夢幻コラムY【おとぎ電車の走った頃・・・昭和の宇治川ライン】
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おとぎ電車 | ||
おとぎ電車・バンビ号 | ||
おとぎ電車乗車券(昭和25年頃?) | ||
おとぎ電車を紹介する沿線案内(昭和26年7月発行)、宇治川ラインパンフレット(昭和28年9月発行) | ||
宇治川渓谷を行くおとぎ電車・・・昭和25年(1950年)頃の開通当初、遊園地の乗り物らしい車両で走っていた。 | ||
機関車に外装などまったく飾り気がなく急ぎ開通にこぎつけた状況がうかがえる。 | ||
宇治川上流の渓谷美を眺めながらおとぎ電車は走った。 | ||
大正13年(1924年)、宇治川電気によって志津川発電所が建設された際、発電所に先だって大正9年(1920年)に建設された大峯堰堤(ダム)と発電所との間を結ぶ3.6kmの資材運搬鉄道が建設されました。軌間・610mm(狭軌)、直流600Vで電化された本格的なものでした。戦後、この路線を観光用に活用することが立案されました。宇治川には「宇治川ライン」と呼ばれる観光船が大正15年(1926年)から宇治川汽船により就航、昭和50年(1975年)に廃止されたが、観光船は大峯堰堤(ダム)よりも宇治寄りには運行することができず、そこまでのアクセスが問題となっていました。この為、早くからこの専用鉄道の転用案が出ていました。遊覧鉄道への転用に当たり、地方鉄道法や軌道法といった運輸事業目的の鉄道として事業申請を行う場合、手続きが煩雑になり、法定対応の為に必要なコストや租税額が大きい事が判明。そこで児童福祉法に基づく遊戯物(遊園地と同じ扱い)にする事で、これらの問題を回避しました。この方針に沿って必要な設備の整備が行われ、昭和25年(1950年)10月11日、「おとぎ電車」として開業しました。運営は京阪電気鉄道が行ない、車両は凸型車体の電気機関車(25HP×2)に客車7両1編成が充当されました。志津川発電所側は「天ヶ瀬駅」、上流の大峯堰堤(ダム)側は「堰堤駅」と決まり、途中駅はなし。参考までに運賃は大人40円、小人20円でした。当初は1編成のみで、冬季は運休しました。翌年、春の運行再開に際して客車1編成が追加されました。遊覧鉄道でしたが、観光客の少ない平日は地元民の足としても利用されました。おとぎ電車は人気を集め、行楽シーズンの休日には乗り場に乗車を待つ観光客の長蛇の列ができました。 |
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大正9年(1920年)起工の宇治川電気二期工事で運用された工事軽便電気機関車とトロッコ | ||
工事用軽便電気鉄道からおとぎ電車へ | ||
当時、関西線(現、奈良線)沿いの資材置き場は第一期工事に引き続き使用されたもので宇治村大字菟道字田中。軌条の延長は約9.66kmにあたる。興聖寺門前から材料運搬軌条に乗車し軽便電気機関車が引く筵を敷いたトロッコを連結して走った。時々。連結されたトロッコ同士が衝突してカーブに至れば振り落とされんとする危険あり。「諸君、シッカリ持っていたまえ・・・」の注意にトロを綾取った十字の太縄をしっかりと握る。上流に向かうほど山が迫り、景勝がいい。この軽便鉄道軌条を将来、遊覧鉄道にしたら面白い。宇治川電気第一工事が間近になった大正2年4月、同社の工事用軌道を無償で譲り受け遊覧電気鉄道を走らせようという話が持ち上がったが、工事完了直後に軌道が撤去されてしまい計画倒れに終わった。その後も石山〜宇治の観光名所を電車で結ぶという構想が各方面から起こったが、結局は実現されなかった。後の第二期工事で資材運搬用に施設した電気軌道は完成後も従業員など輸送に使われた。昭和35年、京阪電気鉄道はこの軌道に遊覧電車を走らすべく動き出した。当時の京阪は戦時中の国策により阪急と合併し京阪神急行となっていた。昭和24年(1949年)12月に分離独立を果たすが新たな旅客誘致策を講じる必要があった。そこで志津川〜大峰両発電所を結んでいた電気軌道に白羽の矢を立てた。 |
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明治42年(1909年)起工の宇治川電気一期工事で道路に沿って線路が施設された。 | ||
宇治川沿岸の工事用電車線路(宇治川右岸) | ||
滋賀県石山側の最初の隧道(トンネル)である第一隧道入り口でトロッコを押す人々 | ||
第9号開渠の工事風景・・京都府宇治側では、主に牛馬が使われたが時に人力が使われた。 | ||
塔の島〜亀石〜おとぎ電車天ヶ瀬乗り場に就航したプロペラ船 | ||
昭和28年(1953年)4月5日、塔の島〜亀石〜おとぎ電車天ヶ瀬乗り場に就航したプロペラ船。写真は天ヶ瀬乗り場で乗船客を待つプロペラ船 | ||
宇治川畔に係留中のプロペラ船・いけづき号 昭和28年・8月するすみ号は琵琶湖へ去った。 | ||
プロペラ船 | ||
当初、宇治方面から、おとぎ電車乗り場まで十分なアクセスがなかったので昭和28年(1953年)4月、京阪電鉄は平等院近くの塔の島〜電車乗り場までプロペラ船を就航させました。プロペラ船は48人乗り。満載排水量:8.8t、長さ:14.7m、幅:2.4m、深さ:0.75m、120馬力のディーゼルエンジンで4枚羽根のプロペラを回転させて時速20kmで宇治川の急流を遡り、平家物語に描かれた宇治川先陣争いの故事に因んで「いけづき」、「するすみ」と名づけられた。しかし、同年8月14〜15日にかけての「南山城水害」で宇治川の河床や流路が変わり、プロペラ船が運行できなくなり、追い打ちをかけるように9月25日、台風13号の豪雨でおとぎ電車の線路冠水や車両の流失を含む大きな被害を受け、運行停止状態となりました。地元から京阪電鉄に対しておとぎ電車とプロペラ船の復活を求める要望が強く出され翌、昭和29年(1954年)4月、おとぎ電車が運行再開されました。このとき新調された客車はタルゴ式を取り入れた6車体連接式(通称・むかで号:昭和29年3月30日竣工)でした。しかし、プロペラ船は復活されませんでした。昭和28年の台風被害によって、当時膠着状態だった大峯堰堤(ダム)に代わる天ヶ瀬ダム建設計画が現実味を帯びさせることとなる。おとぎ電車復旧から3ヵ月後の7月に建設省は新たな宇治川防災ダム建設を決定。これにより、おとぎ電車の線路はほぼ水没する事になった。、当初は年内にも廃止予定だったが、ダム工事着工が遅れて少しだけ存続が長らえ同様に水没する府道・瀬田宇治線の付け替え工事を対岸に眺めつつ最終電車が走ったのは、昭和35年(1960年)5月31日、おとぎ電車は10年間の運行に幕を閉じました。宇治川の観光船は天ヶ瀬ダム完成後、天ヶ瀬ダムを発着点とする形となったが、昭和50年(1975年)11月限りで廃止されました。 |
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先に琵琶湖に就航したプロペラ船・するすみ号・・・昭和28年、近江舞子沖合い | ||
プロペラ船の末路 | ||
おとぎ電車が走り始めて4シーズン目を向かえた昭和28年(1953年)、京阪電気鉄道が宇治川にプロペラ船を就航させた。沿線観光の目玉となった宇治川ラインに更なる遊覧客を狙った積極策でした。時速20kmで宇治川の急流を遡る快適さは大変に素晴らしく、塔の島〜亀石〜おとぎ電車天ヶ瀬乗り場に就航し約15分程度の船遊覧を楽しめたと紹介されている。ただ、宇治川の水位に大きく影響され水深不足で予定通りの運行ができず天ヶ瀬に到達できず手前の蛍ヶ淵で引き返す回航ルートに変更を余儀なくされ宇治とおとぎ電車乗り場を連絡するという当初の目的を果たすことができなかった。同年7月、台風による増水で運行停止。ようやくの8月半ば、雨季が去り南郷洗堰が閉鎖され宇治川の水位が平常に戻り二ヶ月間の拘留生活を解かれ塔の島〜天ヶ瀬間の航路に就航したのも束の間、8月15日の豪雨の増水で再度運行不能。そして9月、台風13号の水害により万事休す。翌29年2月までに、二隻揃って琵琶湖汽船に引き取られた。早速、春の観光シーズンからプロペラ船と観光バスによる「大津名所めぐり」観光定期コースが新設され浜大津〜瀬田〜石山寺〜南郷まで乗船。昼食後、バスに乗り換えて近江神宮、日吉大社をめぐり新唐崎で再度プロペラ船に乗船し浜大津に帰港するというコースだった。昭和33年に一隻、そして残る一隻も33年に琵琶湖汽船の船籍から姿を消した。 |
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おとぎ電車が走っていた昭和30年頃の宇治絵図 | ||
宇治川ライン | ||
琵琶湖(面積674ku)には119本の河川が流れ込んでいます。琵琶湖から発するただ一本の川(琵琶湖疎水などの人工河川を除く)を滋賀県域では、瀬田川と呼び滋賀県大津市のJR東海道本線の上流を琵琶湖と瀬田川分界とし、山峡を西南し滋賀県・京都府境付近で宇治川と河川名を変え天ヶ瀬ダム〜伏見の観月橋〜京都府と大阪府境の八幡市付近で木津川、桂川と合流し大阪平野を南流し大阪湾に注ぎます。瀬田川は滋賀県、京都府境までの延長約16kmの河川で宇治川は滋賀県、京都府境〜伏見・観月橋までを言い下流を淀川と言います。宇治川ラインは瀬田川の滋賀県大津市の南郷(瀬田川)洗堰〜京都府宇治市の宇治橋に至る間を総称し「米かし」、「しし飛び」と呼ばれる奇岩、怪石が川中に横たわり下るにしたがって両岸は断崖絶壁で幽遠な雰囲気があります・・・宇治川ラインの誕生は大正13年(1924年)、宇治川電気第二期工事として下流の志津川発電所へ送る水を堰き止める大峯堰堤(えんてい:ダム)が建設された。人造湖にモーターボートを就航させ、宇治川ラインと名づけて営業開始をしたのは宇治川汽船という会社でした。堰堤(ダム)ができるまで亀岩、千束岩など奇岩怪石など色々あったり山木を筏にして組んで流したこと、急流で滝が続いていた。川沿いの道を歩くときは水音で話もできず鮎やフナ、鯉も美味であったと伝える。宇治川ラインの外畑も大峯も乗船場は右岸にあった。大峯から下流右岸には、鋭い汽笛が山峡に反響させながらトロッコ列車が走った。元は工事用資材の運搬用に設けられたもので完成後も引き続き利用され続け、戦後の昭和25年(1950年)に遊覧電車【おとぎ電車】の名で子供たちの人気になりました。・・・昭和39年(1964年)11月に完成した天ヶ瀬ダムによって出現した鳳凰湖に水没しました。 |
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志津川発電所へ送る水を堰き止める為に建設された大峯堰堤(えんてい:ダム)と発電所・・・今は人造湖に水没 | ||
堰堤(えんてい:ダム)から見る下流方面・・発電所の対岸右奥の建物はおとぎ電車・堰堤(えんてい)駅舎 | ||
昭和40年(1965年)天ヶ瀬ダム・鳳凰湖を航行する遊覧船 | ||
今はダム湖に沈んだ名勝・屏風岩前を遊覧するつばめ丸(昭和30年頃) | ||
大峯堰堤(えんてい:ダム)の人造湖右岸にある宇治川ライン乗船場と山峡をゆく遊覧船・・左下は宇治川ラインの名所・屏風岩(昭和38年10月) | ||
大峯堰堤(えんてい:ダム)とおとぎ電車・堰堤駅 おとぎ電車軌道の航空写真 | ||
この付近におとぎ電車・堰堤駅が水没している。 | 大峰吊り橋、大峯堰堤が水没している | この辺りから外畑に向けて船がでていた・・ |
外畑で整備中の宇治川汽船・ちどり丸(昭和37年/1962年) | ||
当時の宇治川ラインの様子・・・ | ||
大峯堰堤駅へ疾走するおとぎ電車・・・開業当初、終点に着くまで4〜5回も脱線したとか(@_@;) | ||
天ヶ瀬乗り場へ疾走するおとぎ電車 | ||
開業に向けて12人乗りの客車7両が新造され当初機関車のみに付いてたブレーキも試運転で下りでは止まれず急ぎ客車にも取り付けられた。 | ||
山峡を渡る風や風景に四季を感じながら走るおとぎ電車 | ||
休日には乗客が長蛇の列をなし2時間30分待ちもあったいうおとぎ電車・・・単線なので途中で列車同士が待ち合わせて離合した。 |
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単線なので途中で列車同士が待ち合わせて離合した。 | ||
トンネルから出てきた「むかで号」 | ||
おとぎ電車の路線には鉄橋とトンネルが二ヶ所ずつあった。 | ||
大峯堰堤乗り場の機回し作業 | ||
昭和31年(1956年) おとぎ電車・遊覧船を乗り継ぎ南郷洗堰・石山寺へ | ||
山峡に汽笛を響かせながら大峯堰堤へ走るおとぎ電車 | ||
おとぎ電車・天ヶ瀬乗り場(昭和33年・5月) おとぎ電車・大峯堰堤乗り場(昭和30年頃) |
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左:後に新造されたタルゴ型車両のおとぎ電車 右:開業当初のおとぎ電車 | ||
大峯堰堤駅へ向かうおとぎ電車・・電車と言われたが、実際は凸型電気機関車が客車を牽引していました。 | ||
天ヶ瀬吊り橋の左上におとぎ電車のアーチが見え、奥の志津川発電所の向こうが、おとぎ電車・天ヶ瀬乗り場でした。 | ||
昭和36年(1961年)5月22日 宇治川ライン航空写真 | ||
おとぎ電車・天ヶ瀬駅〜大峯堰堤駅路線の今昔航空写真 | ||
おとぎ電車・天ヶ瀬駅〜大峯堰堤駅路線マップ | ||
天ヶ瀬(あまがせ)ダム | ||
宇治橋の上流約2.5km、宇治川天ヶ瀬に水害防止と発電の二つを主目的に建造されたダムで高さ73m、長さ254mのアーチ式ダムで2000万㎥(東京ドーム7杯分) の貯水量で下流域の洪水を防ぎ新たに発電所を設け92000kwの電力を宇治市、城陽市などに送電し併せて宇治、城陽、久御山、八幡市など山城地域へ上水道(府営)の取水口も設けられています。総工費66億円と言われ当時、我が国土木技術の粋を結集して昭和32年(1957年)〜7ヵ年半の歳月を費やして同39年(1964年)11月に一応完成しました。ダムの完成により宇治川に延々24kmに渡って一大人造湖が出現し他所に見られない水上公園とされ鳳凰湖と名付けられました。 |
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旧志津川発電所 | 天ヶ瀬ダム@白虹橋 | |
ここに、おとぎ電車のアーチがあった。 | おとぎ電車乗り場は白虹橋手前を左折し旧志津川発電所を回り込んで天ヶ瀬駅へいきました。 | |
志津川発電所、おとぎ電車・天ヶ瀬駅、おとぎ電車軌道航空写真 | ||
当時のおとぎ電車の天ヶ瀬駅 | ||
旧志津川発電所の隣に、おとぎ電車の天ヶ瀬駅、線路かあった所・・・大峰堰堤(ダム)までの3.6kmの遊覧鉄道でした。 | ||
明治45年(1912年)頃、宇治水力発電所のむき出しの鉄管は、数年後に緑に覆われて見えなくなった伝える。 | ||
白川の渡し舟 | ||
大正末期〜昭和初期頃と思われる浮島(塔ノ島) 帆舟が上流へ向かっています・・・ | ||
大正末期〜昭和初期頃と思われる浮島(塔ノ島) | ||
大正末期〜昭和初期頃と思われる浮島(塔ノ島) | ||
宇治川左岸畔は浮島近くまで昭和の戦後まで茶畑があり現在の宇治市観光協会付近〜喜撰橋辺りまで続いていたと伝えます。 | ||
宇治川左岸の風景 | ||
宇治川左岸の風景・・ | ||
塔ノ島と左岸を結ぶ杭列は小倉方面の用水の井川の取水口へ導く堰で平等院境内を暗渠で通ったことも含めて存在は以外に知られていない。 | ||
明治39年(1906年)の宇治橋架け替えに際し約180年ぶりに擬宝朱が復活。隣の鉄橋を蒸気機関車が貨物を牽引して渡っています。 | ||
喜撰橋と浮島 | 浮島と左岸 | 紫式部と宇治橋 |
※参考文献などに基づき一個人が、おとぎ電車の今昔を再現したコラムです。おとぎ電車に関わる間違いなど誤記、情報などありましたら、ご教授いただければありがたいです。また、お気軽にご覧いただいた方の一参考になりましたら幸いでございます。 管理人・Syo ※参考文献:昭和の子どもたち(宇治市歴史資料館) 走れ!!おとぎ電車(宇治市歴史資料館) 流域紀行・・宇治川の原風景を訪ねて(宇治市歴史資料館) Wikipedia(ウイキペディア) |