金蔵寺道・小塩山(大原山)散策

 

雪深き 小塩(おしお)の山に 立つ雉子(きじ)の 古き跡をも 今日は尋ねる (源氏物語・行幸の巻)紫式部

 

金蔵寺〜小塩山道〜淳和天皇大原山陵(小塩山々頂)散策

 

金蔵寺(こんぞうじ)〜淳和天皇大原山陵(大原西峰上陵)〜八幡宮社〜八条ケ池(長岡天満宮)

 

小塩(おしお)山

小塩山は大原野の西方に聳える山容優婉な山を称し北は大枝山(老ノ坂)〜南は善峯寺付近に及んでいます。

標高は642m、一に大原山とも称され山頂に淳和天皇大原山陵、中腹に金蔵寺(こんぞうじ)、花の寺(勝持寺)などがあります。

山麓に鎮座する大原野神社は1000年もの長い歴史を有する古社で和歌の上で小塩山を枕詞に詠まれている神社として名高いです。

この日、キララの後輪部にU字型ロックを増設したので後部のドロ除けがハイリフトし守護神のトラさんマークも移貼しました。まっ良いっか?!(;^_^ゞ

写真上でマウスポインターの形が変化する写真はクリックして頂くと大きく表示されます

のどかな山村の風情(大原野石作町) 道標石碑(右へ) 段々畑?棚田かな??
不動堂
梅若丸塚

梅若丸とは吉野期の作「秋の夜長物語」の主人公で金蔵寺の8世、胆西(せんざい/桂海とも称す)上人との哀恋物語に因んで当地に供養塔として建立されました。物語によると後堀河院の御代、叡山の僧。桂海は石山寺参詣の途次、三井寺で花園左大臣の子・梅若に出会い見染めました。梅若も桂海を慕って家出し、叡山に桂海を訪ねる途中、山伏に誘拐され三井寺の衆徒は桂海が奪ったものと思い叡山に攻め寄せたが逆に敗れ寺も焼き払われました。梅若は自責の念に駆られ瀬田の唐橋から身投げしました。桂海は悲しみのあまり西山岩蔵に庵を結び後に東山の雲居寺(うんごじ)に移って晩年を過ごしたとされます。「秋の夜長物語」は西行の「撰集抄」中の事実を潤色したものとされ室町期の厭世思想を加味しています。

梅若丸塚、律師桂海供養塔 元愛宕大権現標石(東海自然歩道) 小滝
産(三)の滝

境内には一の滝、二の滝、三の滝と三筋の滝があり、この滝は向日神出現の地と伝え「産(三)の滝」と称している。12mばかりもあり見上げるばかりの大岩から落下し幽邃な雰囲気を醸し出しています。

産(三)の滝 仁王門脇で待機のキララ
金蔵寺(こんぞうじ)

西岩倉山と号する天台宗延暦寺派の寺で寺伝によると養老2年(718年)、元正天皇の勅願により隆豊禅師が来山した時、向日明神が一老翁となって出現し鹿を射ようと矢を放ったところ、矢は楠に命中し矢を抜くと光明を放ったので禅師と合作で一体の千手観音像を刻み安置したのが当寺の起こりと伝えます。聖武天皇から金蔵寺の額を賜り天平元年(729年)に華厳、普門品などの諸経を写して山中に埋納されました。桓武天皇は延暦遷都にあたり京都の四方に経典を埋納して王城の鎮護とされ当寺は、その西方の一で西岩倉山と号すると伝える。元は法相・三論宗でしたが後に天台宗に改宗しました。「今昔物語」巻17に「京の西山に西岩蔵と云う山寺あり、その山寺に仙久と云う持経住けり・・・」とあり早くから西山の名刹の一として知られたが文明・永禄の兵火(応仁の乱)に係り諸堂を焼失し中世以降寺運は哀微しました。現在の建物は江戸期の貞享年間(1684〜1688年)に徳川5代将軍・綱吉の生母・桂昌院の再建で本堂には本尊・十一面千手千顔観音像、護摩堂には不動明王、四大尊を安置します。洛西三十三観音霊場の二番札所です。

仁王門
石井(いわい)

一に霊生水と称され当山唯一の清泉です。延喜式内石井神社はこの井戸の上に祀られていたが昭和28年(1953年)、山麓の坂本村の山王社に合祀されました。石井神社は清泉を神格化した旧乙訓中、最古の神社の一とされ上代においては朝野の崇敬も篤かったようです。金蔵寺は当社の神官寺として建立されたもので現状は「ヒサシを貸して母屋を取られる」形になりました。因みに石井は向日神社の増井と同じ水脈とされ石井の水を汲み変えた時、数日後に増井の井水が濁ったそうです。

護摩堂 石井 石井と石井神社跡
本堂(桓武天皇経塚跡) 葉山神社
開山堂 下川原弁才社 聖武天皇経塚碑
境内からの京都市内の眺望
長嘯亭 市内の眺望 愛宕大権現
愛宕大権現(火防勝軍地蔵愛宕大権現)

明治初年の神仏分離令で廃された愛宕山白雲寺の勝軍地蔵が当寺に移され、現在は本堂の背後上に鎮座しています。勝軍地蔵は明智光秀、豊臣秀吉、徳川家康ら戦国武将の崇敬が篤く明智光秀が「本能寺の変」の前に愛宕山へ参拝した事は世にも有名な伝説です。

愛宕大権現 開山堂 小塩山(淳和天皇大原山陵)山道
小塩山(淳和天皇大原山陵)山道・・・山頂付近は薄っすらと積雪!
淳和天皇大原山陵(大原西峰上陵)

正しくは大原野西峰上(にしのみねのうえ)陵と号し小塩山々頂(642m)にあります。淳和天皇は桓武天皇の第3皇子で兄の嵯峨天皇の後を継いで皇位を継承し嵯峨天皇の第1皇子・仁明天皇に譲位しました。在位中は政治改革を行うと共に「日本後紀」の編纂、「令義解」の作成を行いました。承和7年(840年)に55歳で死去し遺言により火葬後に粉砕し鬼と化さないよう大原野の西の山上(小塩山々頂辺り)に散骨されました。山陵を築く事を禁じられたので延喜諸陵式にも陵所を記していません。当地は古くから経塚、清塚と称され小石を積み重ねた円塚が5つばかりあったが幕末に至り現陵を考定し塚の上に土を封じて丘体に修復しました。

薄っすらと積雪している淳和天皇大原山陵(小塩山々頂)
淳和天皇大原山陵(小塩山々頂) 山頂のNTT電波塔
北摂、亀岡方面 山頂のNHK電波塔 京都市内の眺望
歩きづらい難所も数ヶ所あった金蔵寺への山道 愛宕大権現(金蔵寺)
桂昌院塔 鎮寺社 向日明神影向松があった所に地蔵尊が・・・
金蔵寺境内 本堂への石段 京都市内の眺望(金蔵寺)
下車場の地蔵尊とキララ 小滝 京都市内の眺望(金蔵寺)
八幡宮社

大原野石作町の氏神とされる旧村社で祭神は応神天皇(おうじんてんのう)、天照大神(あまてらすおおかみ)です。本殿は横穴式古墳とされる石室上に拝殿と共に建立され境内の鹿子の木は樹齢800年〜900年の古木と伝わります。

八幡宮社
八条ケ池(長岡天満宮)

八条ケ池は、寛永15年(1638年)、当時の領主・八条宮智仁親王(桂宮)が灌漑用の溜め池を改造成した大池で八条ヶ池を二分する中堤は参道になっています。中堤道両脇に推定樹齢百数十年の霧島つつじ(市指定天然記念物)が群生し、八条ヶ池の中堤道の真中道に架かる石の太鼓橋は加賀藩・前田候の寄進と伝わります。

麓の大原野石作町からの小塩山の眺望(電波塔辺りが山頂) 長岡天満宮
春近し・・・梅花が咲く八条ヶ池(長岡天満宮)

Tourist  2005.02.28(M)

 

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