男山・石清水八幡参宮

 

石清水 清き流れの 絶えせねば やどる月さえ 隈(くま)なかりけり  能蓮法師

 

伏見港〜三栖閘門・みなと広場〜京街道〜淀、涼森神社(美豆城跡)〜男山・石清水八幡宮

 

遺蹟探訪の町・八幡、男山

石清水八幡宮の門前町として発展し、八幡宮に因んで八幡市と言います。男山丘陵の北側に位置し淀川に面する低湿地で古来、洪水の被害を受ける事が多く人家は、山麓に沿って建ち並び平地を盛土としています。元、綴喜郡に属し橋本、奥ノ町、大谷、八幡荘、川口、志水、東林、西山、幣原(しではら)、南山などからなっていましたが、昭和29年(1954年)10月、付近の有智郷(うちごう)、都々城(つづき)のニヶ村と合併しました。当地は京阪間の交通の便もよく、都市近郊の野菜供給地でしたが近年は、ベットタウンとして大きく変貌しています。街道筋には今も鄙びた旧家が軒を連ね街道脇には、古墳を記した多数の道標があり遺蹟探訪には楽しい処とされます。男山は「雄徳山」、「牡山」とも記し、石清水八幡宮の鎮座に因み一に「八幡山」とも言います。標高142m、山頂を鳩ヶ峰と称し南は生駒山、北は淀川を隔てて天王山に相対しています。

高瀬川

角倉了以が開削したのが高瀬川でした。慶長16年(1611年)、工事着手し慶長19年(1614年)、二条から伏見まで全長約10.5km程の運河を開削しました。完成した高瀬川の造りは合理的で、底の浅い高瀬舟(舟底の浅い、浅瀬用の舟)に合わせて浅く作られており、川幅も舟が通れば舟分だけ水位が上がるように計算された幅で作られていました。高瀬川を利用して高瀬舟が運んだものは、米、炭、材木、塩等でした。政治の中心が江戸に移り活気を失っていた伏見の町に活気を復活させました。

虫篭(むしこ)窓、格子窓、駒寄せのある京町屋 角倉橋(高瀬川) 角倉了以水利記功碑
三栖(金井戸)神社

肥後橋の東南、宇治川派流〔濠川〕の畔にあり天武・応神両帝、伊弉諾命(いざなぎのみこと)を祀る旧村社で通称、三栖神社とよんでいます。元は横大路下三栖の三栖神社の御旅所として付近の新中町にありましたが、氏子区域の発展により分離、地名にちなんで金井戸神社と改められた。昔は、当社付近は、戦国大名・加藤清正の屋敷があった所です。又、過書船の溜まり場であったから船具を扱う業者が、多く近くの東浜南町を船大工町と云った。

であい橋(濠川、宇治川派流合流地) 三栖(金井戸)神社 宇治川派流沿いを伏見港へ・・・
伏見港

文禄3年(1594年)豊臣秀吉が伏見桃山城築城の為に堤防などの治水工事をして開いた河川内陸港です。現在は公園になっており、春と秋には十石、三十石船が巡航しています。三十石船は、坂本龍馬始め東海道膝栗毛の弥次・喜多も利用したという話もあり、大阪・天満八軒家〜伏見・京橋迄の淀川を巡航し大阪と京都を結ぶ水運の重要な中継港として伏見は発展しました。

伏見港 三栖閘門(前扉室)
三栖閘門

伏見を水害から守る為に大正11年(1922年)、宇治川右岸の観月橋〜三栖の堤防工事が始まり宇治川と伏見港が分離されました。昭和4年(1929年)、三栖閘門が建設され、宇治川と濠川との約4.5mの水位差を一定にして船を行き来させるようにしました。完成当初から、旅客を乗せた蒸気船や石炭の輸送船など年間2万隻以上が通航していましたが昭和30年代に入り、陸上交通の発達で貨物船による輸送が減少し、昭和37年(1962年)、淀川の舟運はなくなり昭和39年(1964年)、宇治川上流に天ヶ瀬ダムが完成してからは水位が大幅に減少し、閘門はその役目を終えました。

解説 閘室と前扉室 閘室と後扉室
三栖閘門放水路と宇治川 伏見港広場
当時の巻き上げ機のモニュメント 三栖閘門と近鉄澱川鉄橋 東高瀬川と宇治川
この辺りの宇治川右岸堤防道は、淀小橋〜伏見まで豊臣秀吉が植えた松が見事だったから、「千両松」と呼ばれ、鳥羽・伏見の戦いで大激戦となった京街道の淀・千両松堤
すくそぱを京阪電車が走ってます(*^_^*) おけいはん特急と競争o(*^▽^*)oあっけなく完敗したやんか〜☆⌒(*^∇゜)ルネッサ〜ンス(^^ゞ爆
JRA京都(淀)競馬場 淀大橋
涼森(すずもり)神社

旧淀美豆(みず)町の産土神で白鬚大神(猿田彦)他、四柱を祀ります。社伝によると菅原道真が筑紫へ左遷の途次、当社に立ち寄り鈴と自画像を寄進した事から鈴身神社と言ったのが後に涼森神社に転じたと伝えます。

美豆町は京街道が通った所で旅籠や木津川旧河道に面した納屋(浜納屋)や蔵がありました。 涼森神社
美豆城跡 解説 美豆城のように見える涼森神社
京阪電車・淀車庫 男山と御幸橋 御幸橋

男山合戦

清水八幡宮の歴史中で特筆すべきは、「男山合戦」といわれる南北朝時代最大の決戦が男山を中心に60日間もあった事で、この戦いを契機に南朝は急速に勢力を失いました。正平7年(1352年)春、南朝の後村上天皇は楠正義らと男山に立てこもり、対して足利尊氏の嫡子・義詮(よしあき)は東寺を本陣とし男山を四方から取り巻きました。戦いは激烈を極めたが楠正義の守備する洞ヶ(ほらが)峠が落ちると、後村上天皇はここを見限り大和大路を東大寺へと落ち、足利(室町)幕府は始めて基礎固めができたと伝えます。

洛南屈指の桜並木で有名な背割堤 男山 京阪・八幡市駅

航海記念塔(石清水八幡宮五輪塔/重要文化財:鎌倉期)

日本最大(高さ6m)の五輪石塔(鎌倉時代作)で重要文化財に指定されています。石塔部分は下から地・水・火・風・空の五大要素を表しています。摂津・尼崎の商人が宋(中国)との貿易の帰途、石清水八幡宮に祈って海難を逃れ、その恩に報いる為に建立されたと伝え、航海の安全を祈って参拝され「航海記念塔」とも称されています。一説には、石清水八幡宮を創祀した行教律師の墓とも伝える。

駅前のしだれ桜 神応寺 大きさ日本一の五輪石塔!(@_@) (航海記念塔)

石清水八幡宮(男山)

応神天皇、神功皇后、比(ひめ)神を祭神とする旧官幣大社で男山八幡宮とも呼ばれ伏見稲荷大社と共に京都南郊屈指の大社として崇敬されています。初め男山々中に湧き出る清泉を神社化したとされますが平安時代初期、貞観元年(859年)、奈良・大安寺の行教という僧が豊前国(今の大分県)の宇佐宮に篭られた時、八幡大神の御託宣(お告げ)を蒙り、同年男山の峯に八幡三所の神霊を奉安し、この年、清和天皇の御命令を承けた木工寮権・允橘良基は、当地に本殿三宇・礼殿三宇から成る六宇(ろくう)の宝殿を造営した事から始まります。翌年の貞観2年(860年)4月3日、八幡三所大神が正式に鎮座されました。創建以来、朝野の崇敬が篤く伊勢神宮に次ぐ第二の宗廟と崇められ天元2年(979年)、円融天皇の行幸以来、歴代天皇の行幸数多く特に源氏は、この神を氏神と仰いだので武家間で大いに広まりました、「延喜式」にその名を見ないのは神社としてよりも寺院として栄えていたからで往時は山上、中、下に多くの堂舎僧坊が瓦を並べ江戸末期においても尚23坊を数えましたが明治の神仏分離によって神社一色に改されました。往時を物語る石灯籠は320余基を数え奈良の春日大社の1800余基、大阪の住吉大社の560余基に次いで多いですが江戸時代以降のものが多く関心を持たれませんでしたが近年、鎌倉後期の石灯籠(永仁(えいにん)の石灯篭(重文:鎌倉期)が見つかりました。社殿(重文:江戸期)は山上と山下の二ヶ所に分かれていますが、主なる社殿は山上にあり上院とも言います。何れも創建以来、度々兵火によって焼失したが寛永11年(1634年)、徳川家光の造営によるもので廻廊に囲まれた中に楼門、幣殿、本殿、神庫などが複雑に入り混じっています。本殿は外陣(外殿)と内陣(本殿)に分かれ両方の屋根が接する所に織田信長寄進の黄金の雨樋を架けその下を合の間とし三間社を一間づつ開けて一棟とする八幡造りの形式になっています。山腹にある石清水社(末社)は当社発祥の所以となった清泉が今も湧き出しています。

石清水八幡宮一の鳥居 八幡五水の一「筒井」と頓宮北門 頓宮の回廊

石清水八幡宮頓宮(お旅所)

「徒然草」に、仁和寺の法師が石清水詣でにやって来て、本社と間違えて参拝者で賑わう頓宮、高良神社を参拝しただけで帰ってしまい「さすが八幡様は立派であったが、参拝者がぞろぞろと山へ登っていくのには合点がいかぬが・・・」と言って笑い者になったいう一説があります。「あらまほしきは先達(案内人)也」と話を結んでいますが、頓宮だけでも満足できる事は事実です。

頓宮殿 高良神社(石清水八幡宮) 源頼朝手植と伝える松と二の鳥居
影清塚
石清水の下流にあたり参拝者が、この流れに影を映し不浄を洗い清めた所と伝えます。
大扉稲荷社 影清塚 ・・・
一ツ石

社伝によれば当宮鎮座の当初、南北に延びる男山の尾根筋に整えられた山上の参道は石畳の道ではなく踏み固められた土道で、そこは馬を走らせる為の馬場として造成されました。北端に位置するのが、かって存在した「五ツ石」(南総門下付近)で、そこから現在の社務所前あたりにかけてを南側から見て「馬場先(ばばさき)(前)」と呼び、現在も存在する「一ツ石」(三ノ鳥居北側)は馬場の末端(起点)に位置していましたから、その辺りを北側から見て「馬場末(ばばすえ)」と呼んでいたと伝えます。

ほどなく上院o(*^▽^*)o 三の鳥居 今は、お百度参りの起点石?「一ツ石」
320余基の灯籠が並ぶ参道 永仁(えいにん)の石灯篭(重文:鎌倉期) 南総門
本殿へ・・・ 拝殿・本殿・・・平成の大修造で改修中!(>_<) 仮本殿(若宮社)に参拝(^-^)
展望台からの京都市内〜八幡市〜宇治市の絶景・・・o(*^▽^*)o
桜の頃が美しい展望場所 谷崎潤一郎文学碑 八幡五水の一「供御井」
涌峯塔(ゆうほうとう:シンボルタワー) エジソン記念碑 解説
下山開始o(*^▽^*)o 石清水社(石清水井)
泉殿(八幡宮創建所縁の石清水井) 今も湧き出ている八幡五水の一「石清水井 泉坊 松花堂跡
泉坊 松花堂跡碑と松花堂跡 松花堂茶室の路地庭跡
山ノ井戸

八幡五水の一と言われ「寛保3年注進記」によると元禄9年(1696年)9月、幕府御金銀改役・後藤庄三郎長春が井筒を石組みし「藤木井筒」としました。寛保3年(1743年)、刀匠・小鍛冶宗近が焼刃の水に用いたとされます。山ノ井戸は「山城名勝誌」に山井今荘園町南と記され場所も不詳でしたが「男山考古録」の作者は、この藤木井を山ノ井と断定しました。他に高良神社の石段脇に「藤井」、一の鳥居近くに「筒井」があり、山上供御所の用水に用いたとされ「竹の下の井」、「桜井」は山腹にあったとされますが不詳とされています。現在、山腹には「石清水井」、「竹雨水」、山上には「供御井」もあります。

駒返し橋 松花堂昭乗の筆「下馬石(石清水八幡宮参道口) 相槌神社と八幡五水の一「山ノ井戸」
松花堂昭乗所縁の泰勝寺(昭乗墓所) 八幡八景の一・安居橋(あんごばし/太鼓橋)
能蓮法師歌碑 駒札 キララくん(^_-)-☆
洛南屈指の桜並木で有名な背割堤と天王山 御幸橋(宇治川) 宇治川右岸をサイクリングロードへ・・・
男山をあとに・・・ 京都八幡木津自転車道線案内図 万全のナイトランモード☆⌒(*^∇゜)v
サイクリングロード・・・o(*^▽^*)o 宮前橋通通過・・・ 草津湊(桂川、鴨川合流地)@羽束師橋

Tourist2009.01.26(M)

 

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