大原の里 One day散策

 

ころころと 小石ながるる 谷川の 河鹿なくなる 落合の滝   建礼門院

 

寂光院〜阿波内侍、大納言佐の局墓所〜建礼門院陵〜三千院〜後鳥羽、順徳天皇大原陵〜宝泉院〜勝林院〜音無の滝

 

大原の里

古来、『平家物語』潅頂の巻「大原御幸」で知られる京都の北郊で、三千院を始めとする天台宗の寺院が甍を並べ紅葉の名所としても名高い古刹が多く、雪の冬も風情があります。大原は、小原とも書き、八瀬の北にある山間の地域を称します。元は、戸寺、上野、大長瀬、来迎院、勝林院、草生、野村、井出の八ヶ村に分かれていましたが、明治16年(1883年)に八ヶ村を統合して大原村と称し、同22年(1889年)には大原の北にある小出石、百井、大見、尾越の4ヶ村も合併しました。昭和24年(1949年)4月、京都市に編入されて今は、左京区大原町と称します。大原は大原川の渓谷にあって、周囲を山に取り囲まれた別天地です。山深く、水清く、幾多の歴史と伝説に富んでいます。「この里は いづくも竹の 園生にて 雪に昔の 跡もしられず」と詠った如く、王朝以来、貴紳の隠棲地となり、その風光は幾多の歌人に詠われてきた洛北第一の勝区です。

毎度〜、Pちゃんズでつ・・・σ(^◇^;) どもども

宇治川派流(寺田屋浜)@蓬莱橋

道標石@中書島

日本初の市電・中書島駅の説明札

手にオヤツ!おけいはん特急@京阪中書島駅

おけいはん特急@京阪出町柳駅

きらら号で宝ヶ池まで行き八瀬比叡山口行きに乗り換えまつ・・・叡山電車・出町柳駅

八瀬比叡山口駅

生(せりょう)の里、大原女(おはらめ)

芹生の里・・・大原川(高野川)の西岸、草生の南を称したが今はこの名を用いません。小倉百人一首に選ばれている良暹(りょうせん)法師の「淋しさに 宿を立ち出で 眺むれば いづこも同じ 秋の夕暮れ」は良暹が、この芹生に閑居していた時の詠歌と伝え今も閑寂な風情は昔を偲ばせています。大原女・・・大原の炭窯として古来、和歌に多く詠われました。里人の多くは薪柴を業とし京へ売り歩くのが有名な大原女です。頭に縫模様のある手拭いを被り紺衣に御所染の帯をまとい、二巾半の前だれを腰につけ白の脚絆(きゃはん)に甲掛をはめ頭上に薪や柴を載せて売り歩きます。これは、阿波の内侍(藤原信西の娘)が建礼門院に勤仕していた頃に山中に薪や柴などを刈りに行く時の装束を里人が真似たと伝え風雅清楚な服装は上薦めいています。

京都バス「大原・小出石」@八瀬駅前バス停

水車

のどかな芹生の里(大原) 遠くに見える比叡山

乙が森(おつうがもり)

「乙が森、大原の昔ばなし」の駒札(説明碑)

大蛇の頭が埋葬されていると伝える「乙が森:おつうがもり」・・・大蛇のような木が気になる?(^_^)ゞ

のどかな草生の里(大原)をテチテチ

建礼門院に仕えた女官・阿波内侍(あわのないじ)

阿波内侍(藤原信西の娘)は、崇徳天皇の寵愛を受けた建礼門院に宮中より仕えた女官でした。生活収入を得る為に阿波内侍ら女官は、柴(薪)などを京の街中へ行商に出ました。山中での薪や柴刈りや行商に行く時の阿波内侍らの装束が、今の大原女(おはらめ)の姿の原型と言われます。又、里人から献上された夏野菜などを一緒に漬け込んだのが大原名物の「しば漬け」の始まりで、建礼門院が「紫葉漬け」と命名したとも伝えます。古来、紫色は貴族のみが使用を許された高貴な色でした。安徳帝御母が使用を許すほど大原の里人との絆が深かったと伝えます。

茅葺きで屋号を詫助と称した大原耳順庵

阿波内侍墓所へ54段?の石段をテチテチ

阿波内侍、大納言佐の局などの墓所

寂光院(じゃっこういん)

天台宗延暦寺派の尼寺で清香山と号します。寺伝によると推古天皇の御代2年(594年)、聖徳太子が用命天皇の菩提を弔う為に創建、太子の乳人・玉照姫(たまてるひめ)が初代の住職を務めたと伝えるが定かでなく、一説には承徳年間(1097年〜99年)。聖応大師・良忍の開基とも伝えます。「平家物語」によると建礼門院は平家滅亡後、東山長楽寺で出家、次いで大原のこの地に隠栖しひたすら高倉上皇、安徳帝、一門の菩提を弔われた。文治2年(1186年)の夏頃、後白河上皇が夏草の茂みを踏み分けて御幸されたのは此処だと伝えます。寺は中世以降、近江国坂本(滋賀県大津市)の聖衆来迎寺に属し同寺で得度した尼僧が寂光院の歴代住職を務める慣わしになっています。本堂は入母屋造り、柿葺き(こけらぶき)、慶長4年(1599年)、豊臣秀頼の生母・淀殿によって改修され寺領三十石が寄進されました。堂内には2mを越える本尊・六万躰地蔵立像(室町期)を安置し胎内には3417体もの地蔵小像を安置し脇壇には建礼門院坐像、阿波内侍張り子坐像を安置されていましたが平成12年(2000年)5月9日未明の不慮の被災によって本堂が全焼し建礼門院座像、阿波ノ内侍張り子座像なども焼損しましたが焼け焦げた本尊の胎内の地蔵菩薩小像3417体、教典五巻、香袋など重文指定されている品々が奇跡的に無傷で保護されたました。本堂は無事に再建され平成17年(2005年)6月2日に落慶法要が営まれました。

阿波内侍、大納言佐の局等の供養塔(墓所)

参道の石段@寂光院

山門

境内

湧き水(手水)

本堂

真っ赤な毛氈が敷かれた床机で一服

類焼し枯れた樹齢千年と伝える「ひめ小松」

宝篋印塔(ほうきょういんとう:供養塔

鯉さんが泳ぐ玉だれの泉と三段の滝

伏見城から移した豊臣秀吉ゆかりの南蛮鉄の雪見灯篭

建礼門院陵(第80代・高倉天皇皇后徳子大原西陵)

女院の名は徳子、法名を真如覚と言い太政大臣・平清盛の次女です。17歳で高倉帝の女御となり、次いで中宮となって安徳帝を生みました。大原に隠棲される事28年間、建保元年(1213年)12月13日、59歳で亡くなりました。源頼朝は女院の為に平宗盛の遺領の摂津国真井、島屋両庄を贈ったと伝えます。女院に勤仕した阿波の内侍(藤原信西の娘)、大納言佐の局(平重衡の妻:安徳帝乳母)、治部卿局(平知盛の妻)、右京太夫局(平資盛の愛妾)の墓は寂光院の裏門の南、谷川を隔てた山中にあります。

ありがたい、お話を拝聴致しまつた・・・m(_ _)m

おぉ〜、ワンさま?ワングム??σ(^◇^;)

高倉天皇皇后徳子大原西陵

参道の石段をテチテチ・・・

高倉天皇皇后徳子大原西陵

らく焼と足湯を楽しめる寂光院窯(大原山荘)

「らく焼」の絵付けに取り組むPちゃん・・・絵付師デビュー?σ(^◇^;) しか〜し、こんな真剣な姿を見た事が、ございませぬ?!(爆)

足湯「紫の湯:ゆかりのゆ」の効能

絵付けした作品を焼いて頂いている間、足湯を堪能しまつた・・・(*^_^*) エェ湯じゃ〜

カフェ風のオシャレな足湯 (*^_^*) ホッカホカ〜

建礼門院が和歌に詠んだと伝える「落合の滝」

草生の里(大原)

平家物語ゆかりの朧(おぼろ)の清水

建礼門院徳子が朧月夜にこの清水に姿を写されたと伝えます。良暹(りょうせん)法師は「程へてや 月も浮かばむ 大原や 朧の清水 澄むばかりに」と詠み、寂然法師は「ひとりすむ 朧の清水 友とては 月をぞ宿す 大原の里」と詠みました。古来、多くの和歌にも詠まれた名水井です。

平家物語ゆかりの泉「朧(おぼろ)の清水」

草生の里(大原)を流れる大原川

ランチタイム〜(*^_^*)

きのこうどん定食 (@^_^@)

蕎麦と蕎麦粥の蕎麦御膳 (@^_^@)

菜の花

呂律(りょりつ)川

三千院の東方山中、音無滝より2つに分かれて流れ出る渓流を称し、二つの川は声明(しょうみょう)音律の呂(呂旋法)と律(律旋法)に因んで呂川(りょせん)、律川(りつせん)と呼ばれています。呂川は三千院の南側を流れ、律川は北側を流れています。呂曲(呂旋法)を律旋法で唱誦する時にうまく呂と律の使い分けが出来ない事を「呂律(ろれつ)が回らない」と言います。呂川に沿って魚山橋から羅漢橋に至る辺りは楓樹が多く紅葉の名所でもあります。

三千院参道

大原女(おはらめ) どっち??分からん?!(爆)

呂川(りょうせん)沿いをテチテチ@三千院参道

清和井(せかい)の清水

乳汁に乏しい産婦が、この清水を飲むと不思議に乳がよく出ると言われ一に清和井の乳水とも言われます。

「椿地蔵」 どっち?(爆)

棚田が広がる大原の里と金毘羅山(572.8 m)

「清和井」は工事中! (≧▼≦;)アチャ〜 

三千院

天台宗延暦寺派の門跡寺院。延暦年間、比叡山東塔南谷の梨の大木の下に一宇を構えたのが起こりと伝え、古くは梨本房、円融院(円融房)、円徳院とも称しました。堀川天皇の皇子・最雲法親王が入寺して以来、代々、法親王の往持するところになり世に梶井宮、梶井門跡とも称し来迎院、勝林院を中心とする魚山大原寺の取締りに当りました。里房はもっぱら京都市内にあったが明治維新にあたり門主が還俗し梨本宮家を興された為、大原に移り寺名を三千院と改めました。本堂の往生極楽院(重文:平安期)は三間四面、単層、入母屋造り、柿葺き、妻入りの軽快な仏堂で内部は藤原時代の阿弥陀建築の様式を留めています。特に舟底天井は珍しく、二十五菩薩の来迎図を描き本堂背後の来迎板には両界曼荼羅図、外陣の小壁には千仏を描いている。堂内中央に安置する本尊・阿弥陀三尊像(重文:平安期)は、いずれも寄木造り、彫眼入り、金皆色です。中でも中尊は丈六の坐像で上品下生の印相を示し、向かって右脇侍の観音像は蓮台をささげ左の勢至像は合掌し共に膝を屈して跪坐しています。辰殿は宮中で行われた御懺法講(おせんぼうこう)などの法儀を執り行う重要な建物で紫辰殿を模して寝殿造りとし、内部には本尊・薬師瑠璃光如来、救世観音半跏像(重文:鎌倉期)、不動明王立像(重文:室町期)を安置。庭園(江戸期)は上段の有清園(ゆうせいえん)と下段の聚碧園からなり前者は池泉廻遊式、後者は池泉観賞式とされます。いずれも池泉をうがち石組み、刈り込を配した幽邃閑雅な江戸初期の庭園です。

門跡寺院に相応しい風格を備え政所としての城廓、城門を思わせる御殿門@大原三千院

境内の中書院、客殿(右)

中書院から辰殿を巡ります・・・

清浄水

庭園(聚碧園(しゅうへきえん)@辰殿)

Pちゃんが探し物をしていると修行僧に「どうかされましたか?」と尋ねられました〜 σ(^◇^;) どもども

内仏殿に祀られる歴代法親王の尊牌など

苔の絨毯のようでつ・・・有清園(ゆうせいえん)

辰殿

往生極楽院(本堂/重文:藤原期)

往生極楽院(本堂/重文:藤原期)

童地蔵(わらべじぞう) どっち??分からん?!(爆)

苔の緑が美しい有清園(ゆうせいえん)

福寿、延命の水 「金色水」

弁財天さまと布袋さま?!(爆)

金色不動堂

湧き水(手水)

観音堂

金色の観音立像

石庭「二十五菩薩慈眼の庭」

律川(りつせん)

石仏祠(売炭翁旧跡)

大原の石仏(阿弥陀石仏:鎌倉期)

紫陽花苑と杉木立

熊谷腰掛石(熊谷鉈捨薮)

一に熊谷鉈捨薮と呼ばれたのは、熊谷蓮生坊が師の法然上人が「大原問答」で敗れるような事があれば、その法敵を打ち果たさんと袖に鉈を隠し持っていたのを上人に諭され、鉈を薮中に投げ捨てた所と伝えますが竹薮は取り払われ今は、茶店が建っています。

苔むした聚碧園(しゅうへきえん)

熊谷腰掛石(熊谷鉈捨薮)

萱穂橋(律川)

後鳥羽、順徳天皇大原陵

後鳥羽天皇は高倉天皇の第四皇子で寿永2年(1183年)7月、第82代の天皇に即位しました。在位15年に及び、建久9年(1198年)、土御門天皇に譲位した後は、上皇として院政を執られました。上皇は多芸多才で文武の道に秀で特に和歌に優れましたが、政権が武門に移ったのを常に不満とされ遂に、承久3年(1221年)、北条政権を打倒しようと挙兵しました。しかし、事破れ北条義晴の幕軍は京都に攻め入り、後鳥羽院は隠岐の島に流されました。在島する事、実に18年の延応元年(1239年)に宝算60才で亡くなりました。順徳天皇は佐渡ヶ島に流され在島21年、父帝に遅れる事3年後の仁治3年(1242年)9月、宝算46才で亡くなりました。遺骸は、それぞれ火葬に付し遺勅によって当地に葬り奉りました。これは後鳥羽上皇皇子・尊快法親王が梶井門跡として来られていたからと伝えます。

後鳥羽、順徳天皇大原陵

勝林院、宝泉院へ参道をテチテチ

秋〜春まで咲く不断桜で知られる実光院

法然上人腰掛石で一服中?σ(^◇^;) おいおい

法華堂

梶井門主、尊快法親王が父帝・後鳥羽上皇の為に仁治年中に建立された方三間、単層、四注造、こけら葺、正面に向拝を付した今の建物は安永年間の再建で元、順徳天皇陵にあったものを移したと伝えます。堂内には普賢、聖観音像を安置します。

法華堂

宝泉院

近江富士を型どる樹齢約700年の五葉松

宝泉院

寺伝によると平安初期、比叡山に天台宗を開いた伝教大師・最澄の高弟・円仁が唐に渡り10余年間の仏教修学にを終えて帰国し、叡山に密教、五念仏、その法要儀式に用いる仏教音楽「声明」などを伝えました。長和2年(1012年)、寂源は法儀声明を盛んにしました。平安末期、良忍が出るに及んで大原は、法儀声明の修学地(声明の地)として有名になりました。当院は、大原寺(勝林院)住職の坊として平安末期頃からの歴史を持ち現在に至ると伝えます。建物は、室町時代の文亀2年の再建と言われるが建物などの形式から江戸初期の再建と思われています。「額縁庭園」と呼ばれる盤桓園、鶴亀庭園、伏見城遺構の血天井、サヌカイトと言われる美しい音が出る石盤などがあります。

境内の前庭と客殿@宝泉院

法然上人衣掛石

宝楽園(仏神岩組雲海流水回遊花庭)は、仏神の世界を表している巧妙な石組み

地球太古の創生に遡り、その原初の海を想像して作庭された見事な庭園

鶴亀庭園

江戸中期の作庭で部屋から格子越しに観賞します。池の形が鶴、築山が亀、山茶花の古木を蓬莱山と観る名園です。樹齢約300年の沙羅双樹が佇んでいます。

吊り天井?廊下の上に輿が飾られています!(@_@;)

江戸中期の作、部屋の中から格子越しに観賞する「鶴亀庭園」

囲炉裏の部屋、伏見城遺構の血天井

囲炉裏の部屋・・・周りに珍しい陶板をあしらった炉のある部屋で静かな語らいの場として親しまれている。自然の山を活かした庭を背景に、滝の流れる水音に癒される空間です。血天井・・・慶長5年、関ヶ原合戦の前哨戦で、留守居を任されていた徳川方の鳥居元忠以下数百名が石田三成率いる豊臣方軍勢と戦い伏見城中で自刃しました。その武将達が自刃した時の床板を天井にして祀り、霊を慰め供養されています。

囲炉裏のある部屋からも庭園を眺めます・・・

有名な伏見城遺構(床板)の血天井

声明が流れる幻想的な「額縁庭園」@客殿

見事に手入れされた庭園で竹林の間からは、大原の里の風情も満喫できる「額縁庭園」

一服の茶湯と和菓子・・・利休七哲の一のPちゃん?σ(^◇^;) お手前は、我流でつ!(爆)

結構なお手前でつた・・・σ(^◇^;) どもども

理知不二(りちふに)水琴窟の駒札(説明碑)

二連式の理智不二水琴窟を楽しみますσ(^◇^;)

樹齢約700年と伝える見事な五葉松

客殿の南〜西方、柱と柱の空間を額に見立てて観賞する盤垣園は「額縁庭園」として有名

勝林院

天台宗延暦寺の別院で慈覚大師の開創と伝え、一条天皇の御代、寂源上人が中興しました。本堂に安置する本尊・阿弥陀如来を世に証拠の阿弥陀と言うのは、寛仁年間、寂源が台領の碩学(せきがく)を請じて法華八講を本尊の前で行った時、覚超、偏救の二僧が仏果の空不空について諸論をし、覚超が空を説くと忽ちに、その姿を現し中道実相の証明に立たれたからと伝えます。又、法然上人が諸宗の碩学と宗論を戦わせ一向専修念仏を選択すべき事を明かした「大原問答」は、ここで行われたと伝え、今尚天台の学徒が当寺に会して教論を戦わすと言います。

立ち去り難いという意味の「盤垣園」

勝林院本堂

境内

本堂の柱上には、見事な彫刻が施されています・・・

証拠の阿弥陀と言われる本尊・阿弥陀如来

見事な石造宝篋印塔(重美:鎌倉期)

藤原期の古鐘が架かる鐘楼

魚山の守護神 勝手神社

宿坊の浄蓮華院

慈覚大師の創建、声明音律根源地 来迎院

音無の滝へ山道をテチテチ・・・

魚山(ぎょざん)

大原寺(だいげんじ)とも号し声明音律の総本山で三千院、往生極楽院、勝林院、来迎院、融通念仏寺などを汎称したものです。慈覚大師は中国の天台山で声明梵唄の秘蘊(ひうん)を受けて帰朝の後、この地を相して声明の本源と定め、比叡山を天台山に擬すると共に唐土魚山に拠って山号となし、大源の水を去って大原寺と号し大原の地名もこれに由来したと伝えます。平安末期の称徳年中、聖応大師良忍は来迎院を再興して融通念仏宗を創始し、寂源も勝林院を建立し、大いに声明音律を宣揚しました。その隆盛時は49院に及んだが中世以降の兵乱相次ぎ、各院多くは退転し、今は来迎院と勝林院の二部となり来迎院内に四院、勝林院内に三院あるにすぎません。

この辺りの山々を相して魚山と汎称ます・・・

律川を渡ります@砂防ダム

ここで三千院境内へ導水?下流が水枯れ!

音無の滝

一に小野の滝とも言い巨岩を滔々と落下する滝は水声を聞かないと言われます。これは、良忍上人が声明と滝水と相乱れるのを呪文で水声を止めたと伝え一説に藤原公任(きんとう)が梵唄声明を滝の前で唱えたところ、梵唄に声なく滝に音あるをしらず、故に音無の滝と名付けたとも伝えます。西行法師は、「音なしの 滝とは聞けども 昔より 世に声高き 大原の滝」と詠んでいます。風情ある滝は、叶わぬ恋に袖を濡らす涙にも例えられ多くの和歌にも詠まれています。

イナバウアぁ〜?!(爆)

音が聞えるけど音無の滝?!σ(^◇^;) おいおい

下山中・・・行者橋のような堰で水が消えます!!!

京都バスの大原バスセンター

バスの車窓から眺める大原の里

京都バス「国際会館」@八瀬駅前バス停

叡山電車八瀬比叡山口

叡山電車@叡電出町柳駅

おけいはんK特急@京阪出町柳駅

京阪中書島駅

美人のミポリンの「焼酎ばー えん」(@^.^@) えへっ

出た、出た〜!!!抹茶ソフトくださいな〜 (^▽^;)

Tourist  2006.3.27(M)

 

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