嵯峨野路散策

 

小倉山 峯のもみぢ葉 心あらば 今ひと度の みゆきまたなん   拾違集

 

城南宮〜野宮神社〜常寂光寺〜落柿舎〜二尊院〜愛宕念仏寺〜直指庵〜大覚寺、大沢池

 

嵐山、嵯峨野・・・平安貴族の世界(ステージ)チャリチャリ探訪

嵐山、嵯峨野は平安貴族が船遊びや紅葉狩りに興じた景勝の地でした。今でも桜、鵜飼い、紅葉、雪景色と四季折々に目を楽しませてくれる風光明媚の地です。竹林の嵯峨野やしっとりと趣深い奥嵯峨へと続く辺りは人気の高い観光スポットです。『源氏物語』、『平家物語』など文学作品の舞台となる名所も点在し大堰川(桂川)上流の保津峡から渡月橋辺りにかけてはトロッコ列車や保津川下りも楽しめます。

城南宮

伏見七名水の一「菊水若水」

嵐山サイクリングロードをチャリチャリ・・・向い風強し!!!σ(^◇^;)

渡月橋

嵐山(@渡月橋)

天龍寺

源氏物語『賢木の巻』ゆかりの野宮(ののみや)神社

伊勢神宮に仕える伊勢斎宮(さいぐう/いせのいつきのみや)が身を清める為に建立された神社で皇大神宮の奉仕に赴く前に長からぬ間、篭られた斎(いつき)の跡と伝え天照大神を祀る旧村社で縁結びの社です。伊勢斎宮は崇神天皇の御代、皇女・豊鋤入姫命(とよすきひめのみこと)に勅して天照大神を大和の笠縫邑(かさぬいのむら)に祀られ垂仁天皇の御代に倭姫命(やまとのみこと)が天照大神を奉じて諸国を巡り遂に伊勢の五十鈴川の畔に皇大神宮を営み仕えたのが起こりとされ歴代天皇は斎宮を置かれ後醍醐天皇の皇女・祥子内親王まで続いたが中世の兵乱によって根絶しました。斎宮は天皇即位の時、未婚の皇女、女王から選ばれ一に斎王と言います。今の野宮神社は何時の野宮か明らかではないが簡素な黒木の丸太組の鳥居、小柴垣は往時の野宮を偲ばせています。源氏物語「賢木の巻」の舞台にもなり恋の清算に訪れた源氏を忘れえぬ六条御息所の煩悶が描かれています。

嵯峨野竹林道をチャリチャリ

珍しい黒木鳥居(野宮神社)

本殿

嵐山を表した野宮の庭(苔庭)

嵯峨野竹林道をチャリチャリ

小倉池

常寂光寺(じょうじゃっこうじ)

小倉山と号し日蓮宗本圀寺派の寺で寛永年間に本圀寺の日槇上人の退穏所を寺に改めたもので天台四土の一つ常寂光土を思わせるところから寺名となりました。茅葺きの仁王門には運慶作と伝える仁王像が立っている。檜皮葺きの多宝塔(重要文化財:桃山期)は、天和年間の建築ながら華麗な桃山様式を伝えています。豊臣秀吉、小早川秀秋との所縁も深く、仁王門は本圀寺の南北朝時代のものです。藤原定家が小倉山百人一首を編集した場所の時雨亭趾もあります。特に仁王門〜本堂迄の石段脇の紅葉は見事で嵯峨野屈指の紅葉の名所とされます。

御髪(みかみ)神社

常寂光寺

仁王門

本堂(伏見城遺構:客殿)

境内からの嵯峨野の展望

境内

多宝塔

歌仙堂

本堂からの庭園の眺めとです・・・

落柿舎(らくししゃ)

ひなびた茅葺き屋根の庵は、松尾芭蕉の十哲(弟子)の一である向井去来(むかいきょらい)の閑居地で洛東・聖護院村に住んでいましたが元禄初期に嵯峨に古屋を買い求め隠居所としました。邸内に柿の木があり去来が商人に柿の実を売る約束をしたが、一夜のうちに風で全て落ちてしまい買約中の商人が驚き破談にした事から落柿舎と名付けたとされます。松尾芭蕉は元禄4年(1691年)4月18日に去来を訪ねて5月5日までの17日間滞在しその間に名所古跡を訪ね随想を書き留めたのが世にも有名な「嵯峨日記」です。落柿舎は去来の没後に荒廃しましたが明治になって有志の人達によって再興され舎中の庭からの嵐山、嵯峨野を望んで景観は良く俳望の隠棲に相応しい庵です。

紅葉時分が楽しみな仁王門〜本堂への参道

落柿舎とです・・・

二尊院(にそんいん)

小倉山と号し天台宗延暦寺派の寺院で元は嵯峨天皇が慈覚大師に勅して建立した華台寺の旧跡と伝えます。久しく荒廃していたのを法然上人の高弟・正信房湛空(たんくう)によって再興されました。湛空は土御門、後嵯峨ニ帝の戒師となり大いに堂宇を再建しましたが応仁、文明の乱に荒廃し後に三条西実隆父子の帰依により再興され豊臣、徳川二氏が寺禄を寄せ寺運も栄え檀家には二条、鷹司、三条、三条西家などの旧堂上華族、角倉などの旧家を擁し西嵯峨一の名山となりました。本堂に発遣(ほっけん)の釈迦、来迎の弥陀立像(重文:鎌倉期)の二体を本尊とする事からニ尊院とされます。傍らに「法然上人足曳きの御影」(重文)を掲げます。本堂前に掲げる「ニ尊院」なる額は後奈良天皇による親筆ですが初めの額は小野道風が書いたとされ元、四脚門に揚げられていましたが夜な々門前の池から霊蛇が現れ額文字を舐めるので寺はこれを防ぐ為に額の傍に不動明王像を描かせたが一向に効果がなく正信上人が蛇の執念を救わんが為自ら円頓戒の血脈を書いて池に沈めたところ池中に千葉の白蓮花が一もと生じた。竜女成仏の印しであるとしこの花をとり寺の什宝にしたと伝わります。門前の池中の弁財天社はこの竜女を祀ったと伝えます。

西行井戸

向井去来(むかいきょらい)墓

二尊院(総門は伏見城遺構:薬医門)

愛宕街道をチャリチャリ

化野(あだしの)念仏寺

茅葺の平野家邸とです・・・

愛宕念仏寺(おたぎねんぶつでら)

醍醐天皇の延喜年間、千観阿闍梨の開創する等覚山愛宕院と号する天台宗延暦寺派の古刹で当初は奈良時代以前、東山の地に七堂伽藍を備える御願寺として建立されました。平安時代初期に洪水で堂宇が流失しましたが、醍醐天皇の命で六波羅蜜寺の近くに再興され、大正11年(1922年)に現在地に移されました。鎌倉時代に造られた本堂(重要文化財)周辺の境内には、参詣者の手で彫られた表情豊かな1200体もの羅漢石像が並び建築、仏像に見るべきものを有します。

愛宕神社一の鳥居@鳥居本

清滝隋道(愛宕鉄道遺構)

愛宕念仏寺とです・・・

シャガの群生と千二百羅漢石像

カラス天狗?

本堂

鐘楼(三宝の鐘:三鐘)

ふれあい観音

多宝塔と伝教大師像とです・・・

表情豊かでユーモラスに喜怒哀楽を表す千二百羅漢石像

一体々、仕草や表情が個性的な千二百羅漢石像

現世乙女の駆け込み寺・・・直指庵(じきしあん)

祥鳳山と号する浄土宗知恩院派の寺ですが、元は黄檗衆で天保年間、隠元禅師の嗣法独照禅師が、当地に没縦庵なる草庵を結んだのが起こりと伝えます。その後、諸堂完備した大寺になったが、寺名を撞けなかったのは黄檗の正統を直指伝心したからと言われます。後、次第に荒廃したが幕末の頃に勤皇の志篤かった近衛家の老女・村岡局によって再興されました。今の建物は、明治13年(1880年)に焼失後、有志の人達によって再建されたもので藁葺の本堂には本尊・阿弥陀如来像を安置し開山堂には独照禅師の円筒、禅師の木像が安置されます。藁葺きの本堂には「想い出草」というノートがたくさんあり、訪れた乙女の悩みが綴られ奥には書き込む為の小部屋もあり何度も訪れる人も多く「駆け込み寺」、「泣き込み寺」とも言われるようになりました。

心が和むとです・・・千二百羅漢石像

直指庵

有名な竹林

藁葺きの風情ある阿弥陀堂(本堂)とです・・・

阿弥陀堂(本堂)からの庭園の眺めとです・・・

村岡局(むらおかのつぼね)

津崎矩子(つざきのりこ)と言い大覚寺門跡諸大夫の妹で、近衛家に仕え村岡局(むらおかのつぼね)と称しました。朝政を預かる近衛忠熙の信任が篤く、僧・月照や西郷隆盛なども交渉があった。安政の大獄で捕らえられたが、30日の押しこめの後に許され京都へ帰り、直指庵(じきしあん)を再興しました。

風情ある境内

開山堂

村岡局の墓

藁葺きの修練道場

北嵯峨の里

後宇多天皇陵(蓮華峯寺陵)

後宇多天皇、亀山天皇皇后信子蓮華峯寺陵とも言い、亀山、後二條天皇、後宇多天皇皇后姈 子内親王も分骨祀されています。

後宇多天皇陵(蓮華峯寺陵)

後鳥羽天皇皇女礼子内親王(嘉陽門院)墓

遍照山、遍照寺跡

遍照山・・・昔、朝原山(ちょうはらやま:千代原山)とも呼ばれ山は円錐形で全山松樹に覆われ、山の中腹に寛朝僧正が座禅に用いた座禅石や天に昇ったという登天松があり広沢池に映る山容も素晴らしいです。遍照寺跡・・寛朝僧正は早くから当地に広沢山荘を構えていましたが永祚元年(989年)10月、山荘を寺とし遍照寺と号しました。池の畔には釣り殿、月見堂などがあり池中の観音島へ橋を架けたとされかかる大寺でしたが惜しくも早くに荒廃し今は池南に旧名を留めるだけです。

寛朝僧正が座禅に用いたと伝える座禅石

広沢池観音石仏

遍照寺観音堂(観音島)

広沢池

周囲約1kmにも及ぶ大池で伝説によると宇多天皇の孫・寛朝僧正が遍照寺を建立する時に開削したとされますが修築拡張を行った池で上古嵯峨野が野沢池であった名残を留める池とされます。秦氏のハダはハリダ(墾田)の約言であるというのもこれに因みます

遍照寺山(朝原山:ちょうはらやま 千代原山@広沢池)

名古曽(なこそ)ノ滝跡

藤原公任が滝跡を訪ねて「滝の音は 絶えて久しく なりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ」と詠んで歌の名所となった名古曽の滝跡は旧滝殿(嵯峨院)の邸内に設けられた滝でしたが水は早くに涸れ石組みの一部が残っています

愛宕山(@広沢池)

名古曽ノ滝跡(大覚寺)

龍頭鷁首(りゅうとうげきしゅ)の船(管弦船)

大沢池

嵯峨天皇が離宮嵯峨院の造営にあたり中国の洞庭湖(どうていこ)を模して造られたところから、庭湖とも呼ばれる日本最古の池泉舟遊式庭園(林や泉水などのある庭園)です。天皇在世の頃は池中に龍頭鷁首(りゅうとうげきしゅ)の舟を浮かべ詩歌管弦遊びが行われました。池中には天神島・菊ケ島と庭湖石があり、この二島一石の配置が華道嵯峨御流の基本型に通じているとされます。池畔には茶室・望雲亭、心経宝塔、石仏、名古曽(なこそ)ノ滝跡などがあり周囲約800mで国指定の名勝地です

大沢池

菊ノ島と夜泊石(よどまりいし/庭湖石)

嵯峨野の里

大覚寺

嵯峨山と号する真言宗大覚寺派の大本山で正しくは旧嵯峨御所大覚寺門跡と称します。元、嵯峨天皇の離宮でしたが貞観18年(876年)、離宮を改め寺となし淳和(じゅんな)天皇の第二皇子の恒寂法親王(ごうじゃくほっしんのう)を開祖として大覚寺と号したのが当寺の起こりです。鎌倉時代に後嵯峨、亀山両天皇も譲位後に当寺に入られたが後宇多法皇が第二十二代門跡となるに及び大いに伽藍造営に務め中興開山され、院政を当寺で執られたので嵯峨御所と呼ばれました。これより後宇多上皇の皇統は大覚寺統(後の南朝)と呼ばれ皇位継承などを巡って後深草上皇の持明院統(後の北朝)と対立、南北朝分立の原因となりました。明徳3年(1392年)南北朝講和となるや亀山天皇は当寺で北朝の後小松天皇に譲位されました。その後も皇室の帰依と武門の信仰により時運変る事なく明治初年に至るまで皇族の法親王が法脈を継がれ今も市中の大寺院とは違った貴族的な雰囲気が境内に漂っています。嵯峨天皇の「般若心経」書写に因んで写経の本山、道場としても知られます。生け花「嵯峨御流」の総司所も大覚寺に設立されています。

大覚寺

唐門(勅使門)

嵯峨豆腐、飛龍頭などを買ったとです・・・

清涼寺

清涼寺は五台山清涼寺と号し嵯峨野でも有数の古刹で源氏物語の光源氏のモデルとされる平安貴族の源融(みなもとのとおる)所縁の寺です。本尊の三国伝来の釈迦仏は有名で嵯峨釈迦堂(さがしゃかどう)として、人々に崇拝されています。左大臣・源融(みなもとのとおる)の別荘(棲霞観:せいかかん)を源融没後、寺に改め棲霞寺(せいかじ)と号し天慶8年(945年)、源融と血縁深い式部卿宮重明親王が亡室の為に新堂を建立し金色等身の釈迦如来一体を安置し42年後の永延元年(987年)、南都東大寺の僧・「念(ちょうねん)は宋より帰朝後、請来した釈迦如来像と摺本一切径を当寺に安置しました。「念は愛宕山を中国の五台山に擬えてその麓に大清涼字寺を建立しようと考えましたが長和5年(1016年)「念没後、弟子の盛算は師の遺志を継ぎ棲霞寺内に一宇を営み釈迦像を安置し五台山清涼寺と号し都下万民の信仰を集め隆盛し軒を貸した棲霞寺は衰徴し今は境内の阿弥陀堂に名を留めるに過ぎません。本尊の釈迦如来立像(国宝:宋)は、体内に五色の絹で作った五臓六腑(ごぞうろっぷ)とお経を持ち、生身(いきみ)のお釈迦様と称されています。近年、大阪城発掘時に見つかった豊臣秀頼の首塚が本堂横に祀られています。

清涼寺

亀山〜愛宕山(渡月橋@嵐山)

mackbearさんと遭遇!・・・風と共に去りぬ?!σ(^◇^;)

Tourist  2005.10.24(M)

 

   

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