西国街道「天下覇道」散策その弐
待つ宵のふけゆく鐘のこゑきけば あかぬ別れの鳥は物かは 待宵小侍従
城南宮〜羽束師神社〜勝竜寺城跡公園〜天王山〜宝積寺(宝寺)〜妙喜庵(みょうきあん)〜離宮八幡宮〜山崎ノ関跡(関戸院跡)
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旗立松 |
十七烈士の墓所 |
三川合流付近(生駒山方面) |
桃山、醍醐山方面(伏見方面) |
天王山ハイキングコースに設置された「秀吉の道」陶板サインは、豊臣秀吉の天下取りの物語を解説しています。作家・堺屋太一氏が監修、原画は日本画家・岩井弘画伯が屏風絵として描いたもので、当時の合戦の様子などが陶板に描かれています。 |
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天王山三角点(頂上・270.4m:山崎城跡) |
三重塔(宝積寺:宝寺) |
天王山は大山崎の背後にそびえる峻峰をいい標高は270.4mですが淀川を挟んで男山と相対し京都盆地西南方の要衝地として古くから争乱の場となり史上有名な山です。古くは山崎山と称され中世期に山上に牛頭天王社が祀られ天王山と称されるようになりました。山腹には宝積寺、酒解神社、観音寺、大念寺など幾多の古社寺があり中世以降、山頂付近には文明2年(1470年)、山名是豊(これとよ)、赤松一族らが上洛して築いた五稜形の山崎城はその後も、築かれましたが、今日残る城跡は天正10年(1582年)6月13日、天下分け目の山崎の戦いで勝利した豊臣秀吉の築城による城跡です。 |
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茶室・待庵(国宝:たいあん) |
茶室内(待庵) |
秀吉は天正10(1582)年6月13日、天王山の合戦時に山崎の地に陣を布き陣中に千利休を招き二畳隅炉の茶室を作らせました。その後、妙喜庵(みょうきあん)に移されたと寺伝にあります。待庵は利休の構想で建てられ、当時そのままの姿で現存しているわが国最古の茶室で利休の遺構としては唯一と言われています。茶室内部は掛け込み天井と棹縁天井の組み合わせ、床の間の隅や天井を塗りまわした室床の構造から、二畳のわりには広く感じられ、連子窓、下地窓の配置、すさを出した壁の塗り方、やや広い躙口(にじりぐち)隅炉など利休ならではの茶室で国宝に指定されています。★ 拝観希望の場合、往復ハガキで拝観御希望日の1ヶ月程度前に〒618-0071 京都府乙訓郡大山崎町龍光56 妙喜庵 宛に申し込んで下さい。写真は読売新聞から引用させて頂きました。 |
大山崎 |
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元は山崎といい、一に山崎・山前・山碕とも記されています。乙訓の南端に位置しますが明治14年(1881年)、円明寺、下植野を合併し乙訓郡大山崎村となりました。山崎とは天王山の山並みがあたかも岬の様になっているのでこの名になったと伝わります。国史の所見は白雉4年(653年)孝徳天皇が当地に行幸された時で平安遷都以来、都から西国に行くには当地を通過するので関所や駅舎が設けられました。嵯峨天皇は離宮を造営され後に山城国府も設置されました。桓武天皇即位から3年の延暦2年(783年)、対岸の橋本へ僧・行基が長さ三丁余の山崎大橋を架けました。紀貫之の「土佐日記」にも"・・・山さきの橋見ゆ、うれしきこと限りなし、ここは相応寺のほとりに、しばし船をとどめて、しばしさだむることあり伝々"と記されています。中世期は離宮八幡宮神人の油座として荏胡麻油商人の油座として全国の菜種油の集散地となりました。史上有名なのは天正10年(1582年)6月13日、羽柴秀吉と明智光秀の山崎の合戦、江戸末期の元治元年(1864年)7月19日、禁門の変の戦いなど度々兵火を浴びました。 |
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道標 |
鳥居(酒解神社:さかとけじんじゃ) |
伏見、宇治方面(旗立松展望台) |
伏見、宇治方面(旗立松展望台) |
伏見方面(旗立松展望台) |
三川合流付近(旗立松展望台) |
旗立松(はたたてまつ) |
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天正10年(1582年)6月、山崎の合戦時に秀吉が味方の士気を高める為に老松の樹上高く千成瓢箪の旗印を掲げたところ、戦局に大きく影響を与え勝利を収めたと伝えます。現在の松は六代目です。 |
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山崎の合戦の地石碑 |
旗立松 |
山崎の合戦の図(「秀吉の道」陶板サイン) |
山崎の合戦の図(「秀吉の道」陶板サイン) |
明智光秀の図(「秀吉の道」陶板サイン) |
羽柴秀吉の図(「秀吉の道」陶板サイン) |
十七烈士の墓所 |
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招魂碑を中央に十七士の墓石が建っています。真木和泉守・保臣は筑後国(福岡県)久留米の水天宮祇官の出でしたが文久3年(1863年)8月18日の政変後、三条実美らに従い長州に下ったが、元治元年(1864年)6月、長州藩主の委託を受け諸隊総督となり挙兵上京。7月18日、禁門の変では久坂玄瑞、来島又兵衛らと浪士隊を率いて長州軍に参加、御所に砲撃を加え都を戦火に巻き込みましたが御所(禁門)を守備する会津、桑名、彦根、薩摩藩に撃退されました。敗れた場合、一先ず天王山に集結との約に従いましたが形勢不利と見た長州藩は真木和泉守・保臣らを見捨てて帰国しました。7月21日、新撰組始め1500名もの討伐軍に包囲され十七士は孤軍奮闘の末に自刃しました。新政府誕生はこの4年後でした。十七烈士の墓所は明治維新後、有志によって建てられました。 |
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十七烈士の墓所 |
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酒解神社(さかとけじんじゃ:自玉手祭来酒解神社:たまてよりまつりきたるさかとけじんじゃ) |
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天王山々上に鎮座する延喜式の古社で正しくは自玉手祭来酒解神社(たまてよりまつりきたるさかとけじんじゃ)と称します。延喜式には元名を山崎社と記され山崎には元々山崎神社という古社があった事が知られます。祭神は明らかでなく山崎橋の守護神として橋の畔に祀られていた橋姫だと推察されています。長岡京遷都時に橘氏は祖神と仰ぐ酒解神を玉手より当地に勧請して山崎社に合祀しました。玉手は大和国南葛城郡掖上村大字玉手(御所市)をいいますが綴喜郡・井出ともいわれる。仁明天皇は母が橘嘉智子(壇林皇后)であった所以から当社の崇敬を篤くし、山崎の津の守護神として延喜の制には名社大社となり四度の官幣に預かるなど乙訓有数の大社となり一方の山崎社は衰退してしまいました。僧・行教が男山に八幡神を勧請して以来、八幡信仰が流行し更に離宮八幡宮が創祀されると酒解神は社地を追われ天王山々上に遷らざるを得なくなりました。中世期は天神八王子神を祀るといわれ山崎天王社と称しました。明治になり様々に協議され式内酒解神社と指定されました。現在の社殿は文化10年(1813年)、失火後の再建で本殿には大山祇(おおやまづみ)神外十柱の神々を合祀していますが、いずれも後に追加勧請されたもので主神はあくまで山崎神と橘氏の祖神・酒解神です。 |
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山道 |
三社宮 |
光秀の最期の図(「秀吉の道」陶板サイン) |
神輿庫(重要文化財:鎌倉期) |
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文化の火災に免れた唯一の遺構で方一間からなる板倉で屋根は切妻造、本瓦葺、正面中央に一間の出入り口を設け他は全て板壁になっています。校倉造は断面三角形の横木を組んでいますがここは厚板を組重ねた板倉式宝庫でわが国で現存唯一の遺構とされます。当社の祭礼は5月7日、大山崎の氏子達によって神輿は下山し氏子地域を巡行します。神輿は室町期を下らない古いものと伝えます。 |
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神輿庫 |
手名稚・足名稚社 |
本殿 |
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拝殿 |
大己貴社 |
道標 |
天王山々頂への道標 |
石仏、石塔 |
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秀吉と利休の図(「秀吉の道」陶板サイン) |
天王山三角点(山頂:山碕城跡)で積み石をしました。天辺に念珠を置いて記念写真!(^_^;)ポリポリ |
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天王山三角点(山頂:山碕城跡) |
厳島社 |
山道 |
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中国大返しの図(「秀吉の道」陶板サイン) |
山道(分岐路で間違いこの道を途中で引き返しました(^_^;)道標が分かり辛い) |
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山道 | 砂防ダム |
十九所明神 |
宝積寺(宝寺) |
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真言宗智山派の寺で寺宝に竜神が伝来したという「内出の小槌」を有する事から俗に宝寺と呼ばれ山号も古くから補陀落山と号しましたが後に銭原山と改めました。創建は明らかでないですが神亀4年(727年)、聖武天皇の御願により僧・行基が開創した山崎院を継承したと伝え、一条天皇の長徳年間(995〜8年)寂昭和尚が中興し定額寺となりました。中世には寺運興隆し多くの塔頭子院を有する大寺となりましたが兵火にしばしば遭い明治維新後は衰退しました。多くの古文化材を有し乙訓屈指の名刹として現在に至ります。 |
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石仏 |
十七烈士碑 |
鳥居(弁財天) |
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弁財天 |
水掛不動尊 |
稲荷神 |
九重石塔(聖武天皇供養塔:鎌倉期) |
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古来、聖武天皇の供養塔と伝えます。軸部に仁治2年(1241年)の銘があり初軸部に四仏を刻み基礎には四仏それぞれの脇侍が梵字で表されている。少し傾いていて上部の屋根石二枚がありません。 |
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九重石塔(聖武天皇供養塔) |
四面石仏(聖武天皇供養塔) |
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小槌の宮(こづちのみや) |
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「打出」と「小槌」を祀ります。寺伝によれば聖武天皇が皇太子の頃、竜神より賜ったと伝えそれより75日後に天皇に即位したといいます。この伝説は唐より請来した事を竜神化したものと伝えます。これに因んで福を預かろうとする者は打出の小槌で男は左掌、女は右掌を叩いてもらうとご利益があるそうな・・・中には財布の口を叩いてもらう者もあるとか・・・開いた口がふさがりませぬ?!(^_^;)どもども |
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小槌宮 |
本堂 |
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本堂 |
三重塔 |
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待宵の鐘(まちよいのかね) |
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永正16年(1519年)、在銘の銅鐘(室町期作)です。近衛天皇皇后・多子に仕えていた歌人待小侍従(石清水別当清水光清女)が詠んだ「まつ宵の更け行く鐘の声きけば帰るあしたの鶏はものかは」の和歌に因んで待宵の鐘と称されます。 |
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大日不動明王堂 |
待宵の鐘 |
三重塔 |
仁王門 |
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三間一戸、単層、屋根は切妻造、左右の金剛力士像は寄木造で鎌倉風の優美な姿態をし重要文化財(鎌倉期)で応永28年(1421年)、山崎の油商人・道順の補修によるものと伝わります。仁王門の3歩手前辺りで左右の金剛力士像と視線がピタッと合うと聞きました。東大寺の話しですが・・・仁王門に来ると視線の会う位置を確認するのも面白いです。参拝前と参拝後では金剛力士像の顔の表情が違って見えるそうな・・・ |
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仁王門と金剛力士像 |
仁王門と参道 |
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大念寺 |
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見仏山と号する浄土宗の寺で孝治元年(1555年)、井尻但馬守が徳誉上人を開山として建立したと伝えます。現在の建物は元治元年(1864年)の禁門の変時の兵火後の再建です。本堂に安置されている阿弥陀如来坐像は鎌倉時代の造彫で脇壇に安置する阿弥陀如来立像(重要文化財:鎌倉期)は元、西山上人証空臨終仏として三鈷寺に安置されていたものを移したといわれます。仁治4年(1243年)、胎内から在銘の経巻などが発見されました。境内には天正12年(1584年)在銘の石灯籠、鎌倉時代作の宝篋印塔(ほうきょういんとう)があります。 |
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本堂 |
石灯篭と鐘楼 |
橋本方面(山門から) |
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山門 |
山道の石段 |
天王山登り口 |
霊泉連歌講(れいせんれんがこう)跡碑 |
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室町時代の連歌師で「犬筑波集」を編纂したことでも知られ、俳諧の祖・山崎宗鑑が住んでいた所。当所に人々を集め、連歌会が催されたと伝えます。 |
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霊泉連歌講跡碑 |
JR・京都線(特急・雷鳥:東海道本線) |
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妙喜庵(みょうきあん) |
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室町時代の連歌師・山崎宗鑑が住まいした草庵を後に臨済宗東福寺の僧・春嶽が開山しました。当庵には国宝の茶室待庵があり、千利休が唯一残した茶室であるといわれ室内はニ畳という極小の空間で豊臣秀吉もしばしば、来遊したそうです。極めて質素な小間の茶室の原点といわれ、待庵茶室以後このような茶室が一般化したものと考えられ、にじり口が設けられた最初の茶室とも言われています。 |
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JR・京都線(特急・オーシャンアロー:東海道本線) |
妙喜庵 |
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離宮八幡宮 |
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貞観2年(860年)、僧行教が豊前の宇佐八幡神を勧請するにあたりこの地に斎祀し翌年、男山に移したと伝わりその所以で後に嵯峨天皇の河陽離宮旧跡に離宮八幡宮が誕生しました。平安時代末頃に当地で始まった荏胡麻油生産は中世に活発化し、生産者たちは八幡宮を本所として油座を組織し、全国の油専売権を握り、販売を独占しました。 |
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離宮八幡宮東門 |
石灯籠 |
神馬像 |
扇形石(かしき石) |
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高さ1m、長さ2mを超える巨石で表面中央に円形の彫り込みがあり更に深さ45cmの扇形が刻まれています。一に「かしき石」とも呼ばれ出所を明らかにしません。元、当地には貞観年間、権僧正壱演が開創した相応寺という名刹がありましたが衰徴しこの石は相応寺の塔の心礎だといわれています。一説に彫り込み様式の古さから見てそれ以前の寺院のものを相応寺が利用したものとも伝えます。 |
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扇形石(かしき石) |
境内 |
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油祖像 |
河陽離宮跡碑(右)、荏胡麻油発祥の地碑 |
手水舎 |
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中門 |
手水鉢 |
石清水井 |
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岩清水井 |
境内 |
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拝殿 |
宝塔跡 |
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関戸明神 |
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祭神は伯耆国(ほうきこく:鳥取県)大山の大智明神といわれ当初は山崎ノ関の守護神として疫神を祀ったものと伝わります。「山州名跡誌」巻十によれば昔、伯耆の大山の衆徒が神輿を担いで朝廷に強訴しようと当地迄辿りついた時、朝廷は官人を差し向けこれを防御したので神輿を放棄して帰国してしまい残された神輿を祀ったのが当社の起こりです。社殿は一間社流造、和様に唐様の手法を交えた鎌倉風建築で大阪府の重要美術品に指定されています。 |
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惣門(大山崎町指定文化財) |
関戸明神(山崎ノ関跡/関戸院跡)・・この先、大阪府島本町 |
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山崎ノ関跡(関戸院跡) |
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山城、摂津国境に設けられた関所で長門国(山口県)の赤間と共に西国交通の要所。一朝有事の際には派兵して警備に当たらせました。山崎ノ関がいつ頃に廃棄されたかは、不詳ですが河陽離宮が造営された頃といわれ関の廃棄後、関戸院として残され平安時代には公館の宿舎になりました。藤原道長も高野山参詣の途中に、しばしば少憩した事があり、平家一門が都落ちの際に宝輦(ほうれん)を停めて、男山八幡宮を遙拝したとも伝えます。 |
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山城摂津国境碑 |
JR・京都線(新快速電車:東海道本線) |
男山方面 |
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伏見方面 |
トラッキー号(観音寺/山崎聖天堂)門前 |
京都方面 |
Tourist 2004.06.14(M) |