華繚乱・・・背割堤(剣先)、石清水八幡宮散策

 

新月や いつをむかしの 男山   基角(きかく)

沓音(くつおと)も しずかにかざす 桜かな 荷兮(かけい)

 

寺田屋〜長建寺〜淀(与杼)神社、淀城〜背割堤の桜(ソメイヨシノ)並木〜石清水八幡宮(男山)

 

背割れ堤(剣先)

背割堤は京都府八幡市の北辺に位置し宇治川と木津川を分ける細長い桜堤の堤防です。明治初期、木津川の付け替え工事に伴ってできた宇治川左岸、木津川右岸の堤防の一部です。明治30年(1897年)から宇治川の改修工事が始まり日露戦争による中断もあったものの明治43年(1910年)に完成し現在の姿となり「背割堤」と呼ばれるようになりました。両河が合流(淀川)する先端が剣の様な形をしている事から「剣先」とも呼ばれています。平成元年(1989年)4月、「淀川河川公園背割堤地区」が開園され毎年、この辺り一帯において八幡市、八幡商工会議所などが後援して『背割堤「やわた桜まつり」』を開催しています。この辺り一帯の河川敷にはヨシなどが茂り多種の野鳥や昆虫を見る事ができる都市近郊では貴重なエリアです。

坂本龍馬所縁の船宿・寺田屋

伏見の船宿・寺田屋は薩摩藩の定宿でした。文久2年(1862年)、討幕急進派が寺田屋に集まり決起を企てた「寺田屋騒動」は有名です。又、坂本龍馬の定宿で、お龍との恋宿としても知られています。寺田屋の女将・お登勢は大津の船宿・大本重兵衛の次女で、18歳の時に寺田屋伊助に嫁ぎました。伊助は放蕩者で宿は女将のお登勢が一切を切り盛りし、二人の娘に加え五人の孤児まで養育しました。義侠心が強く、志士達に援助を惜しまなかったと伝えます。

坂本龍馬所縁の船宿・寺田屋

長建寺

紅柄塗りの唐模様山門で知られ真言宗醍醐派の寺で東光山と号する。元禄11年〔1698年〕時の伏見奉行・建部内匠頭が、中書島を開拓するにあたり深草大亀谷の多聞院を移しその姓の一字をとり長建寺と改めたと伝える。本堂に安置する本尊弁才天は、世に音楽を司る神とし古来花柳界の信仰を集めました。桜と椿の花名所です。

宇治川派流の桜と三十石船(寺田屋浜:京橋)

酒蔵

長建寺

境内の見事な桜花繚乱・・・(長建寺)

草津の湊魚市場跡碑

下鳥羽は、古くは草津と言い木津、今津とも言われ船で西国に赴く人達の乗船地で道路交通上重要な遺跡地です。延喜元年(901年)、太宰府へ流された菅原道真、「平家物語」によれば保元元年(1156年)、讃岐国(香川県)へ流された崇徳上皇、治承4年(1180年)、厳島神社へ行幸の高倉天皇、建永2年(1207年)、法然上人が讃岐国へ流された時も当地より乗船したと伝える。又、瀬戸内海の鮮魚などが陸揚げされ都に運ばれた水路、陸路交通の中継地として重要だった河川港でした。魚市場跡碑は、明治10年(1877)まで生魚市場として賑わった横大路魚市場の記念碑で大正8年(1919年)4月、大橋家が的場正三郎の撰文により建てたものです。現在の碑は台風で倒壊した原碑を復元し昭和60年(1985年)に新たに建立されました。

船乗り場跡碑(草津の湊)

魚市場跡碑(羽束師)

戊辰役東軍戦死者埋骨地(愛宕茶屋碑)

桂川堤防沿いにあった愛宕茶屋は、戊辰戦争の激戦地でした。桂川サイクリングロード下にある銀杏の木の下に「戊辰役東軍戦死者埋骨地」の慰霊碑が建っています。

戊辰役東軍戦死者埋骨地〔愛宕茶屋碑〕

鮮やかな色の桜?(サイクリングロード)

宮前橋(淀)が見えてきたとです!

淀(与杼)神社、淀城

淀(与杼)神社は、豊玉姫命・高皇産霊(たかみむすび)神・速秋津姫(はやあきつ)命を祀る旧郷社で淀界隈における唯一の式内社です。社伝によれば応和年中(961年〜63年)僧・千観内供(せんかんないぐ)が肥前国(佐賀県)佐賀郡河上神(与度日女(よどひめ)神)を勧進したと伝えます。『淀城』は、享保8年(1723年)5月、春日の局の子孫である稲葉丹後守正知が城主となってから明治維新迄の百数十年間、稲葉家10万2000石の居城となりました。天正17年(1589年)、豊臣秀吉は、側室・茶々(淀殿)の産所として弟・豊臣秀長の淀城を修築させました。4ヶ月後に長男・鶴丸を出産したが、鶴丸は3歳で病死しました。文禄4年(1595年)、秀吉は淀城を廃して築城中の伏見城へ建物を移し元和9年(1622年)、徳川幕府2代将軍・徳川秀忠は、伏見城を廃城とし、松平定綱が淀に新しく築城しました。伏見城天守閣を淀城に移す計画(二条城へ移築)で広大な天守台を築いたが、二条城の天守閣を移築した為に天守台が大き過ぎて天守の四隅に小櫓が急遽設けられました。宝暦6年(1756年)、落雷で天守閣は焼失しました。慶応4年(1868年)1月3日、鳥羽伏見の戦いが始まった時、淀城主・稲葉正邦は板倉勝静と共に老中職で、淀城は幕府軍の重要拠点の一つでした。この時、正邦は江戸にあり城の留守は家老・田辺権太夫が守っていました。1月5日、富ノ森、千両松の戦いで敗走した幕府軍(新撰組、会津、桑名藩など)は体勢を立て直すべく淀城に入ろうとしましたが、家老は薩長軍の要請を受け幕府軍に対して門を閉ざし彼らを城内に入れませんでした。幕府軍(新撰組、会津、桑名藩など)は仕方なく淀小橋、淀大橋を焼き払い橋本へ敗走します。藤堂藩、淀藩の背信が鳥羽伏見の戦敗を決定づけた一要因とされる所以です。淀城は薩長軍に開城しますが、家老・田辺権田夫は幕府軍兵数人が城内に入った責任を取って弟と共に切腹しました。淀君ゆかりの淀城は、この淀城跡公園から北東へ約500m行った妙教寺辺りで淀古城と言われています。

淀(与杼)神社

淀城跡公園(左:本丸跡石垣)

淀川瀬水車跡碑

淀には昔から水車が設けられ12世紀末の梁塵秘抄に「淀の川瀬の水車誰を待つやらくるくると」と和歌にも詠われ江戸時代には淀城の西南と北側(宇治川、桂川合流付近)の2ヵ所に設けられ大水車は直径8間(約14.6m/1間=1.818m)、小水車は6間(約11m)で淀城内に川水を汲み上げました。この水車は天正14年(1586年)、淀水運支配・河村与三右衛門が作ったとされ、元々は農業灌漑用水に利用されていました

淀城跡公園の石垣と濠

淀川瀬水車跡碑

天王山が見えるとです・・・

背割堤の桜(ソメイヨシノ)並木

昭和50年代始めまで松並木で「山城の橋立」と称されていましたが害虫被害で松が枯れ昭和53年(1978年)3月、当時の建設省が桜(ソメイヨシノ)に植え替えて今日に至っています。府道・京都守口線(旧国道1号線)の御幸橋(ごこうばし)から下流方向に1.4kmの桜並木になっています。ソメイヨシノ約250本、ハナミズキ52本が植栽されています。

京滋パイパス、国道478号の橋下へチャリチャリ

男山と背割堤の見事な桜花繚乱!(御幸橋:宇治川/右:旧御幸橋橋脚)

背割堤の入り口とです・・・

Pちゃんズのチャリチャリ(キララ号&ラッキー2号)

桜花繚乱・・・見事な桜並木でつ!!!

それでは桜並木をテチテチ・・・

俳人・荷兮(かけい)、基角(きかく)の歌碑

桜のトンネルと花吹雪の中をテチテチ・・・北風が強いでつ!(>_<)

津波のように咲き誇る桜並木!!!

ウッホホ〜イ!ランチタイム〜!!マイウぅ〜!!!

ランチタイム終了とです・・・桜並木道へ戻ります!

北風が強いとですが再び、桜のトンネルと花吹雪の中を進むとです・・・

天王山が見えるとです・・・

テチテチ・・・

ようやく、背割堤の西端(先端)に到着!

桜並木の一番西端の桜の花は白いでつ・・・ソメイヨシノではなかとです・・・

背割堤の西端(先端)

西端の桜並木・・・御幸橋へテチテチ・・・

御幸橋方面の桜並木

桜花の大津波のようでつ・・・

比叡山

愛宕山

北風が強か〜!(>_<)

1.4kmの背割堤に約250本のソメイヨシノが植樹された見事な桜並木!!!・・・見事な華繚乱!!!

航海記念塔(石清水八幡宮五輪塔)

日本最大(高さ6m)の五輪石塔(鎌倉時代作)で重要文化財に指定されています。石塔部分は下から地・水・火・風・空の五大要素を表しています。摂津・尼崎の商人が宋(中国)との貿易の帰途、石清水八幡宮に祈って海難を逃れ、その恩に報いる為に建立されたと伝わり航海の安全を祈って参拝され「航海記念塔」とも称されています。一説には、石清水八幡宮を創祀した行教律師の墓とも伝えられる。

背割堤の全景(御幸橋:木津川)

日本一デカイ五輪塔!航海記念塔(重文:鎌倉期)

清水八幡宮(男山)

平安時代初期、貞観元年(859年)、奈良・大安寺の僧・行教(俗称・紀氏)が豊前国(今の大分県)の宇佐宮に篭られた時、八幡大神の御託宣(お告げ)を蒙り、同年男山の峯に八幡三所の神霊を奉安した事に始まります。この年、清和天皇の御命令を承けた木工寮権・允橘良基は、当地に本殿三宇・礼殿三宇から成る六宇(ろくう)の宝殿を造営し、翌年の貞観2年(860年)4月3日、八幡三所大神が正式に鎮座されました。朝野の崇敬も篤く伊勢神宮に次いで第二の宗廟と崇められ源氏も当神をもって氏神と仰いだので八幡信仰は全国に流布しました。

一の鳥居(石清水八幡宮)

放生池の桜も風情があるとです!

頓宮(お旅所)

「徒然草」に、仁和寺の法師が石清水詣でにやって来て、本社と間違えて参拝者で賑わう頓宮、高良神社を参拝しただけで帰ってしまい「さすが八幡様は立派であったが、参拝者がぞろぞろと山へ登っていくのには合点がいかぬが・・・」と言って笑い者になったいう一説があります。「あらまほしきは先達(案内人)也」と話を結んでいますが、頓宮だけでも満足できる事は事実です。

頓宮北門

頓宮殿

頓宮の回廊

男山合戦

清水八幡宮の歴史中で特筆すべきは、「男山合戦」といわれる南北朝時代最大の決戦が男山を中心に60日間もあった事で、この戦いを契機に南朝は急速に勢力を失いました。正平7年(1352年)春、南朝の後村上天皇は楠正義らと男山に立てこもり、対して足利尊氏の嫡子・義詮(よしあき)は東寺を本陣とし男山を四方から取り巻きました。戦いは激烈を極めたが楠正義の守備する洞ヶ(ほらが)峠が落ちると、後村上天皇はここを見限り大和大路を東大寺へと落ち、足利(室町)幕府は始めて基礎固めができたと伝わります。

頓宮南門

源頼朝手植えの松・・・スリスリしとるのは牛若丸?(^▽^;)

二の鳥居

神馬舎(神馬・彌桜号は昨年の11月20日没)

三の鳥居

320余基の灯籠が並ぶ参道

エジソン記念塔

トーマス・エジソンが発明した白熱電球のフィラメントに八幡の竹が使用され電球発明から50周年を記念して昭和9年(1934年)に石清水八幡宮の境内に建立され現碑は昭和59年(1984年)に再建されました。

南総門

拝殿・本殿・・・改修中とです!(>_<) 残念〜

エジソン記念碑

涌峯塔(ゆうほうとう:シンボルタワー)

参道の桜

男山ケーブル「男山山上駅」

帰りはケーブルで下山するとです・・・新型車両になったようです?!\(^o^)/

男山ケーブル「ケーブル八幡市駅」

京阪「八幡市駅」前の桜

トーマス・エジソンの胸像

安居橋(あんこばし/太鼓橋)

背割堤と愛宕山(御幸橋:木津川)

背割堤(御幸橋:宇治川)

強烈な向い風の中、伏見へ向かってチャリチャリ・・・(;^_^A (桂川サイクリングロード)

Tourist  2005.04.11(M)

 

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