西国街道「ちょっと長岡京」散策

 

うみならず たたへる水の そこまでも きよき心は 月ぞてらさむ 菅原道真

 

クロスバイク「キララ(雲母)号」の試走を兼ねて城南宮〜誕生寺〜向日(むこう)神社〜長岡京大極殿跡〜長岡京

 

今回は、クロスバイク「キララ号」に乗り換えたので試走を兼ねて城南宮〜誕生寺〜長岡京などを散策してきました。

シティーサイクル「トラッキー号」では行けなかった山岳地域に行けると思いますので西山界隈の柳谷観音、善峰寺なども予定しています。

写真上でマウスポインターの形が変化する写真はクリックして頂くと大きく表示されます。

城南宮

城南宮の由緒は、上古の時代、神功皇后は出陣に当たり、軍船の御旗に八千矛神を招き寄せて戦勝を祈願され、戦が終わると御旗は宮中で大切に保管されていました。桓武天皇が平安京に都を定めた時、御旗を城南の当地に御神体として納め、八千矛神(やちほこのかみ=大国主命:おおくにぬしのみこと)、国常立尊(くにのとこたちのみこと)、息長帯日売命(おきながたらしひめのみこと=神功皇后:じんぐうこうごう)の三柱、伊勢、石清水神社など七社が合祀され、都の南を擁護する神として祀られた。御旗の日月星の紋章が城南宮の三光の神紋の由来と云われています。

城南宮 手水舎:菊水若水

トラッキー号の後継車のクロスバイクは「キララ号」と命名しました!安全で無事のチャリ散歩を末永く付き合いたいと願います・・・。(*゜▽゜)/

誕生寺

誕生寺境内は久我家の旧跡と伝えられ、大正6年(1917年)、47世日置黙仙(ひおきもくせん)禅師によって曹洞宗の祖・道元禅師誕生地といわれる久我(くが)に建立した寺です。昭和63年11月に本堂や庫裡などが、完成。伽藍の整備もされました。

愛宕山(桂川久我橋) 誕生寺

ブッタカヤの仏足跡(水琴窟)

『布教の為に印度(インド)をくまなく歩かれたお釈迦様の足を洗ってあげて下さい。お釈迦様の「ありがとう」という声が聞こえます?』と書かれてあり水を流すと大変良い音色のする水琴窟(すいきんくつ)です。

道元禅師幼少像と本堂 ブッタカヤの仏足跡(水琴窟) 道元禅師産湯の井戸

須田家住宅(京都府指定文化財(建造物))

明治30年代まで醤油の製造販売を営み屋号を松葉屋と称し、西国街道、愛宕道、丹波道の分岐点にあり、元和2年(1616年)に作成された古文書にも記載されている旧家です。

宝篋印塔:ほうきょういんとう 西国街道標石 須田家住宅

向日(むこう)神社

向日市の土産神として古来最も崇拝される有数の古社で俗に「明神さん」と親しまれています。奈良時代初期の元政天皇の御代、養老2年(718年)の創祀とされ桓武天皇、玉依姫命、向日神、火雷神(ほのいかづちのかみ)の四座を祭神とします。向日神と火雷神は共に大歳神(素戔嗚命:すさのおのみこと)の御子といわれ古くは向日神の社を上社、火雷神の社を下社と称したが建治元年(1275年)、下社が荒廃し上社に合祀されました。応永29年(1422年)建造の三間社流造の本殿(重要文化財)は室町時代の代表的な神社建築様式で東京・明治神宮の原形とされました。市名でもある「向日」は東山から日が昇り西山に沈む迄太陽光を浴びる土地(日ニ向カウ)から由来し創祀以来、朝野の崇敬が篤く特に祈雨神として崇められ延喜の制には国家の祭祀にあづかり明治になり府社となりました。

向日神社 説法石 長岡宮大極殿跡碑

説法石は日蓮上人の孫弟子にあたる日像上人は京の都に日蓮宗を布教せよとの遺命を受け、鎌倉時代末期に上洛したが、他宗派の迫害を受けて都で日蓮宗の布教活動を禁止されました。徳治2年(西暦1307年)頃、この石の上で西国街道を行き交う人々に説法をし乙訓郡山崎付近にとどまって布教活動を行ったと伝わります。

長岡京

長岡京は、天皇の住居である内裏、官庁街からなる宮城(大内裏)、小規模な役所や貴族や都住民の居住域である京域に分けられます。
長岡宮域は、北を一条大路(北京極大路)、南を二条大路、東西を両一坊大路で囲まれる東西約1km・南北約1.6kmの地域で、宮内には南面中央に大極殿と朝堂院、東側に内裏、これらを囲むように主要官庁が配されています。北辺部には税金である米や特産品など物資を納めておく倉庫(大蔵)群などの二官八省の建物が建てられました。周囲を築地(土塁)に囲まれています。築地には、宮城門が設けられています。宮は北側には園地(北苑)が広がっています。長岡京は、東西4.3km、南北5.7kmの規模で南北のメインストリートである朱雀大路の東側を左京、西側を右京と分けていました。規模は、基本設計図である条坊制に基づき、幅24mの大路と幅9mの小路が東西南北に規則正しく配置され、道路に囲まれた一辺約120mの土地(一町,面積14,400u)を基準に施設が配置されました。小規模な役所や離宮、高級官僚(貴族)の邸宅、都で働く人々の家々、勤務する兵士の駐屯地や寺院、東西2箇所の市なども設けられています。

長岡宮大極殿跡 長岡宮跡碑

長岡京大極殿跡(だいごくでんあと)

大極殿は1200年以前に造営され、その名称が今も向日市鶏冠井町に大極殿(だいごくでん)という地名で残っています。大極殿とは、天皇が政治を司った場所で、発掘調査によってその位置が確認されました。昭和39年(1964年)、国指定史跡となり現在は大極殿公園になっています。大極殿北側に建てられた建物が小安殿です。大極殿の後ろの建物を意味する事から後殿とも呼ばれています。基壇の規模は東西31.2m、南北12.8m、正面七間、側面二間の建物だったと推察されています。小安殿の北側には昭慶門、大極殿の南側には会昌門があってこれらの建物が平安京と同じく南北一直線上に建てられていた事が確認されています。又、小安殿は、長岡宮で初めて設けられ、天皇の休憩所として用いられました。

長岡宮小安殿跡(しょうあんでんあと) 長岡宮閤門跡(こうもんあと:大極殿の正門) 一文橋

一文橋は説明碑によると、京と摂津(西宮)をむすぶ西国街道に架かるこの橋は室町時代頃に造られた有料の橋でした。大雨の度に小畑川が氾濫し橋が流され、架け替え費用の負担金としてを通行人から銭一文を取り始めたのが橋名の由来と伝わります。

長岡天満宮

一に長岡天神ともいい、菅原道真を祭神とします。社伝によれぱ昌泰4年(901年)、道真が筑紫左遷時に随従の中小路祐房に与えた自画像を安置して祀った事が当社の縁起と伝える。洛南、特に桂川流域には道真の遺蹟、伝説が多くいずれも道真の遺徳を追慕して後に作られたもので当社もその一つです。中世その沿革を明らかにしないが江戸時代に当地が八条宮(桂宮)智仁親王の領地であった関係から同宮の崇敬を受け延宝4年(1676年)、社殿を改築し霊元天皇の勅額を賜りました。現在の本殿は、昭和16年(1941年)、平安神宮の社殿を移築したものです。正面参道の大鳥居は総御影石製の大鳥居は、平成14年(2002年)、菅公御神忌1100年大萬燈祭を奉賛して、平成10年(1998年)10月に奉納 された石の大鳥居です。

大鳥居(正面参道)

八条ケ池

八条ケ池は、寛永15年(1638年)、当時の領主・八条宮智仁親王(桂宮)が灌漑用の溜め池を改造成した大池で八条ヶ池を二分する中堤は参道になっています。中堤道両脇に推定樹齢百数十年の霧島つつじ(市指定天然記念物)が群生し、八条ヶ池の中堤道の真中道に架かる石の太鼓橋は加賀藩・前田候の寄進と伝わります。

八条ヶ池ふれあい回遊のみち(水上橋) 参道
参道 境内 拝殿
拝殿 本殿 境内

官公御詠石碑

境内参道の石段脇に菅原道真が「うみならず たたへる水の そこまでも きよき心は 月ぞてらさむ」と詠んだ歌を刻んだ石碑が建てられています。

境内 菅公の歌碑 笠松地蔵尊祠
加賀藩・前田公寄進の太鼓橋

八条ヶ池

春の気配が漂う八条ヶ池

酒蔵(高瀬川)

Tourist  2005.01.31(M)

 

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