源氏物語花の庭「梅と椿まつり」

 

花の枝に いとゞ心を しむるかな 人のとがめん 香りをばつゝめど   光源氏

 

しだれ梅繚乱・・・城南宮・源氏物語花の庭 地図

社殿を取り巻く約1万坪(33,000u)の神苑は、源氏物語花の庭と称され、春の山(本殿西側)、平安の庭(本殿東側)、室町、桃山、城南離宮の庭(本殿南側)と繋がり、総称して楽水苑(らくすいえん)と称します。往時の城南離宮を表した城南離宮の石庭など創意工夫された名庭は見事で貴族に扮した人達が「遣水(やりみず)」と呼ばれる曲がりくねった小川の畔に座して上流から流れてくる朱色の酒杯が目前にくるまでに、一首詠んで短冊にしたため、酒を飲みます。流れの上手の者が上の句を詠んで流し、下手にいる者がそれを受け下の句を詠む「曲水の宴(うたげ)」が、平安の庭において春(4月29日)と秋(11月3日)に行なわれ、王朝の雅を再現します。平安末期、当地に白河上皇が鳥羽離宮を造営し院政を執りました。城南宮は平安京、離宮の守護神として崇められ梅・桜・つつじ・藤・ササユリが美しく「源氏物語」に因む草花が100余種類植栽され四季おりおり楽しむ事ができます。

酒蔵 城南宮

春の山

椿、枝垂れ梅、三つ葉ツツジ、ササユリと春の草木が次々と景色を彩るのが春の山です。6月末、半年間の穢を小川に流して心身を清める「人形(ひとがた)流し」が禊(みそぎ)の小川で行われます。白河上皇は城南離宮を築く際に、「源氏物語」に描かれた光源氏の四季の庭を備えた六條院をモデルにしたと伝わり、「春の山」と対を成す「秋の山」が国道1号線を隔てた西側にあり、史蹟公園になっています。

楽水苑(城南宮神苑)へ・・・ 城南離宮「秋の山」に対する「春の山」・・・しだれ梅繚乱\(●⌒∇⌒●)/
えぇなぁ〜 (@^▽^@)
綺麗やんか〜(*^-^*)
えぇなぁ〜 (@^▽^@)
見事やなぁ〜 (@^▽^@)
o(*^▽^*)oあはっ♪

曲水の宴「平安の庭」

貴族に扮した人達が「遣水(やりみず)」と呼ばれる曲がりくねった小川の畔に座して上流から流れてくる朱色の酒杯が目前にくるまでに、一首詠んで短冊にしたため、酒を飲みます。流れの上手の者が上の句を詠んで流し、下手にいる者がそれを受け下の句を詠む「曲水の宴(うたげ)」が、平安の庭において春(4月29日)と秋(11月3日)に行なわれ、王朝の雅を再現します。

平安貴族の寝殿造の邸宅庭園を模した「平安の庭」・・・春と秋に「曲水の宴」が催され王朝の雅を楽しめます。(*^-^*)

桃山の庭

枯山水様式で、大きな刈り込みの前に芝生が広がる明るい庭園で、桃山時代の豪壮な気風を反映しています。城南宮から見晴るかす洛南の景色を表しているとも、あるいは、刈り込みが紀州の山並み、広々とした芝生が太平洋、点在する岩が小島を表しているとも称され、見る人によりその姿を変えます。紅枝垂れ桜が咲くと、一際華やかさを増し「桃山の庭」の奥の高台にある水石亭では、折々に城南宮や鳥羽・伏見の地に関わりのある特別展などが催されます。

(*^-^*) 侘び、寂びの中に明るさもある池泉廻遊式庭園「室町の庭」

桃山の庭

枯山水様式で、大きな刈り込みの前に芝生が広がる明るい庭園で、桃山時代の豪壮な気風を反映しています。城南宮から見晴るかす洛南の景色を表しているとも、あるいは、刈り込みが紀州の山並み、広々とした芝生が太平洋、点在する岩が小島を表しているとも称され、見る人によりその姿を変えます。紅枝垂れ桜が咲くと、一際華やかさを増し「桃山の庭」の奥の高台にある水石亭では、折々に城南宮や鳥羽・伏見の地に関わりのある特別展などが催されます。

(*^-^*) しだれ桜 安土・桃山時代の気風を表している桃山の庭

城南離宮の庭

城南の地が最も華やかであった離宮時代を表す枯山水庭園です。玉砂利が離宮の池を、緑濃い龍の鬚(ひげ)が覆う部分が陸地を、そして岩組みが殿舎を表現しています。

白砂は離宮の池、龍の鬚の緑は陸、石は殿舎として城南離宮を表している枯山水庭園
白梅 紅梅も綺麗やんか〜(*^-^*)
(*^-^*) 境内
本殿 「春の山」のしだれ梅俯瞰o(*^▽^*)o
(*^-^*) 久我橋 桂川
久我畷(なわて:縄手)

鳥羽作り道(鳥羽離宮)と西国街道(山崎駅)を直結する直線道でした。久我畷と言われるのは、後世になってからで当初は京道(山崎道)と言われたようです。ともに平安京遷都後に造られた計画道と伝える。・・・伏見区久我から南西方向の乙訓郡大山崎町へ向かう耕野の中の一筋道。北東へ桂川、鴨川を渡ると秋山付近(鳥羽離宮)で上鳥羽からの鳥羽作り道の南延長に合し、南西は山崎駅(うまや)に向かう為、平安初期に山陽道の一部として作られたと伝える。資料上の初見は『太平記』で元弘3年(1333年)4月27日、六波羅勢(北条勢)の名越尾張守高家は7,600余騎の軍勢を久我畷一帯に布陣、足利尊氏と共に後醍醐天皇方の軍勢を迎え撃った。この戦いの高家の奮戦ぶりは、見事なものであったが惜しくも赤松円心一族の佐野左衛門三郎範家の矢に射られ、壮絶な最後を遂げた。六波羅勢(北条勢)は赤松勢に対するが、路幅が狭く、両際が低湿な深田の為、この付近での合戦を避けた事なども記す。また天正10年(1582年)6月13日、明智光秀の軍勢は羽柴秀吉との天王山の戦いに敗れて久我畷を経て敗走するなど古来、幾多の戦場になった所とも伝える。久我畷は低湿地であるがゆへ通行が難儀で、江戸時代には消滅し始めたとも伝え現在、東海道新幹線、名神高速道路、国道171号線、工場、住宅開発など(特に長岡京スポーツセンター〜小畑川の落合橋)で寸断され遺構破壊が著しい。※畷とは・・・縄手とも記される盛り土で作られた道の事で、土手道、田の中の細道、あぜ道、なわてじ、なわて道、まっすぐな長い道という意味がある。

桂川右岸〜久我畷で長岡天満宮へ・・・
・・・ 府道79号線を右折・・・ 長岡天満宮へ・・・
(*^-^*) サントリー通りの落合橋(小畑川) 中山修一記念館
サントリー京都ビール工場 地図 ・・・ (*^-^*)
長岡天満宮 地図

一に長岡天神ともいい、菅原道真を祭神とします。社伝によれぱ昌泰4年(901年)、道真が筑紫左遷時に随従の中小路祐房に与えた自画像を安置して祀った事が当社の縁起と伝えます。洛南、特に桂川流域には道真の遺蹟、伝説が多くいずれも道真の遺徳を追慕して後に作られたもので当社もその一つです。中世その沿革を明らかにしないが江戸時代に当地が八条宮(桂宮)智仁親王の領地であった関係から同宮の崇敬を受け延宝4年(1676年)、社殿を改築し霊元天皇の勅額を賜りました。現在の本殿は、昭和16年(1941年)、平安神宮の社殿を移築したものです。

えぇなぁ〜(*^-^*) 長岡天満宮 境内
境内 本殿 梅苑
二〜三分咲き・・見ごろは今少し先かと
 (@^▽^@)
 (@^▽^@)
 (@^▽^@)
梅苑俯瞰 寒うぅぅ〜(@_@;)
なでウシさん なでなで・・・賢くなりますように(^▽^;)爆 錦景苑
菅原道真の歌碑 左党には、たまりませぬ?!(^▽^;)
キララくんo(*^▽^*)oあはっ♪ 八条ヶ池を二分する中堤の参道 (*^-^*)
八条ケ池(長岡天満宮)

八条ケ池は、寛永15年(1638年)、当時の領主・八条宮智仁親王(桂宮)が灌漑用の溜め池を改造成した大池で八条ヶ池を二分する中堤は参道になっています。中堤道両脇に推定樹齢百数十年の霧島ツツジ(市指定天然記念物)が群生し、八条ヶ池の中堤道の真中道に架かる石の太鼓橋は加賀藩・前田公の寄進と伝えます。

加賀藩・前田候の寄進と伝える石の太鼓橋 八条ヶ池ふれあい回遊のみち(水上橋)
鳩の擬宝珠(ぎぼし)?(^^ゞ ・・・ 八条ヶ池(長岡天満宮)
アゼリア通り 地図 阪急・長岡天神駅 一里塚
府道79号線 ・・・ 羽束師橋
草津湊(桂川、鴨川合流地) 長岡京市、西山方面 間もなく大手筋

Tourist  2010.03.01(M)

 

 

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