嵯峨野路散策

 

嵐山・嵯峨野界隈散策「嵯峨野編」

 

小倉山 峰立ち馳らし 鳴く鹿の へにけむ秋を 知る人ぞなき   (古今集) 紀 貫之

 

嵐山サイクリングロード〜落柿舎(らくししゃ)〜祗王寺(ぎおうじ)〜滝口寺〜嵐山サイクリングロード

 

千鳥ヶ淵

渡月橋と比叡山

小倉山、愛宕山(渡月橋)

本庵(落柿舎)

次庵(落柿舎)

柿の木(落柿舎)

苔庭(祇王寺)

苔庭と祇王寺

祇王、祇女、母刀自(とじ)、佛御前墓と平清盛供養塔(右)

新田義貞首塚(滝口寺)

勾当内侍供養塔(滝口寺)

滝口寺

村岡局(むらおかのつぼね)像

角倉了以(すみのくらりょうい)像

津崎矩子(つざきのりこ)と言い大覚寺門跡諸大夫の妹で、近衛家に仕え村岡局(むらおかのつぼね)と称しました。朝政を預かる近衛忠熙の信任が篤く、僧・月照や西郷隆盛なども交渉があった。安政の大獄で捕らえられたが、30日の押しこめの後に許され京都へ帰り、直指庵(じきしあん)を再興しました。

角倉家は医業や土倉(金融業)を営む豪商でした。慶長9年(1604年)、保津川を開削しました。幕府の要請で富士川の開削に成功し天竜川の開削は失敗しました。慶長16年(1611年)、高瀬川(二条〜伏見)を開削しました。晩年は仏門に帰依し千光寺(大悲閣)を建立し保津川の開削協力者などの菩提を弔いました。

たそがれの渡月橋

夕暮れの西山〜天王山(久世大橋)

 

千鳥ヶ淵

比叡山と渡月橋

小倉山と愛宕山(渡月橋)

比叡山(渡月橋)

嵐電・嵐山駅

天龍寺

嵯峨野竹林道

愛宕山街道(町並み保全地区)

のどかな嵯峨野の里

落柿舎(らくししゃ)

ひなびた茅葺き屋根の庵は、松尾芭蕉の十哲(弟子)の一である向井去来(むかいきょらい)の閑居地で洛東・聖護院村に住んでいましたが元禄初期に嵯峨に古屋を買い求め隠居所としました。邸内に柿の木があり去来が商人に柿の実を売る約束をしたが、一夜のうちに風で全て落ちてしまい買約中の商人が驚き破談にした事から落柿舎と名付けたとされます。松尾芭蕉は元禄4年(1691年)4月18日に去来を訪ねて5月5日までの17日間滞在しその間に名所古跡を訪ね随想を書き留めたのが世にも有名な「嵯峨日記」です。落柿舎は去来の没後に荒廃しましたが明治になって有志の人達によって再興され舎中の庭からの嵐山、嵯峨野を望んで景観は良く俳望の隠棲に相応しい庵です。

落柿舎

在宅を表す・・・風情のある笠と蓑

本庵

玄関

本庵の室内

土間

炊事場

柿の木

次庵

平沢輿の句碑と俳人塔(右)

二尊院(にそんいん)

小倉山と号し天台宗延暦寺派の寺院で元は嵯峨天皇が慈覚大師に勅して建立した華台寺の旧跡と伝えます。久しく荒廃していたのを法然上人の高弟・正信房湛空(たんくう)によって再興されました。湛空は土御門、後嵯峨ニ帝の戒師となり大いに堂宇を再建しましたが応仁、文明の乱に荒廃し後に三条西実隆父子の帰依により再興され豊臣、徳川二氏が寺禄を寄せ寺運も栄え檀家には二条、鷹司、三条、三条西家などの旧堂上華族、角倉などの旧家を擁し西嵯峨一の名山となりました。本堂に発遣(ほっけん)の釈迦、来迎の弥陀立像(重文:鎌倉期)の二体を本尊とする事からニ尊院とされます。傍らに「法然上人足曳きの御影」(重文)を掲げます。本堂前に掲げる「ニ尊院」なる額は後奈良天皇による親筆ですが初めの額は小野道風が書いたとされ元、四脚門に揚げられていましたが夜な々門前の池から霊蛇が現れ額文字を舐めるので寺はこれを防ぐ為に額の傍に不動明王像を描かせたが一向に効果がなく正信上人が蛇の執念を救わんが為自ら円頓戒の血脈を書いて池に沈めたところ池中に千葉の白蓮花が一もと生じた。竜女成仏の印しであるとしこの花をとり寺の什宝にしたと伝わります。門前の池中の弁財天社はこの竜女を祀ったと伝えます。

瓢斎供養塔

有智子内親王(うちこないしんのう)陵

ニ尊院

檀林寺

嵯峨天皇皇后橘嘉智子(檀林皇后)が承和年間(834〜48)に建立した寺で皇后が招請した唐の禅僧義空が開山となりわが国最初の禅学興隆の道場として知られます。皇后没後の延長6(928年)に焼失し平安中期に廃絶しました。皇后として絶大な権力を握っていました。内親王(嘉智子の娘)の息子(嘉智子の孫親王)の王位継承を支持せずに他の親王を支持したと伝えます。

檀林寺

境内(檀林寺)

祗王寺の参道

祗王寺(ぎおうじ)

真言宗大覚寺派の寺で往生院と号します。平清盛の寵愛を受けていた白拍子の祗王が、推薦した白拍子の佛御前に清盛の寵愛を奪われてしまい世を悲しみ母、妹と共に尼になりこの庵に移り住みました。後に寵愛を受けた佛御前も尼となって、4人で念仏三昧に暮らした往生院の跡と伝わります。本堂には、大日如来、祇王、祇女、佛御前、祇王の母・刀自(とじ)の尼僧像と平清盛の木像が安置されいずれも鎌倉時代の作です。現在の建物は明治28年(1895年)、京都府知事・北垣国道が祇王、祇女の事跡に感動し自分の別荘意内の茶室を寄進して本堂としたので寺院らしくないのはこの為で庵の前の苔むす庭も大変に風情があります。

祗王寺

苔庭(祗王寺)

供養塔(祗王寺)

苔庭と祗王寺

祗王寺

滝口寺

「平家物語」の滝口入道と横笛の悲恋から寺名が由来し元は三宝寺と号し往生院の支院の一つでしたが、いつ頃にか堂宇は退廃し久しく空き地になっていましたが「平家物語」遺跡として昭和初期頃、長唄の杵屋佐吉によって再興されました。小倉山と号し真言宗大覚寺派に属しています。滝口入道は平重盛に仕え、宮中の滝口の侍になった斉藤滝口時頼は、建礼門院に仕える横笛を恋しく思うようになり、恋文を送るようになりましたが、父・時頼に反対され、落胆のあまり出家しました。それを知って訪れた横笛に「ここにはそのような人はおりません」と会おうとはせず、高野山に入ったという。横笛も法華寺で尼になったとも悲しみのあまり大堰川の千鳥ヶ淵に身を沈めたとも伝わります。本堂に悲恋の2人の木像があり、門近くに横笛が詠んだという歌碑があります。 

祇王、祇女、母刀自(とじ)、佛御前合葬墓(左)と平清盛供養塔(祗王寺)

滝口寺

新田義貞首塚(滝口寺)

勾当内侍供養塔(滝口寺)

横笛の歌碑(滝口寺)

平家供養塔(滝口寺)

滝口寺

横笛姿絵

石碑

小松堂

滝口寺

コスモス

村岡局像

角倉了以像

渡月橋

たそがれの嵐山

渡月橋

サイクリングロード嵐山公園地点

比叡山(サイクリングロード)

愛宕山(サイクリングロード)

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草津の湊(羽束師橋)からの愛宕山

Tourist  2004.10.04(M)

 

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