山紫水明散策

 

忍ばれん ものとはなしに 小倉山 軒端(のきば)の松に 馴れて久しき 藤原定家

 

山紫水明散策「清涼寺〜奥嵯峨野〜小倉山(亀山公園など)編」

 

清涼寺〜奥嵯峨野〜小倉山(亀山公園など)〜サイクリングロード

 

小倉山

大堰川を隔てて嵐山北岸の山容優美な山で小倉とは樹木が鬱蒼と茂っているから小暗の意で昔は嵐山も含め小倉山と称しました。この山は亀が這っているようにも見え古くは亀山と呼ばれ亀山公園辺りは亀の尾に当るので亀尾山と言います。後嵯峨上皇の仙洞を亀山殿と言い天竜寺を後亀山と号するのもこれに因みます。江戸時代、蕉門十哲の一人、向井去来はこの山麓に落柿舎を営むなど多くの文人、歌人らに愛好され今も鄙びた風景は沢山の人を魅了するものがあります。

舞妓はんと人力車

仁王門(清涼寺)

本堂(清涼寺)

秀頼公首塚と大坂の陣戦没者供養碑(右)

まゆ人形Only1のお店「まゆ村」

ほっこり、はんなりと落ち着く「まゆ村」の店内

保津川渓谷の絶景

保津川下りの船

風情のある鳥居本の里

平家物語所縁の小督(こごう)塚

嵐山

愛宕山

 

小倉山と愛宕山(渡月橋)

比叡山(渡月橋)

京福(嵐電)嵐山駅

ホーム内にある足湯温泉

抹茶ソフトはまいう〜

京都らしい舞妓はんと人力車

清涼寺

清涼寺は嵯峨野でも有数の古刹で五台山清涼寺と号し源氏物語の光源氏のモデルとされる平安貴族の源融(みなもとのとおる)所縁の寺です。本尊の三国伝来の釈迦仏は有名で嵯峨釈迦堂(さがしゃかどう)として、人々に崇拝されています。左大臣・源融(みなもとのとおる)の別荘(棲霞観:せいかかん)を源融没後、寺に改め棲霞寺(せいかじ)と号し天慶8年(945年)、源融と血縁深い式部卿宮重明親王が亡室の為に新堂を建立し金色等身の釈迦如来一体を安置し42年後の永延元年(987年)、南都東大寺の僧・「念(ちょうねん)は宋より帰朝後、請来した釈迦如来像と摺本一切径を当寺に安置しました。「念は愛宕山を中国の五台山に擬えてその麓に大清涼寺を建立しようと考えましたが長和5年(1016年)、「念没後、弟子の盛算は師の遺志を継ぎ棲霞寺内に一宇を営み釈迦像を安置し五台山清涼寺と号し都下万民の信仰を集め隆盛し軒を貸した棲霞寺は衰徴し今は境内の阿弥陀堂に名を留めるに過ぎません。本尊の釈迦如来立像(国宝:宋)は、体内に五色の絹で作った五臓六腑(ごぞうろっぷ)とお経を持ち、生身(いきみ)のお釈迦様と称されています。近年、大阪城発掘時に見つかった豊臣秀頼の首塚が本堂横に祀られています。

天竜寺

清涼寺

経蔵

宝篋印塔(源昇公墓碑)

本堂

阿弥陀堂

弁天堂

境内からの嵐山

軒端ノ梅

合掌

隠元筆「栴壇瑞像」の扁額

秀頼公首塚と大坂の陣戦没者供養碑(右)

釈迦石仏

多宝塔

法然上人像

宝篋院(ほうきょういん)

平安時代、白河天皇の善入寺として建立され後に室町幕府二代将軍・足利義詮(よしあき)の菩提寺となり義詮の法号に因んで宝筐院と改められました。境内には義詮の宝篋印塔(墓所)と南朝の武将・楠正行(まさつら/正成の子)の五輪塔(首塚)が並んでいます。二人は南北朝争乱期に敵対した武将で正平3年/貞和4年(1348年)1月、正行は四条畷の合戦で高師直の率いる北朝の大軍と戦い討ち死し首級(しゅきゅう)を善入寺に葬られました。南朝方の正行を武将として尊敬していた義詮が自分もその傍らに葬るよう遺言したされます。

宝篋院(ほうきょういん)

愛宕山街道(町並み保全地区)

化野(あだしの)のまゆ人形のお店「まゆ村

日本、世界で此処だけの繭人形Only 1という拘りのお店「まゆ村」・・・当地、あだしので創業26年。かわいい繭人形始め、癒しの空間がステキなお店と共にスタッフさん達のお持て成しにも感激しました。嵯峨野散策で疲れた時に気軽に立ち寄れる気さくなお店。

まゆ人形Only1のお店「まゆ村」

ほっこり、はんなりと落ち着く「まゆ村」の店内

風情のある鳥居本の里と瀬戸内川

寂庵

ニ尊院

常寂光寺(じょうじゃっこうじ)

小倉山と号し日蓮宗本圀寺派の寺で寛永年間に本圀寺の日槇上人の退穏所を寺に改めたもので天台四土の一つ常寂光土を思わせるところから寺名となりました。茅葺きの仁王門には運慶作と伝える仁王像が立っている。檜皮葺きの多宝塔(重要文化財:桃山期)は、天和年間の建築ながら華麗な桃山様式を伝えています。豊臣秀吉、小早川秀秋との所縁も深く、仁王門は本圀寺の南北朝時代のものです。藤原定家が小倉山百人一首を編集した場所の時雨亭趾もあります。仁王門〜本堂迄の石段脇の紅葉は見事です。

落柿舎

常寂光寺

亀山公園山頂へ・・・風情があります。

隠と陽・・・幻想的な保津川渓谷の絶景

風情のある道(亀山公園)

小督(こごう)塚

小督局(こごうのつぼね)は権中納言成範の女とも藤原信西の女とも伝え平清盛の女・建礼門院に仕え宮廷一の美女で琴の名手とされます。高倉天皇の寵愛を受けますが、以前には藤原隆房(清盛の五女の夫)の寵愛を受けた為に清盛が激怒しそれを伝え聞いた小督は帝にまで害が及ぶ事を案じて秘かに宮中を去り嵯峨野に隠棲しますが帝から命を受けた北面の武士・源仲国は小督を捜し求めて渡月橋の畔に来た時、かすかに聞こえる琴の音で彼女を探し出したと平家物語は伝えます。こうして帝の元に戻りやがて女子が生まれますが、中宮徳子より先に帝の子供を生んだ事で更に清盛の怒りを招き23歳で無理矢理に出家させられました。高倉帝が亡くなった後は清閑寺で菩提を弔い、没後に高倉陵の傍らに葬られたと伝えます。

周恩来総理記念詩碑

保津川下りの船

小督(こごう)塚

嵐山

渡月橋

渡月橋からの愛宕山

渡月橋からの比叡山

サイクリングロードの嵐山地点

さぁ〜伏見へ帰ろう!!!・・・ススキ河原を疾走中!

愛宕山

阪急電車が通過しています。

夕暮れが迫ってきました・・・

あらら〜Pちゃん(max29km)に抜かれました!(@_@)

ふふふ〜負けへんで!!35kmで追走してヾ(・・ )ォィォィ

下鳥羽に入りました。

愛宕山方面(草津の湊:羽束師橋)

比叡山方面(草津の湊:羽束師橋)

午後5時過ぎに無事に帰還しました!(^_^)V

Tourist  2004.10.011(M)

 

関連サイト

松尾神社・岩田山編

山紫水明散策「松尾〜奥嵯峨散策」

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