「山陰街道・史跡めぐり」散策

 

花見んと むれつつ人の くるのみぞ あたらさくらの とがにはありける 西行法師

 

樫原(かたぎはら)

樫原は山陰国道(9号線)に沿った一帯で古くは葛野郡大岡郷と称したが京都市編入にあたり改名しました。

山陰国道が老ノ坂にさしかかる辺りに位置する宿場町で参勤交代の諸大名が宿舎にした古い民家などがあり街道筋の家々も

昔の宿場町の風情を残しています。この付近にも多くの古墳がありましたが殆ど破壊され現存する古墳は極めて少ないです。

今回もクロスバイク「キララ(雲母)号」の試走を兼ねて大原野神社、花の寺〜嵯峨野方面など西山の山麓を散策してきました。

写真上でマウスポインターの形が変化する写真はクリックして頂くと大きく表示されます。

村社・倉掛神社

創建、由緒は定かでないが倉掛神を祀り近世以来、東土川の鎮守社とされます。本殿は一間社春日造、こけら葺きで現在は覆屋の中で南面して建ちます。寛文6年(1666年)3月の造営で京都市内の春日造本殿が概して装飾が少ないのに対しこの本殿は装飾が豊かで細部の意匠も当時の特徴を良く表し保存状態も良好で建築年代が確かな春日造本殿として質が高く昭和60年(1985年)6月1日、京都市指定有形文化財に認定されました。境内は樹木が生い茂り鎮守の森に相応しい景観です。

愛宕山(桂川久我橋) 倉掛神社 記念碑
長岡宮東院跡

東院は内裏の真東に位置する左京二条二坊十町に建設されました。周囲には多くの官庁も設置されました。天皇の食事を担当した内膳司(ないぜんし)の経営する菜園、貴族の乗り物、輿を扱う場所、金具を作る役所、高級調度を保管する役所などがありました。

拝殿、本殿 長岡宮東院跡(向日市温水プール)
長岡宮東院跡(向日市温水プール) 長岡宮東辺官衛跡 大原野神社鳥居跡
大原野神社

藤原氏の祖神を祀った氏神で平安遷都にあたり奈良への社参が不便である為当地に勧請されたのが起こりと伝えます。社伝によれば嘉祥3年(850年)、左大臣・藤原冬嗣の奏請によって社殿を造営したとされ地名に因って大原野神社と言います。藤原氏の覇権確立と共に氏神とし大きな地位を占め歴朝の行幸啓、奏幣、祈願の事も度々あり神領も多く寄せられました。伊勢の斎宮、加茂の斎院に倣って斎女をおいて奉仕するなど王朝時代には社運も隆盛を極めたが藤原氏の哀徴によって次第に衰え室町末期頃には祭儀さえ途絶えがちになりました。江戸時代の慶安年間(1648〜51年)、後水尾天皇の勅によって再興され明治4年(1871年)には官幣中社となったが戦後は、社格も廃され現在は大原野の産土神(うぶずながみ)として崇敬されています。

大原野神社 参道 瀬和井(せがい)
瀬和井(せがい)

大伴家持(おおものやかもち)が愛飲した井水と伝え古来、多くの和歌の題材となった名水とされます。「大原や せがいの水を 手にむすび 鳥はなくても 遊びてゆかん」 家持

瀬和井(せがい) 神門(鳥居) 拝殿
狛鹿 拝殿、本殿 仁王門(花の寺/勝持寺)
花の寺(勝持寺:しょうじじ)

創建は定かでなく諸説があります。伝教大師最澄が比叡山の坤(ひつじさる/西南)にあたる当地に霊威を感じ薬師如来像を安置し天台道場としたのが起こりとされ小塩山大原院勝持寺(しょうじじ)と号する天台宗の寺です。初め、小塩山大原寺(だいげんじ)と号したが仏陀上人(千観僧都:勝持上人)が文徳天皇の帰依を得て伽藍を再興し大原院勝持寺と改名し大原野神社の供僧寺とし、それより多くの伽藍が造営され塔頭子院だけで49院を擁する大寺院となりました。足利尊氏が六波羅攻略の時に当寺に立ち寄った折に時の住僧が機転を利かせ「勝持」と記した旗竿を献じたところ尊氏の戦勝の吉瑞として嘉納して以来、足利氏の庇護を受け寺運は隆盛しました。歴代の足利将軍の古文書を多数所蔵する所縁です。応仁の兵火に焼亡したが天正11年(1583年)、青蓮院宮尊朝法親王は当寺の再建に努め織田信長、豊臣秀吉も庇護しました。寺伝によると白鳳8年(680年)、天武天皇の勅によって神変大菩薩役行者(えんのぎょうじゃ)が創建したとされ延暦10年(791年)に伝教大師最澄桓武天皇の勅を奉じて堂塔伽藍を再建し薬師瑠璃光如来を一刀三礼をもって刻まれ本尊としました。承和5年(838年)、仁明天皇の勅により塔頭19院を建立しましたが応仁の兵火に仁王門を除き全てを焼失し桂昌院(徳川5代将軍・綱吉生母)により再建され、やや旧観に復しました。境内には古来、桜の木が多く洛西屈指の花の名所とされます。

参道 山門 茅葺の庫裏
本堂 不動堂 銘木・西行桜
鏡石、西行姿見池(瀬和井:せがい)

鏡石は珪石質で光沢があり西行が剃髪に用いたとされます。その傍らに西行が姿見をしたと伝わる小さな池泉があります。

瀬和井(せがい) 鏡石 魚藍観音
市内の眺望(桜ヶ丘) 約100本の桜の木々 供養塔
勤皇家殉難の地碑

幕末の元治元年(1868年)の「蛤御門の変(禁門の変)」で敗れた長州の集議隊士らがここで(樫原札の辻)で小浜藩兵に討たれたと伝わります。

十六羅漢の一「賓頭盧(びんずる)尊者/おびんずるさま」

相棒のキララ号 勤皇家殉難の地碑
樫原陣屋跡

一に本陣ともいわれ江戸時代に山陰街道を往来した諸大名がしばし宿舎とした所で今も当時の遺構を残しています。奥の間は「上段の間」とされ他の座敷より床を20cmばかり高くし床、違棚を設けた書院造でそれに続く玄関の間六畳(現在は部屋に改造)及び八畳、六畳の控えの間があり表には乳門と称する玄関門があり他に大名が宿泊した時の寄帳(宿帳)、関札など往時を偲ぶ古文書を蔵します。

郷倉 原陣屋跡 天皇の杜古墳
天皇の杜古墳

南北を主軸とする前方後円墳で墳上には老杉、巨桧が生い茂り森厳さが漂っています。江戸時代に文徳天皇陵いわれ地名もこれに因み御陵(みささぎ)村といわれたが付近の平尾山に貞観4年(862年)、藤原良縄(よしただ)が文徳天皇の菩提を弔う為に建立した真如院という寺があった事から係る伝説が生じたとされます。桓武天皇夫人従三位・藤原吉子(伊予親王生母)を葬った大岡墓は当古墳ではないかという説があります。

天皇の杜古墳 コッペルC型機関車とキララ
地蔵院(竹の寺)

吉野時代の貞治6年(1367年)、足利官領・細川頼之が夢窓国師の高弟・宗鏡禅師に深く帰依し衣笠内大臣・藤原家良の山荘跡に創建した臨済宗天龍寺派の寺で一休禅師が幼少の頃、当寺で修養しました。本堂には本尊地蔵菩薩や夢窓国師とその高弟・宗鏡禅師、頼之公木像を安置します。大伽藍を誇りましたが応仁の兵火で焼失し再建された方丈の枯山水の前庭は十六羅漢の庭とも称されスギ苔に十六羅漢を表わす自然石が並んでいます。参道の竹林が美しく竹の寺とも称されます。

かぐや姫竹御殿・・・竹取物語「かぐや姫」伝説

松尾界隈は古来、名竹の産地で日本最古の物語とされる「竹取物語」(平安時代、作者不詳)も当地で発祥したと伝わり「今は昔、竹取の翁がいた。山野に入って竹を取ってはいろいろなことに使っていた。その翁の名は、さぬきの造(みやっこ)といった・・・・ある時、この翁がいつものように山にはいると1本の光り輝く竹を見つけて切ると中から美しい女の子が現れ、かぐや姫と名付けられる・・・」の一説で始まる「かぐや姫」に因んで当地に住んだ竹工名人・長野清助翁が昭和25年(1950年)7月1日の金閣寺焼失に胸を痛め日本の竹文化、竹工技術保存の為に27年もの年月をかけて金閣寺を模して建てたのが、かぐや姫竹御殿です。

コッペルC型機関車 地蔵院(竹の寺) かぐや姫竹御殿
鈴虫寺(華厳寺:けごんじ)

鈴虫寺として有名ですが正式には妙徳山と号し元は華厳宗でしたが今は臨済宗永源寺派の寺です。寺内に多くの鈴虫がいて、季節に関係なく一年中鳴いている事から俗に鈴虫寺と言われます。江戸中期の亨保8年(1723年)、鳳潭上人(ほうたんしょうにん)が開創しました。上人は承応3年(1654年)、富山県小矢部市に生まれ12歳にて上洛、比叡山延暦寺で修行し華厳宗の再興に力を注いだ学僧として知られ入学、開運、良縁祈願のお守りに人気があり本堂には本尊・大日如来坐像、鳳潭上人坐像を安置し堂前に掲げる「華厳寺」の扁額は黄檗隠元の筆、左右の聯(れん)は鳳潭の筆によるものです。

鈴虫寺(華厳寺) 延朗堂 座禅石
延朗堂

堂は方一間単層の小堂で堂内に延朗上人坐像を安置します。延朗上人は八幡太郎源義家4世の孫と伝わり、叡山で天台密教を極め安元2年(1176年)、当地に来住し松尾山寺(奈良朝末期寺院)の旧知に最福寺谷ヶ堂を建立しました。源義経は丹波国篠村(亀岡市篠町)を寺領に寄せ頼朝もこれにならいました。延朗の弟子・勝月は葉室山(衣笠山)に一宇を建て延朗の廟所とし西山峰ヶ堂法花山寺と号しました。建武元弘の乱に兵火にかかり明徳の乱では山名満幸の軍勢2000騎が丹波より進駐し、ここから桂川を渡って都中に攻め入った事があり中世以降は兵馬の冒すところとなり両寺共に早くに哀徴しました。桂、松尾付近の諸寺には当寺の旧仏とされる仏像が分散所蔵され桂上野町の観世寺が安置する地蔵立像も峰ヶ堂の遺仏と伝えます。

平治、元弘、応仁、元亀の乱戦火所縁の地碑 慈母観音菩薩像、宝篋印塔 月読神社
月読(つきよみ)神社

天月神命(あめのつきのかみ)を祭神とする松尾大社の境外摂社ですが延喜式内社に記されている葛野坐月読(かどのにいますよみ)神社で京都有数の古社。日本書紀には顕宗天皇3年(487年)、 阿閉臣事代(あべのおみことしろ)が任那(みまな)から帰朝の時、月の神から託宣を受けた旨を天皇に奏上したので朝廷は葛野郡歌荒樔田(うたのあらすだ/桂川左岸の有栖川)の地を与え社が創建されたが度々水害を被むるので平安初期の斎衡3年(856年)3月に現地に移されました。かって天月神命(あめのつきのかみ)は長崎県壱岐郡に鎮座したとされ天月神命を壱岐氏が移し祀ったとされ壱岐氏は壱岐、対馬を本貫とし諸国を繁行し山城国では月読、松尾両社の禰宜(ねぎ)となり子孫代々、亀卜(きぼく)に長じ卜部(うらべ)として神祇官に仕えました。古来、痘瘡の神として朝野の崇敬篤く延喜の制では名神大社となり4度の官幣に預かり葛野郡中、第一位に位し木嶋神と並んでその古さを誇っています。本殿右奥にある玉垣内の月延石は安産石ともいわれ社伝によると神功皇后が新羅征伐時にこの石で腹を撫でて心身の安泰を得られた故に安産祈願の信仰があります。月読社の傍にあるから月の辺(べ)石で月延べ石に転じ係る伝説が生じたとされます。

拝殿 本殿 月延石
松尾大社 渡月橋 愛宕山(渡月橋)
陰陽師(おんみょうじ)・安部晴明墓所

安部晴明は中国古代の道教に伝わる陰陽五行の陰陽道に通じ占術、呪術で鬼神を自由に操り平安京を守護したとされ天文学を元にして暦を作成し、日本全国に暦を広めたとも伝わります。花山天皇、藤原道長を始めとする貴族に重用され都の北東(土御門近く上京区の上長者町通りと西洞院通りの角地)に住まいし都に侵入する鬼を防ぐ働きをしました。寛弘2年(1005年)9月26日、85歳で真如堂で死去したと伝えられ晴明の墓は、京都市嵯峨にある「嵯峨墓所」が有名です。

比叡山(渡月橋) 嵯峨墓所(陰陽師・安部晴明墓所) 晴明の墓石塔が(;@_@;)
玉垣改修完成図 嵐電

清涼寺

愛宕街道(街並み保存地区) まゆ村

日暮れの愛宕山(渡月橋)

Tourist  2005.02.14(M)

 

関連コラム

浄土谷、楊谷寺(柳谷観音)散策

浄土谷、楊谷寺(柳谷観音)散策

金蔵寺道・小塩山(大原山)散策

金蔵寺道・小塩山(大原山)散策

丹波街道・善峯寺道散策

丹波街道・善峯寺道散策

「竹の径・古墳めぐり」散策

「竹の径・古墳めぐり」散策

西国街道「ちょっと長岡京」散策

西国街道「ちょっと長岡京」散策

西国街道「長岡京道」散策その1

西国街道「長岡京道」散策その1

西国街道「長岡京道」散策その2

西国街道「長岡京道」散策その2

西国街道「天下覇道」散策その1

西国街道「天下覇道」散策その1

西国街道「天下覇道」散策その2

西国街道「天下覇道」散策その2

鳥羽の造り道:楽水編

平安京道「鳥羽の造り道:楽水編」散策

城南宮、鳥羽水環境保全センターの藤棚散策

鳥羽の造り道:楽水編

上鳥羽、羅城門、東寺〜伏見街道散策

鳥羽の造り道:羅城門編

城南宮の「楽水苑」

城南宮の「楽水苑」

雅の杜〜絢爛の山散策

絢爛の華道

花・水・木散策

源氏物語ゆかりの華庭

鳥羽殿の雅散策

雅の里

王朝〔貴族〕文化散策

王朝ロマン

 

戻る 洛雅記2005年探訪コラム

 

inserted by FC2 system