3年(1863年)8月18日、浪士隊は新撰組と命名され「八.一八の政変、(七卿落ち)」に出動しました。新選組隊士を「壬生狼」とも呼ばれるのは、壬生屯所での活動が広く知られたからで壬生は新撰組誕生の地にあたります。八木邸を屯所としてから程なく、前川邸にも分宿するようになりました。慶応元年(1865年)2月に西本願寺に屯所を移転する迄の2年間、壬生を屯所としました。 

新撰組壬生屯所跡・前川邸(非公開)

新撰組壬生屯所跡・八木邸

隊士腰掛の石(八木邸)

新徳禅寺

壬生寺

宝憧三昧寺、心浄光院と号し地蔵菩薩立像を本尊とする律宗の大本山です。寺伝によれば奈良時代の創建で正暦2年(991年)、三井寺の快賢僧都により復興され小三井寺と称されました。火災により堂宇を焼亡しましたが正元元年(1259年)、平政平によって再興され正安2年(1300年)、円覚上人が「壬生大仏狂言(壬生狂言)」を創始しました。「壬生さんのカンデンデン」とも称され古来から庶民に親しまれています。

東山門(正門)

よなき地蔵

手水井

阿弥陀堂

手水

「あゝ新撰組」の歌碑

壬生塚

新撰組局長・近藤勇の胸像と遺髪塔、局長・芹沢鴨と副長助勤・平山五郎の墓、勘定方・河合耆三郎の墓、池田屋騒動で亡くなった隊士・奥沢栄助、安藤早太郎、新田革左衛門ら7名の合祀墓もあります。壬生寺境内は新撰組の兵法調練場として大砲の訓練などが行こなわれたと伝えます。

人丸塚

3年P組の近藤勇先生?!(;^_^Aおいおい

芹沢鴨と平山五郎の墓、7名の合祀墓

壬生寺と新撰組

寺伝によると慶応2年(1866年)頃、新撰組は毎月の四と九の付く日を壬生寺境内での兵法訓練日とし、壬生寺の全門を閉じて禁じられていた馬で境内への乗り入れを行い、大砲を打ち続けるというものであった。寺の役僧が西本願寺屯所にまで出向き、中止の申し出を再三したにも関わらず一向に中止されず参拝者は減り、大砲の振動で堂宇の屋根瓦や戸障子が破損したと伝えられている。一番隊々長・沖田総司は境内で子供達と遊んだり近藤勇始め隊士達が壬生狂言を鑑賞したり、新選組が相撲興行を壬生寺で企画し、寺の放生池の魚やすっぼんを採って料理し、力士に振る舞ったと伝わります。壬生塚には新撰組や所縁の遺族達により墓碑4基が建立されています。

壬生塚

放生池(壬生塚)

本堂

千体仏塔

南山門

光縁寺

新撰組馬小屋跡

嵐電・四条大宮駅

嵐電・御室駅

世界文化遺産・仁和寺(にんなじ)

真言宗御室派の大本山で第58代光孝天皇によって、先帝の菩提を弔い、仏法の興隆を図るため「西山御願寺」と称する一寺の建立を発願された事に始まりその後、宇多天皇が仁和4年(888年)に造営を完成されました。「御願寺」と称する寺院は、皇室の私寺を意味しますが、西山御願寺は完成と共に、先帝から受け継がれた「仁和」の年号をもって寺号と定められ、大内山仁和寺と呼ばれました。応仁元年(1467年)、応仁の乱によって一山ことごとく灰燼しました。徳川幕府三代将軍・家光の御代に再興されました。京都御所の再建とも重なり御所から仁和寺金堂になっている「紫寝殿」、他多数の建造物と再建資金として20数万両を徳川幕府から得て再興されました。明治の大火で本坊、寝殿などが消失しましたが現存するほとんどの伽藍は寛永年間の遺構で明治維新では第30世・純仁法親王が還俗した事で皇族が門跡となる宮門跡になる時代が終わりました。平成6年(1994年)に仁和寺は世界文化遺産に登録されました。

仁王門(重要文化財:江戸期)

本坊表門(重要文化財)

仁王門(重要文化財:江戸期)

仁王門は、知恩院の「三門」や南禅寺の「山門」と共に、京都三大門と呼ばれ、同時代を代表する建築物として知られますが知恩院や南禅寺の門が禅宗様式(唐様)であるのに対し、仁和寺の仁王門は和様である事に違いがあり寛永14年(1637年)〜正保元年(1644年)にかけて建てられました。

大玄関

旧御室御所御殿(白書院、寝殿)

勅使門

済信僧正塚

中門(重要文化財:江戸期)

中門〜仁王門の参道

金堂(本殿:国宝・桃山期)

金堂は京都御所より下賜されたもので、慶長年間に建立された「紫宸殿」の遺構だけに平安時代の建築様式である「寝殿造」の様式を残し我が国の建築史上重要な建造物として国宝に指定され金堂には本尊の阿弥陀三尊像が安置されています。

名勝・御室桜(お多福桜)

観音堂(重要文化財:江戸期)

金堂(国宝:桃山期)

金堂(国宝:桃山期)

Pちゃんズ恒例?!マンマンちゃんアン! m(_ _)m

経堂

五重塔(重要文化財:江戸期)

九所明神重要文化財:江戸期

拝殿

休憩〜(五重塔)\(^o^)/ ウホッホ〜イ!!!

鐘楼(重要文化財:江戸期

菅公腰掛石

水掛不動尊の台座石は宇多天皇に右大臣として登用されていた菅原道真が後年無実の罪で九州太宰府に流されるとき、宇多法皇の元に別れの挨拶に参上したところ、法皇は勤行中であったので、この石に腰を掛けて勤行が終わるのを待ったと伝えます。

水掛不動

閼伽水井と管公腰掛石

水掛不動尊と管公腰掛石

水掛不動

御影堂(重要文化財:江戸期)

御影堂への参道

成就山「御室八十八ヶ所霊場」 ←クリックして頂くと巡拝できます。

文政10年(1827年)当時は四国への八十八ヶ所巡拝が困難であった為、仁和寺第二十九世門跡・済仁法親王の本願により弘法大師所縁の四国八十八ヶ所霊場を寺侍・久富遠江守が巡拝し各霊場の砂を持ち帰り各御堂に埋めたのが始まりと伝わります。約3kmの参拝路に八十八の御堂が点在し、それぞれに本尊と弘法大師像が祀られています。

仁和寺西門(御室八十八ヶ所巡拝口)

巡拝道の弘法大師像と「やすらぎの道」碑

巡拝道の地蔵尊

巡拝道

市内(伏見方面)の絶景

ランチたいむ〜(^_^)Vやれやれ〜

巡拝道

石碑

巡拝道

愛宕山の雄姿

市内の絶景(成就山頂上236m)

石仏、地蔵尊群(第65番札所・三角寺境内)

御室八十八ヶ所札所巡拝もクライマックス!(^_^)V

五智如来石仏群

前方に胎蔵界の大日如来を中心とする丈六の五智如来(右より薬師、室生、大日、阿弥陀、不空成就釈迦)、後方に地蔵菩薩を中心に観世音などの諸像11体が並び伏見深草・石峰寺のそれと共に京都市における石仏群の双璧です。

第八十八番札所・大窪寺

五智山蓮華寺

五智如来石仏群

五智如来石仏群

安達祐○さんらタレントが多く来店している「いっぷく茶屋」・・・いちごミルクのカキ氷!\(^o^)/うまか〜

嵐電・モボ27系(嵐電北野線・御室駅)

嵐電・モボ2001系(嵐電・四条大宮駅)

快速急行 5300系(阪急・河原町駅)

阪急電車・快速特急 6300系(阪急・河原町駅)

南座(四条大橋)

阿国(おくに)歌舞伎碑

おけいはん・K特急(3000系:京阪・四条駅)

おけいはん・K特急(3000系:京阪・中書島駅)

長建寺

十石舟(宇治川派流)

酒蔵

旅籠・寺田屋

Tourist  2004.08.02(M)

 

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伏水物語コラム「新撰組」

新撰組

 

 

 

 

今回のPちゃんズの「きぬかけの道散策」は、新撰組壬生屯所跡界隈と仁和寺、御室八十八ヶ所を散策してきました。

成就山「御室八十八ヶ所」は八十八の全ての札所をスライドショーで紹介しています。宜しければPちゃんズとご一緒に巡拝下さい。

 

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