嵯峨野路散策

 

千早振る 松の尾山の 影見れば 今日ぞ千年の ほじめなりける   (後拾遺集) 源 兼澄

 

嵐山・嵯峨野界隈散策「嵐山編」

 

城南宮〜嵐山サイクリングロード〜松尾大社〜法輪寺〜嵐山モンキーパーク(岩田山)〜大悲閣(だいひかく:千光寺)

 

嵐山

史跡名勝指定地で大堰川(おおいがわ:保津川/桂川)の右岸に聳える山を称しますが、広域的には左岸も嵐山と称します。松尾大社の鎮座する荒子山(あらしやま)が訛ったと伝えますが山の桜、紅葉を吹き散らす事からとも諸説あり定かでありません。標高383mでさして高くはないですが、全山青松などに覆われ桜、楓が点在し古くは小倉山と称されました。後嵯峨上皇が亀山殿(天龍寺)を造営し吉野の桜を移植されてから桜の名所になりました。嵐山は眺める山で登る山ではないと言われます。この両岸を渡す渡月橋は全長が約150mの木造の橋で亀山上皇が、くまなき月の渡るに似ていると名付けられたと伝えます。大堰川(おおいがわ:保津川/桂川)は古くは葛野川と称し東の鴨川に対し西川とも呼ばれました。おおよそ嵐山ほど四季折々の風光に恵まれ自然の探勝に適した所はなく山紫水明とは嵐山を称するとまで言われます。

楼門(松尾大社)

拝殿、本殿(松尾大社)

楼門は左右に随神を配置し江戸時代初期の建立とされ、随神の周囲に張り巡らせた金網には、たくさんの杓子が掲げられています。祈願杓子とも言われ願い事を杓子に記して掲げておけば救われると言われます。本殿は大宝元年(701年)、秦忌寸都理(はたのいみきとり)が文武天皇の勅命を奉じて創建以来、皇室や幕府の手で改築され、現在の本殿は室町初期の応永4年(1397年)の建造で天文11年(1542年)に大修理を施したもので桁行三間・梁間四間の特殊な両流造りで松尾造りと称せられます。

本堂(法輪寺)

多宝塔(法輪寺)

愛宕山(法輪寺)

比叡山(法輪寺)

渡月橋

小倉山、愛宕山

大悲閣

比叡山(大悲閣)

 

高瀬川と疎水放水路合流地点

城南宮

手水舎で菊水若水をペットボトル(2L)に頂戴

鳥羽・伏見の戦い碑(小枝橋)

久我橋〜サイクリングロードへ・・・凄い向い風!!!

愛宕山を望む

学生時代、試合をした吉祥院球場!懐かしい〜

前方に北山を眺めながら疾走中!(^_^)V

松尾橋に向けて快走中!!! 向い風が強し!!!!(;^_^A

愛宕山

松尾大社の大鳥居(一の鳥居)

松尾大社

大山咋神(おおやまくいのかみ)、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと/中津島姫命(なかつしまひめのみこと))を祭神とする旧棺幣大社で京都最古の神社の一です。文武天皇の大宝元年(701年)、秦忌寸都里(はたのいみきとり)が松尾山大杉谷の磐座(いわくら)の神霊を勧請し社殿を造営しその女・知満留女(ちまるめ)を斎女として奉仕させたのが当社の起源で代々秦氏が奉祀しました。平安遷都後、賀茂社と供に王城鎮護神となり賀茂の厳霊、松尾の猛霊と東西並び称されました。大山咋神(おおやまくいのかみ)は上賀茂神社の祭神・賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)の父神とされ賀茂社とは姻戚関係にあり延喜の制には名神大社となり二十二社の制には第四に班し中世を通して上七社の一に列せられる有数の大社です。寛弘元年(1004年)、一条天皇の行幸以来歴代の行幸、行啓すこぶる多く中世以降は酒造の神として崇敬が篤く氏子地域は京都市の1/3にも及びます。

参道と二の鳥居

楼門

手水

撫(な)で亀さん

拝殿

樽占い

相生の松

拝殿・本殿

椋(むく)の霊樹

法輪寺・・・十三詣り

智福山と号する古義真言宗の寺院で和銅6年(713年)、元明天皇の勅願により僧・行基の開創と伝わり古くは木上山葛井(かどい)寺と号しました。貞観16年(874年)、僧・道昌が中興し法輪寺と改名し本尊・虚空蔵菩薩を安置し世に「嵯峨の虚空蔵さん」と親しまれて今に至ります。本堂は元治元年の兵火にかかり焼失し明治になって再建され堂内には日本三虚空蔵の一と言われる虚空蔵菩薩坐像を本尊とし傍らに持国天、多聞天立像二体(重文:鎌倉期)を安置します。毎年4月13日、13歳になった男女が虚空蔵菩薩から福徳智彗を授かるべく参拝する「十三詣り」が催され参拝後に渡月橋を渡り切るまでに後を振り返ると授けられた智福を失うと伝わります。「十三詣り」の起源は不詳ですが寛政11年(1799年)刊「都林泉名所図会」に記されています。

さすが酒の神様!神輿庫の壁面に酒樽!!

法輪寺山門

石段

獣魂供養塔

電電宮

狛うし像、狛とら像(右)と本堂

多宝塔

御針供養塔

供養塔

十六羅漢の一「賓頭盧(びんずる)尊者(おびんずるさま)

境内

愛宕山の眺め

比叡山の眺め

電電塔(ヘルツ(左)、エジソンのレリーフ)

宝篋印塔(ほうきょういんとう)

嵐山モンキーパーク(岩田山)・・・ふふふっ(^_^;ゞ

檪谷(いちいだに)神社

嵐山モンキーパーク(岩田山)

嵐山モンキーパーク(岩田山)は、京都・嵐山にあるニホンザルの公苑です。昭和32年(1957年)、元々いた野生のニホンザルを餌づけして、一般におサルの生態が観察できるようにと始まりました。現在、160頭のニホンザルが生息しており、野生のニホンザルを間近で観察できます。またモンキーパークのおサル達すべてに名前がついていて親子関係などがわかり、研究の場としても貴重です。岩田山中腹に餌場が作られ休憩所(売店)や展望台、運動場があります。休憩所(売店)からはおサルにエサをやることも出来ます。決して岩田山のボスになろうとしてボスザルに戦いを挑まれないよう・・・以前、友達二名がサル集りになりました!!!(;^_^ゞ エッ?主犯の私は休憩所(売店)に逃げ込んで無事でしたが・・・敵もサルもの?!(;^_^Aおいおい 今回、オヒサで訪ねたのですが・・・約160頭もいるおサルさんが一頭もいないとの事!(@_@) 逃げられたかな〜???サルものは追わずって事で行きませんでしたが・・・又、訪ねたいと思います。

なんと!本日は猿が山にいませ〜ん!(;@_@)ガクッ

渡月橋

小倉山、愛宕山

戸無瀬滝(となせだき)

観光船・さくら号

大悲閣参道(左)

大悲閣(だいひかく:千光寺)と角倉了以

参道上り口に「花の山 二町のぼれば 大悲閣」と記した芭蕉の句碑があり千光寺と号する黄檗宗の寺で慶長年間、大堰川(保津川、桂川)を開削した角倉了以が開削工事に協力した人達の菩提を弔う為に創建し観音の慈悲を讃えて大悲閣と号しました。堂内には千手観音像を本尊とし脇檀には不動明王、毘沙門天、阿弥陀如来像、道空了椿上人坐像、法衣姿の了以像などが安置されています。了以は本名を吉田光好と称し代々医を業とする家に生まれ祖父・宗忠以来、嵯峨で土倉(金融業)を営み巨富を得ました。角倉はその屋号で了以は医業を弟・宗恂に譲り商人を志し幕府の朱印を得て安南貿易を営み多額の外貨を得て後に保津川、富士川、天竜川、高瀬川を開削しました。晩年、嵯峨ニ尊院の僧・道空に師事し仏道を修め当地に隠栖し慶長19年(1614年)7月に61歳で没しました。境内には嗣子素庵が建立し林羅山撰文による「河道主事嵯峨吉田了以翁碑銘」の石碑、元嵐山々頂にあった夢窓国師の座禅石があります。本堂など伽藍の老朽化が激しく再建を目指されていますが檀家などもなく資金調達はかなり大変なご様子。拝観料(¥400)は本堂の再建資金との事です。此処からの景色も絶景で隠れた紅葉の名所だと思います。

芭蕉句碑

参道入り口

山門

鐘楼

阿弥陀如来像

不動明王、千手観音菩薩、毘沙門天

道空了椿上人坐像

夢窓国師座禅石

河道主事嵯峨吉田了以翁碑銘の石碑

大悲閣内

角倉了以(すみのくらりょうい)坐像

比叡山方面の絶景

トロッコ列車が見えます。

大悲閣

鐘(天声)

芭蕉句碑

毘沙門天石仏

供養塔

参道からの大悲閣

損傷の激しい石碑

大悲閣の再建予定図

二号機「バケラッタ号:Oちゃん愛用車」

Tourist  2004.10.04(M)

 

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