西国街道「天下覇道」散策その壱

 

ちりぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ   細川ガラシャ

 

城南宮〜羽束師(はづかし)神社〜乙訓(おとくに)寺〜長岡天満宮〜神足(こうたり)神社〜勝竜寺城〜観音寺(山崎聖天堂)〜天王山

 

山崎の合戦図(「秀吉の道」陶板サイン)

豊臣秀吉と千利休の図(「秀吉の道」陶板サイン)

天王山ハイキングコースに設置された「秀吉の道」陶板サインは、豊臣秀吉の天下取りの物語を解説しています。作家・堺屋太一氏が監修、絵画は日本画家・岩井弘画伯が屏風絵として描いたもので、当時の合戦の様子などが陶板に描かれています。

細川忠興(ただおき)と玉(ガラシャ)夫婦像

勝竜寺城(しょうりゅうじ)跡公園

天正10年(1582年)6月13日、山崎の合戦で明智光秀はこの城を本陣としました。光秀は西方の御坊塚(境野古墳群)で指揮を執ったが敗れ、一旦帰城し夜半、北門から数名の近臣を伴い密に城を抜出し近江・坂本城に向かう途中、伏見の小栗栖(俗に明智藪)で飯田一党(小栗栖の長兵衛なる農民節あり)に急襲され自刃しました。天正10年(1582年)6月2日、織田信長を京都の本能寺に攻め自刃させた僅か11日後の6月13日でした。世に言う「光秀の三日天下」です。天正6年(1578年)、明智光秀の娘・玉(ガラシャ)が、細川藤孝の長男・忠興に輿入れした城です。復元された勝竜寺城跡公園は憩いの場となっています。

城南宮

城南宮の由緒は、上古の時代、神功皇后は出陣に当たり、軍船の御旗に八千矛神を招き寄せて戦勝を祈願され、戦が終わると御旗は宮中で大切に保管されていました。桓武天皇が平安京に都を定めた時、御旗を城南の当地に御神体として納め、八千矛神(やちほこのかみ=大国主命:おおくにぬしのみこと)、国常立尊(くにのとこたちのみこと)、息長帯日売命(おきながたらしひめのみこと=神功皇后:じんぐうこうごう)の三柱、伊勢、石清水神社など七社が合祀され、都の南を擁護する神として祀られた。御旗の日月星の紋章が城南宮の三光の神紋の由来と伝えます。

高瀬川と酒蔵

鳥居(城南宮)

手水舎:菊水若水

鳥羽・伏見の戦い(小枝橋)

慶応4年(1868年)1月3日夕刻、東軍は、武力突破を宣言した時「秋の山」から薩摩軍のアームストロング砲が、火を噴きました。小枝橋界隈から戊辰戦争の開戦となった「鳥羽・伏見の戦い」の火ぶたが切られました

春の山(城南宮)

鳥羽伏見戦跡碑(小枝橋)

桂川サイクリングロード(京川橋:鴨川)

草津の湊

下鳥羽は、古くは草津と言い木津、今津とも言われ船で西国に向かう人達の乗船地でした。延喜元年(901年)、太宰府へ流された菅原道真、保元元年(1156年)、讃岐国へ流された崇徳上皇、治承4年(1180年)、厳島神社へ行幸の高倉天皇、建永2年(1207年)、法然上人が讃岐国へ流された時も当地より乗船したと伝える。又、瀬戸内海の鮮魚などが陸揚げされ都に運ばれた水路、陸路交通の中継地として重要だった河川港でした。

天王山方面(桂川サイクリングロード)

草津の湊(桂川と鴨川(右)合流地点辺り)

魚市場遺跡碑

赤井河原

桂川の西側(羽束師:はづかし)を称し古くは赤日崎、赤江ノ崎とも記され広漠とした河州であった。保元の乱後、朱雀野で処刑された六条判官為義の夫人は赤江の淵に身を投じたとされ、新宮十郎行家も当河原にて斬られました。元弘3年(1333年)、千種頭(ちぐさのとう)中将忠顕(ただあき)の率いる500余騎の軍勢が当河原に布陣するなど中世には淀、八幡を結ぶ戦略上の要点として、その名は史上にしばしば登場し山城盆地を一眼に納めた景観はすこぶる雄大であったと伝えます。

赤井河原(羽束師橋から)

羽束師の里(赤井河原から)

鳥居(北向見返り天満宮)

北向見返り天満宮

延喜元年(901年)、菅原道真公の太宰府左遷の際、草津の湊から出発する前に羽束師神社に参拝し北(京)を向いて見返りの場所(別れを惜しんだ)に建立されたのが、北向見返天満宮です。

本殿(北向見返り天満宮)

一の鳥居(羽束師神社)

鳥居(羽束師神社)

羽束師(はづかし)神社

羽束師神社は、旧羽束師村の産土神で志水、古川、樋爪、菱川地域を氏子とします。創建は、すこぶる古く大宝元年(701年)以前からの鎮座と云われています。羽束氏の祖神を祀った神社と言われています。

 割り拝殿

本殿

羽束師川治水頌功の碑(羽束師神社)

道標石碑(羽束師神社)

一文橋(いちもんばし)

説明碑によれば、京と摂津(西宮)をむすぶ西国街道に架かるこの橋は室町時代頃に造られた有料の橋でした。大雨の度に小畑川が氾濫し橋が流され、架け替え費用の負担金としてを通行人から銭一文を取り始めたのが橋名の由来と伝わります。

一文橋

薬医門

参道と2000余株のボタン

乙訓(おとくに)寺

大慈山と号する真言宗豊山派寺で推古天皇の勅願により聖徳太子の開創と伝わる乙訓地方最古の寺で境内には2000余株のボタンが植えられ4月下旬には華麗な大輪を咲かせ世にボタン寺とも称されています。境内から奈良時代の遺瓦を出土する為、延暦遷都以前に寺院があった事が想像されます。「水鏡」によれば延暦4年(785年)、皇太子・早良(さわら)親王は淡路島に配流される前に当寺にしばらく幽閉されたとされます。弘仁2年(811年)、弘法大師が当寺の別当に任ぜられ鎮護国家の道場となり、宇多法皇が脱履の始め当寺を行宮とされたので一に法皇寺とも号しました。弘法大師がこの寺に在住している時、伝教大師・最澄がこの寺を訪れて真言について教えを乞うたとも伝えられています。中世には禅宗南禅寺派となり応仁元年(1467年)〜文明9年(1477年)、応仁の乱の兵火により焼失衰微しましたが元禄6年(1693年)、徳川綱吉の生母・桂昌院の援助により再び真言宗として再興しました。本堂に安置される本尊合体大師像は弘法大師と八幡菩薩の合作と伝わり毘沙門堂には毘沙門天立像(重文:藤原期)を安置し明応2年(1493年)の修理銘を墨記した狛犬(室町期)が一対あります。中世を当サイトでは、延暦13年(794年)、平安京遷都〜慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦い迄の時代範囲としています。

仏石塔

弘法大師修行像

本殿

早良親王供養塔

もちの木

今里大塚古墳公園

7世紀前半に造られた乙訓地域における最後の大型古墳で、山城地方を支配した豪族の一人と考えられています。中央部には巨石を使った横穴式石室があり、その構造は奈良県明日香村の石舞台古墳と同じです。平成13年(2003年)4月、今里大塚古墳公園として整備されました。

弘法大師所縁のミカンの木

毘沙門堂(京都府指定重要文化財)

今里大塚古墳公園

長岡天満宮

一に長岡天神ともいい、菅原道真を祭神とします。社伝によれぱ昌泰4年(901年)、道真が筑紫左遷時に随従の中小路祐房に与えた自画像を安置して祀った事が当社の縁起と伝えます。洛南、特に桂川流域には道真の遺蹟、伝説が多くいずれも道真の遺徳を追慕して後に作られたもので当社もその一つです。中世その沿革を明らかにしないが江戸時代に当地が八条宮(桂宮)智仁親王の領地であった関係から同宮の崇敬を受け延宝4年(1676年)、社殿を改築し霊元天皇の勅額を賜りました。現在の本殿は、昭和16年(1941年)、平安神宮の社殿を移築したものです。

今里大塚古墳公園 今里大塚古墳公園

八条ヶ池(長岡天満宮)

与市兵衛墓

江戸時代に作られた人形浄瑠璃や歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵:五段目・山崎街道の場」で世に知られる赤穂浪士・萱野三平の養父・与市兵衛は娘・おかるを祇園町に売り郷里(摂津国池田萱野村)に帰らんとし当地にさしかかった時に定九郎なる浪人によって横死を遂げたと言われ、後世その死を悼んで供養塔として建立されたものと伝わります。歌舞伎芝居の遺蹟地の一つです。

八条ヶ池(長岡天満宮)

鳥居

与市兵衛墓

神足(こうたり)神社

神足村の産土神で「文徳実録」に斎衡元年(854年)10月に官社に列せられ延喜の制には国家の祭祀に預かっています。乙訓中有数の古社ですが縁起は明らかではありません。鎮座地は小畑川に臨んで一際高台にあり背後は元、谷となっていた為、俗にコウダニ、コウダンと呼んでいました。コウダニは神谷でこれが訛ってコウタリになったと伝わります。境内の凝灰岩の切石や社務所などの沓脱石は付近の恵解山古墳から発掘した石室の天井石と言われています。

鳥居

拝殿

摂社・埜神社

お千度石

凝灰岩の切石(恵解山古墳・天井石)

本殿

勝竜寺城(しょうりゅうじ)跡公園

戦国時代、明智光秀の娘・玉(細川ガラシャ)が、細川忠興(ただおき)に嫁いだ城としても知られる勝竜寺城は暦応2年(1339年)、細川頼春によって築城され応仁の乱時に畠山義就が攻略し拠城としたが永禄11年(1568年)、織田信長の近畿平定により細川藤孝の攻撃により落城したが藤孝はこの時の武功により長岡の荘地を賜り城を修築しました。天正10年(1582年)6月13日、山崎の合戦に明智光秀が当城を本陣として秀吉勢を迎え撃った為、城は兵火により荒廃してからは再建されませんでした。平成4年(1992年)、勝竜寺城跡公園として整備され毎年11月に「長岡京ガラシャ祭」が開催されています。

多聞櫓(たもんやぐら)

城門壁

石仏祠(鎌倉〜桃山期?)

城壁

本丸?(資料館など)

北門跡

孔雀

池畔の夫婦(♂忠興、♀玉)?な鴨さん(^▽^;)

庭園内のせせらぎ

本丸の井戸跡

細川忠興(ただおき)と玉(ガラシャ)夫婦像

細川忠興(ただおき)と玉(ガラシャ)夫婦像

東辺土塁(とうへんどるい)と多聞櫓(たもんやぐら)

庭園内(多聞櫓から)

多聞櫓への階段と東辺土塁

城門

城壁と多聞櫓(たもんやぐら)

勝竜寺

勝竜寺

寺伝によると大同5年(806)弘法大師空海が、唐長安の青竜寺の名をとって創建し、恵解山青竜寺(いげのやましょうりゅうじ)と号し観音堂始め九十九坊が建てられた伝わります。大干ばつの時に千観和上の雨乞いの祈祷により雨が降り、応和2年(962)千観和上によって竜神に勝ったという意味から勝竜寺と改めたと伝える。往時は多くの子院を擁する大寺であったが中世の兵火に被災し今日に至っています。

鐘楼

宝篋印塔(ほうきょういんとう)

仏石群

本堂

村社・春日神社の鳥居

春日神社境内

神石

本殿(春日神社)

拝殿(春日神社)

恵解山(いげのやま)古墳

東南を正面とする二段築成の前方後円墳で長さは126m余、周囲に幅約30m余の周濠が造られています。前方部から鉄の刀剣など約700点が発掘されました。内部も既に発掘され破却し遺物も散失していますが石室に用いた石材の一部が神足神社の境内にあります。乙訓屈指の古墳で京都盆地でも三番目の規模の大きさです。現在後円部の1/2は墓地となっています。

弘法大師像(勝竜寺)

周濠跡

古墳の後円部辺り

鉄製武器類出土地

貨物列車

光秀本陣跡と境野古墳群の案内板

御坊塚跡(境野古墳群)

塚は破却され今は共同墓地になり元の形を知る事はできません。天正10年(1582年)6月13日、山崎の合戦時に明智光秀が当地に前線司令部を設け、約1万6千の将兵の陣頭指揮を執った所と伝わります。毛利攻めの備中高松城から「中国大返し」と世に言われる速さで帰った秀吉軍約4万と光秀軍約1万6千の軍勢が激突しました。戦闘は午後4時頃から始まり、約2時間程で勝負が決しました。光秀の大きな誤算は、味方を近江板本、安土などに分散させた事、姻戚関係の細川藤孝・忠興父子、光秀傘下の筒井順慶(大和郡山城主)、中川清秀(摂津茨木城主)、高山右近(高槻城主)などを味方にできなかった事だと言われます。

御坊塚跡(境野古墳群)

JR京都線(普通電車・東海道本線)

JR京都線(新快速電車・東海道本線)

阪急電鉄京都線(特急電車)

鳥居(観音寺:トラッキー号は、ここで待機)

参道の石段(観音寺:山崎聖天堂)

観音寺(山崎聖天堂)

昌泰2年(899年)創建の真言宗単立寺院で正式には「妙音山観音寺」と号し開基は寛平法皇です。俗に山崎の聖天さんと呼ばれています。本尊は十一面千手観音菩薩で、聖徳太子の作です。延宝9年(天和元年:1681年)、木食以空(もくじきいくう)上人が歓喜天(聖天)を祀りました。山崎聖天は、江戸年間、天皇や諸大名の帰依が厚く栄えましたが、元治元年(1864年)7月19日の「禁門の変」の兵火で焼亡しました。現在のものは明治23年(1890年)に住友、鴻池、三井などの財閥の支援で再建されました。

仁王門

仁王門と金剛力士像(寄木造)

境内への石段

開基の松

宝篋印塔(ほうきょういんとう)

開基堂

本堂

聖天堂

地蔵堂

天王山登山口へ

天王山登山道(観音寺:山崎聖天堂)

 Tourist  2004.06.14(M)

 

関連コラム

西国街道「天下覇道」散策その弐

西国街道「天下覇道」散策その弐

西国街道「長岡京道」散策その壱

西国街道「長岡京道」散策その壱

西国街道「長岡京道」散策その弐

西国街道「長岡京道」散策その弐 西国街道「ちょっと長岡京」散策 西国街道「ちょっと長岡京」散策
金蔵寺道・小塩山(大原山)散策 金蔵寺道・小塩山(大原山)散策 丹波街道・善峯寺道散策 丹波街道・善峯寺道散策
「山陰街道・史跡めぐり」散策 「山陰街道・史跡めぐり」散策 「竹の径・古墳めぐり」散策 「竹の径・古墳めぐり」散策

鳥羽の造り道:楽水編

平安京道「鳥羽の造り道:楽水編」散策 平安京道「鳥羽の造り道:羅城門編」散策 平安京道「鳥羽の造り道:羅城門編」散策

鳥羽の造り道:楽水編(スライドショー)

鳥羽の造り道:楽水編(スライドショー)

鳥羽の造り道:羅城門編(スライドショー)

鳥羽の造り道:羅城門編(スライドショー)

伏見一の名園!!!楽水苑の華繚乱:スライドショー

城南宮の「楽水苑」

雅の杜〜絢爛の山散策

絢爛の華道

花・水・木散策

源氏物語ゆかりの華庭 鳥羽殿の雅散策 雅の里

王朝〔貴族〕文化散策

王朝ロマン    

 

戻る 洛雅記2004年探訪コラム

 

inserted by FC2 system