平安京道「鳥羽の造り道:羅城門編」

 

上鳥羽〜羅城門〜東寺散策

 

浄禅寺(恋塚寺)〜吉祥院天満宮〜西寺跡〜東寺(救王護国寺:左寺/世界文化遺産)〜東福寺

 

鳥羽の造り道〜朱雀大路平安京玄関口であった羅城門界隈(西国街道:九条通り)〜伏見街道をチャリ散策してきました。平安時代、朱雀大路を挟んで西寺、東寺がありました。平安京の玄関口としての羅城門界隈、東寺の伽藍など素晴らしいです・・・

五重塔(国宝:江戸期)

金堂(国宝:桃山期)と講堂(右/重文:桃山期)

弘法大師の創建着手に始まり、しばしば災火をうけ、現在の塔は正保元年(1644年)、徳川家光の寄進によって再建された総高55mの現存する日本の古塔中最高の塔です。

金堂(左/国宝:桃山期)・・・現在の金堂は豊臣秀頼が発願し、片桐且元を奉行として再興させたものです。天竺様の構造法を用いた桃山時代の代表的建築ですが、細部には唐・和風の技術も巧みにとり入れられています。講堂(右/重文:桃山期)・・・大日如来など五仏、向って右に五菩薩、左に五明王が安置され、周囲に四天王・梵天・帝釈天の二十一体の仏像が安置されています。これは空海の密教の教えを表現する立体曼荼羅(密教浄土の世界)です。

浄禅寺

恵光山と号し浄土宗西山禅林寺派の寺で本堂には本尊の阿弥陀如来立像を安置し観音堂には等身の聖観音像(藤原時代作)を安置しています。地蔵堂にある地蔵尊は京都六地蔵の一とされます。当地に地蔵尊が安置されているのは昔、大阪から京都に入る街道口であった為と伝えます。

浄禅寺

三門

恋塚

門前にあり正保4年(1647年)、永井日向守直清が願主となり林羅山の撰文になる「恋塚碑」と袈裟御前の塚と称する五輪石塔があります。一説に「鯉塚」と称されるも明らかではありません。

恋塚碑

袈裟御前塚

石仏(鎌倉期作)

石塔(これも恋塚碑?)

手水舎

石仏(鎌倉期作)

本堂

観音堂

地蔵堂

行住院:ぎょうじゅういん

天正年間、行蓮社存誉信西が開いた浄土宗の寺でその沿革を明らかにしない。門前の左にある薬師堂は元この付近にあった宗林寺から遷したものと伝わります。右にある大日堂は旧宗安寺のもので本尊・薬師如来坐像(鎌倉時代作)は寄木造、極彩色、光背、台座共に完備しています。その傍には一木彫りの定印を結んだ宝冠阿弥陀如来坐像があり、高さ30cmあまりの小像ではあるがズングリ太った面貌は藤原時代の特徴を表しています。両堂前には鎌倉期の石仏数体が安置されています。

門前

薬師堂

 石仏(鎌倉期)

大日堂

 石仏(鎌倉期)

行住院本堂

相寺門前

相寺山門

実相寺

正覚山と号し日象上人の弟子・大覚僧正(妙実上人)が文和元年(1352年)に開創した日蓮宗妙覚寺の隠居寺で本堂には本尊・釈迦・多宝塔を安置しています。「石造卒塔婆(桃山期作)」は慶長2年(1597年)在銘の五輪塔形の卒塔婆で大覚僧正が雨乞い祈願成就の為に建立したと伝わります。「葦の丸屋:あしのまろや」、入母屋造、茶室風の建物で三畳の茶室と四畳の仏間があって松永貞徳の像を安置したと伝わります。貞徳は元亀2年(1571年)、京都に生まれつとに和歌を楽しみ細川幽斎に師事して歌道を修めました。後に東山三十三間堂の南に地柿園を開き木下長嘯子(ちょうしょうし)と共に和歌・俳諧をもって世に知られました。北村季吟はその門下生です。承応2年(1653年)11月12日、没。葦の丸屋は貞徳の没後当寺に移したとされましたが、昭和36年(1961年)の第二室戸台風で半壊のまま再建も見込みがなく、昭和63年(1988年)、倒壊し現存していません。墓地には「逍遥軒貞徳居士」と記した貞徳と息子の松永昌三(尺五堂)の墓所があります。

石造卒塔婆(桃山期)

本堂

庫裏

苅萱堂:かやんどう(誓祐寺)

誓祐寺と号する浄土宗の寺で石童丸の父・苅萱道心(かるかやどうしん)が高野山に登る前にしばし、当地に足を留めたという伝説から世に苅萱堂(かやんどう)といいます。本堂には苅萱の念持仏と伝える阿弥陀像を安置し脇壇には石童丸を思わせる高さ18cmばかりの半肉彫りをした可憐な地蔵小石仏(室町期作)があります。

苅萱堂:かやんどう(誓祐寺)

実光寺

日蓮宗正覚山実光寺と号し、寺内には「鳥羽大黒天」があり高さ30cm余りで木彫り、背中に袋を背負い臼の上に立つ像で昭和期の新作ですが面相が良く男女性器を模っているのが珍しく夫婦和合、家庭円満祈願の信仰があります。

山門

本堂

庫裏

吉祥院天満宮

菅原道真(みちざね)の祖父・菅原清公(きよきみ)が遣唐使として唐に渡った時に嵐に遭遇し吉祥天に航海の無事を祈願し難を逃れたと伝わります。貞観15年(873年)〜元慶2年(878年)頃、道真の父・是善(これよし)によって創建されました。延喜3年(903年)、道真は没し、その怨霊鎮魂と天神信仰が吉祥院においても盛んで、承平4年(934年)、朱雀天皇が道真像を刻み当地に社殿を築き道真の霊を祀ったのが、吉祥院天満宮になったと伝わります。境内には道真が参朝時に顔を映したと伝わる「鑑:かがみの井」や「菅公胞衣塚:えなづか」など道真ゆかりの遺跡があります。古来、当地は六斎念仏も盛んで毎年4月25日の春祭りと8月25日の夏祭りには境内の舞楽殿で吉祥院六斎念仏踊りとして継承されており国の無形文化財に指定されています。

参道

弁財天

鑑:かがみの井遺跡

胞衣塚(えなづか)

菅原道真(845〜903年)が当地で誕生した時、道真のへその緒が胞衣塚(えなづか)に納められています。中心にへそを象徴した丸石が安置されています。6月25日の菅道真誕辰祭には安産御祈祷の信仰があります。

鳥居

胞衣塚(えなづか)

舞楽殿

吉祥の水井

硯の水井

拝殿、本殿

吉祥院天女社

南参道と鳥居

社務所

西寺跡

羅城門〜平安京宮殿まで朱雀大路が、一直線に延びる朱雀大路を挟んで左右対称に、建てられていたのが、東寺と西寺でした。造営当初の平安京では、僧の政治干渉を排除する為、東寺、西寺の二官寺しか建造が許されませんでした。西寺は、延暦13年(794年)、平安京建都時に羅城門の西(右京)に二官寺の一として西鴻矑  館跡に建立され四至は、東は皇嘉門大路(今の七本松通)〜西は西大宮大路(今の御前通)まで、北は九条坊門小路(今の東寺通)〜南は九条大路に至る方二町の地で、左京の東寺と対照的に位置しました。弘仁14年(823年)、嵯峨天皇から勅賜され勧操、守敏(じゅびん)などの高僧が住持となりました。伽藍も金堂、講堂などが甍を並べ荘厳の美を誇りました。東寺が真言密教の道場として発展したのに対し西寺も鎮護国家の官寺として発展しましたが平安中期の正暦元年(990年)に焼亡し鎌倉時代の天福元年(1233年)の火災で僅かに残っていた五重塔も焼亡しました。以来、再建される事なく現在は西寺児童公園の小丘は西寺講堂の土壇跡と伝え付近から発掘した礎石や石碑があります。その西北の地に西寺の旧名を継いだ小寺(旧西方寺)があって門前に守敏(じゅびん)塚と記した一個の石碑を建てて往時の西寺を僅かに偲ばせています。

西寺跡碑(西寺講堂の土壇跡/西寺児童公園内)

西寺跡碑(西寺児童公園内)

付近から発掘された礎石

羅城門跡

平安京を貫く朱雀(すざく)大路の正門として、延暦13年(794年)、平安遷都時に建造された丹塗りの楼門があったとされる場所です。弘仁7年(817年)の暴風雨で倒壊し、その後平安京の衰退と共に荒廃し現在は児童公園の中に石碑が立つだけです。

羅城門跡碑

矢取地蔵尊

寺伝によると1180年前の天長元年(824年)、東寺の空海と西寺の守敏(じゅびん)が神泉苑で雨乞いの祈祷(法力)を競い、空海が勝ち三日三晩雨が降りましたが、破れた守敏は空海の名声を妬んで、空海の帰りを待ち伏せて矢を射かけた時に身代わりに背中に矢を受け空海を救ったのがこの地蔵尊だと伝わります。背中にその時の矢傷があると言われています。

矢取地蔵尊堂

矢取地蔵尊

東寺(救王護国寺:左寺/世界文化遺産)

延暦13年(794年)、桓武天皇が平安京造営に際し国家を鎮護する為に羅城門を挟んで朱雀大路の東西に建立された官寺の一で大路の東(左京)にあったので東寺と言い、一に左寺、左大寺とも言います。東寺と共に西寺も創建されましたが西寺は衰退し現存しません。東寺は現在に至り世界文化遺産に登録されています。始め造寺司を置き、延暦16年(797年)頃から造営が開始されましたが弘仁6年(815年)、僧侶を別当とする造寺所が設けられ東寺は弘仁14年(823年)、嵯峨天皇から弘法大師に下賜され大師は天長2年(825年)、仁王護国の本尊を安置し真言密教の根本道場とし、救王護国寺と号しました。以来、朝野の崇敬篤く、天下に事あるごとに当寺において修法祈祷を行い、延暦寺と並んで顕蜜(げんみつ)二教と言われ我が国の宗教界に君臨しました。中世の兵乱等で創建時の建物は失われ荒廃しましたが今も鎌倉初期〜江戸初期に至る各時代の古建築を有します。後白河法皇の皇女・宣陽門院、後醍醐天皇、豊臣家、徳川幕府の庇護を受け復興し現在の伽藍配置は、南大門(重文:桃山期)、豊臣秀頼が再建した金堂(国宝:桃山期)、貞観仏群がひしめく講堂(重文:桃山期)、食堂(じきど う)、北大門が一直線に並び、南大門の東に徳川家光が再建した五重塔(国宝:江戸期)、西に潅頂院(かんじょういん/重文:江戸期)など奈良時代の寺院建築様式で再建されたものです。弘法大師は「祈りなき行動は妄動であり、行動なき祈りは妄想である」との信念を持っていました。塀で区画された境内はそのまま曼荼羅であり、東寺から様々なメッセージを汲み取る事ができるとも言われます。国宝20件、重要文化財45件の寺宝を収蔵する事でも有名です。五重塔(国宝)は徳川家光の寄進で総高55mの現存する古塔中、日本一の高さを誇ります。南大門(重文:桃山期)、蓮花門(国宝:鎌倉期)、北大門(重文:鎌倉期)、東大門(不開門:あけずもん/重文:鎌倉期)、慶賀門(重文:鎌倉期)を四方に配置し宝物館には、我が国最古とされる兜跋毘沙門天像(とばつびしゃもんてんぞう:国宝)を始め彫刻、絵画、書跡など真言密教に関する寺宝が23,000点以上と多数収蔵されています

東寺(世界文化遺産)

南大門(重文:桃山期)

南大門(重文:桃山期)、金堂(国宝:桃山期)

南大門(重文:桃山期)・・・九条大路に面して建つ三間一戸の八脚門で屋根は切妻造、本瓦葺で蟇股(かえるまた)などに桃山風の建築様式が見られます。元の南大門は重層の楼門で正面五間と言われ文覚上人の再建後、文明18年(1486年)の土一揆に焼かれました。今の門は明治28年(1895年)、蓮華王院三十三間堂の西門を移したもので堂々たる威容を見せています。金堂(国宝:桃山期)・・・延暦15年(796年)に創建された東寺の本堂です。文明18年(1486年)に焼失し今の金堂は豊臣秀頼が発願し片桐且元を奉行として再建させたもので、慶長11年(1606年)に完成しました。奈良大仏殿の古制を真似て天竺様の挿肘木(さしひじき)を用い細部には唐、和風の各技術も巧みに折衷した桃山時代仏寺建築の優作で堂内には薬師三尊(桃山期)、十二神将を安置します。近年、金堂を解体修理の時に創建当時の礎石が発見され位置及び規模が大体、創建時と同じである事が確認されました

金堂(国宝:桃山期)

慶賀門(重文:鎌倉期)

校倉造(あぜくらつくり)の宝蔵(重文:鎌倉期)

食堂(じきどう)

元は、僧侶達が斎時に集まり食事をした場所で建立年代は不詳てすが昭和6年(1931年)12月21日、焼失し昭和9年(1934年)4月に再建されました。聖宝・理源大師による千手観音立像(重文:藤原期)、四天王像(宝物館に安置)を建立した所以から千手堂とも称されます。

金堂(国宝:桃山期)と講堂(右:重文:桃山期)

食堂(じきどう)

十一面観音立像

講堂(重文:桃山期)

天長2年(825年)、弘法大師によって着工され承和2年(835年)頃に完成し、その後の台風や地震で大破し修理を重ねてきましたが、文明18年(1486年)、土一揆による戦火で焼失しました。現在の講堂は慶長3年(1598年)に再建された建物で、内部中央壇上には、大日如来を中心とする五仏を中心とし、その右に五大菩薩坐像五体(国宝:貞観期、但し中尊は除く)、左に五大明王像(国宝:貞観期)、四隅に四天王立像(国宝:貞観期)21体の諸仏を安置します。

食堂(じきどう)

金堂(国宝:桃山期)

講堂(重文:桃山期)

五重塔(国宝:江戸期)

方三間、高さ55もmからなる本瓦葺の塔で我が国現存塔婆では最高、最大とされます。正保元年(1644年)、徳川家光が古制に則って再建したもので塔内部は心柱を初層まで通し、八方の板壁には真言八祖、扉には護法八天などを極彩色で描いています。

五重塔(国宝:江戸期)

御影堂(大師堂/国宝:吉野期)

康歴元年(1379年)に焼失しましたが、翌年に再建されました。前堂と後堂の二堂に分かれ檜皮葺、入母屋造の屋根二棟が混み入って建っています。外面は蔀戸(しとみど)をはめ、妻唐戸(つまからと)を用い一見、寝殿造を思わせます。ここは、弘法大師の住房跡と伝え堂内には弘法大師坐像(重文:鎌倉期)、大師の念持仏の秘仏・不動明王坐像(国宝:貞観期)、五重小塔(重文:鎌倉期)を安置します。

柳谷観音

御影堂山門

御影堂南面(不動堂:国宝:室町期)

御影堂(大師堂:国宝:室町期)

京都七福神の一「毘沙門堂」

大日堂

北大門(重文:鎌倉期)

伏見街道第ニ橋跡

かって伏見街道に架かっていた「ニの橋」が九条跨線橋下の東側に復元されています。石柱に「伏水街道第ニ橋」の字が刻まれています。この橋は、二の橋川に架けられた石橋でしたが、川が暗渠になり撤去されました。伏見街道には4つの石橋が架かっていました。現存するのは三の橋川に掛かる第三橋と七瀬川に架かる第四橋の2つだけです。

第二橋跡

東福寺

臨済宗東福寺派の大本山で慧日山(えにちざん)と号します。平安中期以来、藤原氏の氏寺として栄えていた法性寺(ほっしょうじ)内に延応元年(1239年)、前関白九条道家が仏殿を上棟、奈良・東大寺、興福寺になぞらえて寺名を東福寺とし開山に円爾弁円(えんにべんねん)を迎えました。当初は天台、真言、禅の三宗兼学院でしたが後に臨済禅寺となり京都五山に列せられました。道家没後も九条、一条家の庇護を受けて仏殿、法堂など多くの伽藍が整備され法性寺を凌ぐ大寺院となりました。その後、応仁の乱や度々の兵火に掛かり荒廃しますが権門勢家の援助により復興されました。明治の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)と大火でも荒廃しますが現在の法堂が竣工したのは昭和9年(1934年)で塔頭25、末寺院370ヶ寺を統括します。国宝の三門は日本最古で最大です。

臥雲橋

通天橋

日下門

道澄寺(どうちょうじ)

浄土宗深草派の寺で洋風住宅に見えますが寺歴は古いです。奈良県五条市の藤原武智麻呂が養老3年(719年)に建立した真言宗・栄山寺に伝わる国宝の鐘は道澄寺のものと伝わります。延喜17年(917年)、藤原道明と橘澄清が四恩に報い六趣(六道)を済ます為に合力して建立し二人の名前一字ずつから寺名とされました。澄清は道明の母方の叔父で道明の孫娘は「小右記」の著者・藤原実資(さねすけ)の母であり実資は天皇には信任されていたが藤原道長とは対立していました。国宝の鐘は応仁の乱に掠奪されたのが栄山寺に伝わったとされます。本尊は等身大の木造地蔵菩薩(平安期)と他に観世音菩薩立像(天平期)が安置されています。

禅堂(東福寺)

道澄寺

第四橋(直違橋)

 Tourist  2004.04.26(M)

 

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