京都魔界案内・老ノ坂峠の酒呑童子首塚探訪

 

丹波道の 大江の山の さな葛 絶えむ心 我が思はなくに 万葉集(巻12-3071)

 

城南宮〜来迎寺〜洛西竹林公園〜首塚大明神〜老ノ坂トンネル〜大枝神社〜城南宮

 

京の魔界伝説・・・日本最強の鬼の首領・酒呑童子(しゅてんどうじ)

酒呑童子は山城国と丹波国の国境の大枝(老ノ坂)に棲んでいたと伝える鬼の首領で数多ある鬼伝説の中で最も有名で最強の鬼と伝えられ、本拠とした大江山では龍宮のような御殿に棲み、数多くの鬼達を配下にしていたという。別に酒顛童子、酒天童子、朱点童子と書くこともある。玉藻前(たまものまえ)で有名な白面金毛九尾の狐、恨みによって大天狗と化した崇徳天皇と並んで、日本三大悪妖怪と称された。 酒呑童子は、大江山を拠点として茨木童子ら多くの鬼を従え、度々京の都に出向き、貴族の姫君らを誘拐して側に仕えさせたり、生肉を喰ったという。あまりにも悪行を働くので帝命により摂津源氏(清和源氏三代目)・源頼光と嵯峨源氏・渡辺綱を筆頭とする頼光四天王により討伐隊が結成され、姫君の血酒や生肉をともに食べ安心させた上、酒盛りの最中に頼光が神より兜とともにもらった「神便鬼毒酒(じんべん(じんぺん)きどく しゅ)」という酒を酒呑童子に飲ませて体が動かなくしたうえで寝首を掻き成敗した。しかし酒で動きを封じられ、だまし討ちをした頼光らに童子は「鬼に横道はない」と頼光を激しくののしり首を切られた後でも頼光の兜に食らいついた伝える。頼光たちは討ち取った首を京へ持ち帰ったが、老ノ坂で道端の地蔵尊に「不浄なものを天子がおられる都に持ち込むな」と忠告され、それきり首はその場から動かなくなってしまったため、一同はその地に首を埋葬した。 また一説では童子は死に際に今までの罪を悔い、死後は首から上に病気を持つ人々を助けることを望んだため、大明神として祀られたともいう。これが現在でも老ノ坂峠にある首塚大明神で、伝承の通り首から上の病気に霊験あらたかとされている。大江山(京都府加佐郡大江町)の山中に埋めたとも伝えられ、大江山にある鬼岳稲荷山神社の由来となっている。京都府の成相寺には、この神便鬼毒酒に用いたとされる酒徳利と杯が所蔵されている。酒呑童子の名が出る最古のものは重要文化財となっている「大江山酒天童子絵巻」(逸翁美術館蔵)であるが、内容は上記の酒呑童子のイメージとはかなり異なっている。まず綴りが酒「天」童子であり、童子は一種の土着の有力者・鬼神のように描かれていることが伺える。また童子は「比叡山を先祖代々の所領としていたが、伝教大師に追い出され大江山にやってきた」とも伝えられる。

伏見百景・酒蔵 新高瀬川右岸を北上ing・・・ 城南宮地図
・・・ 伏見名水・菊水若水 境内
こま札 鳥羽伏見戦が勃発した小枝橋 地図 鴨川
鳥羽水環境保全センター(下水処理場) 桂川に架かる祥久橋(新久世橋)を初めて渡ります・・・地図
桂川左岸、サイクリングロード 祥久橋(新久世橋)は走りやすい! (^-^)v 桂川右岸堤防を北上ing・・・
久世橋 西国街道碑と西国街道 船宿?いい感じ・・
R171 ・・・ 新幹線
JR桂川駅 地図 (;´д`)ゞあちぃ。。。 阪急洛西口駅 地図
阪急電車の5300系車両 同じく8300系車両 ・・・
来迎寺 地図

寛正年間(1460〜65年)、錦空上人が浄土宗西山派念仏弘通の道場として開創した寺院で本堂には阿弥陀像を安置し、薬師堂には旧光勝寺の遺仏とされる薬師像が安置されています。境内にある「曼荼羅石塔婆」は板石の表面上部に蓮華形の胎蔵界の中台八葉院、下方部に円形の金剛界成身会を表し松香石製で石棺の蓋を利用しているのが珍しいとされ傍の宝篋印塔の基礎に貞和4年(1348年)の銘があります。

・・・ 来迎寺
薬師堂 解説バネル 曼荼羅石塔婆と宝篋印塔(共に吉野期)
本堂 石仏や供養塔など
・・・ 行者池 ・・・
洛西竹林公園へ・・・ 竹林が涼しくて爽やか〜o(*^▽^*)o
・・・ 洛西竹林公園 地図 案内図
姉妹都市・キエフ市長入洛記念植竹 亀の甲羅のような模様なので亀甲竹
・・・ 竹の資料館※無料 館内
竹のフィラメントを使ったエジソン電球 京銘竹、エジソン電球、竹の生理・生態に関しての説明や資料展示されている・・
京都の伝統的竹製品なども展示されている・・ 庭園、竹の生態園へ・・・ 池には緋鯉や金魚、カエルに蛇まで(>_<)
応仁の乱発端の橋・百々橋(どどばし)

宝鏡寺門前の東西の通りを百々の辻と呼ぶのは、平安時代からであるが、小川に架かるこの小橋がいち早く有名となったのは、戦国時代この橋をはさんで合戦が行われてからである。
応仁元年(1467年)5月、応仁の乱最初の大合戦に際し、この橋には細川勝元は以下の三宅、吹田、茨木、芥川氏など攝津の武将が布陣し、山名方の平賀氏と激しく戦った。ここから、南の方一条戻り橋付近までがその時の主戦場となり、付近一帯が戦火で焼失した。それから40年後、細川勝元の子政元の跡嗣をめぐって、養子の澄元と澄之が対立、永正4年(1507)6月23日澄之が香西元長(嵐山城主)、薬師寺長忠らと謀って養父政元を殺し、翌24日澄元を攻めて、この橋で激しく戦った。澄元は近江へ敗走したが、8月1日には京都へ還り、澄之、元長、長忠を攻め亡した。この小さな橋には、かくて戦国乱世の歴史のひとこまが刻まれているのである。
なお、元々板橋でしたが、明治40年(1907年)に石橋に改築したもので昭和38年(1963年)に小川が埋められた時に橋も解体され、室町小学校に保管されていたものを石橋の貴重な遺構として現地に礎石を遺し、西竹林公園へ移築されたものである。

百々橋(どどばし)は細川(東軍)と山名(西軍)が11年間戦った応仁の乱の発端となった橋です。 こま札
歴史的に貴重な百々橋 昭和56年に開通した京都市の地下鉄工事の際に発掘された石仏群
織田信長が室町幕府最後の将軍・足利義昭の為に築いた旧二条城(永禄12年:1569年)の石垣に使ったといわれる石仏群
約5,000平方mの静寂な生態園の「竹の小道」をのんびりと散策するのも格別
竹の小道 ・・・ 茶室庭園
竹の径

西ノ岡丘陵の竹林道を地元の竹の枝を使い約1.5mの高さで束ねて並べた「竹穂垣」を両側に設置整備して作られたのが「竹の径」です。竹の径途中にある古墳時代前期の前方後円墳で三角神獣鏡も出土した「寺戸大塚古墳」の横約40mには、古墳の形をイメージした「古墳垣」を設けられ、その他「かぐや姫垣」など5種類の竹垣を巡らして整備され情緒豊かな風情を演出しています。国土交通省「手作り郷土賞」、読売新聞「全国遊歩百選」に認定されています。

洛西、西山俯瞰 風情のある竹の径は爽やかで涼しい(*´ο`*)=3ホッ
物集女(もづめ)街道を北上ing 国道9号線 天皇の杜古墳 地図
国道9号線 老ノ坂へ向けて上り坂をヘコヘコing 暑いな〜(;´д`)ゞあちぃ
わんわん(@_@;) ポカりたいむ(*´ο`*)=3ホッ ・・・
沓掛辺り 名神高速道路へ連絡する道路建設中 あれれ〜ペダリングがクルクル空回り(・・;)
こんな所でチェーンが外れるかっ?!(>_<) チェーンのリセット完了!トラックが頻繁に走るので側道をヘコヘコ上がっていきます(; ̄ー ̄川
すぐに側道がなくなったので車道をクネクネ上がっていきます(>_<)・・すぐ脇をトラックなど車が結構なスピードで走り抜けていくので怖いな〜(*_*)
車の往来が激しく、逢坂山、周山、宇治川ライン、伊賀街道を髣髴するダラダラ坂・・自転車でヘコヘコ走るのは危ないな〜(;¬_¬)もう亀岡市
この先事故多発じゃなくずっと怖かった(>_<) 暑いと思ったらこの時点で34℃(・・;)爆死?! やっと老ノ坂の集落に入ったのかな・・
子安地蔵尊(子安地蔵堂) 地図

山城国と丹波国の国境であった老ノ坂峠は今では、京都の人たちの霊園がある所というイメージが強いが、かつては近隣から人々が集まり市が立ち近世にはかなりの人家があったという。峠にはいつの頃からか小堂が建てられおそらく道祖神の後身と思われる子安地蔵とか峠の地蔵とか呼ばれた、安産に霊験がある地蔵が祀られていた。都名所図会にこんな由来伝承がある。昔、市盛長者という者の一人娘が難産で亡くなった、たまたまこの地に宿をとっていた恵心僧都の元にこの女の霊が現れ冥土の苦しみを訴えて救われた。お礼として末永く妊婦の難死を救いたいので地蔵尊を作ってここに祀ってほしいと言い残して消えた。女を埋葬した所に生えた栢の木で地蔵尊を作った。老ノ坂の子安地蔵にはもう一つの伝説がある。・・源頼光ら四天王が酒呑童子の首を持って都に帰ろうとすると、丹波と山城の国境付近で子安地蔵が「そのような不浄なものを都に持ち込んではならぬ」と言い、首が急に重くなったので、それにかまわず坂田の金時が首を持ち上げようとしたが持ち上げることが出来なかったので、この地に首を埋めて首塚を作った伝える。・・・安産に霊験かせあるということ峠の地蔵が鬼など不浄なものが都への侵入を阻止するという別の役割も兼ねていたということ。

安産祈願で有名な子安地蔵尊(子安地蔵堂)で、かつて旧山陰道の老坂峠にあった。

新旧老ノ坂トンネル

京都府の民話【桂川の餅屋の娘】

むかしむかし、京の町はずれに住むある夫婦に、ようやく赤ちゃんが授かりました。長い間子どもが出来ず、あきらめかけていた時でしたので、二人はとても喜びました。
さて、お腹の子がそろそろ産まれそうな気配になってくると、男は心配で心配でいてもたってもいられなくなり、丹波の老ノ坂(おいのさか)にある子安地蔵に、安産をお願いに出かけていきました。
「子安地蔵さま、どうかわが妻が、無事に子どもを産みますように」
しかしそこへ、別のお地蔵さんがやってきて、
「子安地蔵さま、私の知り合いに難産でひどく苦しんでいる母親がいます。どうか一刻も早くあの苦しみから救ってやって下さいませ」と、頼みましたので、子安地蔵は、「はてさて困ったものよ。我が身は一つ、同時に二人の願いを聞いてやることも出来ない。いったい、どうしたものかな」
と、しばらく考えこんでいましたが、
「やはり、苦しんでいる者を先に助けねばならん。先の方、申し訳ないが、ここで待っていて下され」と、言いおいて、後から来た地蔵さんと一緒に出かけてしまいました。
男は家に残してきた妻のことが気がかりでなりませんでしたが、ここまできた以上、手ぶらで帰るわけにはいきません。
そして、やっと帰ってきた子安地蔵をせきたてるように家へと向かいました。その途中、子安地蔵はすまなそうな声で、
「実はお前の妻はな、難産の末に子を死産するという運命にあったのじゃ。しかし、多少でも関わりあったが何かの縁、今回は何とか赤児の命を助けてやろう。だがな、その代わりその子は、十八になった年に桂川に命を棒げることになるだろう。すまんが、それだけはわしの力ではどうにもならないのだよ」と、言いました。自分の子どもが、十八才で死ぬというのです。
男はびっくりしましたが、それでも今はただ、妻と子の安産を祈らずにはいられませんでした。
急いで家に帰ると、まっ先に妻の寝ている部屋に行き、妻が子安地蔵の約束通り元気な男の子を産んでいるのを確かめると、ほっと胸をなでおろしました。男の子は二人の愛を一身に受けて、やさしい心のまますくすくと育っていきました。
あまりに元気なその子の様子に、父も母も、子安地蔵の言ったことが間違いであるような気さえしてきました。
そんな時、男は偶然にも、お役所から桂川の守り役を命じられたのです。(やはり、おれの子どもは十八の年に桂川で死ぬのか?)
再び男は、不安にさいなまされ始めました。こうなったら、桂川の水に異変がないことを祈るばかりです。
そしてとうとう、男の子は十八才をむかえました。不思議な事にその日から大雨が降り続き、桂川の水が溢れんばかりに水かさを増してきました。
父親は動転しながらも覚悟を決め、桂川に出かけようとした時、息子が声をかけました。
「お父さん、今日はお願いがあるのです。私ももう十八です。りっぱに父さんの代わりがつとまる年ではないですか。                  どうか桂川のことは私にまかせて、家にいて下さい」そう言うなり父親の止める声をふりきって、笠一つもち雨の中を飛び出して行きました。
父親はこれも全て運命だと悟り、妻に息子の最後がきた事を告げました。そして息子の亡きがらを持ち帰る為、後を追って桂川へ向かいました。
先に出た息子は、桂川まで走り通しでしたので、とてもお腹がすいてきました。そこでまず腹ごしらえをしようと、川のそばにある餅屋に入り、名物の餅をたらふく食べました。
さて代金を払おうとして金額をたずねると、餅屋の娘は、「はい、百貫です」と、言うのです。
あまりの金額にびっくりしながらも、持ちあわせのない息子は娘に編み笠を渡して、
「悪いがこれを代金の代わりにとってくれ。そしてもしも私が死んだら、この命、編み笠一枚のものだと思ってほしい」
と、頼みますと、娘は、「では、私も一緒に連れていって下さい」と、申し出ました。
息子が、命を失うことにもなりかねないと説得をしますと、娘は意を決したような真剣なまなざしで話し始めました。
「実は私は、桂川の主なのです。今日あなたのお命をいただくはずだったのですが、あなたのやさしさに心をうたれました。              そこであなたを、六十一の年まで生かしてさしあげましょう」そう言って娘は、桂川に姿を消しました。
その後、桂川にはもとの静かな流れがもどり、息子は六十一才まで病気ひとつしなかったそうです。
  おしまい。

老ノ坂トンネル手前の道を左へ・・この急坂の旧道が旧山陰街道 山中がガザガサ、バサバサと騒がしい・・
ななんと・・サルが群生している!(@_@;) 旧山陰道をサルの群れが横断していく(@_@;) (*´ο`*)=3ホッとタイム(^^ゞ

天正10年(1852年)6月1日、丹波亀山城を発した明智光秀の兵1万3千は水色桔梗の旗を立ててこの老ノ坂峠を越えて京都本能寺の織田信長を攻めた。光秀は信長に領地を没収され毛利を攻めている羽柴秀吉に加勢に備中へ向かい毛利の所領を奪い取って新しく自領にせよと命じられて丹波亀山城(現在:亀岡)に戻った。軍勢を整えた光秀は、西へ向かわず、「敵は正に本能寺に在り」と山陰街道の老ノ坂峠を越えて京に攻め入り世に名高い本能寺の変で信長を討った。

標高230m、旧山陰道老ノ坂峠にある愛宕燈籠 この先の分岐を左へ・・ 右前方の道標が、山城国と丹波国の国境
首塚大明神 地図

由緒
平安時代初期。(西暦八百年頃)丹波の国大江山に本拠を構えた酒呑童子が、京の都へ出て金銀財宝や婦女子をかどわかすなど、悪行の数々を行うので、人々の心に大きな不安を与えていた。
天子(天皇)は源頼光等四天王に命じ酒呑童子とその一族を征伐するよう命じられた。
源頼光等は大江山の千丈ヶ嶽に分け入り、苦心の後、酒呑童子とその一族を征伐し酒呑童子の首級を証拠に京の都へ帰る途中この老の坂で休憩したが、道端の子安の地蔵尊が「鬼の首のような不浄なものは天子様のおられる都へ持ち行くことはならん」と云はれたが相模の国の足柄山で熊と相撲をとったという力持ちの坂田金時が証拠の品だから都へ持って行くと言って酒呑童子の首を持ち上げようと力んだが、ここまで持ってきた首が 急に持ち上がらなくなった。
そこで一行は止むを得ずこの場所に首を埋めて首塚をつくったと伝えられている。
酒呑童子が源頼光に首を切られるとき、今までの罪を悔い、これからは首から上に病をもつ人々を助けたい、と言い残したと伝えられ首塚大明神は首より上の病気に霊験があらたかである。
                                                    昭和61年3月 宗教法人 首塚大明神社務所(由緒碑より)

山城国と丹波国境、「從是東山城國」道標 老ノ坂の集落を抜けると首塚大明神に至り元は円墳で参道は木の根道を登っていく。

首塚大明神は、円墳上に建てられているともいわれ光仁天皇の側妾、後に妻で桓武天皇生母・高野新笠陵と混同されていた。周辺には、古墳時代後期の大枝山古墳群(御陵大枝山)も発掘されている。

首塚の森・・・かつて高野新笠陵と混同されていた円墳で、この辺りにサルが群生してモノノケの如く、怪奇声を発して不気味やな〜。。。(@_@;)
木の根道 落雷の痕が生々しい大杉(@_@) 由緒碑
首より上の病に霊験があらたかと言われる・・ネットでは奥の鳥居を潜ると祟りがあるとか・・私、鳥居を潜って鈴も鳴らしてしっかり参拝!(^-^)v
狛犬ならぬ狛鬼さん?(^▽^;) 酒呑童子の首級が埋められている首塚 この道標が、山城国と丹波国の国境
昔、この老ノ坂峠に茶店などがあって人の往来も多くて賑わったらしい・・・ 国道9号線・老ノ坂トンネル
旧老ノ坂トンネル(歩行者・自転車専用トンネル)・・涼しいなぁ〜(´ー`) 亀岡側へ抜けました・・でわ、戻ります!(^^ゞ
老ノ坂トンネル出口 ・・・ ・・・
チャリダーがヘコヘコ上ってきた〜!o(*^▽^*)o 行きはヘコヘコ・・帰りは5※km/h走行?! (^^ゞ ・・・
ダンプや大型トラックがすぐ脇を走り抜けていくのでマジで怖い・・・ ラブホ街から旧道へ外れました・・
大枝神社 こま札
・・・ 拝殿 参拝しました・・・O(-人-)O
もうすぐ実りの秋
西山が幻想的に見える ・・・
・・・ ・・・ 阪急電車
・・・ 桂川右岸堤防に出ました・・・ 久世橋
愛宕山と桂川 桂川左岸のサイクリングロードへ・・・
今日は空の雲と太陽の光で西山が幻想的に見える気になるな〜・・
前方に名神高速道路 鴨川に架かる小枝橋 再び城南宮
鳥羽伏見戦解説札 境内 参拝しました・・O(-人-)O
シューやアイスを買ったのですが・・不覚にもドライアイスを頼み忘れてしまった!(>_<) この暑さに溶けるぞぉ〜 急げ〜ヽ( ̄ー ̄*)ノ
ぶっ飛ばしモードで帰還中・・赤信号かい(>_<) 大手筋商店街 風呂屋はないけど・・風呂屋町?!(^▽^;)

Tourist.2011.9.12(M)

 参考資料:京都魔界案内

京都府の歴史散歩(中)、(下)

所持資料etc

 

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