Pちゃんズの近江紀行「沖つ島山・沖島、秀次43万石の城下町・八幡探訪」

 

淡海(あふみ)の海 沖つ島山 奥まけて 我が思ふ妹(いも) (こと)の繁けく  (万葉集) 柿本人麻呂

 

長命寺港〜沖島〜関白・豊臣秀次ゆかりの八幡山・村雲御所瑞龍寺〜日牟禮(ひむれ)八幡宮〜八幡堀

琵琶湖に浮かぶ暮らしがある沖つ島山・沖島

琵琶湖、沖島(おきしま/おきのしま)

琵琶湖・・・滋賀県面積の約1/6を占め、最狭部に架かる琵琶湖大橋を挟んで北側を北湖、南側を南湖と呼びます。マザーレーク(母なる湖)・琵琶湖(周囲約235.2km、面積約670.33ku、最水深部約103.58m、平均水深約41.2m、貯水量約275億㎥)は世界でも10ヶ所しか確認されていない長寿の湖でバイカル湖(ロシア)、タンガニーカ湖(タンザイア)に次いで3番目に古い古代湖です。誕生は今から400万年以上前に遡り三重県上野盆地辺りに古琵琶湖(大山田湖)が誕生したのが始まりとされ地殻変動を繰り返しながら少しずつ北上し約40万年前に現在地移りました。1000過100万年前には中国にあったという説もあり現在も動き続け数100万年後には日本海に消えてしまうと言われます。琵琶湖西岸に天智天皇が一時、大津京を営み、万葉集には「淡海(あふみ)」と記され、後に滋賀県が「近江国(おうみのくに)」と呼ばれる語源にもなりました。豊臣秀吉は天正15年(1587年)頃に大津城を築き、大津などの船持に大津百艘船を組織させて観音寺の船奉行支配下に置き、特権を与えて保護しました。近世になり、大津は松原(彦根)や米原など他港と対立し、江戸時代には松原、米原、長浜が彦根三湊として井伊氏の保護を受けました。沖島・・・堀切港(近江八幡市)の沖合約2qの琵琶湖に浮かぶ周囲約7q、面積約1.5ku、人口約500人の琵琶湖最大の有人島で滋賀県近江八幡市に属します。和銅3年(713年)、藤原鎌足の子で近江国守・藤原不比等が延喜式内社と記される奥津島神社を建立した事に始まったと伝え、沖島は神の島として湖上航行の安全を祈願し崇拝された無人島でした。平安初期、柿本人麻呂が「淡海の海 沖つ島山 奥まけて 我が思ふ妹 言の繁けく」と万葉集に詠みました。人が定住したのは保元、平治の乱で敗れた清和源氏の落武者7人が漂着してからと伝えますが、湖沼の島に人が住む例は世界的にも珍しく小学校、郵便局などもあります。島内の交通手段は自動車は一台もなく、主に自転車で島外への交通手段は、一軒に一隻以上の船が所有され対岸の堀切港に自家用車を駐車されています。他に沖島町が運営する通船(定期船)もあります。

ハンカチ王子?(爆)首にタオルのPちゃん(^O^; JR京都駅 国鉄カラーの金沢行き、特急・雷鳥
瀬田川 野洲川と近江富士(三上山) 近江八幡駅到着!先ずは観光案内所へ (^O^;ゞ
長命寺行きバス 11時頃に長命寺到着!(^O^; 暑うぅ〜 西国三十三ヶ所の第三十一番・長命寺参道
琵琶湖周航の歌碑 琵琶湖周航の歌碑の説明 琵琶湖周航の歌
長命寺山 長命寺港 みずすまし2世
11時20分出航の船は、あの船かな?団体さんの都合で12時まで待たされる事に・・・ ( ノ ̄∇ ̄)ノ 一日一便の発着船に乗船! (〃^0^〃)/ 出航!!!
12時に長命寺港を出港!ふぅ〜 まっ、いざ行かん沖つ島山へ!!全速前進!!! o(>w<)〇゛ しか〜し、ごっつう〜揺れますがな! ( ̄▽ ̄;)!!
比良山系 右舷5時の方向に海賊船? (≧Σ≦)ぶっ おっと〜漁船でした〜。。。速〜 (@_@;)
お〜沖つ島山じゃ〜〜 o(>w<)〇゛ ふぉ〜 沖島全景 さっきの漁船は沖島港へ帰港するのかな???
沖島のとある民宿専用船発着場 ここから、船長さんと3人どすえ〜 沖島の家並み
間もなく沖島港 沖島港に入港しまつた。。。(@^▽^@)
港内には、たくさんの漁船などが係留されています。。。 船頭のPちゃん?!(≧Σ≦)ぶっ
あらよっと。。。上陸しまつ・・・ 長命寺港から乗船した通船 沖島港
沖島を探訪しまつ。。。(^O^; 暑うぅ〜   ん???潮の香りが・・・しませんがな! ( ̄ω ̄;)! おっと、ここは琵琶湖でつた〜! ( ̄▽ ̄;)!! おいおい
長命寺方面 堤防沿いをテチテチ。。。 対岸は竿飛びで知られる伊崎、堀切方面
沖島と蓮如上人

文明年間、本願寺第8代門主・蓮如上人が湖北より船で堅田の本福寺へ向かわれる時、琵琶湖で嵐に遭遇され沖島に避難されました。この時、島の漁師・茶谷重衛門の女房が、乳飲み子を残して亡くなり子への未練から成仏出来ずに幽霊となる事を知り、哀れに思った蓮如上人は、この女房を再度しないようにと、筵(むしろ)の上で染筆された名号「南無阿弥陀仏(筵上で書かれたので虎の模様に似ているので『虎斑の名号:とらふのみょうごう』と言われる)」と正信偈(しょうしんげ)を重衛門に託され、女房は無事に成仏出来ました。その後、重衛門は蓮如上人により得度しました。遺された真筆「虎斑の名号」と「正信偈」は島内の西福寺の寺宝として大切に保管されています。

漁業倉庫 蓮如上人御旧跡 沖島資料館(休館日) ( ̄▽ ̄;)!! 残念〜
沖島の民家・・・港周辺に密集しています。。。生活道路は迷路のようで佃煮を炊く美味しそうな香りが漂ってまつ・・・ヽ(゜▽、゜)ノ
和銅3年(713年)、近江国守・藤原不比等(鎌足の子)が建立したと伝える奥津島神社
更に丘上にある地元の人が山神様と呼ぶ八尾神社の拝殿でランチタイム〜しまつた! ヽ(゜▽、゜)ノ 島内をテチテチ・・・
車は一台もなく自転車が島内の移動手段ですが特に三輪自転車が多い。。。 レトロチックでステキな沖島小学校
沖島のスクール船・わかば おっと、校庭に生徒が? !(^O^; 岬の分校がある小豆島を連想します。。。
カッパさまじゃ〜( ̄▽ ̄;)!@沖島小専用水泳場 厳島神社(弁財天)へ向ったのですが、船の出航時間が迫りやむなく沖島港へ。。。( ̄▽ ̄;)!!
集落に戻ってきました・・・ 沖島小学校々庭を通過。。。(^O^; 暑うぅ〜 対岸の堀切、国民休暇村方面
う〜ん、やっぱり潮の香りが。。。しませんけど ( ̄ω ̄;)! ここは琵琶湖じゃ!!( ̄▽ ̄;)!!どもども 沖島港
係留されている数隻の漁船からエンジン音が・・・出漁かな??? 堀切港行き船乗り場
14時出航予定の沖島町営の沖島通船 漁船が出漁?! 定刻通りに出航!
沖島港を出航し堀切港へ・・・! 遠くなる沖島(左) 堀切港へ着岸
堀切港 通船が乗客を乗せ沖島へ戻って行きます。。。 国民休暇村へテチテチ・・・沖島全景
日本水浴場88選に選定される宮ヶ浜水泳場 近江八幡駅行きのバス 美しく整備されている八幡堀@白雲橋
八幡山ロープウェー

わずか18歳で近江43万石の領主となった秀次は豊臣秀吉の姉・日秀(にっしゅう/智:とも)の長男として生まれ、八幡山城々下町を自由商業都市として発展させようと安土の城下町を移して楽市楽座の施行、八幡堀の活用、各地から有力な商人や職人を呼び寄せるなど、商いの町の基盤を築きました。八幡山城は秀次の在城、僅かに5年で悲運の最期を遂げ、築城から10年後に破却され現在は石垣のみ残りますが、標高286mの八幡山々頂までロープウェーで上ると八幡山城を築いた秀次の菩提寺・村雲御所瑞龍寺があります。山頂からは、秀次が基盤の目状に整備した城下町の近江八幡市街地、琵琶湖や西の湖などの絶景を一望できます。

以前はドブ川に変わり果てた八幡堀 八幡山々麓〜山上まで約4分で結ぶ八幡山ロープウェー
遠くに伊吹山、西の湖、水郷地帯、安土山(城跡)、観音寺山〜近江八幡市街俯瞰・・・安土城からもこんな眺めじゃったのかな〜 o(>w<)〇゛
お願い地蔵尊 しっかりお願いしまつ。。。なにを?( ̄▽ ̄;)!! 八幡城遺構の石垣
村雲御所瑞龍寺

八幡山々頂の八幡山城本丸跡にある日蓮宗唯一の門跡寺院で、鶴翼山(かくよくさん)と号し、別名を「村雲御所」とも呼ばれる豊臣秀次の菩提寺です。豊臣秀次は、秀吉の養子になり関白職を継ぎ、左大臣も兼任しましたが、秀吉と淀殿の間に秀頼が生まれた為に後継者争いに発展し、遂に文禄4年(1595年)7月15日、謀反の罪をきせられ高野山で切腹し27才の生涯を閉じました。慶長元年(1596年)、秀次の生母(秀吉の姉)・瑞龍院秀尼が、秀次の菩提を弔う為に、後陽成天皇から京都の村雲の地(嵯峨野)と瑞龍寺の寺号を賜り、村雲御所を創建しました。門跡寺院として格式も高く、昭和37年(1596年)に村雲から主要建物が秀次ゆかりの八幡山に移されました。

八幡山城の虎口遺構が残る山門辺り 安土〜近江八幡〜近江富士(三上山)俯瞰・・・おぉ〜 43万石の絶景じゃ〜 o(>w<)〇゛
本堂 宝篋印塔(ほうきょういんとう:供養塔) 瑞興殿
稲荷社 八幡城遺構の石垣 長命寺、西の湖の展望が美しい北の丸跡
八幡山

鶴が羽を広げた姿に似ているので鶴翼山(かくよくざん)とも呼ばれる八幡山の山頂(標高286m)に天正13年(1585年)、豊臣秀吉の甥・羽柴孫七郎秀次が八幡山城を築きました。秀吉の養子になって関白、左大臣まで異例の早さで出世した秀次でしたが、秀吉に秀頼が誕生すると謀反の汚名をきせられて高野山で切腹しました。

西の湖、水郷めぐりで知られる水郷地帯、安土山、観音寺山俯瞰 o(>w<)〇゛ 絶景ふぉ〜 八幡山三等三角点(271.7m)
比良山系と長命寺山 功名じゃ〜43万石の八幡山とったどぉ〜(o^v^o)v 比良山系、琵琶湖の展望が美しい西の丸跡
近江富士(三上山)〜琵琶湖大橋〜比良山系、長命寺俯瞰・・・素晴らしい自然のコントラスト!!! 輝く琵琶湖の湖面が美しい〜o(>w<)〇゛
二の丸跡(展望資料館) 西の湖〜水郷地帯〜安土山、観音寺山(繖山:きぬがさやま)〜近江八幡市街地俯瞰
悲運の関白・豊臣秀次

秀次は永禄11年(1568年)、尾張国大鷹村の三好吉房の長男として生まれ、母は秀吉の姉・智(とも)で実子のない秀吉の養子になって羽柴孫七郎秀次と改名し、少年時代から秀吉の陣に加わり16才の時、賤ヶ岳(しずがたけ)の合戦にも参加しました。天正13年(1585年)、近江の蒲生(がもう)、神崎、野洲(やす)の三郡と大和の一部を併せて43万石を与えられ、秀次は18才の時、八幡山城を築き、「八幡山下町掟書」を公布し織田信長の安土の城下町のように、楽市楽座を定め、自由商業の町にしました。琵琶湖の湖上交通にも目をつけて、八幡堀と琵琶湖を結び城下町を発展させました。秀次が居城したのは僅かに5年でしたが、町民本位の町作りが八幡商人発展の足懸りとなりました。天正19年(1591年)、豊臣秀次と改名し秀吉から関白職を譲られました。天正18年(1590年)、小田原攻めの戦功によって100万石を与えられ清洲城主となり八幡を去りました。しかし、文禄元年(1593年)、秀吉に秀頼が生まれると秀吉に疎まれるようになり関係が悪化、この頃、秀次は鉄砲等で庶民を殺害したり、比叡山に女子を引き連れて狩猟に興じる等、非道な殺生などを繰り返したと言われ、「殺生関白」とも呼ばれましたが、詩歌や学問を愛する穏やかな人物だったとも伝え、事実関係は不詳です。やがて諸問題での対立が激化し文禄4年(1595年)、秀次27才の時に秀吉によって謀反の疑いをかけられて官位(関白、左大臣)などを剥奪されて失脚、高野山青厳寺に追放され、同年7月8日、出家。7日後の15日に切腹させられました。同年8月2日、京都の三条河原で秀次の遺児(4男1女)及び正室、側室39名が処刑され、更に秀次に連座した大名も処罰され聚楽第も破却されました。この時、山内一豊、伊達政宗、藤堂高虎らは処罰されませんでした。

近江八幡市街地俯瞰 関白・豊臣秀次さまと駒姫さま?(爆) (@^▽^@) 楼門(隋神門)
日牟禮(ひむれ)八幡宮

千余年の歴史を誇る旧八幡町の総社で誉田別尊(ほんたわけのみこと)、息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)、比売神(ひめかみ)の三神を祭神とします。平安時代の創建と伝え、京都府八幡市の石清水八幡宮の神霊を勧請したものです。社伝によると成務天皇元年(131年)、第13代成務天皇が高穴穂の宮に即位の折に武内宿禰(たけうちのすくね)に命じて、この地に大嶋大神(地主神)を祀ったのが鎮座の始めとされます。應神天皇6年(275年)、天皇が近江に行幸された際に奥津島神社に参詣し、還幸の折に当地に御座所が設けられ休憩されました。その後、祠を建てて「日群之社八幡宮」と名付けられ、持統天皇5年(691年)に藤原不比等が参拝し、詠んだ和歌に因んで比牟礼社と改めたと伝えます。日牟礼八幡宮の社宝に、江戸時代に海外貿易で活躍した近江商人の西村太郎右衛門が、奉納した「安南渡海船額:あんなんとかいせんがく」があります。他に祭神である三神の木像なども重要文化財に指定されています。

能舞台 萬燈祭が行われています・・・本殿 出た!出たぁ〜!!くださいな〜 ( ̄▽ ̄;)!!
八幡堀

堀は城を防御する為に存在しますが、豊臣秀次は八幡堀を運河として利用し琵琶湖を往来をする全ての船を八幡の町に寄港させました。八幡城下はかっての安土のように楽市楽座を取り入れ商人の町として発展しました。昭和30年頃になると次第に市民の関心も薄らぎ、八幡堀はドブ川のようになり埋め立てられようとしました。「八幡堀は埋め立てた瞬間から後悔が始まる」の合言葉によって市民が決起した結果、かっての姿を取りも戻すようになり今日も各種団体によって清掃活動などが続けられています。

秀次は八幡掘を設けて琵琶湖を往来する全ての荷船を八幡の町中に寄港させました。。。 日牟礼八幡宮大鳥居
ウイリアム・メレル・ヴォーリズ(一柳米来留:ひとつやなぎ めれる)

ヴォーリズは明治38年(1905年)、24才の時にアメリカから来日し、滋賀県立商業学校(現・八幡商業高校)の英語科教師に赴任しました。一方でキリスト教伝道も熱心だった為に宗教的対立を生み、わずか2年で教師を解任されました。教師を解任された後も八幡に留まり教育、医療、出版や建築と多彩な事業を展開しました。大正8年(1919年)、子爵・一柳末徳(すえのり)の三女、満喜子と結婚し、大正9年(1920年)、近江セールズ(株)を設立してメンソレータム(メンタム)の輸入販売を開始、昭和9年(1924年)、近江兄弟社学園を設立しました。昭和16年(1941年)に日本国籍を修得、姓を妻方の一柳、名を「米国から来て留る」という意味から米来留(めれる)と改名しました。ヴォーリズの事業を経済的に支える為に吉田悦蔵や村田幸一郎など新生近江商人を始め、多くの人々が力を合わせて、建築設計会社、製薬会社などの事業活動を全国に展開しました。「建築物の品格は人間の人格の如く、その外装よりもむしろ、その内容にある」との信念に基いて設計された建築物は、大阪心斎橋の大丸、京都四条大橋西詰めの東華采館(矢尾政レストラン)、東京駿河台の山の上ホテルなど建物数は全国各地に1600にも及び、八幡市内に27の建物が残され彼の住居跡がヴォーリズ記念館として公開されています。ヴォーリズは昭和39年(1964年)、83才で生涯を終えるまで、教育事業や産業を興し病院を設立するなど近江八幡の教育や文化に貢献した功績により、昭和38年(1963年)に近江八幡の名誉市民第1号に選ばれました。

明治10年に設立した八幡東小跡の白雲館 白雲館駒札 あきんどの道(仲屋町通り)
近江商人

近江八幡は近江商人発祥の地の一つで知られます。江戸時代、他国で活躍する近江出身者を近江商人と呼びましたが、中でも八幡商人は早い時期から商才を発揮しました。近江商人は天秤棒を担いで1日に数10kmもの道程を何日も歩き続けました。諸国を行商する事で、様々な情報を収拾し、その地に無い物で必要とされる物を他国で仕入れて全国を売り歩きました。近江商人のモットーは「しまつしてきばる」と「陰徳善事」と言われ「しまつ」とは節約の事で、ケチる事ではなく、「きばる」は頑張る、努力するという事です。「陰徳善事」とは、人知れずに善い事をするという意味で、売り惜しみや投機相場の操作で利を荒稼ぎする事などを邪道として戒めています。江戸時代を通して近江商人の理念の「買い手よし、売り手よし、世間よし」という「三方よし」が商いの基本とも伝えます。近江商人は、海外や江戸などに一早く進出し、日本橋界隈に大型店を構えた商人が多く「八幡の大店:おおだな」 と言われました。特に、西川甚五郎、伴伝兵衛、森五郎兵衛は江戸の御三家と呼ばれました。八幡には、貴重な文化財として彼らの住居が保存されています。

ヴォーリズが手がけたモダンな旧八幡郵便局 あきんどの道(仲屋町通り)
あきんどの道(仲屋町通り) 近江八幡駅行きのバス@小幡上筋バス停 JR近江八幡駅
新快速電車に乗まつ。。。 きょうと〜きょうと〜京都でつ! よ〜歩きまつた!お疲れ〜@桃山御陵前駅

Tourist  2006.08.14(M)

参考資料  近江八幡 歴史街道

近江八幡観光物産ガイド

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